中編




終業のベルが鳴ると同時にカカシは姿を現した。

「まだ仕事してたの?ホラ、はやく終わって。」そう言って、勝手に仕事途中のイルカの机の上を片付け始める。

イルカはちら、と隣の同僚に目をやった。見て見ぬ振りをしてくれている。

「忙しいのに、悪いな。お先に。」イルカが声をかけると、

「お前こそ大変だな。ま、こっちは大丈夫だから、気にすんな。」と返した。

カカシに絡まれている自分を気の毒に思ってくれているのだろう。言外に感じる思いやりにイルカの顔は自然とほころんだ。
ふとカカシを見遣ると、カカシが手を止めて、その様子をぎらぎらとした目で凝視していた。イルカの心臓が嫌な予感にドクリと鳴った。
そうだ、あの時も。スズキの時も。カカシがあんな目をして。

「カ、カカシ上忍!違う、違うんです。」イルカは慌ててカカシに取り縋った。何を言ってるのか自分でもわからない。

そんなイルカを見下すようにして、カカシは冷ややかに笑った。

「違うって何?何の事?」

それよりも、さ、もう行こう?カカシは打って変わって優しげに囁いて、イルカの手を取って歩き出す。されるがままになりながら、イルカはスズキのことを思い出していた。

スズキ。

正義感が強くて友達思いの。

俺のことを放っておけないって。あの日。俺は。






あの日。


振り返ると、カカシがぎらぎらとした目でイルカを射竦めるようにして見つめていた。

「ちょうだい、ってカカシ...」何を?ぎこちなく問い質すイルカに、カカシが続けた。

「さっきのヒト、スズキっていったっけ。気に入っちゃった。貰っていいデショ?」

「はあ!?」イルカは素っ頓狂な声を上げてしまった。何を言っているんだ、カカシは。

「スズキは物じゃないよ。」辛うじてそう答える。

「貰っていいんだね?」

「だから、スズキは物じゃ...」

「じゃ、貰うから。」

「.......。」

カカシに言葉が通じない。スズキは物じゃないって言ってるのに。俺が如何こうできるはずないのに。イルカは悲しくなった。やはりこれは嫌がらせなのだろう。一体どうして自分はこんなにカカシに嫌われるようになってしまったのか。よくわからない。身の程を弁えなかったから?自分だけがそんなに悪いのだろうか?何でこんな。やり場のない怒りが沸沸と込み上げてくる。

「...勝手にすれば?」イルカは吐き捨てるように言った。

「別にスズキは誰のものでもないんだから、カカシの好きにすれば?」

カカシはその言葉を待っていたようだった。「わかった。」と嬉々として頷く。
なんだかおかしい。イルカは何か自分が取り返しのつかない事をしてしまったような気がした。

「ありがと、イルカ」早速貰うから。そう言うや否や、カカシはイルカの前から姿を消した。

ありがとう、って言った。カカシが。

イルカの胸に急速に言い知れぬ不安が募った。強請られるようになってから一度も、礼を言われたことがない。それにこれは礼を言われるような筋合いの話じゃない。何か、腑に落ちない。カカシはスズキを一体どうするつもりなんだろうか。



数日後、その解答を得てイルカは愕然とした。
スズキが、暗部候補生として召集されたのだ。カカシの率いる部隊に。
確かにスズキは同期の中では頭ひとつ抽んでた存在で、12歳で中忍になっている数少ない同期のうちのひとりだ。中忍の任務を3年こなした今、その実力は中忍の中でも上位のほうだと聞いた事がある。まだ下忍に滞留している自分を思えば、優秀な逸材といえる。
だからといって、一足飛びに暗部に行けるほどでもなかった。それは本人であるスズキが、一番よくわかっていることだろう。

それでも、スズキは喜びと興奮に頬を染めて、イルカに報告した。

「忍として名誉なことだよな!まだまだ未熟だけど俺を認めてくれたってことが、すごく嬉しいんだ!暗部に入ったらあんまり会えなくなると思うけど元気でな!俺も頑張るからさ、」

イルカは何も言えなかった。ただ曖昧に笑っただけ。頑張れよ、の一言も。


それが最後だった。
ほどなくして、スズキは任務で命を落とした。

スズキの訃報を知らされた時、イルカはカカシを詰った。泣きながら詰った。
カカシが暗部に推薦したせいだ。スズキにはまだ無理だったんだ、カカシが殺したんだ、スズキを。どうしてこんなことを。
ひどい言葉だった。結局最後はスズキが自分の意思で暗部に行ったのだから、カカシを責めるのは間違ってる。そう思うのに止まらない。
興奮して捲くし立てるイルカを、あ〜、ごめ〜んね?と宥めながら、カカシはイルカの顔を覗き込むようにして言った。

「だって、イルカがくれるって言ったデショ。好きにしていいって。」

イルカはあまりの驚きに泣くのも忘れて、目を瞬かせた。何を言おうとしているのだ、この男は。今耳にした言葉が信じられない。

「俺のせいだっていうの...?」イルカは茫然と呟いた。

「ん〜、イルカから貰ったものだから、大事にしようって思って目の届くところに置いておいたんだけど。」大事にするって難しいねえ、ほんと、ごめ〜んね?

「カ...カシ....?」本気でそんな事を。どうして。

「イルカの手にしているもの見るとね、欲しくなっちゃうんだ。前はこんなんじゃなかったのに、どうしてかな〜。なんかとても良いものに見えるんだよね、イルカが大事にしていればしているほど、キラキラ輝いて見える。」今度はちゃんと大事にするからね?またちょうだい。邪気のない笑顔でカカシが強請る。

カカシの言葉が理解できない。これがあの優しかったカカシなのだろうか。カカシは変わってしまったのだろうか。イルカがカカシと居られないと遠ざかってしまったように、カカシも二人で居たあの場所に今は留まっていないのかもしれない。それどころか、あの幸せな過去さえカカシにとっては虚構の日々だったかもしれない。だが、少なくとも自分は違う。それだけは断言できる。だから言わねば。今。

「嫌だ。」カカシに対して初めての拒絶だった。

「もう、カカシにはあげないよ。何も。」

カカシが色をなくした。構うものか。

それからイルカはカカシに何も与えなかった。何も許さなかった。カカシがどんなに泣き叫んで纏わりついても。跪いて懇願しても。カカシがどんなことをしても。

するとカカシは諦めて、今度はイルカに断りなく奪っていくようになった。
もうスズキのようなことはなかったのが不幸中の幸いだ。それでも、ほのかに思いを寄せていた女の子が翌日にはカカシの恋人になっていた、という程度のことは日常茶飯事だった。そんな生活にイルカは疲弊していた。だからカカシが長期の隠密任務に就くことになった時、正直小躍りしてしまったほどだった。




「あれから10年か〜」カカシが感慨深げに呟いた。

その声にはっとして、時を遡っていたイルカの意識が現実に戻った。気がつくと何時の間にか、人気のない夜道を二人で歩いている。これまた何時の間にか、カカシの手には買いこんだ酒やら惣菜やらを詰め込んだ袋がさがっていた。ボンヤリしているにも程がある。

「もう会えないかなって、思うときもあったよ。でも」また会えた。

カカシが月を背景ににっこりと笑う。イルカはその微笑に胸が締め付けられるようだった。

イルカの大好きな、あの笑顔。それは幸せな思い出のものと同じだった。




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