パウロのパーソナリティの分裂は,もう既に,耐えられるような状態ではなくなり,精神の緊張が異常に高まっていったことでしょう。後
にキリスト教徒へと翻身したパウロが,キリスト者としての立場から,この当時の自分の内面を見つめて,次のように語っています。「わたしは自分のしていることが,わからない。なぜなら,わたしは自分の欲する事は行わず,かえって自分の憎む事をしているからで
ある。もし,自分の欲しない事をしているとすれば,わたしは律法が良いものである事を承認していることになる。そこで,この事をしてい
るのは,もはやわたしではなく,わたしの内に宿っている罪である。わたしの内に,すなわち,わたしの肉の内には,善なるものが宿って
いないことを,わたしは知っている。なぜなら,善をしようとする意志は,自分にあるが,それをする力がないからである。すなわち,わた
しの欲している善はしないで,欲していない悪は,これを行っている。もし,欲しないことをしているとすれば,それをしているのは,もはや
わたしではなく,わたしの内に宿っている罪である。そこで,善をしようと欲しているわたしに,悪がはいり込んでいるという法則があるの
を見る。すなわち,わたしは,内なる人としては神の律法を喜んでいるが,わたしの肢体には別の律法があって,わたしの心の法則に対
して戦いをいどみ,そして,肢体に存在する罪の法則の中に,わたしをとりこにしているのを見る。わたしは,なんというみじめな人間な
のだろう。だれが,この死のからだから,わたしを救ってくれるだろうか。」(「ローマ人への手紙」7:15-24)翻身以前のパウロが,無自覚的に,この内面の分裂からの救いを求めていたとはいえ,その分裂についての認識は,翻身以後になさ
れたものでした。ステパノの殉教に遭遇し,一瞬,ステパノの姿にイエスのイメージと「苦難のしもべ」のイメージを重ね合わせたとき,精
神を震撼させるような不安が,パウロの心を襲ったことでしょう。その体験は,彼が全身全霊をうちこんで守ってきた<自己>やその<
自己>が依拠している自分の世界(現実世界と信じて,これまで形成してきたパウロの私的幻想)を崩壊させかねない体験であったから
です。<自己>を守ろうとする衝動は,憎悪の心となり,神を冒涜する者達を罰するのだという,正義の衣を身につけて燃えたぎったことでし
ょう。パウロらのパリサイ派のユダヤ教徒達は,イエスの弟子達の集団の中でも,特に,ギリシア語を話すユダヤ人達を標的にして迫害を
始めました。それらのギリシア語を話すキリスト教徒達は,イェルサレムを逃れて,イエス=キリストによる救いを宣教しながら,各地に
散っていきました。パウロは同志を募り,彼らを追いました。彼らの存在そのものが許せなかったのです。神の名において,彼らを抹殺
せずにはおれなかったでしょう。パウロの精神は,異常な心理状態にありました。人間の大脳新皮質のなかで創造力を担当する部分で
ある前頭連合野において,神経伝達物質のドーパミンの異常分泌と,ドーパミン・レセプターの異常開放の状態が生じたことと思われま
す。(このドーパミンの異常分泌という状態は,人間に創造力を与えると同時に,抑圧・解離といった<自己態勢>の機能を弱めてしま
い,幻聴や幻覚の原因ともなります。分子生理学者の大木幸介氏は,人間の創造性はドーパミンの活動から起こるという「創造性の仮
説」を提唱しています)そして,各地に散ったキリスト教徒達を迫害しつつ,ダマスコの近くまで来たとき,パウロの異常心理状態は極点に達しました。その時
,パウロの耳に,呼びかける声が聞こえたのです。「道を急いでダマスコの近くにきたとき,突然,天から光がさして,彼をめぐり照らした。彼は地に倒れたが,その時『サウロ,サウロ,な
ぜわたしを迫害するのか』と呼びかける声を聞いた。そこで彼は『主よ,あなたは,どなたですか』と尋ねた。すると答があった,『わたし
は,あなたが迫害しているイエスである。さあ立って,町にはいって行きなさい。そうすれば,そこであなたのなすべき事が告げられるで
あろう』。サウロの同行者たちは何も言えずに立っていて,声だけは聞こえたが,だれも見えなかった。サウロは地から起き上がって目
を開いてみたが,何も見えなかった。そこで人々は,彼の手を引いてダマスコに連れて行った。彼は三日間,目が見えず,また食べるこ
とも飲むこともしなかった。」(「使徒行伝」 第9章)
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