☆ パウロの翻身の現代的意義
さて,パウロが神の啓示を受けたという体験は,彼の主観的体験としては歴史的事実であったことと思われます。(ただ,その体験は,
現代社会とは全く異なる,古代社会の準拠枠の中における体験であったということを考慮に入れておかなければならないでしょう。)その
体験以後,パウロは,「イエスこそキリストである」というクレドーを核として,彼の世界観を再構築していきますが,その世界観は彼の独
創ではありませんでした。パウロは翻身以前に,キリスト教徒達が宣べ伝えていた「イエス・キリスト」に関するメッセージを聞いていたこ
とは疑いないでしょう。そのメッセージは,パウロの内面の分裂からの救いを暗示するものであったに違いありません。しかし,それは,
彼の<自己>に統合しえないようなものであり,したがって,そのメッセージを自己の救いとして受け入れたいと希求する欲求は,<自
己>の枠外へと,つまり無意識の深層へと解離されていたのです。そして,ステパノ殉教という事件との遭遇後に,異常心理状態が極点
に達したとき,脳内の神経伝達物質であるドーパミンの過剰分泌により解離の機能が弱まり,そのメッセージの意味内容が,神の啓示と
して,突如,パウロの意識の枠内へと表出されたのであると推察されます。イエスの声を聞いたという,パウロのイエスとの遭遇という体験が,<原体験>として,「イエスこそキリストである」というクレドーを形
成させたのです。そして,そのクレドーにより,「ユダヤ教徒パウロ」というアイデンティティは,彼の古い世界観とともに崩壊しました。しかし,「ユダヤ教
徒パウロ」の実存を根底から支え,かつ規定していた,この世を超越した人格的なる唯一の神が実在するという信念そのものは,いささ
かも変わってはいないのです。そのクレドーによって変わったのは,パウロのその神へのかかわり合い方なのです。人間的な功績によって神の義を得ようとする,「ユダヤ教徒パウロ」の律法主義的な,神とのかかわり合いのあり方は,解離しきれない
ほどの<非自己>を生みだし,救いようのない内面的分裂をもたらしました。「イエスこそキリストである」というクレドーを形成したパウロは,神との新しいかかわり合いのあり方を獲得することができ,その内面
的分裂からの救いを得たのです。幼児期の<自己>は,母親などの重要人物からの承認・不承認によって,その基本的な構造が形成されます。成人したパウロの<自
己>は,神からの承認・不承認によって,基本的に規定されていました。そして,律法主義的な,神とのかかわり合い方は,「神に対して
平和を得ている」関係,つまり,神から承認を得ている関係を維持しようと努めるほど,<非自己>を蓄積していくことになり,内面的分
裂が深まっていくということになります。それでは,神との新しいかかわり合いのあり方とは,どのようなものだったのでしょうか。
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