パウロは,アナニヤと会ってから数日後,ユダヤ人の諸会堂(シナゴーグ)で,「イエスこそ神の子である」と,説きはじめたと,「使徒行

伝」では言っています。パウロはダマスコ周辺の諸会堂で,三年ほど「キリスト・イエスのメッセージ」を大胆に宣べ伝えました。しかし,か

つてのパウロが,キリスト教徒たちを憎んだように,ダマスコに住むユダヤ人の一部は,パウロを憎み,殺してしまおうと陰謀を企てたよ

うです。そこで,パウロはケパ(ペテロ)をたずねてエルサレムに上り,彼のもとに十五日間滞在しました。ところが,エルサレムでは,か

つて迫害者であったパウロを信頼できないとするキリスト教徒たちもいて,パウロはまた命をねらわれることになり,故郷のタルソに送り

出されたようです。

 話しが少し前に戻りますが,ステパノ虐殺事件後,迫害され各地に散っていったギリシア語を話すキリスト教徒たちは,「キリスト・イエ

スのメッセージ」を宣べ伝えながら散っていきました。そして重要な点は,彼らの宣教の対象が,ユダヤ人だけだったということです。そ

の頃のキリスト教徒たちは,自分たちこそ真にヤハウェを信じる真正のユダヤ教徒であると思っていたにすぎません。ただ,「イエスをメ

シア(キリスト)」と信じるという点では,他のユダヤ教徒たちとは大きく異なっていました。当時のユダヤ人の一般的なメシア観は,ダヴィ

デの後継者として,ローマを軍事的にうち破り,地上にユダヤ人の王国を建設してくれるような人物を期待するといったものでした。しか

し,少数派ながら,もう一つのメシア観もありました。それは,イランの宗教の影響を受けた,後期ユダヤ教の黙示文学に見られるメシア

観です。そこでは,メシアは「
人(の子)」という謎めいた名称を帯び,天上界の救世主・審判主・元来神と一致する者という新しいイメー

ジで登場します。キリスト教徒たちは,そのようなメシア観をもち,イエスこそそのメシア,つまりキリストであると信じていたのです。

 ところで,当時,パリサイ派のユダヤ人は異邦人(ユダヤ人以外の民族に属する人)をユダヤ教徒に改宗させることに熱心でした。そこ

で,各地のユダヤ人の会堂(シナゴーグ)には,ユダヤ教団準団員といった立場の異邦人も参集していました。彼らは三段階ぐらいの立

場があったようですが,割礼も受け全ての儀礼的義務を引き受けた者は,完全な交わりの中に受け入れられ,彼の子孫は第三世代に

おいて,はじめて完全資格あるユダヤ人と認められたのでした。

 各地に散っていったキリスト教徒たちは,各地の会堂で「キリスト・イエスのメッセージ」を宣べ伝えましたが,それを聞いて受け入れた

のは,ユダヤ人よりは準団員の異邦人たちの方が多かったようです。彼らにとっては,律法の遵守や,とりわけ割礼を受けるということ

が,ユダヤ教への改宗の障害になっており,「キリスト・イエスのメッセージ」を受け入れやすい立場に立っていたのです。

 まず,このようなキリスト教への異邦人改宗者が目立ったのは,アンテオケ(アンティオキア)ででした。そこで,エルサレムの教会は,

バルナバという人物をアンテオケに使わしました。彼は,パウロがエルサレムに上ったとき,パウロの世話をした人物です。バルナバは

,アンテオケで異邦人改宗者たちの「イエスをキリストと信じる信仰」を確認すると,異邦人たちにさらに宣教するために,自分の協力者

になってもらおうと,パウロを捜しにタルソに行き,アンテオケに連れて帰りました。このアンテオケで初めて,クリスチャンという呼び方が

されるようになったのです。この頃になると,キリスト教徒たちは自分たちの集会,つまり教会(エクレシア)を形成していました。そして,

アンテオケの教会においてパウロとバルナバが対立することになり,その問題を解決するために,パウロとバルナバはエルサレムに上

り,使徒たちと協議することになったのです。このいわゆる「
使徒会議」とその後の「アンテオケ事件」において,パウロは全くの孤立の

内に自分の思想で立ち,古代社会の準拠枠を
突破(break through)するのです。

             

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