さて,パウロとバルナバはどのようなことで対立したのでしょうか。それは「割礼問題」でした。

 ユダヤからアンテオケにやってきた,あるキリスト教徒が,「あなたがたも,モーセの慣例にしたがって割礼を受けなければ,救われな

い」と,説いていたのです。

 ダマスコ途上で,イエスとの遭遇という原体験をもち,「イエスこそキリストである」というクレドーを形成したパウロは,そのクレドー

らのオリエンテーションにより,彼の世界観・彼の新しいアイデンティティを再構築していました。そのようなパウロにとって,救いは,「イ

エスをキリストと信じる」
信仰にのみあるのであって,割礼は必要条件ではなくなっていたのです。

 「すべての人は罪を犯したため,神の栄光を受けられなくなっており,キリスト・イエスによるあがないによって義とされるのである。」(「

ローマ人への手紙」3:23-24)

 「人の義とされるのは律法の行いによるのではなく,ただキリスト・イエスを信じる信仰によることを認めて,わたしたちもキリスト・イエス

を信じたのである。それは,律法の行いによるのではなく,
キリストを信じる信仰によって義とされるためである。」(ガラテヤ人への手紙

」2:16)

 このような「信仰義認」という立場に立つパウロにとっては,イエスをキリストと信じる信仰をもった異邦人たちも,割礼を受けなければ

救われないとする考え方は,全くナンセンスだったのです。

 しかし,人間はそう簡単には「呪術の園(その社会の自明の現実)」を突破(ブレイク・スルー)することはできないのです。神によって選

別された「イスラエル民族に属する」ということを自分のアイデンティティの中核にしているユダヤ人にとっては,イエスをキリストと信じた

あとも,キリスト・イエスの十字架による贖いは,神との旧い契約関係への復帰を意味したにすぎなかったのです。したがって,彼らは,

律法遵守は救いの必要条件であり,異邦人も割礼を受けなければならないと主張したのです。

 そこで,いわゆる「使徒会議」と呼ばれる会議がエルサレムで開かれました。パウロとエルサレムのユダヤ人キリスト教徒たちとの間で

激しい争論がありました。その結果,パウロ的立場が受け入れられることになったのです。何故,エルサレムの指導者たちは,パウロの

立場を認めざるを得なかったのでしょうか。その理由は,M・ウェーバーが言っているように,使徒会議以前に,異教からの改宗者たち

が,ユダヤ人キリスト教徒たちと同様に
霊にとらえられている(異教からの改宗者たちのキリスト教の受容は,単なるファッションとしてで

はなく,それまでの世界観やアイデンティティの崩壊を伴う人格変容であり,
霊にとらえられるという現象は,そのプロセスに於ける異常

心理状態であったと考えられます)のを,ペテロが目撃しており,ペテロは彼らをキリスト教徒であることを認めざるを得なかったという事

実(「使徒行伝」10:44-48)が決定的です。それ故,ペテロがその経験から,パウロ的立場を弁護したために,エルサレムの指導者たち

は,パウロ的立場を承認せざるを得なかったのです。

 しかし,「使徒行伝」には,「使徒会議」において次のような妥協(使徒令)が成立したことが述べられています。

 「そこで,わたしの意見では,異邦人の中から神に帰依している人たちに,わずらいをかけてはいけない。ただ,偶像に供えて汚れた

物と,不品行と,絞め殺したものと,血とを,避けるようにと,彼らに書き送ることにしたい。」(「使徒行伝」15:19-20)

 そのような妥協が成立したことについて,パウロは何ら言及していませんし,「それ自体,汚れているものは一つもない。ただ,それが

汚れていると考える人にだけ,汚れているのである」(「ローマ人への手紙」14:14)というパウロの言葉からして,彼がそのような妥協案

を認めたというのは,極めて蓋然性のないことといえるでしょう。

 多分,その妥協案は,使徒会議が終了し,パウロらがエルサレムを去ったあと,パリサイ派からの改宗者たちから突き上げられたエル

サレムの指導者たちが,一方的に決定したものであると考えられます。「使徒行伝」の記述は,事のいきさつを知らなかった「使徒行伝」

の記者が,パウロとエルサレムの指導者たちとの一致を強調するために記したものでしょう。

 そしてその後,パウロが,孤独の内に,決定的なブレイク・スルーをする事件が起きます。いわゆる「アンテオケ事件」です。

               

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