パウロは少年期を脱すると,更に律法の知識を深めようとイェルサレムに留学しました。そして,高名なラビのもとで熱心に律法を学ん

だことと思われます。パウロがイェルサレムでの留学を終えようとしていた頃,ステパノの殉教の場面に遭遇したのです。

 ステパノはイエスを神の子と信じるキリスト教徒のうち,ギリシア語を話すヘレニストと呼ばれる人たちの指導者的存在でした。ヘレニス

トたちは律法や神殿に対して比較的自由な態度を取っていたので,サドカイ派やパリサイ派のユダヤ人たちから,特に危険な存在として

注目されるようになっていました。そして,ついに,パリサイ人らは,ステパノを虐殺してしまったのです。その後,ヘレニストたちはイェル

サレムから逃亡して,各地に散っていきました。パウロにとって,彼らは,律法遵守のための抑圧で不安定になっていた彼の心の秩序を

脅かす者であり,拒絶反応を起こさせるようなものでした。特にステパノの最期の言葉は、衝撃的にパウロの心に突き刺さったのではな

いかと思われます。ステパノは,『主よ,どうぞ,この罪を彼らに負わせないで下さい。』と叫んで死んでいったのです。この言葉はパウロ

のセルフダイナミズム(自己態勢)を激しく揺り動かし,心を震撼させるような不安がパウロを襲ったことでしょう。律法主義者のパウロは

彼らの存在そのものが赦せなかったのです。パウロは,同志とともに彼らを追いました。

 

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