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20 痙攣 2001/9/4

昔からわりとよく痙攣を起こしてました。それもふくらはぎ。水泳中につっちゃったこともあります。
ひところは自分で足の指を甲の側にぐーーーっと反らせて治していましたが、このところのつり方ときたらかなり強力で、特に寝ている時につっちゃった時なんかは一人でうんうん唸りながら治すのもしゃくなので、ダンナを起こして強力マッサージをしてもらって治しています。
最近はふくらはぎだけでなく、足の指や甲、すね、太もも、お尻、腰、背中など、だんだん範囲が広がってきました。

今朝もとろとろまどろんでいるうちに、きたきたきた!きましたよ!!左のふくらはぎに!!
夢うつつで「あー‥‥‥、今のうちなら寝たままでも足の指を反らせれば治るなぁ‥‥‥。」などと思いつつ、足の指を甲の側にぐーーーっ。たいがいはこれで治っちゃうんです。
ところがふくらはぎの痙攣が治まらないうちに、今度は足の指がつってしまいました。
「いでででで‥‥‥‥、困ったな、どりゃ、それじゃ反対側に‥‥‥」と、指を足の裏側に曲げると、ふくらはぎがぎりぎりぎり‥‥‥‥‥!!
このごに及んでまだ寝ながら、「あだだだだ‥‥‥‥‥、しかたない、ふくらはぎの方が辛いから、こっちをなんとかしてしまおう。」と、足の指をまた甲の側にぐぐぐーーーっ!!
と、なんとここでふくらはぎの反対部分、つまり「むこうずね」が痙攣に参加を表明!それにつられて足の甲までも痙攣に参加!!!
ここまで来るとさすがに寝てもいられず、起き上がってなんとかしようとしたんですが、要は左脚の膝から下全部が痙攣を起こしているもんで、どういうポーズをとればいいか判らなくなってしまいました。しかもただでなぐ痛い!!
朝早いのでダンナを起こしたはずみで子ども達が起きちゃうのはかわいそうだし、かといって一人ではどないもこないもでけしまへんので、とうとうここでダンナに「S・O・S」。
が、いない!!何だば!この大変な時になしていねのよ!?(←パニック)
トイレ!?あ゛ーーーーっっっ!いでーーーーーーーっっっ!!!
だ、だみだ、ムスコ、母を助けて(←息も絶え絶え)
「ムスコ‥‥‥、ムスコ‥‥‥‥、ぐぐっ‥‥‥‥。」(←のたうち始めた)
「‥‥‥‥‥‥‥‥ん?なに???」(←半分寝ぼけている)
「あ、あのさ、ママの左のふくらはぎ、ごりごりどマッサージして!
「うん、分かった、こう?」(←まだ寝ぼけている)
そ、それは右脚(汗)
「あ、そうか。」(←左足を揉み始めた)
「あのさ、もっともっともーーーーっと、痛くしてもいいよ。
「うん、こう?」
「‥‥‥‥‥うん‥‥‥‥‥。」
ムスコ、おめは優しいのー。へてもなんも効いでこね(涙)
そりゃそうですわ。寝ぼけた小学3年生の力では、母親のがきがきに固まった太くたくましいふくらはぎには太刀打ちできっこありません。
こうなったら力持ちのムスメも起こして、二人に揉んでもらおうか‥‥‥。‥‥‥‥‥‥いや、やめた。そんなの怪獣を起こすようなもんだ。かえって悲惨なことになる。
し、仕方ない。なんとか一人で‥‥‥‥。あ、どうやら少しマシになってきたみたい‥‥‥♪
「ムスコ、ムスコ、ありがと。大分ラクになったよ。もう寝てもいいよ。」
「うん、お休み。」(←結局最後まで寝ぼけたままだった)
「お休み。はぁ〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜‥‥‥‥‥‥‥‥‥。」(←痙攣収まった)
痙攣で困るのは、その時に「痛い」ってだけでなくて、その後も筋肉痛になっちゃうことですわ。ふい〜〜〜〜〜〜。

ところで痙攣になりやすい人っていうのは、どうもミネラルが不足しがちらしいんですが、あのー、私、好き嫌いはほとんど無くて、海草類もわりにしっかり食べてるんですが‥‥‥‥。今以上に食べなきゃいけないっすか!?
でもなー、胃は一個しか無いし、いくら野菜や海草類つっても、これ以上食べる量を増やしたくないんですけど(汗)

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19 ミッション 2001/5/14

今週は早出勤のダンナから、会社に着く早々、緊急電話があった。
「これからメール送るから!!」
ダンナの緊迫感が嫌が応にも伝わってくる!何ごとだ!?胃が冷たくなるのが分かる。
私はパソコンの前に座って、メールを待った。そして‥‥‥。
来た!!はたして、その内容とは!?

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「急ぎのお願い」
iMacのデスクトップ上にイラストレーターのファイルで「フォト」というファイルが
あるので、[Drop Stuffe]で圧縮して添付ファイルで送ってきて!
送ったらPHS3回鳴らして。
よろしくね

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こっ、これはもしかして、昨日うちで作業していた、会社の仕事で使うデータではないのか!?
そんな大事なものをこの私に託すとは、なんと大胆不敵なヤツ。さすが、私のダンナだ。
私は探した、「フォト」と書かれたファイルを。
あった!!次はどうすればいいのだ!?そうだ、圧縮だ!!
しかし、どうすればいいのだ!?
はっ!そういえば以前、「アイコンをドラッグ&ドロップするねん。」という高等技法を聞いた憶えがある!
それでいいかどうかは分からないが、躊躇している暇はない。やろう!!それ!「サク」
‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥。
できた!!
あとは添付して送ればいいのだ。震える指先でキーを打つ。送信!!
あっ!!ファイル名、「フォト‥‥‥」のままだ!!
カタカナでもいいのか!?でも、送ってしまった‥‥‥‥。
とにかくダンナのPHSを3回鳴らそう。
不安な思いで時が過ぎるのを待つ。
上手く届いたのだろうか?「フォト」は、やはりアルファベットじゃなきゃダメだったのではないか?
もしちゃんと届いてなかったら、作戦はやりなおしだ。
自分の鼓動がやけに大きく響く。背筋を冷たい汗が走った。そして、ダンナからのメール‥‥‥‥。

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「Re: 急ぎのお願い」
OK!!

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♪ちゃらら〜ら〜、ちゃ〜らら〜らちゃらら〜らららら〜ら〜ら〜らららら〜‥‥‥(←「ロッキー」の例のテーマ)
「ああ、神様!!こんな私でもダンナの仕事の役に立てた!!しかもパソコンで!!ありがとう、ありがとう!!」

諸君もいつ何時、こういう緊迫した場面に出くわさないとも限らない。
そんな時に慌てなくても済むように、参考までに、私から会社のダンナに送った見事なまでの暗号を、以下にご紹介しておこう。

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「Re: 急ぎのお願い」
パパー!
これでいいのー!?
愛するママより

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では、成功を祈る。

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18 決定!! 2001/4/1

実はダンナは大阪市内にある、印刷・出版関係の会社で働いています。もともと地元宝塚の人だし転勤のある職場でもないので、定年まではここから動かないだろうと、平成6年、阪神大震災の半年前に、ダンナの両親と同居するために無理して家を新築しました。ところが‥‥‥。
なんとこのたび、違例の辞令(←シャレではない)が出ました。先ほど「転勤のある職場でもない」と書きましたが、実はダンナが勤める会社の大元は東京をはじめ全国各地に支社や系列会社のある会社でして、その支社の一つに「DTPの指導と監督に行ってくれないか?」という話らしいんですね。(注:「行ってくれないか?」=「行け!!」)

「DTP」=「desktop publishing(デスクトップ・パブリッシング)」=「パソコンを使って原稿の作成やレイアウト・版下作成など、出版のための一連の作業を行うこと」です。ダンナがこの会社に入った平成2年には「DTP」という言葉すら知らなかったのですが、「これからの時代、印刷業界はDTPだ!」と思ったダンナは、平成7年頃から独学でDTPの技術を身に付けました。このサイトの「でんしゃがいっぱい!」の初期の作品は、その頃のDTPの練習に、Performa588でコツコツと描いたものです(←しかもマウス。タブレットなんて物があるのさえ、知りませんでした。)
ちょうど時代の流れもあって、ダンナが勤める会社でも4年ほど前からどんどんコンピューターが導入されていったんですが、本格的に導入される前からDTPを身に付けていたダンナは重宝されまして、社内でいわゆる「サポセン」のようなこともしていたようです。今でもたまに夜中に会社から電話があって、その電話に「そこをクリックすればこういうウィンドゥが開きますから、そこからこのファイルを持って来て‥‥‥。」というようなやり取りをしています。まぁ、そういったことなどもあって、転勤の白羽の矢が当たった何人かの中にダンナも入ったというわけなんでしょうが‥‥‥。

さて、この話は年が明けてわりと早いうちに聞かされていたんですが、肝心の「いつ」「どこの支社か」というのが未定だったため、まだ誰にも話さないでおりました。転勤の話自体、立ち消えになる可能性もありましたからね。ところが年度末のおととい30日に、「いつ」「どこの支社か」がとうとう発表になりました!それでは発表いたします!!(ドラムロール!!)

「青森支社!!!」

私は思わず我が耳を疑いました。青森!?ホントに!?いいの!?!?(←いや、そういう問題じゃないと思う)
どうも本当らしいです。というのは、ダンナの他にも同じような理由で転勤になる人が5人ほどいらっしゃるんですが、みんな自分の出身地か、奥さまの出身地なんだそうです。その理由が奮ってまして、「少しでも知ってる土地の方が、コミュニケーションを取りやすい。仕事もスムーズに運ぶだろう。」ということらしいんですね。ダンナ以外の5人は宮城県仙台市、愛知県名古屋市、京都府綾部市、山口県宇部市、福岡県北九州市だそうで、やはり西日本に多い感じがします。ダンナを含めたこの6人で「実験」して、いずれは出身地とは関係なく転勤させられるようになるんだろうということですが、それを考えたら、今ちょっとでも馴染みのある土地に転勤になるというのは、ある意味「もうけもの」かもしれません。ゴールデン・ウィーク明けから青森支社に出勤ということになりました。

さて‥‥‥。この家をどうしよう‥‥‥。無理して建てた家だし、義母は青森には一緒に行かないだろうし、だいたい青森に何年いることになるのか分からないし、誰かに家を貸して義母にどこかのアパートに移ってもらうワケにもいかないし、ダンナだけ単身赴任なんて嫌だし‥‥‥。よし!ここはやはり義妹一家に来てもらおう!幸い義妹達は隣の市に住んでるからここに引っ越すのはそんなに大変じゃないし、知らない他人に貸すより安心だし、ここに来てもらえば義弟の職場に歩いて行けるくらい近くになるし、第一義母も寂しくないし、安心だ!!話もつけてあるもんね。
青森市内には県庁の近くに叔母夫婦が住んでるから、その辺りにいい家を探してもらおう。いや〜、ムスメの幼稚園入園、もう一年待ってて良かったよ。ムスコがちょっと大変かもなぁ。宝塚に仲良しの友達がいっぱいいるもんなぁ。いやいや、これも人生の修行だ。負けるな、ムスコ!この母も何度か転校したことがあるぞ!田名部のイトコとしょっちゅう遊べるようになるんだから!そうだ!田名部!!青森市内からなら憧れの「日帰り里帰り」ができるじゃないの!ああ‥‥‥、今まで我慢してきた甲斐があった‥‥‥。神様、ありがとう!!
今年はねぶたを見られるんだ。高校の時以来だから、20年ぶりくらいだなぁ。‥‥‥見るだけじゃヤダな。跳ねるぞ!絶対跳ねる!!それから、それから、田名部祭。今までみたいに「帰省の切符とれるべが?」なんてハラハラしなくていいんだ。今年の祭はええと‥‥‥あ、土・日・月曜日だぞ。月・火と休みを取れば、ダンナもしっかりかだれる(訳:参加できる)ぞ。よし!!!
あ、こんな年になってからだけど、車の免許取ろう。ダンナにも取ってもらわなきゃ。車無いと不便だもん。いいや、青森に引っ越してからで。落ち着いたら夫婦で免許取るぞ。あとはなんだっけ‥‥‥。あ、私の仕事先にも、このこと連絡しなきゃ。宅急便、青森市内からなら宝塚からと同じで翌日到着だ。助かっちゃうな。あー‥‥‥、なんか殺人的に忙しくなりそうな一ヶ月‥‥‥‥‥。
























なーーーーーーーーーんちゃって!!!
本気にした?

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17 「右」と「左」 2001/2/20

といっても政治の話じゃありませんです、はい。
このすぐ下で書いた実家の父の脳硬塞ですが、60歳になった途端に発病いたしまして、以来約2年半、リハビリに励んでいます。父はどうやら左脳に梗塞が起きたらしく、右半身に麻痺がきました。もともと右利きの人なので、かなり不便だったでしょう。言語中枢は右と左のどちらにあるのか分かりませんが、言語障害もあります。もともと陽気な人だったので、これもかなりストレスになってることでしょうな。
皆さんご存知のように、左脳に梗塞が起きれば麻痺は右半身に、右脳に梗塞が起きれば麻痺は左半身に現れます。「神経が交差しているから」という理屈はよく分かっているのですが、実に不思議なものだと思います。もっと不思議なのは「脳硬塞はほとんど左右で症状が出る」ということですか。たとえば同じ「半身」でも、「上半身だけの麻痺」とか「下半身だけの麻痺」というのは、他の病気や怪我が原因の麻痺ではどうだか分かりませんが、脳硬塞の場合にはまず見られないのではないでしょうか。あるいは「身体の前半分の麻痺」(←まばたき大変そう)「身体の後ろ半分の麻痺」(←うんち大変そう)なども、少なくとも私は今まで聞いたことがありません。いえ、実の父の事だから、こんなふうに書けるわけなんですけれど。

で、この病気なんですが、脳血管に血栓が詰まってその先の血流が止まってしまい、結果としてその血管が栄養を供給していた脳細胞が死滅してしまいます。それでその部分の脳が出していた指令が出なくなってしまって麻痺がおこるのですが、麻痺がおこると「動かない」こともそりゃ困るのですが、「筋肉が萎縮する」というのに非常に悩まされるわけです。父は若い頃からスポーツマンでして、特に学生時代は陸上部に籍を置き、短距離、長距離、三段跳びなどで、随分と身体を鍛えたものらしいです。それがこの病気のせいで動けなくなってしまい、麻痺の出た右脚の太ももは健康な左脚太ももの半分ほどの太さにまでなってしまったんですね。脚を骨折してしばらくしていたギプスを外した時に、左右の脚の太さがはっきりと違っていて愕然としたことがあるかたもいらっしゃるのではないでしょうか?これは片方だけ動かさなかったためにおこる現象で、その後リハビリをしたり普通に生活をしたりしているうちに改善されるものですが、麻痺があるとなかなかそうはいかないわけですね。
そこまで細くなると、たとえ麻痺がなくても歩くのは困難になってしまいます。で、歩行訓練をするわけですが、麻痺がおこった方の脚に装具をつけて行うんですよ。痩せた筋肉の補助をし感覚の無い関節や皮膚をかばいながら、少しでも歩けるようになるために患者一人一人に合わせて装具を作るんですね。ところがここでもう一つ、困ったことがおこるわけです。

父の装具は右脚の膝下から足の裏全部をおおうもので、丈夫な樹脂製です。薄くて軽いといっても、装具をつけない左足とは、靴のサイズが違ってくるんですね、あたりまえですが。どんなに痩せようが太ろうが、足のサイズはそうそう極端に変わらないというのは、皆さんお解りでございましょう。で、リハビリなんですが、麻痺のある人でも履きやすく歩きやすいように、室内ではバレーシューズで、しばらくして外に出る時は専用のリハビリシューズを履くんですよ。父が通っているM総合病院(地元では略してM病と呼ばれる)にも青森市内のリハビリ用品や介護用品を扱っている業者が入っていまして、そこからシューズを買うことになったそうなんですが、さっきも書いたように装具をつけると左足に比べて右足のサイズは1〜2センチも大きくなるのに、左右のサイズ違いのシューズは扱ってないということだったらしいんですね。歩行訓練は必ず装具をつけて行いますから、父はしかたなく他の皆さんと同じように装具をつけた右足のサイズに合わせて買い、がふがふの左側には詰め物をして訓練に励んでいました。ですがサイズの大きなシューズに詰め物をして履くなんて麻痺がない人でも歩きにくいものなのに、いくら健康な方の足だといっても、麻痺のある患者がそれで歩行訓練をしなきゃいけないというのは、痒いところに手が届かないというか、なんともイライラすることじゃありませんか、うにゅにゅ〜〜〜〜〜〜〜〜〜(←イライラをソフトに表現してみました)。

どうして世の中にはそういう製品が無いんだろうと考えていたんですが、ちょうどその頃宝塚の我が家の近くに、ある大手の寝具メーカーが介護・リハビリ用品専門の店を出しまして、のぞいてみたらここにはあったんですよ、左右サイズ違いのリハビリシューズが!!(あるんじゃないか、こらこら。)と思いながら店員さんに聞いてみると、品物はある程度限られてしまうけれど、対象の商品は左右別サイズで買えるし、左右のどちらか一方が傷んだら片方だけでも買えるということでした。もちろん同じサイズのシューズを一足で買う(←だいたい7000円前後)よりも少々高くつくんですが、それでもせいぜいプラス1000円くらいのところですし、片方だけの値段なら3000〜4000円台なので、人によっては長い目で見ればむしろ経済的なのかもしれませんね。
早速父の左右のサイズに合わせてシューズを買いカタログと一緒に送ったところ随分と喜んでくれて、気の重いリハビリの、ちょっとした気晴らしくらいにはなったようでした(←でもやっぱりリハビリは大変)。この「左右別サイズで買えるリハビリシューズ」の話は仲良しのリハビリ仲間の間にあっという間に広がり、カタログは父の手元から離れて、どこに行ってしまったか判らなくなってしまったそうです。「わも欲しじゃ〜。」というリハビリ仲間も何人かいたようで、追加のデザイン違いのシューズと一緒にリハビリ仲間用のカタログも何部か送ったんですが(←快くカタログを下さった店員さん、ありがとう)、そのカタログもあっという間に無くなってしまったようでした。ちょっと日数はかかりますが電話注文で取り寄せることが出来ますので、やっぱり皆さん、左右別サイズで買えるシューズが欲しくなるんですね。まぁ、別にこちらはM病に入っている業者の営業妨害をしようと思ってるわけじゃないんですが、病気を持ったままで高齢化の進む今時、患者のニーズに応えられない、あるいは応える気の無さそうな業者というのはいったいどうなんだろうとふと思いまして、ちょいとここに書いてみました。もっともこれは1〜2年前の話なので、その後左右サイズ違いのものも扱うようになっているかもしれませんが。

左右サイズ違いで買えるリハビリシューズがあることを知らないで、不便な思いでリハビリに励んでいる患者さんは、たぶん今も大勢いらっしゃるんでしょうねぇ‥‥‥。

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16 弟と一緒に飲んだ飲んだ 2001/1/12

「今日の覚え書き」の方でちょこっと触れましたが、今月の8日夜から10日早朝まで、実家の弟(3月で32歳)がうちに来ていました。
実は実家の父は62歳とまだ若いのに2年以上前に脳硬塞を患っていて、右半身の麻痺と言語障害があります。長年の持病である糖尿病の治療にインスリン注射を毎日打たなければならず、他の薬との兼ね合いもあって、母も父を置いて遠くに出かけることは出来ません。そんなわけで去年あまりに早く義父が亡くなった時は実家の両親はもちろん動けず、幼稚園勤務の妹も小学校勤務の弟も、行事の多い2学期後半だったため、誰も宝塚まで来ることが出来なかったのです。12月半ばの四十九日も通信簿の作成などの仕事が立て込む時期ですから、せめてもう少し近ければなんとかして出席できたかもしれませんが、むつ市と宝塚市の距離を考えれば、やはりどんなに姉を案じる気持ちはあっても、駆けつけることは無理なのでした。
私やダンナもそういった実家の事情はあたりまえですがよく解っているので、「大丈夫だして、なんも気にしねんで。」と両親や妹弟に言っておりまして、それでも通夜に間に合うように父と叔父が送ってくれた弔電に、ダンナも「ありがたいなぁ。」と言っていたのでした。
今回父の名代(みょうだい)として弟が来て、義母に「今回の事では何もお力になれませんで、大変申し訳ありませんでした。」と両手をついて深々と頭を下げたのを見て、こう言うように両親から言いつかって来たのだろうなぁということと同時に、長女の舅の一大事にせめて脳硬塞さえ患っていなければ何を置いても2人で駆けつけたであろう両親の心中が思いやられて、なんとも切なくなったのでした。

で、その日は飛行機の時間の関係で夜8:30頃に弟は我が家に着いてそれから酒盛りが始まったわけで、つまり短時間のうちに美味しいお酒をごんごんと飲んだわけでして、それでイッちゃいました、二日酔い(←おいおい)しかも翌日はムスコの3学期の始業式で朝の早いこと早いこと。とりあえず起き出して朝ご飯を食べさせ学校に送りだした後で、またもや布団に潜り込んで、午前中いっぱいくたばっておりました(←この嫁はまったく)
くたばりながらふと気がついたのですが、私はちゃんとメガネをかけていたんです!!
は!?それがどうしたって!?あ、解りませんでしたか?そうですか。実はですね、私は近視なんです。え??だからメガネをかけてるんだろう!?いや、それはそうなんですが、そうじゃなくてですね。私は昼間はコンタクトレンズをしているんですが、夜は外してメガネをかけているんですよ。連続装用OKのレンズなんですが、目にあまり負担をかけないようにするために、眼科医の指導で毎晩外してメガネにかえているんです。
で、この日のようにお風呂に入らない日は、洗面所でまずコンタクトレンズを外してから、ウォータープルーフのしっかりメークを落とすのにベビーオイルを念入りに馴染ませてからティッシュで丁寧に拭き取り、そのあとで顔に残ったオイルをビオレで二度洗いして落とすという、実に手間のかかったことをしているわけです。いえ、お風呂に入る時はそうじゃないんですよ。レンズをしたまま入るし、洗い流すタイプのメーク落としを使っているので、ラクなんです。でもこの日はお風呂は無理なだけ飲んでいたので、洗面所で顔を洗ったことになるわけです。
「そういえば‥‥‥。」なんとなく覚えていました。酔いで薄れゆく意識の中の、心の葛藤を。
「ああ、顔を‥‥‥顔を洗わなきゃ‥‥‥でも眠い‥‥‥気持ち悪いぃ‥‥‥いや、化粧を落とさないで寝たら、大変なことになるぅ‥‥‥顔、洗わなきゃ‥‥‥ああ、めんどくさい、コンタクトレンズ、一晩くらいならつけたまま寝ちゃっていいやぁ、連続装用のだもん‥‥いや、レンズより洗顔だ。洗わないと肌が荒れて、大変なことになるぅ‥‥‥洗おう!オイルがついたら嫌だから、とにかくレンズを外そう‥‥‥。」
こんな按配で必死にコンタクトレンズを外して、ふらつく足でしっかりとメークを落とした上に、ちゃんと化粧水と乳液を塗って寝たんでした。おかげで体調は思いっきり悪かったものの、肌自体は「ぴちぴち」とはいかないまでも、まぁ、だいたいいつもの「こんなもんでしょ」くらいの状態でいられたんです。
エライ!!エライぞ、自分!!誰も誉めてくれないから、自分で自分を誉めよう!!あ、いた!一人誉めてくれる人が!
「ね〜〜〜、誉めて〜〜〜〜〜(←実は声になっていない)。‥‥‥あれ?いない。どこだ?」
とその時、階段を上がってくる音がしました。
「ママ!そろそろムスコが帰って来んで。ほんまに、しゃあ無いなぁ。オレなんか、二日酔いなんかちっともなってへんで!」
「‥‥‥‥‥‥(誉めてくれないぃ)‥‥‥‥‥。」

この後ふらふらしながら弟と一緒に大阪ドームに行ったんですが、そこの9階のレストランで「地ビール」の文字を見つけてしまい、「‥‥‥どんな味なんだろう‥‥‥‥。」と思ってしまった私は、ついつい好奇心に負けて、また飲んでしまったのでした(←こいつはホントに)
でも美味しかったし。大阪ドームにお越しの際は、ぜひお試し下さい。

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15 安静入院中のできごと 2000/10/20

ムスメを産んだ直後と言っていい時期に持病の椎間板ヘルニアが悪化したというのは「男性立ち入り禁止!」の「ムスメ編」で書きましたが、実は宝塚市に戻ってからとうとう動けなくなってしまいまして、ヘルニアで二度目の安静入院をしたんですな。今日はその時のお話をひとつ。

私は3人部屋だったんですが、その部屋に一番後に入ってきたお婆さんがいらっしゃいました。付き添いの実の娘さん(といってももう50代か、ひょっとすると60代だったろうとは思いますが)の話だと、多少耳が遠くて補聴器を使っているとは言うものの、90代後半の今も高齢者用のおむつなどせず夜中でもちゃんと自分でトイレに行き、三度の食事もきちんととるお婆さんで、頭の方もしっかりしたものだということでした。それが何かのはずみで家の中で転んで大腿骨を骨折してしまい、入院したんだそうです。術後麻酔が切れて、自分はどうしてこんなに辛い目にあわなければいけないのか、身体がこんなに痛いのはなぜなのか、病院にいるらしいのにどうして医者も看護婦も娘も自分の痛みをやわらげてくれないのか、そういった諸々の事に腹を立ててでもいるかのように徐々に食が細っていき、二口三口食べる他は、とうとう水分しかとらなくなってしまいました。なかなか気の強いお婆さんで自分のペースを決して崩そうとせず、看護婦やお掃除のおばさんや娘さんが何か食べさせようと口の前にスプーンを持っていくと、いかにもうるさそうにスプーンを持った手の甲をつねるといった具合でした。

お婆さんがほとんど食べなくなった翌日、明けて明日には私も退院できるという日の深夜1時半頃でしたか。いつもとはちょっと違う気配を感じて眠りから覚めました。当直の医者とお婆さんの付き添いの娘さんの話し声が聞こえてきます。
「でも先生、身体がまだ暖かいんですよ。」
「ええ、でもねぇ、ほら、もう心臓、動いてないんですよ。」
(えええええ〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜!?!?!?!?!?)
「ずっと寝ていたと思っていたんです。」
「高齢でしたからねぇ。食事はどうでしたか?」
「それが、一昨日くらいからあまり食べなくなってしまって。」
「う〜〜〜〜〜〜〜ん‥‥‥、そうですか‥‥‥。」
(おいおいおいおいおい、何の話をしてるんだ?心臓動いてないって?誰の!?)
「瞳孔も反応がありませんし‥‥‥。御臨終です。
(ひ〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜!!!!!!!!!!!)
「今死亡診断書書きますから。」
「そうですか‥‥‥、ありがとうございました‥‥‥。」
(いいいい、今何時だ?げげっ!!もうすぐ丑三つ時じゃん!!!)
「どうもお騒がせしてすみません。」という娘さんの言葉に寝たフリを決め込むわけにもいかず、もう1人の同室の方と一緒にひととおりのお悔やみを述べたりしました。自宅やきょうだいに連絡をとるためにしばらく病室を出たり入ったりしていましたが、なんとその娘さん、「それではこれから葬儀の手配などしますのでいったんうちに帰ります。じきに葬儀屋さんが来てくれる手はずになっていますから。」とお婆さん(の遺体)を残し、夜の夜中に帰って行ってしまったんですね。
お婆さん(の遺体)が寝ているベッドの読書灯がまだついていて、薄いカーテンにはなんとなくお婆さん(の遺体)のシルエットが浮かんでるような気がします‥‥‥。こんな狭い部屋に肉親でもなんでもない赤の他人の遺体が一体‥‥‥などと冗談をかましている場合じゃありませんな。「宝塚さ〜〜〜ん、どうしましょう、いやだわ、困ったわねぇ。」という同室の方の言葉に「はぁ‥‥‥。」と困ってるのか困ってないのかよく解らない返事をしているうちに看護婦さんがやってきて、遺体の清拭を始めました。若い看護婦さんでしたが、職業がらてきぱきしてましたねぇ。たいしたもんです。それが終わってしばらくたった頃、やっと葬儀屋さんがやってきて、遺体を運んでいきました。ああ‥‥‥‥‥。
夜が明けた時には心底ホッとしましたね。実はこの四ヶ月ほど前に実家の祖父が亡くなってまして、産後まだ実家にいた私は生後一ヶ月だったムスメを抱っこして通夜だ葬儀だと動いていたんですが、やはり身内か、他人でも親しい間柄でもないと、狭い部屋に遺体と一緒にいるっていうのは、辛いものがありますから。いえ、もちろんお気の毒だという気持ちはありますが、そういう気持ちとほとんど知らない人(の遺体)と一緒にいて平気かどうかというのは、また別のものですから。
それにしてもあのお婆さん、まるで「もうええわ、十分生きたから、そろそろ生きるの止めてもええ。」と自分で決めたかのように、食べるのを止めましたね。自分の死に際は自分で決めるということなのでしょうか。もしそうだとしたら、90代後半までボケもせず、おむつの世話にもならず、寝たきりとは無縁で、最後の一週間ほどは骨折や手術で痛い思いをしたかもしれませんが、何ヶ月も苦しむこともなく亡くなるという、人生の終わり方の理想の形の一つを見せられたような気がしました。

朝ご飯が済んだ後でお掃除のおばさん(この診療所では院長の次に偉い。ぺーぺーの看護婦など足元にも及ばない)がやってきて、夕べまでお婆さんが寝ていたベッドの後片づけを始めたんですが、ベッドの布団を見るなり怒ったようにこう言いました。
「看護婦さん、ここで(遺体の)身体、拭かはったな。いっつも手術室でやってるからって言うてあったのに。」
(げ!手術室でかっ!!おいおい‥‥‥‥‥)
翌日私は退院したんですが、お婆さんの後に入ってきた患者さんには、そこで亡くなったお婆さんの話はしませんでした。
(できないって‥‥‥‥‥)

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14 むかしむかし 2000/9/8

といっても戦後大分経ってからの話。青森県の北のはずれに、ほんのついこないだ二つの町が合併して「市」になったばかりの街がありました。その市の柳町というところに、ある一組の夫婦が住んでおりました。女房の方は初産を控えて大きなお腹をしており、あと1週間か10日もすれば元気な産声が聞けそうでした。
その日は8月20日、祭の最終日でした。父親の代から祭好きだった亭主は、「大丈夫だ。いいしてあんべ(訳:いいから一緒においで)。」と、身重の女房を連れて、人ごみの中、祭見物に出かけました。美しく荘厳な山車、勇ましい引き子、神聖な猿田彦、可愛らしい稚児、大きな農耕馬、お公家さまや神輿、賑やかな神楽‥‥‥夫婦の目の前を祭の行列が過ぎて行きました。お腹が大きいせいで多少不安もあったものかもしれませんが、それでも女房は祭を楽しみ、連れ出してくれた亭主の気持ちを嬉しく思うのでした。
臨月で祭に出かけたせいでしょうか、翌21日、女房のお腹が痛み出しました。正期産の範囲とはいえ、予定日まではまだ少し日があります。とりあえず女房は市内のM総合病院に行ってみることにしました。
病院に入ってしばらくすると、痛みは少しずつ落ち着いていきました。どうやら前駆陣痛だったようです。「ふぅ、やれやれ、昨日祭に出かけて疲れたせいかしら。落ち着いてよかった。あんまり早く生まれて、赤ちゃんにもし何かあったら、姑様にも夫にも申し訳がたたないもの。」女房はそう思ったかもしれません。
ところが医者がやってきて言いました。「赤ちゃん大きいですから、このまま出してしまいましょう。」
女房は陣痛促進剤の投与を受け、明けて22日の午前1時頃、大きな女の赤ちゃんを産んだのです。当時、女の子で3700グラム以上という、なんとも立派な大きさで生まれたその子は、ついおととい母親の胎内で聴いたばかりの祭囃子の記憶も持って生まれたものでしょうか。幼い頃は祭の出店を普通に楽しむ程度でしたが、気がつくと組の若衆に混じって普通はなかなか近寄らせてもらえない山車の綱元(つなもと)を引きたがり、祭期間中は山車のそばにいたい一心でなかなか家にも帰らず、200番ほどもある盆歌を全て覚え、歌を知っているせいでいつも踊りの輪の中心にいるような娘へと成長したのです。
その後娘は遠くに嫁に行きましたが、盆も正月も帰らずに、祭にだけは亭主と一緒に地元に戻って祭に出かけ、さらには自分が産んだ2人の子どもがそれぞれ生後2ヶ月の頃からベビーカーに乗せて祭に出かけるといった、それまではほとんど誰もしなかった‥‥‥いえ、ほとんど誰も考えなかったようなことをしたのでした。
昔は今ほど胎教だなんだと騒ぐようなことはありませんでしたが、「三つ子の魂百まで」ならぬ「胎児の魂百まで」といった感のあるこのお話は、これでおしまい。めでたしめでたし。

‥‥‥‥‥‥は?「これは実話ではないのか?」って?ただの昔話ですよ、昔話(笑)

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13 「だから」 2000/7/4

誰かに何か話しかけて、その人にいきなり「だからぁ」で返事を切り出されたこと、ない?あるいはそれまで話してた話題が変わる時に、「だからさぁ」で文章をつなげられてしまったことって、ない?
(A)「今度の日曜日、どこかに遊びに行こう。」「今度の日曜日はバイトだから、行けないや。」
(B)「今度の日曜日、どこかに遊びに行こう。」「だぁからぁ、今度の日曜日はバイトで行けないの。」
例えばこんな、友達の今度の日曜日の予定を知らないで遊びに誘った言葉に対し、(A)の方はごくあたりまえの返事。「せっかく誘ってくれたのに、一緒に行けなくてごめんね。」っていう気持ちが込められてるよね。でも(B)の方には、私は喋った本人も意識しているかどうか解らない「意地悪さ」や「理不尽なイライラ」を感じちゃうんだよ。
「今度の日曜日はバイト」っていうのを以前話したことがあっても無くても、文の頭に使われるこうした「だから」には、実は「ちょっとぉ、前に言わなかったっけ?あんたは休みかもしれないけど、私はバイトなんだよね。なにノンキなこと言ってんのよ!?」とか、もっと突っ込んでいうと「その辺なんでわかんないわけ?あんたってバカ!?」っていうような、つまり相手を責めたりバカにしたり揶揄(やゆ)したりっていうニュアンスが込められてることがあるんだと思うよ。そうすると誘った方は、「あれ?前にバイトっていうの聞いてたっけ?忘れてたのかな?もしそうだったら、悪いこと聞いちゃったな。」っていうような、ちょっと大袈裟にいうと「罪悪感」に苛まれてしまうわけだ。

およそ人と人との付き合いだから、言った言葉で相手が傷ついたり相手に傷つけられたりっていうことは、日常的にあることだと思うんだよ。喋った文の中にはっきりと相手を傷つける言葉や要素が含まれてることもあるもんね。でもそういう時っていうのは、言った方も「あ、しまった、今のは相手を傷つけた。」って解るんだよね。解るから言った方もいい気分はしないし、あとで「あんなこと言ってごめんね。」と謝ることもできるわけだ。もし謝らなくても言われた方は自分が今不愉快に感じているのはなぜなのか、その理由がちゃんと解るわけだよね。

ところがいきなり「だからぁ」で始まる文には、たとえその後に相手を直接傷つける言葉や要素が続かなくても、上に書いたようなニュアンスのせいで相手の気持ちをモロに踏みにじることがあるのに、結構無頓着に使われることが多いみたいなんだね。相手を傷つける言葉そのものにはものすごく敏感で、言わないように注意する人でも、「だから」で始まる文章のトゲにはなかなか気がつかないものらしいんだよ。「語気」っていうのも関係してはくるけれど、たとえ語気を荒げなくたって、「だからさぁ」で始まる文章には、相手を十分に傷つける力があるんだ

でも直接相手を傷つける言葉は含まれないことも多かったりする。そうすると言われた方は自分がどうしてこんなに不愉快になっているのか解らない。言った方も悪いことを言ってるわけじゃないから、相手が傷ついていることに気付かない。
結局言われた方が、言われたことで感じた不愉快さと、何も悪いことを言われたわけじゃないのに不愉快に感じてしまった自分への嫌悪感と、言った相手に対して不愉快に感じてしまって悪いことをしたなぁという罪悪感とを、全て背負い込んでしまうことになるんだよ。

そういうことに気付いてから私は、「だから」で始まる文にはかなり注意するようになったんだけど、でもこうして書いていて、自分のなにげない言葉のひとつひとつが、ここを見てくれているたくさんの人の心をまったく傷つけてないなんてことはないだろうなぁと思うと、なんだか書くのが怖くなってくるなぁ。もしそういう方がいらしたら、この場をおかりして心から申し上げます。

「ごめんなさい。」

仕切り

12 ちょっと真面目な話で恐縮なんですが 2000/6/10

私は4歳でむつ市から青森市に引っ越す前後に気管支喘息を患いまして、以来この病気とは長い付き合いになります。幼稚園の年中組と小学2年の時には青森市橋本(今もこの地名でしょうか?)の「W小児科」に喘息の為に入院などもいたしました。今日はその一回目、幼稚園年中組での入院中のできごとを書こうと思います。

入院して何日か経ったある晩のこと、突然なにやら尋常ではない音が聞こえてきました。今まで聞いた事のない音でした。はじめはその音がどこから聞こえてくるのか解りませんでした。高く低く、大きく小さく、なんだか波があります。しばらく聞いているうちに、どうやらそれは「音」ではなく「声」であるらしいという事に気付きました。しかもそれは病院の外から聞こえてくるのではなく、中から発せられているようなのです。私は2階の角部屋に近い個室にいましたが、その部屋の前の廊下を曲がったすぐ2、3室向こうの部屋からのようでした。
何の声かと思いました。何か動物のよう・・・・・獣のような声でした。聞いていてとても不安になってきていてもたってもいられない、胸騒ぎのせいで息が苦しくなってしまいそうな、そんな声でした。
(テレビで見たことがある狼の遠吠えみたい・・・・・ううん、違う、何だろう、犬?いやいや、それも違う、猫でもない、やっぱり狼が一番近いみたい・・・・病院に狼がいるのかな?でも狼は日本にはもういないって本に書いてあった・・・・それに狼の遠吠えみたいだけど、やっぱり違う、何だろう・・・何だろう・・・・・。)
付き添ってくれていた母に聞いてみました。
「ママ、あの声なあに?」
「・・・・・・・・・・・。」
「動物がいるの?」
「・・・・違うと思うよ。さ、寝なさい。」
ただでさえ寝つきの悪かった私が、そういう声を聞きながらすぐに眠れる訳もなく、ずいぶん長い時間、ベッドの中でその声を聞いていました。その声は私が遅い時間になってやっと眠りにつくまで、途切れる事無く続きました。
翌朝、もう一度母に聞いてみました。今度は答えが帰ってきました。
「夕べねぇ、小さい子が”自家中毒(じかちゅうどく)”で亡くなったんだって。それでその子のお母さんが泣いていたんだよ。」
「”自家中毒”で死亡!?」と驚かれた方もいらっしゃるかもしれませんが、自家中毒は猛烈に吐く病気ですので、小さいお子さんだとあっという間に脱水症状を起こしてしまうことがあります。もしかしたらその子も、自家中毒そのものというより、自家中毒による脱水で亡くなったのかもしれません。

ショックでした。小さい子が亡くなったという事よりも、子どもを亡くした母親の泣き叫ぶ声そのものが、深く心に突き刺さりました。当時はこんな言葉は知りませんでしたが、あれはまさに「慟哭」でした。人間の声なんかではない獣のようなその叫びに、「子どもを亡くした母親は、きっと皆ああいう声で泣くのだ。」と、子ども心に思いました。あんな声を自分の母親には決して出させまいと、子どもなりに思ったのを覚えています。そして母親になった今、エゴと思われてもいい、あの声を決してこの母に出させてくれるなと、二人の子どもの寝顔を見ながら強く願うのです。

あれから30年以上経ちましたが、あの声は今も私の心の深いところにしっかりと刻み込まれています。

仕切り

11 今日は私達の「結婚式前夜・ちょっと前」のお話(おやおや) 2000/5/17

結婚する前というのは、やはりある程度の期間、実家にいたいと思うわけでして、嫁いでしまえばたとえまとまった休暇でもそうそう簡単に実家に帰れなくなる事を思えば、これは自分の為というより、親きょうだいや祖父母の為でもあるわけでして。で、私も仕事を休んで2ヶ月近く実家におりました。
さて、当時は父が田名部の実家から車で3時間ほど離れた南部地方の三戸町(さんのへまち)に勤務していて、母と一緒に三戸の社宅に住んでおりました。2ヶ月の休暇が終わって東京に戻る前、三戸の社宅に一泊することにしたわけですね。父と母と嫁ぐ直前の娘3人の夜という、まるでドラマのようなシチュエーションを、ここで思い描いた方も多いことでしょう。
そんなわけでいよいよ明日は母と共に三戸に向かうという、実家で過ごす最後の夜(父は仕事の為に一足先に三戸に行っていました)、母は「当分食べられないだろうから」と、私の大好きな海山の幸をたくさん用意してくれたわけですね。その中に「あんこうのとも和え」というのがありまして、これはあんこうの身や皮をさっとゆでてあんこうの肝で和えてある料理で、これがまた、大好物なんですな。で、私はそんな母の気持ちがありがたかったのと、本当にしばらく食べられなくなるのとで、何も考えず、そりゃーひたむきに食べたわけです。どれくらいひたむきだったかと言うと、「右肘を緩やかに曲げ、脇を絞めて、目標を見据えて、食うべし!食うべし!!食うべし!!!」・・・・・はい、ごめんなさい。
冗談はさておいて、愛しい海山の幸でお腹が膨れた私は、大きな幸せとちょっぴりのせつなさに包まれながら、布団に入りました。
が!!!
それは翌朝突然やってきました。「緊急事態発生!」のサイレンがけたたましく体内に鳴り響き、それに追われるようにトイレに駆け込んだまま、動けなくなってしまいました。いわゆる「吐き下し」ってやつですか。あんなの初めてでした。大分経ってからやっとふらふらとトイレから出たんですが、
私「なんだが、熱もあるみんた・・・。」
母「ありゃ?やっぱり夕べの”とも和え”のせいだべが?
妹「うん、なんだがわいも”ちょっと悪ぐ”なってらよんた気ぃしたったもん。」
「それを早く言えーーーーーーーーーーーーーーーーーーーっっっっっ!!!」
と叫びたい気持ちをぐっと堪え、再びトイレに駆け込む私。いやー、出るわ出るわ。体中の水分が上と下から出て行くかと思いましたね、はい。
一応病院に行きましたが、点滴をすると言うのを「今日中に三戸に行かなくてはいけないから」と断り、医者の哀れみの眼差しと「とにかく水分をとるように」との言葉と処方された薬を持って、母と共に列車で三戸に向かいました。その間も絶えまなく襲ってくる「緊急事態」に、何度座席とトイレを往復したかしれません。

さて、ドラマのような展開になるはずだった父母娘3人の最後の夜は、父母の「大丈夫が?病院さ行がなくていいが?」の言葉で終始しました。本当は私も病院に行きたかったんですが、今行ったら父母がどんなに心配するだろうと思って、「なんも、大丈夫。けぁね(訳、ノー・プロブレム)」と言い通したんですね。
ちなみによくある「お父さん、お母さん、今まで育てて下さって・・・・・」というのは、別に食あたりを起こさなくても、最初っから言う気はありませんでした。これを言ってしまったら、本当にもう二度と親に会えなくなるような気がして、意地でも言うまいと思っていましたから。
そうして翌日、「特急はつかり」と「新幹線やまびこ」を乗り継いで東京に戻り、数日後に控えた結婚式の最後の準備に入ったのです。

ところで結婚式まで一週間を切った時期に食あたりを起こして大変は大変だったんですが、猛烈な吐き下しのおかげでお腹回りが「ほっそり」しまして、数カ月前に試着した時はキッツキツのピッチピチだったウエディングドレスを、余裕のよっちゃんで着られたんですな、これがまた。いやー、怪我の巧妙と言うか、転んでもただでは起きないと言うか、むしろ食あたりを起こして良かったなー、などとおバカなことを考えてしまった私でした。
皆さんは食あたりに頼らなくても余裕で着られるドレスを選びましょうね。ほほほほほ。

仕切り