「アンテオケ事件」とは,パウロが「使徒会議」を終えてアンテオケに戻り,その後ペテロがアンテオケを訪問していたとき,パウロがバ
ルナバとも立場を異にし,パウロ自身の思想的立場から,衆人の面前でペテロを痛罵したという事件です。アンテオケ教会など,各地の教会は,ユダヤ人と異邦人の両者から成っている場合は,会食の時,ユダヤ人キリスト教徒も食事につい
ての規定から解放されるのを当然としていました。そこで,ペテロもその習慣に従い,異邦人キリスト教徒と食事を共にしていました。とこ
ろが,エルサレムから使徒令を携えたユダヤ人がやってくると,しだいに身を引いて離れていったのです。おそらく,使徒令の決定は,ペ
テロがエルサレムを離れてからなされたのでしょう。使徒令の決定を知らされたペテロは,ヤコブなどエルサレムのユダヤ人キリスト教
徒たちとの決裂を恐れてパウロ的立場から離れていったのです。ペテロは,異邦人キリスト教徒たちが,霊にとらえられているのを見たという経験とパウロの影響により,パウロ的立場を受け入れてい
ましたが,それはまだ確固としたものではなかったのです。パウロは,「イエスこそキリストである」というクレドーから,イエスを,人間の
原罪を贖ってくれるキリストと信じる信仰によってのみ救われるという思想を形成し,イスラエル民族の枠組みを敢然と突破(ブレイク・ス
ルー)しました。ここに,パウロは「呪術の園(その社会の準拠枠・その社会の自明の現実)」を突破し,自分の思想により,個人として実存する,近代
人の先駆けとなったのです。これによって,信仰を通して,教会構成員のそれぞれが氏族や民族の枠を越えて共同体を結成していくという,その後のキリスト教団
の方向性が明示されました。しかし,その方向性は,律法遵守を救いの必要条件とする,ユダヤ人キリスト教徒との抗争をくぐり抜けて
いくことによって,実現されていくのです。使徒令を守ることだけではなく,割礼をも要求し,「違った福音」(「ガラテヤ人への手紙」1:6)を宣べ伝えていたのは,比較的遅くパリ
サイ派から改宗したユダヤ人たちが中心でした。パウロは,特に,彼らと激しい抗争を展開していきます。
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