再び,パウロに戻りましょう。パウロは五歳になると,ユダヤ人の会堂(シナゴグ)に附属している初等学校に連れて行かれたことと思

います。教師は会堂の管理人です。子ども達は,教師の周りに座り,教師が言う律法の句を,そらで一語一語,合唱して繰り返します。

当時は「七十人訳聖書」と言われる,ヘブル語の聖書(キリスト教の言う旧約聖書)をギリシア語に翻訳した聖書が,ヘレニズム社会に広

まっていました。パウロ達は,そのギリシア語の聖書の句を暗唱していたのです。

 ユダヤ人の少年は,普通,十三歳で律法の勉強を中止し,幼少年時代を脱し,成人しました。彼らは「律法の子」であることが宣言され

,ユダヤ人の共同社会への加入の儀式が執り行われました。十三歳に達したパウロは,家族に属すると共に,正式に,ユダヤ教徒とし

てユダヤ教団に加入し,新たに,教団から課せられる
律法の規範に服さなければならなかったのです。

 この頃のパウロにとって,家族やユダヤ人の共同社会だけが,彼の生活世界であったわけではありませんでした。タルソの町の中で,

ギリシア人にも多く接したことでしょう。ギリシア人の多くは,当時,知識階級の間に広まっていた,ストア派の哲学に同調していました。

すでに,ユダヤ教徒としてのアイデンティティを形成しているパウロにとって,彼らから直接ストア派哲学の影響を受けることはなかったで

しょうが,パウロの<自己>から解離された<非自己>の中に,その影響が無自覚的に蓄積されていたことと思われます。また,ギリシ

ア語を話すこと自体が,
ギリシア文化の影響を受けることになります。まさに,「言語の中に化石となった哲学がある」ということです。

 また,タルソは,ギリシア人の植民都市として成立した町でしたが,そこには,ギリシア人や現地の人々の他に,ユダヤ人のように東方

から移住してきた種々の民族も居住していました。彼らは,父祖の地から,彼らの父祖の宗教を携えてやってきました。それらの諸宗教

は,ギリシア文化と接触することにより,
密儀宗教を生み出していました。これらの密儀諸宗教は,神の死と再生を中心テーマにしたも

のでした。その信者達は,神聖な儀式において,神との神秘的合一体験のうちに神と共に死に,神と共に再生し,永遠の命を授けられる

と信じていました。そして,互いに兄弟としての盟約を結び,教団を結成していました。

 当時のヘレニズム社会では,ポリス的秩序の中で連帯していた集団がすでに崩壊していました。人々は,そのようなポリス社会におけ

る結合を絶たれ,
アイデンティフィケーション(お互いにアイデンティティを確認し合うこと)の場を失って無規範・無連帯のうちに孤立し,

混迷を深めていました。密儀諸宗教はそのようなヘレニズム社会の人々に,救いの手を差しのべるものとして,特に下層階級の中から

信者を獲得していました。密儀宗教の一つであった,イラン系のミトラス教は,後に,ローマ帝国内における思想的覇権を賭けて,キリス

ト教と最終的な闘争を展開するのです。

 パウロは,それらの密儀宗教を忌むべき偶像崇拝として,厳しく退けたことと思われます。しかし,密儀宗教について見聞した体験は,

パウロの<
自己態勢>の機能によって抑圧・解離されながらも,<非自己>として,彼の心の底に深く刻み込まれたことでしょう。

 モーセを通して神が定めたとされる律法およびその適用の仕方を,日常生活において厳格に守ることは困難なことでした。まして,異

教の人々との接触を余儀なくされる,ディアスポラのユダヤ人にとっては,非常に困難なことでした。律法を厳格に守ることのできないイ

スラエルの民にとって,ヤハウェは恐ろしい神でもありましたが,悔い改めて律法の道に戻るならば,その民を赦す神でもありました。し

かし,律法への過剰同調の傾向を持つ,ディアスポラのユダヤ人の家庭で育ったパウロは,常に,完全であることを求めるように方向づ

けされていたと思われます。パウロは,「
律法の義については落ち度のない者」として,それに反する自分の衝動・欲求・欲望を,無意識

のうちに<非自己>へと抑圧・解離し,
律法を遵守しようと努めていました。

 

           MENUに戻る    

-9-