『爺(じっ)ちゃんからの直伝・文化社会学の極意』


 「まずは、鷹山の人となりを見ていこう。鷹山の実父・秋月種美の言葉に『国家の至宝は人材に有

り』というのがある。種美は能力主義で人材を登用している。鷹山の兄・秋月種成(たねしげ)は、藩

校を民百姓にも開放して人材を育成しているし、日本で初めて子ども手当を導入した人なんだ。」

 「鷹山は、そのような家庭で育って、小さい頃から感化されていたんだね。」

 「彼は10歳で上杉重定の婿養子になったんだけれども、米沢藩の家督を継ぐまでの7年間の教育

が重要だった。その頃の鷹山の家庭教師になったのが細井平洲(ほそいへいしゅう)という人なんだ

けれども、彼を招聘(しょうへい)したのは、竹俣当綱(たけのまたまさつな)という人で、平洲を当綱

に推薦した人物が藁科松柏(わらしなしょうはく)という人だった。」

 「藁科松柏、竹俣当綱、細井平洲は、それぞれどういう人だったの?」

 「藁科松柏は、米沢藩の藩医で、竹俣当綱よりも若かったけれども当綱が師と仰いでいた人物なん

だ。松柏は鷹山に米沢藩の窮状を話して聞かせた。鷹山は民の困窮を思って涙したという。そして、

松柏は米沢藩を救うためには、鷹山に米沢藩の救世主になってもらうべく、鷹山の教育が重要だと

考えた。

 そのような時、松柏が江戸の町を歩いていたら、誰かが橋のたもとで辻講釈をしていた。その人物

が細井平洲だった。彼の講釈は庶民にも分かるような言葉でなされており、聞いていた人々が涙して

いたそうだ。松柏はそれを見て、鷹山の家庭教師はこの人しかいないと思った。そこで、江戸家老の

竹俣当綱に平洲を推薦した。竹俣当綱も、米沢藩は改革しないと生き残れないと考えていたので、

松柏が推薦する平洲を鷹山の家庭教師として受け入れた。

 平洲は儒学者で、朱子学や陽明学、古学や古文辞学などを自分なりに折衷した、いわゆる折衷学

派の一人なんだ。」

 「細井平洲は鷹山にどんな教育をしたの?」

 
     

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