オノサト・トシノブ
下記の美術館は協力しております
須玉美術館 | 北村美術 | 旧藤岡ギャラリー | わたくし美術館刊行 | 大川美術館 |
オノサト・トシノブ美術館
オノサト・トシノブが希望していたこの美術館をトモコ夫人が企画して建設、作品の大きさに合わせて壁を作り採光も雰囲気もアトリエに準じて設計した、母子3人で運営していたが夫人も亡くなり、残された兄弟で経営している。
群馬県桐生市梅田町1−182п@0277−32−2671 |
現在長期休館中 |
オノサト・トシノブ美術館の一階の奥には、第32回ヴェニス・ビエンナーレに出品して話題になった800号の大作と1メートル方形のキャンバス30余枚を連ねた70年代の大作があり、80年代の代表作も並ぶ。二階には折々に企画するヴァラエテーに富んだオノサト作品の展示がある。
オノサト・トシノブ の経 歴
1912年 6月8日、長野県飯田市に生まれる。
22年 父の桐生高等女学校への転勤により桐生市に移住。
34年 長谷川三郎を知る。
35年 清風塾出身者を中心に「黒色洋画展」を結成し、第一回展を銀座の近代画廊
で開催した。第22回二科展に入選。
36年 長谷川三郎から瑛九を紹介されて、久保貞次郎を知る。
42年 徴兵される。
45年 満州で終戦を迎え3年間シベリヤへ抑留される。
48年 ナホトカより帰国し桐生市に住む。
51年 田口智子(後の画家オノサト・トモコ) と結婚
52年 この頃からオノサト・トシノブと表記する。
53年 神田のタケミヤ画廊で初の個展。
国立近代美術館の「抽象と幻想」展に出品。
58年 銀座の兜屋画廊で個展。
61年 ワシントンのグレス画廊で個展。
62年 南画廊で個展。
63年 第7回日本国際美術展に「相似」を出品し、最優秀賞を受ける。
64年 グッケンハイム国際賞展に出品し、作品が同館の所蔵となる。
第32回ヴェネチア・ビエンナ−レに出品。
65年 ニュ−ヨ−ク近代美術館の「日本の新しい絵画と彫刻」展に出品。
66年 雑誌「世界」2月号に、「色と形と生命力−オノサト・トシノブに聞く−」
が掲載され、内表紙に「同心円」(1965年作)も載りジャーナリズムに注目される。 南画廊で2回目の個展。
第33回ヴェネチア・ビエンナ−レに出品。
67年 新しいアトリエが完成する。
69年 南画廊で3回目の個展。
70年 第10回現代日本美術展に [32個の丸] を出品。
72年 チューリッヒのコルンフェルト画廊で個展。
74年 デュセルドルフ市立美術館の「日本−伝統と現代」展に出品。
デンマークのルイジアナ近代美術館企画の巡回展「日本美術展」に出品。
85年 前年設立した五反田のアート・スペースに「オノサト・ギャラリー」を併設
し、発表の場にする。
86年 5月、六本木のストライプハウス美術館にて「オノサト・トシノブ展」と
「オノサト・トモコ展」を同時開催した。
★86年11月30日、急性肺炎のため自宅で死去。享年74歳
1989年 練馬区立美術館にて「オノサト・トシノブ展」開催される。(9/15〜0/2)
91年 オノサト・トモコが「オノサト・トシノブ伝」−生きること・そして生きる
ことの記録−を刊行し、オノサト・トシノブの生涯の全てを網羅し記録した。 92年 長野県信濃美術館にて「オノサト・トシノブ−円を描いた画家」展が開催される。 ☆オノサト・トモコが桐生市にオノサト・トシノブ美術館設立。
98年 山梨県の須玉美術館がオノサト・トシノブの作品を中心にして開設
2000年 群馬近代美術館にて大規模な「オノサト・トシノブ」展が開催された。
アトリエで | 藤岡ギャラリーから国立近代美術館へ寄贈された作品 |
制作のピークだった70年代を過ぎ、晩年の80年代は静かにアトリエにこもり、ひたすらに制作した、明るい軽快さを含んだ爽やかな作品が多くなり、オノサト芸術の集大成を示す傑作が多い。
私は、晩年の作品に最高の価値があると認めたい。
藤岡夫妻が訪れたオノサト・トシノブのアトリエ−80年代−
「オノサト・トシノブ」展−2000年−群馬県立近代美術館
60年代の家族 | 結婚前の二人 | 養鶏をしていたとき |
60年代前半は、子育ても忙しく、和やかな家族の生活の中にベタ丸の絵を制作した。62年には、盛んだった養鶏の仕事をやめて、画業一筋に専念する。
世 界 | 筆とパレット | オノサト・トモコの著書 |
オノサト・トシノブ美術館設立の意義を思う
1989年に練馬区立美術館で行われた大規模なオノサト・トシノブ展と80年代のミキモト画廊や上田画廊、古くは南画廊で行われた個展が思い出されます。
個展とは別に旧東京都美術館で行われた国際美術展を始め多くの合同展示された展覧会も記憶によみがえってきます。
オノサト・トシノブ美術館開設の司会を努める |
またコレクションによる他の多くの有名作家と並んで展示されたあちこちの美術館のそれを見ます、国立近代美術館・大原美術館・群馬県立近代美術館などです。近くでは大川美術館に展示されて親しまれています。
前者の個展の例では企画展としてその時だけに展示発表されただけで常設はありません。 私達がオノサト・トシノブの作品に馴染んでいるのは、後者の展示例によるものと個人の所有者の飾ったものに触れるときでしょう。
即ち他の画家の絵といっしょに並べられていたり、家庭のなかの一般的な壁面に掛けられている状態でご覧になっておられるわけです。
作家がデビューする時には、多くの先輩や仲間と競い合って切磋琢磨しながら成長進展し比較批評も受け、そのなかで作者自身も愛好者達も育って行くものでしょう。
戦争前の事はともかく、オノサト・トシノブが戦後間もなくから自由美術協会やデモクラート協会で前衛的に活躍した瑛九を始めとする作家たちと共にパトロンの久保貞次郎氏を中心にして、上野の旧東京都美術館や八重洲口の旧国立近代美術館でつぎつぎに制作発表を続け、その傍ら桐生でも私達愛好者に親しく接して指導示唆し市内の美術活動に協力して私達の芸術への憧憬を深めてくださいました。
その頃のオノサト・トシノブの活躍ぶりは今でも私の青春時代の強い思い出となって重なり私の人生の大切な構成部分になっています。
戦後、自由と民主化の意識と活動が美術運動に活発に乗り移り、多くの志ある作家達は、その良心と憧れをこのムードのなかに期待し希望的な発展を夢見たはずです。
オノサト・トシノブをとおして知った久保貞次郎氏を中心に瑛九とその仲間や北川民治達の独創と個性を尊重する作家達のキャラクターには、愛の占める比重と前向きの姿勢に明るい正義感の強い独立の希望が日溜まりの明るさと暖かさの様に揺れ動いていました。 当時15才だった少年の私は、他に、県内出身の鶴岡政男や山口薫をオノサト・トシノブの旧知を通じて身近に感じて共に影響を受けました。
鶴岡政男の「重い手」が強く印象に残っていつまでも少年の心を悩ましました。国立近代美術館にある靉光の「眼のある風景」の衝撃的な戦慄と不安に心迷い。松本俊介の大きな自画像は私に快いよい感情と同感を呼び覚ましてくれました。
それらは私の芸術感と青年期の心理構成に深く根をおろして影響していました。
当時の青少年なら、これらの作品に影響されて清純な理想と希望、現実に対して青年の葛藤といきどおりや不安とやるせない甘えと救いのよりどころを求めて同感し共鳴していったはずです。
その為にこれら一連の前衛の作家と良心的な活動家であった多くの作家の精神を伝える作品が身近に飾られて私達がのぞむ時いつでも見に行けることが必要です。
でもオノサト・トシノブに限っては他の作家と違った一面があることに気付きます。
オノサト・トシノブは良心の清純さと生きる力の希望・明るい愛と勇気に満たされた精神で全てを支配し希望する「太陽のような存在」を特徴にしていますが、反面他の画家と違って、やるせないような叙情性やノスタルジーも、心理の葛藤や懐疑とニヒルな戦慄に不安な共鳴をもたらす情緒や協調による慰めの拠り所のような感情も見当たりません。
彼によって否定し拒否されているからでしょう。
これがオノサト・トシノブをして「昼の世界」「太陽の絵」「希望と光の芸術」だと言わせることなのでしょう。
松本俊介や北川民治の様なすぐれた才能を持ち愛と純情に裏打ちされた精神の画家達と同一線上に置かれながらも、オノサト・トシノブの精神的立場はこの点で同時代の仲間に区切りをおいて対峙しなければならないのです。
なんと素晴らしく勇気ある強い精神を求めていた希有な作家だったのでしょう。
だからオノサト・トシノブの作品は独立した彼だけの世界を広げる空間を求めて独自の美術館を必要としたのです。
オノサト・トシノブは自身それを痛感していたからこそ夫人と息子さんたちと協力してその計画を実現したいと希望していたのでしょう。
彼の突然の死後、その遺志を継いで美術館の設立を計画し実現され、彼の一生をその資料として編纂し後世に残し伝える為に驚くべき努力を払ったオノサト・トモコ女史の夫への愛とご子息への心配りの深さを尊敬してやみません。
この愛の強さも、オノサト・トシノブの真心が生み育てた彼自身の「愛」によって残されたと信じております。 1992年11月
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オノサト・トシノブ美術館へのお誘い
オノサト・トシノブ美術館へのお誘い
桐生の街に暮らすなかに、師オノサト・トシノブの愛好者が大勢いてくれるのは嬉しい事で彼らに守られている作品も少なくありません。
作品を持たなくとも愛好してくれる人も多く、話しにオノサト・トシノブの名を知って好感を持ち期待する人や、いずれは絵を見るチャンスが出来て、何かしらの好感をもつ様になるであろう人達までいれゝばかなりの同好の仲間が出来る可能性があります。
左から2人めは彫刻家の掛井五郎氏 |
一人も多くの人々にオノサト・トシノブを知っていただき彼の作品から明るく強く健康で好ましい影響を受けて戴きたいと願います。
影響を受けると言うことは、まづオノサト・トシノブの真実の作品を見て色や形がどのような質感と調和を持ち、どんな感覚と感情を見る人に与えるかを経験していただかねばなりません。
またこれらの作品をこのオノサト・トシノブ美術館の様な展示場で見ていただく事が望ましいのです。
それらの絵に最もふさわしい環境の展示が成されていることが美術鑑賞の大切な条件なのです。
なぜでしょうか?・・・ それはどの時代のどこの人の作品でも、その作品の成り立ちにふさわしい条件と言うものがあります。
でもその条件を満たすのは大変に難しい事で、一流の美術館でも全ての作品の展示にはあわせきれないものです。
幸いにも、桐生ではオノサト・トシノブの作品に限ってこの条件が最も良く満たされたなかで鑑賞出来るこの美術館が出来ました。
オノサト・トシノブが桐生市の西久方町のアトリエで制作に没頭しておられた日々に、いろいろと私達に話して下さった教えに、
「書かれた絵は、その場所とその環境のなかに最も近い条件で見ることが好ましい。出来ればその同じ所が良い」と言う意味のことを繰り返し言っておりました。
それには、あのアトリエに行くと今でも書き上がったばかりの状態で画架の上に一点の絵が置かれてあります。
室内もそのままに保存されていますが、もし一般公開しても皆さん全部の方々にご満足いくまで充分にご鑑賞いただくようにはまいりません。
このオノサト・トシノブ美術館は、そのアトリエと同じ白壁に自然光も利用した適切な照明のなかに、作品の展示も清楚で馴染みやすい和やかな雰囲気の会場にバランス良く配置されて鑑賞者と作者の近親感を保ちながらオノサト・トシノブの思想とイメージの世界に溶け込んで戴けるのです。
美術館の運営も、この美術館の建設もオノサト・トシノブ氏の遺志を継いだトモコ夫人とご子息の六丸さんと十丸さんの努力によってなされたものです。
私達はいつでも手軽にこの美術館を利用してオノサト・トシノブの代表的な秀作を鑑賞し楽しめる恵まれた立場を与えられました。
この恵みをうけてオノサト・トシノブの美術の世界を深く覗いて、彼の優れた美意識と現代日本の前衛として努力し切り開いた抽象絵画の展開の一端を知ってオノサト・トシノブの美術を理解すべく努力して見ましょう。
なぜ彼の作品を独立した美術館の壁面に飾り、他の画家達と別にしなければならなかったかと言うと、いくつかの理由があってその大きな一つが下記のことにあります。
彼の精神の目標と感情や情緒の係わる内容が他の芸術家達と異なるところがある為に、一緒に並べると他の絵と対峙した関係や矛盾した誤解を生じたり、誤った比較や色彩の調和を欠きやすい心配があるからです。
一人の作者にだけに最もふさわしい環境をもった贅沢な美術館が欲しいのです。
そうして出来たのがオノサト・トシノブ美術館です。
なんと素晴らしいことでは無いでしょうか?
オノサト・トシノブ美術館には作者と作品を理解するために必要な種々の参考資料の書籍もビデオも揃えてあります。
オノサト・トモコ夫人の編纂によるオノサト・トシノブの伝記もあります。
〔オノサト・トシノブ伝=生きること・そして生きることの記録 オノサト・トモコ著〕これらの本をたくさん読んで現代絵画の理解と知識を広げましょう、楽しみが一層う深くなるでしよう。
桐生市民として結んだ縁を末永く大切にしてオノサト・トシノブの芸術から沢山の糧を得ようではありませんか。
皆さんのご来場をおすゝめ申し上げます。
1992年11月 保倉一郎
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