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29 ピーといふもの 2007/04/01
さて、一頃のような頻繁な更新が出来ないでいる今日この頃ですが、私は元気です。椎間板ヘルニアで吐きそうなほど下半身が痛かったり、一部感覚が無かったり、真っ直ぐ立てなかったり、痺れたり、小さい頃からの偏頭痛に苦しんだり、最近は新たに緑内障を患ったり、相も変わらず仕事の〆切に追われて寝られなかったりしてますが、実際殺しても死なないほど元気です。
この冬も、あれだけ猛威をふるったノロウイルスにもインフルエンザにも罹りませんでした。元気過ぎる自分が、そろそろ本気で怖いです。
しかしですよ。日々のピーへの関わりで時間はあっという間に過ぎ、心身の疲労はそれなりに溜まります。ちょっと前まではそれでもなんとか時間をやりくりして意地でも更新してましたが、最近はそういう意地をあまり張らないようになりました。
いえ、そういう意地っ張りを自分で楽しいと思えるうちは嬉々として張るんですけども、近頃は意地を張ってる暇があったらさっさと寝てしまいたいもんですから、結局日々のネタはたっぷりぷりぷりなのに更新しないで寝てしまう、という日が続いています。私も歳を取ったのね人間が練れてきたのね。
一頃の私をご存じの方には、さぞ意外なことでございましょう。だってその頃の私といったら、夜中の2時3時でも平気で更新していて、朝6時にはどこかのサイトの掲示板にお邪魔しているなんて毎日を、結構フツーに送っていましたからね。そんなネット中毒な私がどうして毎日の更新にこだわらないで寝てしまうようになったかというと、それはやはり当時に比べてピーの仕事が増えてきたから、といえるでしょう。
ピーというものは、やればやるほど奥が深いものだなあと思えてきます。私たち保護者がピーに割く時間や負担をお金に換算したら、いったいどれだけの額になるんだろうといつも考えます。(←でも答えは出ない←バカだから)
うちのムスコが通う中学校もムスメが通う小学校も、「母親がフルタイムで仕事をしている」というのはピーの役員・委員・部員免除の理由にはなりません。なぜなら私自身もそうですが、今時は母親も仕事をしているというのはごく普通のことなので、そういう理由でピー免除にしてしまうとピーのなり手がいなくなるか、いても仕事をしていない限られた人達に限定されてしまうという現実があります。
仕事をしながらのピーの仕事はたしかに大変ですが、では仕事をしている人はピーの仕事を免除されて、仕事をしていない人だけにこの負担を被せてしまって良いのだろうか?という素朴な疑問が生まれます。仕事をしていない人も、例えば小さい子が病気がちでその対応で大変だったり、介護の必要な年寄りと同居していたりなどの事情を抱えている人は大勢います。仕事をしている・していないだけで、自由に使える時間の多少を単純に考えることは出来ないわけですね。しかも私たちくらいの年齢になると、具合の悪い子どもの看病や年寄りの介護をしながら自分自身も何かの薬を飲んでいるなんてことはごくごくあたりまえにあることで、だからこそピー仲間で様々に工夫したり助けあったりしながらピーの仕事をしているわけです。
ちょっと蛇足になりますが、「パートの人は仕事の時間のやりくりがしやすいんだから免除にはしなくていいと思うけど、フルタイムは休みを取るのが大変なんだから免除にしてよ。」というご意見も世の中にはあります。なるほど、たしかにパートの方のほうが時間の調整はしやすいかもしれませんね。
しかしパートの方は、「フルタイムの人は有給で休みを取れるでしょう。身分も保障されている。でも私たちパートには有給休暇なんて無いし、真っ先にクビになる存在なのよ。フルタイムかどうかは、ピー免除の理由になんてならないよ。」と言うんですね。
同じ「仕事をしている母親」というくくりでも、その人その人で実に様々な考え方や事情があるものだなあと思います。
一口にピーの仕事と言っても実に様々です。学校内部の仕事だけではなく、外部の仕事も多くあります。例えば学校行事に伴うあれこれや、学校のピーだけの事業は内部の仕事、私がよく話題にするコミュをはじめとする校区内の多くの外郭団体……例えば給食に関する団体、保健に関する団体、人権教育に関する団体などなど……との共同事業や会議などは外部の仕事です。ああ、市内の公立学校のピー会長が集まる団体もあるし、このあたりですと阪神間の団体、県の団体、近畿地区の団体、日本全体の団体などもあります。
色々な生活環境や考え方の違う人達が集まって無報酬で一つのことをしようというのですから、何度も何度も話し合いをして事業の意義の確認をしたり、意見のすり合わせを図ったりします。
「そんなに大変なのに、どうして報酬が無いの?仕事に差し支えることもあるんだから、報酬が出てあたりまえじゃないの?」
と素朴にお思いの方もいらっしゃるでしょう。
もし仮にピーに、例えば学校から報酬が出るようになったとします。その場合、子どものために何か学校と話し合いをしなければいけなくなった時に、そこから報酬が出ているとなったら、ピーは学校と十分な話し合いが出来るでしょうか?
これが学校でなく、他の団体や機関でも同じ事です。ピーはどこか特定の団体や機関から報酬を得るようになってはいけないんですよ。
ではどうしてそんな苦労をしてでも、みなさんピーの仕事をするんでしょう?自分の仕事の時間を削り、「この忙しいのに女はいいね、そんな理由で仕事を休めて」と嫌味を言う上司に頭を下げて時間を作り、体育祭のPTA競技の参加賞を何にするかだけで相談を重ね、外部から講師の先生をお呼びするとなれば失礼の無いように心を砕き、「この仕事は大変だよ」と先任者から言われても黙々とこなし、意見の合わない仲間から無神経な言葉を浴びせられても笑顔で返す、どこからも報酬など出ない、それどころか持ち出しさえある、こんな修行のようなことをどうして続けるんでしょう?
それはやはり、「自分の子どもがお世話になっている学校のお手伝いをしよう」という気持ちの現れに他ならないと思います。
誰だって自分の時間や仕事が大切だし、仕事でもないものを意見の合わない人と不愉快な思いをしてまでつき合ったり、その家の嫁でもないのに様々な外郭団体の年寄りに嫁のようにこき使われたりしたくはないんです。
それでも「子どもがお世話になっている」「地域のみなさんに見守っていただいている」と思うから、それはそれは色々な努力をして「だから私も何かお手伝いをしよう」とピーの仕事をするわけです。もしそれが嫌なら、そういう負担の無い学校に子どもを転校させればいい話ではないかな?と、私などは実に単純に思います。
そうは言っても、やはりピーの活動をするのは困難な方がいるのも事実です。家庭によって本当に色々な事情があって、その人がどんなにピーの手伝いをしたいと思っても家庭の事情がそれを許さないケースというのは、やはりあるんですね。 だからこそ、「自分は、こういうお手伝いなら出来る」と思う人が、いろいろな場面でいろいろな手伝いをするわけです。
選考会議で、くじに当たって嫌々ピーをする人もいれば、目立つのが嫌だから立候補はしないけれどもくじに当たったらそれなりに楽しく活動する人もいるし、選考会議がドロ沼になるのが嫌だからとさっさと引き受けてしまう人もいます。その人の元々の性格なのか、人間性なのかは判りませんが、一年間嫌々活動する人を除けば、最初は嫌々引き受けた人も、消極的に引き受けた人も、積極的に引き受けた人も、一年間活動をしていく中でそれなりに自分の働きの意義やピー活動の大切さを知り、その思いとともに次の方たちに引き継いでいくことになります。世の中にピーに対する様々な批判や不要論があるのは知っていますし、たしかにそういうこともあるのかもしれないなあとも思いますが、子どもが事件に巻き込まれてたくさんの人が悲しい思いをすることが耐えない現代、ピーというものは、何年も何十年もかけて保護者が経験・学習し引き継いできた、子どものためにも保護者自身のためにも大切な活動だと言えるのではないかな、と思います。
さてそんなわけで私ですが、19年度も中学校のピー本部をさせていただくことになりました。1年でも結構な負担なものを2年続けてなんてたしかに大変は大変なんですが、今年度はムスコも3年生になりますし、学校でのことを親にあまり言わなくなってくるお年頃なので、ピーにかこつけて学校に行きムスコやムスコの友達の様子を見ようという下心もあったりします。小学校でずっと続けてきたコミュや図書ボも続けます。ムスメがよく「ママはいっつもお兄ちゃんの時だけ(ピーの)役をする。」とふくれるので、思春期の入り口の前に立ったムスメのために、小学校にお邪魔する仕事を今辞めるわけにはちょっといきません。
18年度に一緒に本部をした仲間がとても良かった、ということもあります。もちろん全員が19年度も私と一緒に残ってくれるわけではないですが、何人かは二つ返事で残ってくれることになりました。嬉しい!!
というわけで、どうやら19年度も更新が途切れ途切れになる可能性大です。まあ、しょうがないです。子育てをしている今だけのことと思って、どうぞ大目に見てくださいね。そしてどうか、2年目の任期も全うできるよう、応援してくださいまし。よろしくお願いします。
な〜〜〜〜んちゃってね!!
びっくりした!?(笑)
28 本当に嬉しいらしいのよ 2006/04/01
「我が家の人々」でご紹介しているように、私の実家関係だけで考えると、うちのムスメは本当に久しぶりに生まれた女の子でして。どのくらい久しぶりだったかというと、まず私には年子で妹がおりまして、その4歳下に弟がおります。で、このあと叔母方の従兄弟2人、叔父方の従兄弟2人と男の子が続き、更に妹の第一子、私のムスコ、妹の第二子とやはり男の子が続きまして、そのあとでようやく私のムスメが生まれたわけでして。この間約32年。さらにこの頃はまだいませんでしたけれども、のちに叔母方の従兄弟2人にもそれぞれ子が1人ずつできましたが、どちらもやはり男の子。そんな環境なので、ムスメはまさに「紅一点」なわけです、今のところ。
で、そんな環境なもんですから実家に帰省すればそりゃもう「蝶だ、花だ♪」とじじばば達に喜ばれまして。どんなに気が強かろうが、どんなにやることが粗っぽかろうがそこはそれ、DNAレベルの「女の子」の威力はものすごいものがあるわけです。
さて実家の母なのですが、小さい頃から歌舞音曲に秀でた人でして、例えば幼い頃に乗った列車の先頭から最後尾まで「♪花は霧島〜♪」と手振りをしつつ歌いながら往復し、席に戻る頃には両手にたくさんの花(おひねりのこと)を握っていたとか、例えば当時世界的に有名だった音楽家が下北に仕事で行った時に、彼を歓迎するセレモニーを母が通っていた学校で行ったそうですが、そこで歌う母を見て「お嬢さんを私の養女にいただけませんか。あの才能をぜひとも伸ばしたいので」と父親に真剣に頼んだとか、ちょっと聞くと、「え?それって美空ひ○りの話?」なんてエピソードの持ち主なんですよ。その時父親は「そうおっしゃっていただけるのはありがたいが、あの子は大事な長女なので、あなたに養女に差し上げるわけにはいかんのです」と断ったため、その後母が声楽家になることはありませんでしたが、そんなわけで母は私たち親子が宝塚市に住んでいるということもあり、「ムスメを宝塚歌劇に入れろ!」とそりゃもう楽しそうにけしかけてくるわけです。
「入れろ」ったってあーた、あそこがそんじょそこらの才能や努力で入れないところだってのは、世間の皆さんもよくご存じでございましょう。歌劇に入る前にはまず音楽学校に入らなければならないのですが、たとえばこの春の宝塚音楽学校の受験に関して言えば1000人近くが受験して合格者が47人と、実に20倍を越える倍率だったわけでして、いったいどんな有名大学の受験の話かと耳を疑うほどの凄まじさですよ。中には何年も受験に失敗して、やっとこの春合格できた方もいらしたようで、それくらい大変な世界だったりするんです。
そういう世界に、ただ「紅一点で宝塚に住んでます」ってだけのムスメのような子が入れるなんてことは夢にも考えておりませんが、そこはそれ、久しぶりの女児誕生に喜ぶ母の気持ちも解らないわけではなく、何かそういう華のある経験をさせてやりたいなあという気持ちは、子を思う親として、また親を思う子として、あたりまえに持っていたわけです。
宝塚音楽学校の受験科目にはバレエがありますが、私たちの世代といえば、少女漫画でいえば「アラベスク」や「SWAN」といったバレエ漫画、小学館の雑誌でいえば「かあさんぼし」でしたか、母子ものとバレエの一緒になったような漫画がありましたし、テレビドラマでいえば「♪踊ろう赤い靴〜♪」でお馴染みの「赤い靴」など、心のどこかにいつも「バレエ」がそっとあるような世代なワケですよ。バレエかぁ、習わせてみたいけど、「日舞かバレエか」というくらいお金がかかるんだよなあ、特に発表会が絡むと諭吉が二桁単位で飛んでいくっていうしなあ、どうしよう……と迷っていましたら、なんとムスメの通う幼稚園でバレエ教室を開くというじゃありませんか!なんでもこの幼稚園の卒業生の知り合いに元タカラジェンヌがいて、幼稚園のカリキュラムとの兼ね合いがあるので町中のお教室のようにはできないけれども、その分良心的なお月謝で教えていただけるというんですよ。「体験してみたい」といううちにはぴったりな、なんともありがたいお教室じゃありませんか!ええ、ええ、もちろん参加させていただきました。余談ですが、私が幼稚園で時々習っていたジャズダンス、あれの講師の元ジェンヌさんが、このバレエ教室の先生だったんですよ。
このバレエ教室が始まったのが、ムスメが年長の時です。幼稚園のお遊戯会で、バレエ教室の子どもたちのための時間も取っていただけ、ムスメ達はライトを浴びて気持ちよく踊るという、とても素敵な経験をさせていただきました。その様子を聞く母の声も嬉しそうで、ああ、良かったな、いい親孝行が出来たかな、とありがたく思っておりました。が、年長なので、はじめてたった一年で卒園になり、ああ残念だなあ、バレエの楽しさを教えてくださった先生とお別れしなきゃいけないのか……と思っていましたらなんと!小学校2年生くらいまでなら引き続き教えていただけるというじゃないですか。先生のおっしゃるには、ずっとバレエを続けたいなら本当は早い時期に町中のお教室に通うのがいいらしいです。どんな習い事でもそうですが、余所で付いた独特のクセを嫌う先生はわりと多いので。ただ、幼稚園の体験教室の延長ではじめたバレエでまだ一年しか経っておらず、特にムスメ達は第一期生ということもあるので、希望があればひきつづき面倒を見ますよ、そのかわりいつどこのお教室に入っても困らないようにバレエ用語だけはしっかり教えます、ということでした。
このお話に飛びつかないわけがあるでしょうか!(いや無い!!)
というわけで、小学生になってからもムスメは週に1度、幼稚園に通い続けました。小学二年生になってからは学校の授業時間の兼ね合で、比較的幼稚園に近い我が家から通うのも時間的に難しくなったりしましたが、先生のほうでもレッスンの開始時間を遅らせるなどして対応してくださいました。年に一度、幼稚園のお遊戯会で小学生クラスの時間も取ってくださいました。なんていい環境で、いい経験をさせていただいたものでしょうか。
そんなムスメ達も、この年度末に幼稚園のバレエ教室を卒業しました。小学校も中学年となると、さすがに幼稚園児の保護者からの風あたりもきつくなってくることもありますが、学年が進むと6時間授業の日が増えて、幼稚園のレッスン時間にはどうしても間に合わなくなってしまう、という事情のほうが深く絡みます。また、バレエの先生のおっしゃる、「バレエをちゃんと続けたいなら、本当なら早めに町中のお教室に入るのがいい」ということもあるでしょう。希望者には先生が知っているお教室を紹介してくださるということでしたが、そのお教室は電車を乗り継いで30分ほどもかかるところにあり、車を運転しない私にとっては、送り迎えをしながらそこに娘を通わせるのは無理なのでした。
ここは宝塚なので、町中にバレエ教室はたくさんあります。でもひとくちにバレエ教室といっても中身は様々で、クラシックバレエがメインのところ、ジャズダンスやコンテンポラリーに重点を置いているところ、モダンバレエが得意なところなど、本当に多岐に渡ります。また、先生との相性の問題や、保護者会などの煩雑さ加減も考えないといけません。またなんといっても入会金やお月謝の額、発表会にかかる費用など、こんなことをあれこれ考えているともう面倒くさくなってしまって、ムスメにはバレエをやめるように言おうかどうしようか、本当に迷っていました。見学に行けばいいんですが、見学可能な日時に私の仕事のスケジュールを合わせるのがまた面倒で、もうすっかり気持ちはやめさせる方向に傾いていたある日。
ムスコが通うそろばん塾にやはり息子さんを通わせている保護者の方に、「うちの娘も通っているんですが、宝塚の女さんとこのお嬢ちゃんもよかったらいかがですか?」と、あるお教室に誘っていただきました。聞けば場所はうちから歩いて行けるところにあり、先生も気さくな方で、しかも料金がとても良心的だというのです。そして何より私の心を動かしたのは、その先生も元タカラジェンヌだということでした。
なんか……なんかそういう環境って……大事でしょ!!
というわけでムスメと一緒に見学に行き、体験レッスンを受けさせました。行きの道では緊張して「やっぱりイヤだな、やめようかな」と言っていたムスメも、新しい先生が言うバレエ用語もよく解り、さらに偶然だとは思いますがレッスンに使っている曲が幼稚園で使っていた曲とほとんど同じこともあり、ほどなく慣れてすっかりその気になり、もうこのお教室に通うのだと決めてしまいました(笑)新しい先生会いたさに週2コースを選びましたので、送り迎えをする親の負担も増えますが、ムスメの有り余るエネルギーを発散させられるいいお教室を見つけられたわけなので、何とか頑張ってみようと思います。
このお教室を教えてくださった保護者の方は、実は私が小学校のピー本部役員をしていた時に、学級委員さんだった方でした。私の担当の部ではなかったので、直接一緒に何かのイベントしたりということは無かったのですが、息子同士が同じそろばん塾に通っているという縁もあり、ピーの任期が終わっても変わらずお付き合いしてくださる方なんですよ。人の縁というのはどこでどうなっているか判らないものですが、このお教室を教えていただいて、本当に感謝しています。
で、この話を一番喜んだのはやはり実家の母でして、前にも増して「宝塚に入れろ攻撃」が激しくなりました(笑)歌舞音曲に秀でた自分の血を引く孫娘が華やかなステージに経つ姿を見たいという、孫婆様としてとてもありふれた望みですね。実はムスメ達はこのお教室のチャイルドコースに所属するわけですが、メインのコースは未来のタカラジェンヌを夢見る乙女達が受験のために通っています。てなことを話したらまたもや母の鼻息が荒くなり、いつしかその鼻息が私にも移ってしまいまして……。
今からムスメにはそのための勉強をさせようかと思うようになりました。受験には他に声楽や面接があるのですが、これがバレエ以上にムスメにとって大変だろうと思われます。なんたって内弁慶で人見知りが激しく、家ではうるさいほどにおしゃべりするのに余所の人に挨拶をする時にはマイクで声を拾わないと聞こえないほどに声が小さくなってしまうんですね。さあ、大変ですよ。まず発声練習からです。市内でボイストレーニングをしているところを探さないといけません。面接の練習も日々積まないとならないでしょう。人前で話すのに慣れさせるために、クラス委員をするように言いましょう。小学校の児童会に立候補もさせましょう。そして約10年後には、タカラジェンヌのタマゴに……。
なーーーんちゃってね!!
まあほら、夢だし、今日だから♪
27 祖母の三回忌に思う 2005/10/08
一昨年の秋、93歳で亡くなった母方の祖母の三回忌の法要が、今日あります。本当は私も法事に出席したいと思いつつ、ここと実家の距離を考えるとさすがにそうそうわがままも言えず、仏様へのお供えを送ってここで静かに故人を偲ぼうと思います。
私の両親はそれぞれきょうだいの一番年上で、私も3人きょうだいの一番年上、さらにはいとこ達の中でも一番年上という関係で、私は小さい頃から周りの年寄り達の中で育ったようなところがありました。昔のことをよく憶えている母に似たのか、私は他のきょうだいに比べて幼い頃の記憶がわりと鮮明に残っており、時々ふと比較的若い頃の祖父母の姿を思い出すことがあります。
姑の世話のために外出する時間など全く無かった母に代わり、幼い私を歯医者に連れて行ってくれた祖母。寝入りばなにぐずっていると、なだめるどころか地獄から聞こえてくるかと思う程の声で、「泣いているのは誰だ!」と言っていた祖母。私や妹のほっぺや腕を指先でつつきながら、「どこから食べようかなあ♪」とにこにこしていた祖母。
両親から学んだことはもちろんたくさんありますが、祖父母から学んだこともまたたくさんあって、今現在の私の腹の奥底の、力の源になっていると思うことがあります。
祖母はずっと、祖父と一緒に教職に就いていました。当時でも仕事を持っている女性はそれなりにいたと思いますが、揃って教職にあった夫婦がどれくらいいたかはちょっと判りません。定年前に教職を退いてからは遠州流の茶道と池坊の華道を学び、免状を取得して教室を開いていました。
昭和の終わりから平成にかけての2ヶ月程、私は結婚前ということで実家におり、実家近くの祖父母宅で祖母にお茶とお花を習いました。中学から高校にかけて習っておけば良かったと今なら思いますが、中学の頃は部活に明け暮れ、高校では椎間板ヘルニアに苦しみアニメ以外にはなんの興味も湧かない日々を送っていましたので、当時は新しいお稽古ごとを始めるなどということは考えもつかなかったんですね。結婚前もヘルニアで辛いことは辛かったのですが、さすがにちょっと特別な思いもあって、たった2ヶ月で何がどう身に付くわけでもないのですが、何となく祖母と一緒にいたくてお茶とお花を習うことにしたわけです。
お茶やお花というとなんとなく堅苦しいイメージを持つ方もいらっしゃるかと思いますが、祖母に教わっていたせいか、とても楽しく和やかでした。特にお茶の方は独特の様式美といいますか、お作法や所作の一つ一つに意味や理由があって、それを教わるのがとても面白かった憶えがあります。
例えば袱紗(ふくさ)を帯に掛けるとき、どうして遠州は他の流派と違って帯の右側に掛けるのかとか、遠州流には「きれいさび」という独特の概念があるんだとか、畳のへりを踏まないで歩くこととか、お茶碗やお道具を拝見するときのマナーとか。
そういったことの中でも特に強く心に残っているのが、お茶を点てるときはお茶碗を温めるのとほこりなどを洗い流すなどの意味があるんだと思いますが、お茶碗に一度お湯を注いで茶筅通しをし、そのお湯を建水(けんすい)にあけたあと、小さな木綿の布でお茶碗の中の水滴をぬぐいます。
その時布を持った手はお茶碗の中にすっぽり入っているわけで、このあとそのお茶碗のお茶を口にするお客様に失礼なんじゃないか、なんだか汚いんじゃないか、と思うかもしれないけれどもそうではない。この布も、布を持つ手も、「清潔なもの」という大前提でこのお作法はある。だからお客様はこのお茶を汚いとか気持ち悪いとか思わずにいただく。だからお茶を点てる人は誰に言われるのでなくても、お道具も自分の手もあたりまえに清潔にしておくのだ。亭主はお客様に美味しいお茶を楽しんでいただくことを思いながら心を込めてお茶を点て、お客は亭主が自分のために心を込めてお茶を点ててくれた、その心を思ってお茶をいただく。お互いがお互いを思いやって、そこにお茶があるんだよ……。
このことがとても鮮烈に心に残っているんですね。お点前はほとんど忘れてしまった今でも。
この祖母はまた、「不言実行」を絵に描いたような人でした。「有言実行」はそれなりに評価してはいましたが、口ばかりで気持ちや行動が伴わないような人や、やってみもしないうちから文句を言ったりネガティブな意見や質問を口にする人を精神的に幼稚な人だと軽蔑し、孫の私たちに、他人はどうでもお前達はそういう人間には決してなるなと教えていました。
……ああ、そうか……だから私は文句ばかり言うコミュの年寄りを軽蔑するんだなあ……。同じコミュの中の人でも、年齢に関係なく人の話を聞いたり相手とコミュニケーションをとる努力をしたりポジティブなものの見方をする人はやっぱり信頼できるし、いろんなことを相談させていただいたり、お手伝いをさせていただいたりするもんなあ。
「文句を言う前に、まずやってみなさい。」
私は普段はとても楽観的で小さいことにあまりこだわらない性格なんですが、時々その反動のようにネガティブな気分になり、取るに足らない些細なことが妙に気になったり、ついつい否定的な言葉が口を突いて出そうになることがあります。一人の時はそういう気分になっても他人様に迷惑をかけることはまず無いからいいですが、誰か他の人がいる時には場の雰囲気も悪くなりがちだしあまりよろしくない。
だからそういう時には自戒のために、心の中でお題目のように祖母の言葉を唱え、マイナス方向に向かう気持ちをプラス方向に切り替えるようにしています。毎回毎回上手く切り替えられるわけではないですが、それでも唱えないよりはよっぽどいい。今まで仕事のことでもPTAやコミュ関係のことでも、これで気持ちのピンチを切り抜けたことはたくさんあり、特に祖母が亡くなった後はそう思って切り抜けるたびに、まるで祖母が隣にいて応援してくれているような、ちょっと特別な安心感を感じます。
細くて、病気がちで、ちょっと強い風が吹くと吹き飛ばされそうになって、食べられるものも限られていたのに、いつも背筋を伸ばし、自分のことは自分でし、夫やきょうだい達みんなを見送った後、いつその日が来てもいいように身仕舞いをきちんとして、凛としていた祖母。明治生まれの女性が持つ迫力には到底かなうわけもありませんし、同じように生きられるわけでもありませんが、心のどこかにいつも祖父母の姿を置きながら、少しでもその姿をトレスできるようになりたいと、そういう思いが年を重ねるごとに強くなってきています。
祖母はムスメが幼稚園の年長組の時に亡くなったので、ムスメが祖母のことを憶えているかどうか判らないな、ひいおばあちゃんがいたことは憶えていても、ひいおばあちゃんとのことは忘れてしまっているかもしれない、三十数年ぶりで生まれた女の子ということで本当にムスメを可愛がってくれたけど、もしムスメが忘れても小さかったんだから仕方が無いな……そう思っていましたが、ほんの数ヶ月前にひょんなことから祖母の話になったとき、ムスメが言いました。
「あのねえ、みかんばあちゃん(祖母はひ孫達にこう呼ばれていました)ねえ、アタシのほっぺや腕や足につんつんってしてねえ、“美味しそうだなあ、どこから食べようかなあ♪”って言ったんだよ♪」
私達孫が、小さい頃に祖母に言われていたのと同じことです。こう言われたことは私はムスメに話したことが無いので、これは本当に祖母がムスメに言って、ムスメがそれを憶えていたんだと思います。
ムスメや、おばあちゃんがお前にそう言ったこと、忘れちゃダメだよ。ずーっとずっと、憶えておくんだよ。
26 早くしなくちゃ!! 2005/4/1
いやみなさん、ホントにご無沙汰してました。「今日の覚え書き」のアップが出来無いどころか、パソコンの電源を入れる暇すらない生活を、この半月ほどは送っていました。何がどうって仕事のスケジュールがいつになく大変だったからというのももちろんありますが、じゃあどうしてそんなに大変なスケジュールになったかというと、それはもちろんこれまでならもうとっくに作画に入ってた劇場用作品のスケジュールが、今年はこの時期になってもなかなか動き出さなかったというスタジオ側の事情もありますが、私自身の事情に寄るところも多分にあったわけで。
風邪引いちゃいまして(汗)
なんで風邪を引いたかというと、これがまたホントに聞くも涙語るも涙でしてね。
ムスメと一緒にお風呂に入ってまして(汗)まず自分の頭を洗って身体を洗って、ムスメが洗っている間ゆっくり湯舟に浸かって体を温めていたわけなんですが。
もよおしてきちゃったんです(泣)
それも大(号泣)
いや、お風呂に入る前にちゃんと行きましたよ、トイレ。子どもたちに入浴前のトイレを促しつつ自分も入って、それはそれはたっぷりぷりぷり出しました。ええ、「痩せたなあ♪」と思うほど(←そんなに出たのか……)。
なのにもよおしてきちゃったんです。それも風呂の最中に、猛烈にゆるそうなのが(泣)
もともと私は小さいときからお腹がゆるい方でして。それも通学路とか遠足のバスとか「トイレの無い環境」を一瞬想像しただけで、それまではなんともなかったお腹が急に気持ち悪くなったり痛くなったりして猛烈にトイレに行きたくなってしまったり、トイレに入ったら入ったで
「今トイレから出た途端、またしたくなっちゃったらどうしよう(汗)」
という恐怖感からトイレから出られなくなってしまうという子どもでございました。
朝、一緒に登校していた友達が迎えに来た途端トイレに行きたくなり、友達や妹をずいぶん待たせたあげく結局ほんの「ちび」とも出ないままおそるおそるトイレから出て、またトイレに行きたくなる前に急いで学校に行くという毎日でした。
こういうの、ここ何年かでなんとかという病名がつきましたよね。何でしたっけ?
まあ、当時はそういうことは何も考えないまま、
「私はどうしてこんなにトイレが心配なんだろう?」
という漠然とした不安を抱いて日々過ごしておりましたが。
で、お風呂中にトイレに行きたくなったわけですが、うちのお風呂の隣にはトイレがありまして。バスタオルを巻いてそのトイレにさっと入れば良かったんでしょうが、実はそのトイレは主に姑が使っているトイレでしてね(汗)姑のヒートショック予防のために冬の間は暖房を入れて、ほんわか暖めているトイレだったりするわけです。
尿意なり便意なりを感じた姑がいつものようにトイレの扉を開けたとき、そこに素っ裸にバスタオルを1枚巻いただけの嫁が、身体中から湯気をもうもうと立ち上らせて便座に座っていたら……(汗)
避けたい!
そんな事態はなんとか避けたい!(汗)
というわけで、バスタオルを巻いたまま階段をかけあがり、2階にあるもう1つのトイレに大急ぎで入りましたですよ。
いや出る出る出る(笑)笑っちゃうほど出ましたよ、奥さん。さっきあれほど出たのに、まだこんなに腹の中に残っていたとは。いや〜、間にあって良かったです。さっきはホントに冷や汗が出ましたから、お風呂に入ってるというのに。
そんなこんなでお腹はすっきりしましたが、身体は冷えました(泣)再びお風呂に戻って湯舟に浸かりましたが、一度変な冷え方をしちゃったせいか、湯舟に浸かってもなかなか体が温まらないんです。
そんなことが1週間のうち2回もあったせいか(←2回もか?)、鼻汁が出だし喉になんとなくいがらっぽさを感じたその日、髪をカットしに行ったんですわ。だってあと数日でムスコの卒業式なんですから、髪を染めてトリートメントしてカッコ良く決めておきたいじゃないですか。
で、カットしてもらってる最中、それは起きましたですよ。カットしてもらった前髪が2本、上唇の上にはらりと落ちてきたんです。口に入らないようにふっと小さく吹いて髪を飛ばそうとしたその時、まあいったいどういう運命のいたずらでしょうか。私の髪をカットしてくれている美容師さんが話しかけてきましてね。それに笑って返事をしようと息を吸い込んだ拍子に、上唇に引っかかってた髪の毛を吸い込んでしまいまして(汗)
「あ」と思って1本はすぐに指で取り出しましたが、あと1本がなかなか取れないんです(汗)舌の付け根の微妙なところに引っかかっていて、いくら喉に力を入れても前に出てきてくれないんですね。
ずっとそうやっていたところで出てこないものは出てこないし、ずっと力を入れていると舌の付け根や喉が痛くなってくるし、かといって中年オヤジみたいに人目も憚らず
「カーーッ!カーーーッ!!ペッ!!!」
なんてはしたないことはしたくないし、仕方がないので飲み込んでしまうことにしましたよ。
ところがもともと変なあんばいに引っかかっていたせいか上手く飲み込むことが出来ず、喉に刺さったような感じになってしまいまして(泣)唾をごくっと飲むと、喉の奥がちくっとするんです。まるで魚の骨のようです(爆)たしかに私は小さい頃から髪が硬かったですが、喉に刺さるほど硬いとは。しかも美容院で髪を柔らかくするトリートメントをしたその直後だというのに。
2度のお風呂中のトイレと喉に刺さった髪の毛のせいで、すっかり風邪を引いてしまいましてね。田名部祭で3日間歌ってもびくともしない喉なのに、今回はまあ、まるで森○一のようにかすれた声になってしまいました。卒業式もその後の謝恩会も年度末のあれこれも辛い状態で行うことになりましたし、そのせいもあって仕事のスケジュールもさらに狂うという、悲惨なことになってしまったわけです。
これも元はといえば、お風呂の最中に寒いトイレに入って身体を冷やすということが、短期間に2度も続いたせいですよ、きっと。ええ、そうに違いありません。
とはいえ昔から「出物腫れ物所嫌わず」と言うし、便意なんていつもよおしてくるか予想もつかないし、私は昔から尿は何時間か我慢は出来ても便の方は便意を感じた瞬間に腹痛を伴って「今出る!すぐ出る!もう出る!!」な方だし、それがたまたまお風呂の最中だったというだけのことなんですよ。つまり、これからだってお風呂の最中に急にもよおしてくることが絶対無いとは言い切れないわけです。
その度に今回みたいに風邪を引いていたのではいかん!これは真剣に対策を考えねば……。
とそこでふと、私の視界に入ったもの。
ペットボトル。
……ペットボトルの口の部分って……なんか大きさが……なんとなく……。
その瞬間、中学生の頃に聴いていたラジオ番組のパーソナリティーの言葉が、泉が湧き出るように蘇ってきました。
「ねえ、バ○バン。」
「何?チン○イ。」
「お尻からウ○コが出る瞬間を見たことある?」
「無いよ(笑)(君は見たこと)あるの?」
「うん、ある(笑)こないだトイレの時に鏡で見てみた。そしたら判ったことがあった。」
「うん?(笑)」
「肛門ってみんな、穴だと思ってるでしょ?それ、違う(笑)肛門ってね。」
「うん(笑)」
「穴じゃなくてシワなんだよ。」
「ええっ!?ほんま!?!?(笑)」
「うん、ウンコが出る瞬間、穴が開いて出てくるんじゃなくて、シワが伸びて出てくるの(笑)」
テスト勉強をしながら目に涙をにじませて大爆笑した30年近くも前のこの話と、目の前のペットボトル。
このペットボトルの口を上手に「シワ」にあてがうことが出来れば、寒い冬の日、お風呂の最中に急にトイレに行きたくなっても、温かいお風呂から出ることなく用を足せるのではないかしら……?
そうだ!そうだよ!そうすればいいんだよ!
お風呂にペットボトルを常備しておけばいいんだ!
待てよ。それが上手くいくんなら、何もお風呂だけじゃなくて家中の部屋にペットボトルを置いておけばいいんじゃないか。そうすればテレビだってちょうどいいところなのにトイレで中断することもなくなって、落ち着いて見られるようになるじゃないか(喜)
車の渋滞で、男の子なんかが尿意を我慢できなくてペットボトルに用を足して「緑茶〜♪」なんてことがあるという話だし、それならたとえばちょっとゆるめの時なんかペットボトルにしたあとに「ミルクティ〜♪」なんてことがあってもいいじゃないか(喜)
ややっ!待てよ!!
ということは、もしかしてこの方法が一般的になれば、家の中にトイレは要らなくなる、ということじゃないか?いや、家の中だけじゃないぞ、街中から、いや、世界中からトイレが無くなる日が来る、ということなんじゃないかしら?
アフリカ体験記のような本でトイレに苦労した話がよく出てくるけれど、ペットボトルトイレが普及すればそういう苦労も無くなるわけだよね?そしたら私みたいに動物や自然は好きだけどトイレの問題があるからおいそれと海外旅行に行けなかった人達が、少なくともトイレの問題だけは安心して海外に行くことが出来るようになるということですよ。災害時に、避難所のトイレが水が出なくて使えずに困るということも無くなるわけですよ。支援物資の水を飲んだら、そのペットボトルを使えばいいんですから。
これはもしかしたら、大変な発明かもしれませんよ。今時は主婦の発明が大きな収益を上げたりするそうですが、ペットボトルのサイズやデザイン、中に入れる消臭剤の開発などをしっかりやれば、億万長者も夢じゃないかもしれません。なんてったってあーた、この世からトイレを無くしてしまうことになるかもしれない発明ですよ。トイレだったところをリフォームしてお父さんが欲しがっていた書斎を作ることだってできるんです。
ああ、大変だ大変だ。他の人がこれに気がつく前に、早く特許を取らなくちゃ!こうしちゃいられない!!
それじゃみなさん、私はこれから特許を取る準備に入りますので、これからまたしばらく更新が滞ることになると思います。
どうか悪しからず、よろしくお願いいたします。
では!
な〜〜〜〜〜〜んちゃって!!
でもなんとなく便利そうじゃない?(笑)
25 いろいろ考えるところあって 2004/4/1
さて、みなさんもすでにご存知のとおり、私は遠く青森県の出身です。実家のあるところは「市」とはいえ、まだまだ昔の「ムラ社会」が根強く残っているところです。なんたってあーた、私が道を歩いていると、向こうから来た全然知らないおばあさんが
「おめ(訳:あなた)、○○ちゃんの娘だべ。お母さん、元気でらが?」
と声をかけてきたりします。それも一度や二度じゃありません。時には知らないおじさんから
「お父さんさ飲みさ来いってへってけろ(訳:お父さんに飲みにおいでと伝えてくれ)」
だの、知らないおじいさんから
「おじいさん、どしてらば?(訳:おじいさん、どうしてる?)」
だの言われたこともありました。思春期の頃など、男子とちょっと一緒に帰っただけで、翌日には近所はおろか父の仕事先まで噂が広まり、親から大目玉を喰らったこともありました。
こういう土地で生きていくのはなかなか大変です。プライバシーなんて、そんな横文字の概念などありません。下手をしたら、タンスの中の下着の色まで近所には知られているのではないかと思えるほどです。自分の立ち居振る舞い一つで家族や親戚に迷惑を及ぼすことも無きにしもあらず、特に女性の場合は成長して他家に嫁ぐと、今度は実家と婚家の両方に気を使わなくてはいけなくなり、「口は災いの元」ということにならないように、言いたいことも言えず、本当なら言うべきこと・言わなくてはいけないことも言えず、時には誤解されても言い訳や弁解などせず、じっと貝のように口をつぐんで、表面だけは穏やかに、風を柳と生きていくことを余儀無くされるのです。そう、この私のように(←そうか?)
もちろんそれは悪い側面しか無いわけではなくて、そういう環境にあればこそ、自分の行動や発言をしっかりと考え、軽挙を慎み、身を律するよすがとすることもできます。そう、この私のように(←ホントにそうか?)
高校を卒業して上京してからは、誰も私を知っている人などいませんから、寂しさや不安を覚えると共に実にさばさばした気持ちになったことも事実です。上京の際には両親がアパートの管理人さんや同じアパートの年輩の御夫人などに、娘のことをくれぐれもよろしくと挨拶して行ったので、何かあればそっちのルートからすぐに両親に連絡がいく手はずになってはいました。実際、お隣の御夫人から最初に両親に届いた暑中見舞いには、「毎朝お嬢さんの部屋からは、お味噌汁のいい香りが漂ってきます。箒の音も聞こえてきます。」という部分があり、それを読んだ両親は娘が知らない土地でしっかり生活している様子を知り、安心したということがあったようです。ええ、あとから聞かされたことですが。
そうは言ってもここは東京。少なくとも向こうから歩いてくる人は、私が「どこの家の誰の娘」だなんて知るはずがありません。それまで自分の一挙手一投足や発言がどういう結果を招くのかが常に頭のどこかにあった私にとって、これはもう本当に、「解放」と言っていいものでありました。
もちろんそういう土地で暮らす苦労は、また別に発生します。実家では「言ってはいけない」だったのが、今度は「言わないといけない」になるわけです。そりゃーそうです。私を含めおおかたの人間は、テレパシーなんざ使えません。「自分はこうしたい、こうして欲しい。」ということがあれば口に出さないと相手には伝わりませんし、何ごとも始まりません。もしも誰かに誤解されたら、「それは違う、私が言いたかったのはこういうことだ。」ということを心と言葉を尽くして説明しないと、どんな評判になるか分かったもんじゃありません。欧米ほどではないにしても「はっきり言う」ことの大切さを、そして「何も言わなくても私はあなたの気持ちは解るよ。」という考え方は美徳だけれど、「何も言わなくてもあなたは私のことを解ってくれるよね。」という考え方は傲慢であることを、私は数年間の東京生活で学びました。
ここ宝塚市に引っ越してからはというと、ダンナの実家や親戚があるとはいえ、私の実家方面ほどの深い用心など要るはずもなく、むしろ東京時代の延長のようにのびのびとしておりました。こうしてWEBサイトなど開設して、ああでもないこうでもないと好きなことを書いてこれたのも、そうした環境の現れであるともいえましょう。
しかし子どもが成長し、親同士の付き合いも深くなってくると、思わぬところに人のつながりがあるのが判ってきます。例えば子どもの同級生の保護者の小学校時代のクラスメートがダンナの親戚だったとか、子どもの同級生の保護者夫婦がダンナの小学校時代のクラスメートだったとか、そういったことなどがもう、ボロボロと出てくるようになりました。
こういうことが重なって、今までのように明け透けにWEBサイトにネタをアップするのが、少々気になってきました。明け透けと言ってももちろん相手の実名など出したことはありませんし、ほとんどが遠くからのお客さまであるうちなどはたとえ出したところでいったい如何程の実害があろうか?とも思います。思うだけでそこはやはりいろいろな人が見るネットですから、当方は用心して実名や住まい・いつの出来事かなどがはっきりと判るような書き方は、今までしたことはありません。実際、当サイトのお客さまは、遠くからのお客さまも保護者つながりのお近くからのお客さまも、みなさんインターネットのマナーを守り、良心的に当サイトにご参加くださっていた方たちばかりでした。本当に感謝しております。
ところがここにきて、わざわざ当サイトの文章をプリントアウトし、ネットの環境の無い方にまで私が書いたものを見せるという行為に及ぶ方が出てきました。私はインターネットにはまだまだ初心者ですけれども、今までの少ない経験からも「ネット上のことはネット上で(明らかな犯罪行為は除く)」という大原則があるらしいことを漠然とながら感じ、そのように行動して参りました。さらには特定のネット上で見聞きしたことを話す時でさえ、少なくとも日頃のネット仲間との集い、つまりオフ会ですね。そういう場でなければ基本的に口にしないということを守り、厳に自分自身の身を律して参りました。そうでなければただの噂好きの、スピーカーおばさんになってしまいますからね。
しかしその方、プリントアウトですよ、プリントアウト。いいことに使うならまだしも、およそいいこととは言えない目的で他人が書いた文章をプリントアウトして世間の目に晒すという、
「いったいあなた様は何様のおつもりですか?」
「あなたのした行為は著作権違反だと解っていますか?」
と聞きたくなるようなことを平気でする方が当サイトをロムっている。なんという衝撃でしょうか。実際の生活で、いろいろな理由で上手く言えないことなどを考え考え書いては日々のストレスを解消し、お客さま達と思いを共有しているというのに、ネット上のことまで自分以外の人の独り善がりの倫理観や正義感で、手枷足枷口枷をはめられなければいけないのでしょうか。そもそもネット上に置かれたものを、文章であれ画像であれ勝手にプリントアウトするなどといった行為は、あくまで個人的に学習するなり楽しむなりするためのものに限って許される行為であって、プリントアウトした人がそれで不当な利益を得るようなことがあってはならないのはもちろん、もしもプリントアウトしたものが世間に出回ったせいで私や私の家族に何か損害が出るようなことがあれば、そして私の書いた文章の中に出てくる大切な人たちに同じように損害が出ることがあったら、プリントアウトした人や無責任に口に出した人たちは、いったいどのように責任をとってくれるというのでしょうか?
人目を気にして思うことを書けなくなってしまうのは、個人的にも社会的にも非常に不健康なことだと思いますし、読んでいただくのがメインのうちのようなタイプのサイトを運営する意味が無くなってしまいます。だからといって、サイトを閉鎖してしまうことなど考えられません。だいたい人間は自分一人で生きているわけでは無いんですから、周囲の人間とのつながりの中で見聞きした話や体験したことなどを書くことは、ごくごくあたりまえにあることだと思います。
「私はずっとこういうことが疑問だったんだけれども、知人がこういうことを言った、それでなるほどと納得出来た。」
という場合には、その知人の考え方や発言内容を紹介することになりますし、
「こういう団体のこうしたイベントに家族で参加してきた。参加者がたくさんいて賑やかで楽しかった。」
という場合には、その団体がどういう性質のものかといった紹介や一緒に参加した友人家族に触れることもあるでしょう。
「自分はこういうつもりでこれをしていたが、周りの人たちには上手く伝わっていないようだった。残念。」
といった場合には、周りにどう伝わっていたのかを書かなければ話にもなりませんし、自分にとってどういう位置にいる人にどう伝わっていたのかを書かなければ、本当に伝わっていなかったのか、ただの考え過ぎではないのかといったことの客観的な判断も出来ません。
こんなことはもう、町中で噂話しをするほどによくあることだと思います。私自身は噂話しは、興味が無いのでほとんどしませんが。
私などが書く文章はたしかに駄文ですけれども、そんな駄文を楽しみにしてくださる方がいらっしゃるというのは、私にとって無上の喜びでした。実際、そういうロム専門の近場のお客さまから、
「もう少しで私達のことを書いてもらえるね。私達のことはどんなふうに書いてくれるんだろうと、楽しみにしてるんだ♪」
と、サイト管理者冥利に尽きる言葉をいただいたことも何度かあります。ですがこのままではその方たちの登場はおろか、サイトの継続すら怪しくなってしまいました。プリントアウトした本人には当サイトを閉鎖させるほどのつもりは無かったろうと私はまだいい人ぶって考えていますが、したことはそれと同じであること、そして私を非難するだけのつもりが当サイトを楽しみにしてくださっていたたくさんの方たちの気持ちをも踏みにじる行為であることを考えていただき、今後は他のWEBサイトにこのような暴挙で臨むことの無いよう、何か言いたいことがあるならメールで本人に質問なりなんなりしていただくよう、その人に願ってやみません。
そうは言っても、私も社会の中で生きている身。WEBサイトを大事にするあまり、実際の社会生活に支障をきたすことがあれば本末転倒というものでしょう。そこで考えました。
「T's House」を会員制にして、希望者にパスワードを配布すればどうだろうかと。
ダンナとも相談して検索に引っ掛かりにくくし、パスワードを設け、氏素性のはっきりした、良識と節度とマナーを持ってインターネットを利用する方にだけパスワードを配布する。
そうすれば日常で起きるどんな出来事も、今までのように書くことができるはずです。
そうだ、そうしよう!
そういったわけで、当サイトにいらっしゃるみなさん。4月2日午前0時をもちまして、当サイトは会員制のサイトとし、入場制限を行います。パスワードを希望する方は郵便番号、住所、本名、ハンドルネーム、電話番号、年齢、お使いのプロバイダ、ブラウザとそのバージョン、パソコンの環境(モニタの解像度など)を明記の上、メールを送ってください。顔写真を添付してくださってもかまいません。ご本人かどうかを確認の上、こちらからパスワードお知らせのメールをお返しします。なお、このパスワードを家族も含め万が一他人に漏らした場合は、パスワードの変更をすると共に、その方のこれ以降の当サイトへの参加は固くお断りいたしますので、ご了承願います。
では、皆様からのメールを心からお待ちしております。
な〜〜〜〜〜〜んちゃって!!
びっくりした?(笑)
24 私、「先生」になります!! 2003/4/1
去年の田名部祭での話。
昼の部ももうすぐ終りという、祭3日目の横迎町での小休止の時に、猩猩山の綱を一緒に引っ張っていた男性に、ふいに声をかけられました。
「宝塚さん、ホームページ見たよー。いやー、“おしまこ”の数、すごいなあ。あれだけの数、いったいどうやって集めたの?」
皆さん、私が鼻穴ふがふがさせながら、集めた経緯を説明したとお思いください。
実はこの男性、私の中学時代の先輩です。それまで直接話したことはありませんでしたが、実家が近くて、先輩もお父様と同じ教職の道を選んだこと、今は市内の小学校で泣く子も黙る教務主任をしているというのを、人づてに聞いておりました。
「ほら、宝塚さんも知ってると思うけど、昨年度から“総合学習”の時間が設けられたでしょ」
「ああ、そうですねー。うちの上の子も、総合学習ではいろいろなことを経験したり、学んだりしましたよ」
「その総合学習でさ、“自分達の地域の文化を見つめよう”という主旨の学習をしたい、という流れがあってさ」
「それは大事なことですよねー。うぢの小学校でも、“昔の遊び体験”のような時間をとって、地域のお年寄りとの交流をはかりながら、伝承文化を知る、という時間を持ってますよ」
「うん、やっぱりさ、自分達が住んでる地域の文化を知る、というのは、それを培ってきた地域社会のあり方とか、産業とか、気候・風土とか、そういったことも含めて学ぶことにつながると思うのさー」
「そのとおりですねー」
「下北にはさ、ほら、宝塚さんも知ってると思うけど、能舞とか神楽とか、素晴らしい伝承文化が、いっぱいあるでしょ。それでさ、“むつ市は何があるかなー”と考えたらさ、やっぱりこの祭だのさ」
「本当ですねー」
「でもさ、一口に“祭で総合学習”と言っても、祭の歴史とか、幕の図案の意味とかを、先生が説明して生徒がただ頭に知識として詰め込むだけだば、それはあんまり意味が無いのさ。かといって、年がら年中、勉強の度に山車を出してもらうわけにもいがないし」
「難しいんですねー」
「それでさ、“おしまこならどうだろう!?”と思ったのさ」
「おしまこですか!?」
「うん、あれならさ、踊る人が交互に歌いあうっきゃ。つまり、踊る人が歌を覚えないといけないわけさ。でさ、歌に含まれる昔の暮らしとか、文化とか、いっぱいあるっきゃさ。古い言葉も出でくるし。だがら、おしまこを覚えることが、昔の生活や文化を知る手がかりになるんでないが、そごがらまた学習の道が広がっていぐんでないがど考えだのさ。」
「ああ、なるほどー」
「子ども達もさ、しゃっちょこばって机でだけ勉強するよりも、楽しい祭の雰囲気を思い出しながらおしまこを踊る方が、覚えるのも早いんでないが、実になりやすいんでないがど思うのさ」
「そうかもしれないですねー。私ならもう間違い無ぐそうですよ(笑)」
「ところがさ、おしまこを歌える人がいないのさ。五つか六つの歌詞しか知らないんだと、すぐに行き詰まってしまうっきゃさ。これは困ったなあと思ってさ」
「ああ、そうですねー、それはたしかに辛いですねー」
「宝塚さんさ、ホームページさ載せでるおしまこの歌詞、全部憶えでるの?」
「ええ、もぢろんですよ〜♪実は載せでないものもいくつかあるんですが、それも憶えでますよ〜。私だげでなくて、こごにいるしーちゃんも、憶えでます〜♪」
「うふふふ♪そうですよ〜、私も憶えてますよ〜♪宝塚先輩とだったら、一晩中でも歌を続けられますよ〜♪」
「いやー、そうだのがー。それを聞いて、安心した。そしたらさ、二人に折り入って相談があるんだけど」
「はい?」(←私としーちゃんのユニゾンで)
「総合学習の時間に小学校さ来て、子ども達さおしまこ教えでくれないべが?」
「ええええええ?!?!?」(←私としーちゃんのハモリで)
「二人におしまこの先生、やって欲しいのさ。だってさ、学校の先生達の中には、おしまこ歌える人はいないんだもの。憶えでる人さお願いしないばさー」
「はあ、いや、それはいいですが、あのぅ‥‥‥」
「ああ、うんうん、宝塚さん、遠いとごろさいるんだよのー。先生さ来てもらうってしても、ながなが大変だべど思うのさー。こういうご時世だして、御礼とが講習料とがは無理なんだたって、交通費ぐらいは、なんとが出せるど思うのさ。足代だけで申し訳ないんだたって、なんとがこれで、引き受げでもらえないべが?」
「交通費、出してもらえるんですか!?それだったら、何があってもすぐに飛んできます!!御礼なんて要りません!私の方がお金を出してもいいから、先生をやらせて欲しいくらいです!ゴールデンウィーク後だったらPTAの仕事も一段落つくし、ぜひやらせてください!」
「やー、引き受けてもらえる?そいだばありがたいなあ。助かるなあ。よろしくお願いします」
「いえいえ、こちらこそ、交通費を出していただいた上にそんな楽しい先生をやらせていただけるなんて、ホントにありがたいです。よろしくお願いします」
というわけで私、ゴールデンウィーク明けくらいから、学期中に2〜3回のペースで帰省いたしますわ、ええ。ムスメはまだ小さいんで連れて帰りますが、寝台車を使えばムスメの足代はほとんど要らないし。ムスコはもう5年生になるんで、数日くらいの留守番は、ダンナとおばあちゃんと3人でできるでしょう。
今どきなんで、先生もちゃんと身分証を付けて、学校に入るんだそうです。なので、私の身分証も作ってくれるそうですわ。
「第二○○○小学校総合学習特別講師」
というものになるらしいです。
子ども達に「先生」と呼ばれるようになるんだから、もうちょっと自分の立ち居振る舞いにも気を付けなければなりますまい。
口が避けても「チンチチン♪」とか「アハン♪でウフン♪」とか、「ケツに火がついた」なんて、言わないようにしなければ‥‥‥‥。
な〜〜〜〜〜〜んちゃって!!
本気にした?(笑)
23 そろそろお話しとこうかなー 2002/4/1
今年に入ってから、「今日の覚え書き」の更新が時々途切れているのにお気付きの方もいらっしゃると思います。
「仕事のスケジュールがきつかった」という事情ももちろんあるんですが、実はそれ以外に、もっと大きな事情がありまして。
実はですね‥‥‥‥‥。
平成2年の初秋のことですから今からだいぶ前のことになりますが、むつ市の観光課に、東京のテレビ局からこんな問い合わせがあったそうです。
「地方に古くから伝わる祭を、その地方の出身者を取材するという形で紹介したい。ついては盆にも正月にもふるさとに帰らないのに、祭には何がなんでも帰って祭に情熱を燃やす、そんな人で東京に住んでいる人を知っていたら、ぜひ教えて欲しい。」
それを聞いた人達は、みんな揃ってこう思ったそうです。
「いる!!」
ええ、もちろん私の事です(汗)
ところがその頃はちょうど東京から宝塚市に引っ越したばかりの頃だったので、私の事を教える前に、テレビ局に関西在住でもかまわないかどうか、確認したそうです。テレビ局からの答えは「東京かその近辺の在住者に限る」ということだったそうで、それでこの話は無かった事になりました。
これは何年か経ってから、当時の事情を知っている人に、直接聞かされたことです。
それから10年以上も経った昨年の暮れ近く、今度は別のルートで、同じ主旨の取材の申し込みがありました。謝礼金に目が眩んだ私達夫婦は、一もニもなく取材に応じる事にしたんです。
祭は8月18〜20日です。前の年の年越しあたりから取材をはじめて、年が明けて次の祭と同じ年になったのを喜ぶ様とか、冬至を過ぎて祭までの冬の一番きついところを超えたのを喜ぶ様とか、春分の日を過ぎてこれから祭に向かってだんだん昼の時間の方が長くなっていくのを喜ぶ様などを収録しました。これから夏至を迎えていよいよ祭の夏を迎えたという喜びとか、大阪駅から寝台列車に乗って帰省する時の興奮とか、半纏を借りに行く時の嬉しさのあまりそわそわと落ち着かない様子とか、祭の前日の何も手がつかない程に舞い上がっている様子とか、いよいよ祭を迎えて家にも帰らずに祭に燃える姿などを収録する事になるのでしょう。
何の変哲もない一人の主婦が、家事や育児や仕事に追われながら、ただひとつ大好きな祭を目指して日々暮らしていく姿を淡々と追っていき、視聴者の深い共感を呼ぶ‥‥‥こういうような主旨だったと思います。
ところが、しばらく私を取材しているうちに、私のまわりをちょろちょろしているムスコやムスメが妙に面白い事に、取材班は気付きました。
さすが、プロの鼻というものは、何かネタになりそうなものは、するどく嗅ぎ付けてしまうんですね。で、私を取材しながら子ども達にもカメラを向けはじめたわけです。
実は取材班が味のある子どもに目が行ったのにはワケがありまして、今年に入ってから市内に大きな温泉施設ができたんですが、そのCMに出演する子どもを探していたんですね。はい、ムスコとムスメ、そのCMに出演する事になったんです。
兄妹が新しい温泉で楽しく入浴したり、そのあとで家族と一緒にリラックスルームでビデオを観たりジュースを飲んだりしてころころとくつろぐ姿をCMにしたい、ということなんですね。
あんまり物おじしない子だとはいっても、テレビとなるとちょっとはびびるかも‥‥‥と思いながら子ども達に話すと、これがまた、二つ返事で「出る!!」という始末(汗)
そんなこんなでただでさえ時間が無くてアップアップしているところにもってきて、家中を掃除しまくったり、特に2月に入ってからはPTAの仕事が思いのほかハードなのに加えて、子どもとCMのロケ先まで出かけたりして、いつ何を食べたか分からないような生活を送っておりました。
そうしてできあがった温泉のCMは、本日より近畿地方限定でオンエアされる事となりました。私の方の取材も、相変わらず続いています。
今までも山車のまわりでちょろちょろしていたり、大きな口を開けて「おしまこ」を歌ったりしているのは、何度もローカルニュースの映像の中で出てはいましたが、何と言っても今度のは全国区の番組ですし、今度はもうちょっと露出度が上がるわけですから、エステの一つにも通った方がいいかなあとも思うのですが、如何せん、金と時間がありません(泣)
どうか皆さん、私が素のままでテレビに出ても、「ちぇ。」とか思わないでいて下さいませ。よろしくお願いいたします。
いやー、しかし、いきなり親子デビューすることになるとは、思いもよりませんでしたわ、ええ。どこにどんなチャンスが転がっているか、分からないものでござんすね。この番組が元で、更に何かの出演依頼が来ないとも限らないし。
何度か出演していてギャラがたまってきたら、それでエステに行こうっと。うん、そうしようっと。
な〜〜〜〜〜〜んちゃって!!
本気にした?(笑)
22 パニック(後編) 2002/2/28
一旦着陸体制に入った飛行機が雲の中から再び急上昇して上空に出た時、ベルトサインがまだ消えていないにもかかわらず、トイレに立つ客がちらほら出だしました。
トイレは機体の前方・後方の2ケ所にありまして、前から3番目の座席に座っていた私のすぐ斜め前に、機体前方のトイレがありました。
見ていると、最初の客がトイレから出た後、他の客も次から次へとトイレに入るんですね。そうこうしているうちにベルトサインが消えたこともあってか、トイレの戸は、もうひっきりなしに開け閉めされるようになりました。
‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥私もトイレ、行きたかったんです(汗)
いや、空港でちゃんと行きましたよ、トイレに。子どもに、
「ちゃんとトイレ、行っときなさいよ。飛行機のトイレは狭いから、ちょっと使いづらいかもしれないし。」
と言ったついでに、私もしっかり用を足しました、ええ。
なのにこの、はち切れんばかりの膀胱‥‥‥‥‥(泣)
座席がトイレから遠い人は、トイレに立ってきて使用中だと分かると、扉の前にいて順番を待ってるような恰好になります。なので、トイレが空くとさっと入れるのですが、私の席はなまじトイレが近かったためにトイレの扉の前で順番を待つこともできず、かといってトイレが開いても誰かトイレに向かって歩いているのじゃないかと後ろを見ているうちに自分よりも前の座席の人が入ってしまったり、「次は立とう。」と思っていると後ろから来た人がトイレの前に立っているといった具合で、なかなかタイミングがつかめません。
「30分だし。なんとかなるし。」
と思いながら着陸してから空港のトイレに行こうと考えたのですが、ふと嫌な考えが頭をよぎりました。
「‥‥‥‥‥‥無事に着陸できなかったりして‥‥‥‥‥?」
そう、機体は雲が晴れるのを待っているのですが、もしもこのまま着陸できなかったら、もしも何かのはずみで墜落したりしたら、いや、墜落までいかなくても胴体着陸なんてことにでもなったら、今でもぱんぱんのこの膀胱の中に充満しているものは、いったいどこに行くのか!?
最悪の事態になった時、確認に来たダンナが悲しみのせいじゃなく、アンモニア臭のせいで涙することになったりしたら‥‥‥。
「あかん!トイレ、今のうちに行っとかな!!」(←なぜここだけ関西弁?)
と思った矢先、なんとタイミングのいいことでしょう、再びベルトサインがついてしまいました(泣)
「うう‥‥うう‥‥‥、い、いったいどんだけ時間かかるんだっけ?今から着陸するまでに‥‥‥。」
ひきつった笑みでスチュワーデスさんをそっと呼び、トイレを使いたい旨を伝えましたが、ベルトサインがついたということで、あえなく却下されました。
「着陸にかかる時間は5分ほどですので、その間はなんとか我慢していただいて、着陸したらお客さまに使っていただけるように、すぐにお呼びいたします。」
‥‥‥‥丁寧にありがとう。でも、つっけんどんでもいいから、今使わせて欲しかったんだよぅ〜〜〜(涙)
で、さらに待つこと数分、雲の中から出たと思ったらすぐ下に迫っていた地面にびびってチビる事もなく、機体と私はなんとか無事に、空港に着いたのでした。
機体が止まる寸前にさっきのスチュワーデスさんがやってきて、
「お客さま、さ、どうぞ。お子さま達はここでお世話させていただきますから。」
と、トイレに案内してくれました。
「ありがとうございます。」
私がトイレに立った途端に、いっせいに席を立つ客達。
「いっつも思うんだけど、あんだだぢなんでそったに急いで降りようどするんだっきゃ?我先に降りても、手荷物受取所が動き出すまで、ぼへ〜と待っとかなあかんやろ!?」(←パニックのせいでちゃんぽん)
という熱い思いを胸に秘め、口では
「おそれいります。それじゃ、(子ども達を)お願いします。スチュワーデスのお姉さんの言う事を聞いててね。」
とほほえみさえ浮かべつつゆっくり落ち着いてトイレの戸をそっと閉め、静かに鍵を閉める私。そして履いていた下着をマッハのスピードで下に引き降ろすと同時に、座りました。
「ま‥‥‥間に合った‥‥‥‥(涙)」
扉一枚隔てただけの向こう側、飛行機の通路を、「‥‥ドスッ‥‥ドンッ‥‥‥ゴト‥‥‥」と大勢のお客が数珠つなぎで歩く音が聞こえます。
「向こうの音は聞こえるけど、こっちの音は聞こえてないよね!?よね!?!?」
これが普通のトイレなら、音隠しにちょっと水を流そうかとも思ったりしますが、飛行機のトイレといったらちょっと心臓に悪い流れ方をするので、それもできず‥‥‥(涙)
どうやらこうやら用を足してトイレから出ると、機体の前方、出口のすぐ横の、スチュワーデスさん達が降りるお客に挨拶をしているところに、ムスコとムスメも来ていました。
「あ、お客さま、お子さま達がお母さまのそばがいいとおっしゃるので、こちらに御案内いたしました。」
(あののー、前がら3番目の座席だんだして、どっちにいだって同じだべの!そったふうに母親さほったらかしにされでらうんた、かわいそうっぽい顔ばするんでねじゃ!!)
とは決して口には出さず、顔にも出さず、
「どうもありがとうございます。助かりました。さ、おねえさん達にバイバイして。」
となんとか母親の体裁を取り繕って、機体から出ました。あ〜〜〜〜、無事に着いた〜〜〜〜〜〜。
ところで、30分上空待機だとばっかり思ってましたが、降りてすぐに空港の時計を見たら、着陸予定時刻をゆうに一時間は過ぎていました。
‥‥‥‥‥‥やっぱり時計、持ってなくてよかった‥‥‥‥‥(激涙)
21 パニック(前編) 2002/2/21
「飛行機が苦手」ってのは折に触れて書いてますが、それでも時には怖いのを我慢して乗らなきゃいけないこともあるわけで。特に時間にせかされている時は、選択の余地無く飛行機に乗らなきゃいけないこともあるわけで。
2001年の夏の帰省でも、飛行機を使いました。
なぜか?
この年は義父の新盆で8月15日の夜には宝塚にいなきゃいけなかったんですが、8月17日の夜には卒業した中学校の3年ぶりの同窓会がありまして、私はそれに出席予定だったわけです。
もしも寝台車を使おうと思ったら、8月16日の夜に大阪を出て翌17日の午後に田名部に着くでしょ。そうすると一年ぶりの田名部のおじいちゃんのうちで、着いた早々母親が夜に留守にすることになっちゃうわけで(←つまり、二次会、三次会まで出る気満々だった)、ムスコはまだいいとしても、ムスメが大変じゃないすか。夜泣くかもしれなくて。
長男の嫁の立場と同窓会出席と子どもの安心を全て成立させるために、8月16日中に着けるように、必死の覚悟で飛行機にしたんです。ああ、なんて慈愛に満ちた母なのかしら。
朝8:30頃伊丹空港離陸のJASです。
おお!昨年までと違って伊丹―青森間の小さい飛行機も、レインボー・カラーになってる!!
ムスコもムスメも大喜びで搭乗口の前に並びました。
と、そこで搭乗口の開くのを待っていたらしい、50代くらいのおばさんが話しかけてきましたよ。
聞くとこのおばさんとご主人は、青森県のご出身なんだそうです。今まで毎年帰省していたそうですが、去年ご主人が亡くなったので、今年の帰省はやめようかと思っていたらしいです。ところが試しに2、3日前に座席にまだ空きがあるかどうか航空会社に聞いたら、行きの分も帰りの分も、ちょうど1席だけ空きがあったというじゃないですか。
「これは亡くなった夫が私に“来い”と言ってるのかと思って、帰省する事にしたの。」
「ゴーイング・マイ・ウエイ」な顔で話すおばさん。
こらこらこら、これから飛行機に乗るって時に、やたら縁起のいい話じゃんか!?夫が「来い」と言ってるのは、ホントに青森のことなんだろうな?「あっちの世界」のことじゃないんだろうな!?!?などと思いつつ、乗り込みましたよ。
ああ、もう何があっても後戻りは出来ないのね‥‥‥‥。
私達の座席は通路を挟んで右側に3列並んだ側の、前から3番目です。窓側からムスコ、ムスメ、私の順。トイレにもスチュワーデスさんにも近いです。いい具合です。
定刻に離陸して、上空へ。ベルトサインが消えてちょっとしたあたりで、機長挨拶です。
「‥‥‥‥‥‥本日青森空港上空は霧が立ちこめておりまして、‥‥‥‥‥‥‥‥。」
へ?こっちはこんなに快晴なのに、青森方面は霧なの!?!?
しょうがないな、もしかしたら三沢か秋田か北海道に着陸するかもしれないな。青森空港に、妹が迎えに来てくれてるんだけどなぁ。やれやれ‥‥‥。
ムスコもムスメも、機内サービスのドリンクとお子さまプレゼントのおもちゃに浮かれてます。絵本も貸してもらいました。私も飛行機の恐怖をごまかすのに、新聞を貸してもらいましたよ。新聞を読んだり、ムスメに絵本を読まされたり、音楽を聴いたりしているうちに、いよいよ青森が近づいてきました。は〜〜〜、あともうちょっとだ〜〜〜〜〜。
ところで機内にはモニターがあって、現在の飛行速度や高度、目的地までの距離や現在飛んでいる場所が出るようになっているんですが、あれ!?!?青森にだいぶ近づいたのに、なんだか高度がいつもよりもうんと高いような気がする‥‥‥。
あ、もしかして前の飛行機が着陸する順番待ち?そういえば前に2年続けて三沢に降りた時、2年目に太平洋の海上にぐーんと出て、
「去年はこんなじゃなかったのに(涙)」
とびびったことがあったけど、あんな感じかな???
モニターを見ると空港の西側、つまり日本海に向かって、一直線に向かっています。
「おーい、海まで出るのかー!?!?!?」
と心の中でツッコミつつ、機体が旋回する時に下を見たら、別の飛行機が飛んでいるのが見えました。
「あー、なんだ。やっぱ前の飛行機の着陸待ちかー。」
とかなんとか考えているうちにさらに2回程旋回して、やっと高度を下げはじめましたよ。
が!!
雲の中に入ってしばらく経ったころ、飛行機はいきなり機首を上に向けて、猛烈な勢いで上昇を始めました。そう、まるで離陸の時のように。
何がなんだか分からないでいるうちに、スチュワーデスの機内アナウンスが入ります。
「ただいま機体は急上昇しております。原因が確認でき次第、お客さまにお知らせいたします。」
おいおいおい!原因がわからんのかい!?!?!?(泣)
いやいや、落ち着け落ち着け。おちつけ、おちつけ、おちけつ、おちけっつのパー、なんのこっちゃ、てのは昔「パタリロ」にあったギャグだ!!全然落ち着いてないぞ!!
私がパニクったら、子ども達はどうすんだ!?深呼吸深呼吸。
深呼吸してるのがまわりにばれたら恥ずかしいから、誰にもわからないように鼻穴だけおっぴろげて、深呼吸。
すー、はー、すー、はー‥‥‥‥‥。
雲の上に出たところで、再び機長アナウンス。
「ただいま青森空港上空は霧が深く雲が低く、現在着陸できない状態です。幸い天気は快方に向かっているので、このまま上空で30分程旋回しながら、雲が上がるのを待ちます。」
あ、そう。30分ね、30分。いいもんいいもん、飛行機に詳しい友達だって、それくらいの燃料は余裕で積んでるから大丈夫ですよって、前に言ってたし。
平気だもん!!(←べそ)
この時、私の腕時計がだいぶ前に壊れたせいで、腕時計をしていなかったのが幸いしました。そうでなかったら、30秒ごとに時計を見て、
「あと残り何分だ。あと何分‥‥‥‥(涙)」
と、余計なことを考えて、しかも勝手にタイムリミットを切っていたと思いますから。
機内なので、当然PHSも使えません。つまり、PHSの時計も見られません。時計なんか無くて、本当に良かった‥‥‥。
「ママア、まだ着かないのぉ?アタシ、疲れちゃった。」
「もうちょともうちょっと。今ねえ、雲がたくさんだから、雲が晴れるのを待ってるんだって。雲が無い方が、着陸する時に、景色が綺麗に見れるんだって。だからもうちょっとだけ、待ってよっか(笑)」
「ママァ、飛行機、落ちちゃうのかなあ?ボク、なんだか(コワイ)‥‥‥。」
「この飛行機が落ちるわけ無いでしょ。ママが乗ってるんだよ。ママが乗ってるんだから、絶対に落ちないよ(笑)」
神様、私は大ウソツキです‥‥‥(涙)
そうこうしているうちに、一旦消えていたベルトサインがふいにつき、機体はまた下降を始めました。
「お?もう30分経ったのか?早いなあ。まあいいや、とにかく今までの上空待機とは違う下降の仕方だぞ。いよいよ着陸するのかな???あー‥‥‥、それなら助かった‥‥‥。」
たしかに機体はぐんぐん下降していました。すぐに雲の中に入りましたが、そのまま下降を続けました。
機内のモニターは、機体の高度がどんどん下がっていくのを、はっきりと示しています。
「ちょっとちょっと、まだなの!?まだ雲から出ないの???」
と思っていたらふいに視界が開けて、機体の周囲が見えるようになりました。
が、そこはいきなり滑走路。
上空で30分待機して雲が晴れかけてるから着陸に入ったわけですが、いやー、なんとまあ、本当に地上がわずかばかり、雲の中から出た、という感じでした。
ちょっと身長の高い人だったらしゃがんでいれば視界が開けていても、立ち上がったら頭が雲の中に入っちゃうんじゃないですか?(←それは無い無い)
とにかく無事に着陸できて、ほっとしました。
だがしかし!!
実はこの時、私はもっと切実な、人間としての尊厳すら揺らぎかねない、切羽詰まった状況にあったのです。それはいったいどんなことかというと‥‥‥、あ、長くなっちゃった。
つづく(←いいのか!?こんな冒険して!?!?)