異国で暮らすぞ!のページ


「異国で暮らすぞ! 1〜10」をお読みになる方はこちら

仕切り

16 「宝塚市緊急情報」 2005/5/8

 プレ・ゴールデンウィークとも言える4月23・24日、ずっと前から予定していた「温泉オフ」……ネットで知り合った仲間10名で「温泉に入って泊まりがけオフ会をしよう!」……に出かけたですよ。うち1人は中学時代からの知り合いでここ数年は会ってなかったこともあり、それはそれは楽しみにしていたオフでした。
 ほとんどの方はすでに何度かお会いしたことがありましたが、2人ほど初対面の方もいて、なのにやっぱりずっと前から顔を知っていたようなそんな懐かしさを感じつつ、温泉に入るやらホテルで持ち寄りのお菓子を楽しむやら数日後に誕生日を迎える参加者のお祝いをするやら同伴のお子さん遊ぶやら、それはそれは楽しい時間を過ごしたのです。
 翌日は朝から温泉に入ったりホテル近くの石切神社を参拝したり美味しいケーキ屋さんでランチ代わりにケーキを食べたりしながら、旅行気分を思い切り味わいましたよ。
 そんなふうに女だけでわいのわいのしながら明日からの英気を養って、午後の割に早い時間から同じ方向に帰る人同士でかたまって、三々五々散っていきました。私もJR宝塚線沿線の実家に帰る参加者と一緒に、JRで家に帰りました。

 翌月曜日は久しぶりの図書ボランティアの読み聞かせで、学校に行きました。今日は2年生の日。つまりムスメのクラスにも入るわけでして、もう一人の担当者と一緒に今日は何を読もうかと相談していたときのこと。ポケットの携帯電話がメールの着信でぶるぶる震えました。
 学校内で携帯電話を使うのは、いくら通話でないといっても憚られるものです。ダンナはよく「JR、また遅れてるよ。人身事故らしい。」というメールをよこすのですが、そういう内容のメールだったりしたら何も学校内から慌てて返事を打たないで、何時間後に家に帰ってからゆっくり打てばいいかと思いつつ、しかしふと心に引っかかるものがあって携帯電話をポケットから全部出さずにそっとディスプレイを見てみました。すると、「宝塚市緊急情報」の文字が。

 宝塚市ではこの春から「安心メール」の配信を始めました。これは前の年度に同じ関西地区で女児誘拐殺人事件が起きたり、その後子どもたちが知らない人に追いかけられたり車に引きずり込まれたりして怖い思いをするような事件が頻発したりしたことから、それまでは警察や青少年センターから学校を通じてPTA愛護部の緊急電話連絡網でのみ流していた情報を、登録された個人のパソコンや携帯電話のアドレスに自動配信して情報を迅速に得られるようにしたサービスです。
 愛護部の電話連絡網の場合は情報の重要度や危険度によっていくつかのランクに分けられ、「この情報は学校が把握しておけばいいものだから、学校までで止めておきましょう(PTAまでは流れない)」とか「この情報は市内のものだけれども遠い地区だし急ぎのものではないから愛護三役までで止めておきましょう(愛護部員までは流れない)」とか「この情報は比較的近い地区のものだし注意を促すために愛護部員まで流しましょう(全家庭までは流れない)」とか「これは近場で起きた危険な事件だから全家庭に流しましょう」など、ランクに応じた流し方をします。
 しかし市の安心メールは自動配信ですから、近場の事件でも遠くの事件でも、とにかく「宝塚市」で起きた事件で担当者がアップすれば、ランクに関係なく私たちのパソコンや携帯電話のアドレスに自動的に送られてくるわけです。

 この「安心メール」は兵庫県の「ひょうご防災ネット」とリンクしていて、子どもたちが関係する不審者情報はもちろん、市内や県内の台風や洪水などの自然災害や、山火事や延焼の心配のある大規模火災などの緊急情報も発信されます。そのメールの発信者名が「宝塚市緊急情報」で、他のメールとすぐに区別がつきます。このメールを受信したらメールに記載されているURLにアクセスして詳しい情報を見るわけですが、近場の不審者情報など急を要する情報をいち早く知って対応出来るので、とても助かっています。

「あれ、市から緊急情報が来てるよ。また不審者が出たかな。近くの情報じゃないといいね。」
と、昨年度やはり愛護部員だったもう一人の読み聞かせ担当者に言っているうちに、ふと電話の着信があったのに気付きました。9時半頃、ダンナからです。
「あれ?何だろ?こんな時間に電話なんて。珍しいな。」
さっき感じた引っかかりが気になって、子どもたちがそれぞれ本を選んでバサバサしていたこともあり、
「近場の不審者情報だといけないから、ちょっと確認してみるね。」
と、背の高い書架に隠れるようにしてメールを開いてみると、「尼崎でのJR列車事故」という件名です。
「ああ、なんだ、不審者情報じゃないみたいだよ。良かったあ。」
と言いながらいつもの手順で緊急情報のページにアクセスしました。ディスプレイに映し出されたびっしり並んだ細かい字の中から私の目に飛び込んできた言葉。

「……25日9時20分頃……JR宝塚線……尼崎……宝塚発同志社前行き……快速電車……脱線……マンションの1階部分に突っ込み……めりこんで……死者……負傷者多数……宝塚市からも救助……詳細については不明……」

 ……え?何だこれ?JR宝塚線の快速?ダンナが毎日乗ってる電車だよ?私も昨日それで帰ってきたよ?脱線?何それ?マンションにぶつかったの?死者って何さ!?

 隠れた書架に子ども達が近づく気配がして、よく読む前に慌ててアクセスを切り携帯電話を折り畳みました。
「……なんかさー……列車事故があったらしいよ……JRの尼崎の方らしいんだけど……建物に突っ込んだらしいんだよね……死者も出てるみたい……。」

と、不得要領で話す私に、
「え!?……ふーん、そうなんだ……、そんな事故があったんだ……。」
と返事をしたもう一人の担当者の反応も無理からぬことでして。というのは「JR」「尼崎」という言葉からまず連想するのは城崎・福知山方面からつながっている宝塚線ではなく、米原・京都や姫路・岡山をつないでいる東海道線や山陽線の方でして。
「どうも宝塚発の快速みたい……。東西線経由の……。」
といった段階で、事故の犠牲者の中にもしかしたら知り合いがいたかもしれないという緊迫感が襲ってきました。

 ……あれ?さっきのダンナからの着信……9時半頃だったな……事故は9時20分頃って書いてあった……まさか事故車両にダンナが乗ってて、助けを求める電話だったのでは……?

 書架の本を整理するふりをしながら、ダンナに「事故大丈夫?」とメールをしました。返事来い!今来い!すぐ来い!!!

 ありがたいことに、ほどなく「大丈夫だよ」の返事が来ましたが、それを待つ間の長かったこと。ダンナのこの返事がなければ私は読み聞かせを放り出して、事故現場に走っていたことでしょう。後から聞いたところによりますと、ダンナが乗った電車の2本後の電車が、あの事故にあった電車だったそうです。ほんのちょっとの何かの歯車の噛み合わせが違えば、ダンナもあの車両に乗り合わせていたのかもしれません。

 それにしても今回の事故のなんという重圧感でしょうか。家族も直接の知り合いも、ありがたいことに誰も事故に遭わずに済みました。「ああ良かった。」とただ素直に喜んでいいはずなのに、実際に怖い思いをした阪神・淡路大震災をある意味上回るかもしれないストレスを感じています。
 このストレスは何なんでしょうか?天災と人災の違いでしょうか?ヒマさえあればパソコンの前に座る毎日で、日々のバカ話とかムスコやムスメの新学期のあれこれとか嫁と姑と小姑の話とかあれもこれも書きたいネタがいっぱいあったというのに、温泉オフで撮った画像をオフ参加者に配信した他はパソコンの電源を入れることもほとんどせず、事故関連ニュースばかりを追いかけてテレビを視ていました。

 少し話がそれますが、私たち地元に住んでいる人間には事故のあった場所は「宝塚線」といったほうが馴染みがあるように思います。大阪から尼崎を通って宝塚までが「宝塚線」、「福知山線」というと宝塚駅以北というイメージが強くて、ニュースを視るたびにそんな些細なことでも小さなトゲが刺さったように、釈然としない気持ちにさせられたりします。
 ダンナは暫く通勤が不便になりますし、復旧したところで今までのような気持ちで乗れるとは思いませんが、通勤に便利なのは今のところこの路線しかないので、どこか屈託したものを感じつつも、この路線を使うしかないんだろうと思います。なんともすっきりしないことです。

 しかしこんなネガティブな気持ちをこれ以上長引かせては家族のためにも良くないので、少しずつ気持ちに風を通して膨らませていきたいと思いますよ。こんなに早く気持ちを切り替えようと思えたのも、事故当日から心配メールや心配電話や心配書き込みをしてくださった皆様のおかげです。本当にありがとうございます。ゆっくりゆっくりになるとは思いますが、徐々に調子を戻していこうと思いますので、皆様、どうぞまたおつきあいくださいませ

 最後になりましたが、今回の列車事故で亡くなられた方々のご冥福と、怪我をされた方々の一日も早いご快復を、心よりお祈り申し上げます。

仕切り

15 「自然学校」 2003/7/4

 ムスコは今11歳、小学5年生ですが、6月30日から7月5日の5泊6日、留守にしています。小学5年生の子がどうしてそんなに留守にしているのかと言うと、「自然学校」に参加しているからなんですよ。
 
 「自然学校」は、現在兵庫県下の全ての公立小学校の5年生を対象に実施されているそうで、この5泊6日の期間中、子ども達は親元を離れ、学校の先生や「リーダー」と呼ばれる指導員達と一緒に寝起きを共にします。まあ、昔の「臨海学校」や「林間学校」みたいなものと考えていただければ、イメージが沸きやすいかとも思います。
 プログラムを見ると、昔の銀山洞窟石の博物館の見学、ナイトハイク(つまり、きもだめし)、イカの一夜干し作り、飯ごう炊さん(カレー作り)、焼き板作り、水遊び、カヌー・カヤック・カッター体験、魚釣り、海水浴温泉入浴、せり市見学、自然探検、キャンプファイヤー、コウノトリ見学などなど、実に盛り沢山。なんて楽しそうなんでしょうか。
 聞くところによると、学校や地区によって開催している県は他にもあるそうなんですが、県を挙げて自然学校を行っているのは、今現在、兵庫県だけなんだそうです。引率の先生は校長先生、教頭先生、それぞれの学級担任2人、5学年付きの先生の5名、指導員4名、救急医療員1名の計10名で、5年生61名を期間中みるんですね。先生方は前後半に別れて交代するようですが、指導員と救急医療員は学校出発から帰校まで、ずっと一緒です。
 
 うちの小学校は、特にムスコの学年は、いいあんばいに「みんな仲良し」で、特別いじわるな子とか特別乱暴な子などがいませんし、深刻な仲間はずれやいじめも今のところ無いようです。クラスが違えば遊ぶことも無くなってしまう学年もある中で、5年生は学年全体で仲良しで、61名しかいないので当然と言えば当然なんでしょうが、男女の仲も良く、友だち関係がぎくしゃくするせいで学校行事に参加するのが嫌だ、ということも無いようです。まあ、良く言えば「素直・子どもらしい」、悪く言えば「こじんまりしている・変にまとまり過ぎ」といったところでしょうか。
 とは言え寝るときも友だちと一緒、三度の食事も友だちと一緒、お風呂も友だちと一緒、朝起きたときから友だちと一緒。仲良しの友だちと普段はなかなかできない体験をいっぱいするんですから、そりゃー楽しくないわけがないですね。

 今まで合宿などで親元を離れたことの無い子は、この自然学校で初めてそれを経験することになります。それもいきなり5泊6日という日数。子どもにとってもそうですが、親にとってもなかなかの試練だったりします。聞けば出発のバスを見送るときに、親のほうが寂しさと心配と、そして何日も親元を離れられるまでに成長した我が子を思い、涙してしまうとか。考えてみれば、私もムスコとこれだけ離れるのは初めてです。
 もちろん子どものほうにも、友だちとずっといられる楽しみと同じ分だけ親元を離れる不安があるので、期待と不安の混じった顔で出発します。お兄ちゃんやお姉ちゃんが自然学校に出かけると、いつもはきょうだい喧嘩をしてばかりの下の子も、元気が無くなったり食欲が無くなったりしてしまうそうです。ムスメもなんとなく、元気が無いですね(笑)
 そんな親達のために、プログラムの中にはちゃんと「親にハガキを書く」という時間があります(笑)ただ、「自然学校から帰るまでに、ハガキが親元に着くように」とのことからか、子どもがハガキを書くのは自然学校が始まって2日目、今年のプログラムで行くと、銀山や洞窟見学、ナイトハイク、イカの一夜干し作り、飯ごう炊さん、水遊びが終わった時点。カヌーやカヤック・カッターボート、海水浴、魚釣り、温泉、せり市見学、自然探検、キャンプファイヤー、コウノトリ見学がまだなんですね。なので、各家庭に届いたハガキの内容は、もしかしたらみんな似通ったものになっているかもしれません。ちなみに、ムスコから届いたハガキはこちら(笑)↓

自然学校のハガキ

 さて、これだけ長い間親元を離れるわけですから、準備も大変です。日数分の着替え(上下・下着・靴下など)はもちろん、洗濯ばさみや折り畳み傘・レインコート、水着・バスタオル、体操服、長そで長ズボン、常備薬などで、大きなボストンバッグがパンパンになります。女の子ではちょうど生理期間にぶつかる子もいるでしょうし、この自然学校中に初潮を迎える子もいるかもしれません。中にはおねしょのクセのある子もいるかもしれません。
 ムスコが通う小学校は毎年だいたいこの梅雨の時期に自然学校を実施しているので、年によっては雨続きになることもあるようですし、そうでなくても海や川で力一杯遊ぶので、服がすぐに濡れたり汚れたりします。自然学校中の洗濯は、入浴の際に「洗剤を使わずに、自分の手でゴシゴシ」(笑)。帰ってからの洗濯の山を考えると、ちょっと気が遠くなります。
 5年生になれば授業で「家庭科」が始まるのですが、5年生はみんな自然学校に持っていくナップサックを作ります。それに初日のお弁当や筆記用具を入れて背負い、ボストンバッグの重さにフラフラしながら出かけるわけですね。
 
 もうひとつ、「着替えは忘れてもこれだけは忘れるな!」というものがあります。ムスコの場合、そう、「ぜんそくの薬」なんですよ。普段は家では「インタール吸入」を使っているのですが、これはシリンジで薬を正確に計らなきゃいけないですし、何より吸入器が大きくて重い!というわけで、この自然学校のために「フルタイド」を処方してもらいました。それと「テオドール」を安心のために通常の半分の量で、小さいビニール袋に「○日朝」「○日夜」とひとつひとつ書いて持たせました。
 こんなふうにしても、環境が違うところでぜんそくは出ていないだろうか?薬を飲み忘れて、発作は出ていないだろうか?と心配するのが親心というものです。私自身子どもの頃に、修学旅行やキャンプではぜんそくの発作に悩まされたこともありますし。
 そんなふうに心配していた今日の夕方、地元のコミュニティFMの番組内で、「今日の自然学校」だったか、そんなタイトルで、ムスコの小学校の自然学校情報を放送しまして。しかもその放送内でムスコときたら、パーソナリティーと電話で話してました(爆)
 
いや、出発前に、

「ぼく、FM宝塚のインタビュー受けるんだよ♪」

ということを言ってはいたんですが、二度の放送の予定が一度になったということもあって、本当にムスコが出るかどうか、わからなかったんですよ(汗)しっかり録音しました(←親ばか)
 ムスコ、ゼイゼイも無く、元気そうでした(安堵の涙)

 そんな親と子にとっての試練も、明日で終わり。明日の午後には帰校して、小学校で自然学校の閉校式があります。みんな、どんな顔して帰ってくるんだろう?けっこう雨に降られたようだけど、外でいっぱい遊べたかしら?日に焼けたかな?少しは逞しくなったかな?そんなことを考えつつ、明日は小学校までムスコを迎えに行きます。
 これもまた聞くところによると、子ども達は指導員達と別れるのが悲しくて、女の子はおろか男の子でも泣く子がいるとか。先生でもない、親でもない、でも大人でいろんなことを教えてくれたり遊んでくれたりする指導員達は、子ども達にとっては本当に頼りになる、かっこいいお兄さんや素敵なお姉さんなんですね。
 そんな指導員さんや民宿の皆さんなど、大勢の人たちにお世話になって、子ども達はたくさんの経験をし、もっとたくさんの思い出を持って帰ってくることでしょう。ムスメもお兄ちゃんの帰りを、待ちわびています。

 さてここで問題です。明日ムスコが帰ってきてからムスメと兄妹喧嘩を始めるまでに、何時間かかるでしょうか?(笑)

仕切り

14 「トライやる・ウィーク」 2002/5/23

毎年この時期、あっちこっちのスーパーや幼稚園、保育所、ファーストフード店などで、店員とも教職員とも保育士とも違う、なにやら初々しい集団を目にします。
初々しいのもそのはずで、実は彼らは、市内の中学2年生達なんです。

兵庫県には「トライやる・ウィーク」と呼ばれる、体験学習週間があるんですよ。中学2年生になってすぐのこの時期、自分の希望した学習先に直接家から通って、販売の手伝いをしたり、幼稚園で子ども達と一緒に遊んだり、農作業の手伝いをしたりするんですね。そうやって、学校の勉強とはひと味違う、「社会勉強」をするんです。
自分が希望した先が人気が集中するところだったりすると第2希望の場所になったり、場所によってお昼を出してくれるところもあればお弁当持参のところもあったりと、なかなかバラエティに富んでます。
全ての職種がそうかどうかは未確認ですが、職種によっては、額に汗して働く我が子を親がそっと覗きに行ける事もあるようで、親と子双方に、それなりに刺激的な1週間だったりする様ですね。

受け入れ先には「トライやる・ウィーク」ののぼり旗が立てられているので、そこで体験学習を行っているというのは、一目でわかります。ムスメが通う幼稚園にも、今週月曜日から「トライやる・ウィーク」の旗が立っていますよ。
ムスメは「お歩きさん」と呼ばれる徒歩通園のグループなんですが(バス通園のグループもある)、幼稚園からの帰りには、引率の先生の他に、中学生も引率して(されて?)くれてます。
学校指定のジャージ姿で、二列縦隊の幼稚園児の後ろから、幼稚園児と最後尾の先生に挟まれるようにして歩いています。ちょっと所在無げににこにこしながら園児に歩調を合わせてくれていて、時々急に立ち止まったり転んだりする園児にドキドキしているらしいのが、端で見ていてよくわかります(笑)お迎えのお母さん達には、緊張と気恥ずかしいのとで、なかなかまともに挨拶できないようですが、それはそれで、また可愛らしいんですよ。
「ねえムスメ、中学生のお姉さんと遊んだ?」
「うーーんとねえ‥‥‥、すこしだけあそんだ♪」
とまあ、こんなふうに、それはそれは一生懸命なようなんですよ。

ところで。
今日、ちょっと意外なところで、「トライやる・ウィーク」ののぼり旗を発見しました。いえ、今までだってこのシーズンにはそこに旗が立っていたはずなんですが、気がつかなかったんですね。
どこかというと、それが「消防署」なんです。
「‥‥‥‥どういう学習をするんだろう?救命救急とか‥‥‥?」
気になったら、いてもたってもいられません(笑)ムスメの手を引いたまま、消防や救急の指令を出す司令室の開いた窓から、中にいた救急隊員に聞いてみました。
「“トライやる・ウィーク”の旗が立ってますが、中学生達は、消防署ではどんなことを学ぶんですか?」
「たとえばホースで消火訓練をしたり、基礎的な訓練をしたり、私達が日頃行っている事を体験してもらうような形をとっています。」

おお!そうなのか!!
いやー、だってさ、ムスコが数年後に、消防署を選ぶかもしれないじゃん、「トライやる・ウィーク」で。
帰ってきたムスコに話してみましたよ。開口一番、
「消防署に行く!!」
ええ、ええ。想像どおりの返事でしたわ、はい(笑)

仕切り

13 は!?!? 2001/2/6

10年程前のとある晩秋の日、当時はまだ元気だった義父が義母に言いました。
「今日な、“イカリングフライ”食べたいねん。」
その一言でその日のメニューはイカリングフライに決定。日曜日だったのでダンナと私、義妹と遊びに来ていた義弟(当時はまだ結婚前だった)、そして義父母の6人全員で買い物に出かけたんですね。
ところがあちこちの魚屋さんやスーパーの魚売場をまわっても、イカが無いんですよ。夕方だったのでもう売り切れちゃったんでしょうか?最後に行った魚屋さんで、やっと2ハイ残っているのを見つけました。
それにしても随分と見栄えのよくないイカです。大きめのスルメイカのような形ですが、何という種類のイカなんでしょうか、大きいのは大きいんですが、真っ白で、うす〜いピンクで、持ち上げると身も何もでろ〜〜〜んと垂れて、およそ下北人なら「やいや、腐ってらじゃ!」と、まず買わないようなイカでした。でもまぁ、どうせ刺身で食べるわけじゃないし、衣をつけて油で揚げるんだし、他にはどこにも無かったんだから、まぁ、しょうがないですね。
店のおばさんが秤で重さを計ってくれています。ちょっと大きめだし1パイ300円、2ハイで600円ってトコでしょうか。ビニール袋に入れて新聞紙にくるみながら、おばさんが言いました。
「はい、
5000円になります。ありがとう。」
は!?今なんて言いましたか!?!?ご、ごせんえん!?!?!?
なんで?なんで??こんな
腐りかけのイカ2ハイに5000円?500円でなく!?
さすがの義父母も固まってしまった横で、かろうじて私の喉から声が漏れてきました。
「‥‥‥‥なんでそんなにするの‥‥‥‥?」
まるでその問いを予測していたかのように、すかさず答えるおばさん。
「今、イカが不漁ですねん。すんませんなぁ。」
「すんませんなぁ。」と言いながら、ちっともすまなそうには見えないおばさん。いえ、どちらかというと嬉しそうでしたね(←そりゃそうだろうなぁ‥‥)

夜、バチバチと猛烈にはねる油に舌打ちしながらイカリングフライを揚げた義母は、
「たっかいイカやで!しっかり食べや!!」
と大声で言いながら、イカリングフライを盛り上げたお皿を義父の目の前にどすんと置きました。義父は何ごとも無かったかのように、
「旨い。」
を連発して食べてましたね、はい。私も食べたのは食べたんですが、「腐りかけなのに5000円もした」というショックが頭から離れず、味なんて全く覚えていません。宝塚市に来てまだ日も浅い頃だったので、「腐りかけのイカ2ハイに5000円も払った」関西人の豪気(←?)なのに、ただただ驚いていたのでした。

いや〜〜〜〜〜〜、とてもじゃないけど、マネできませんわ。

仕切り

12 どうして関西弁を使わないかという事 2000/12/1


早いもので今年ももう12月ですね。ついこないだ「Y2Kがどうの、ミレニアムがどうの」と言っていたような気がするのですが、なんとあれからもう1年経っちゃってるわけですか?いやはや、「坂を転げるよう」とはよく言ったものでございます。
平成2年の9月にここ宝塚市に引っ越してきて丸10年。今時なんかは「10年ふた昔」なんて言いますが、10年も住んでりゃいかな私と言えども、そりゃあ関西での生活にも多少の順応を見せたりもするわけです。晩ご飯にお好み焼きが出てきてももう驚きませんし、「マクド」と聞いたら、それが「マクドナルド」のことだとすぐに理解もできます。関西弁もある程度操る事ができます。こてこての関西弁を話す友達と喋っていたのを傍で聞いていたダンナが、あとで「ママ、まるで生まれも育ちも関西の人みたいやで。」と笑ったことがあるくらい、そこそこ話す事ができます。でも、宝塚の方の身内の前で関西弁を話す事はありません。それにはちょっとした訳があります。

私の実家の父は転勤族だったため、青森県内に限った事でしたが、小さい頃から何度か転校しながら育ちました。青森県は昔の津軽藩が母体の津軽地方、南部藩が母体の南部地方、そして大きく分けると南部に入るらしいのですが北前舟の影響で上方文化の色が県内一濃く、また会津藩士達が流された斗南藩(となみはん)を母体にしている下北地方の三つの地域から成り立っています。この三地域、言葉も文化も習慣も気象もまったく違いまして、同じ県内と言えどもなかなかに転勤族泣かせなところがあるわけです。でもそこは子どものことですから「今度転校してきた子、喋り方がなんか変だよね。」などと友達に言われながらも、その友達と遊んでいるうちに自然にその土地の言葉が身に付いていったんですね。「住んでいる土地の言葉や風習に馴染む」のは、周囲の人達と円満に暮らしていくための一番の近道だったりします。ですから上京した時は「え!?ひがきさんって青森の人なの!?東京の人だとばっかり思ってた。」と東京の人に言われるような共通語を話していましたし(これはテレビのおかげで、実家に住んでいた頃からあまり苦もなくできました)、宝塚市に引っ越してすぐから関西弁を一日も早く話せるようになろうと、片言ながら「聞きよう聞きまね」で慣れない関西弁を使って親戚の笑いをかったりしていました。

そんなある日、私の目の前で身内の一人がダンナに言いました。
「漫才の“太平サブロー・シロー”な、東京に進出したやろ。シローが標準語使こてるやん。あれ、嫌やなぁ。」
「そうやったか?」とダンナ。
「そやで、サブローの方は関西弁のままやけどな、シローは標準語やねん。嫌やろ。」
なんとなく心に感じるものがあった私はちょっと彼女に聞いてみました。
「それって自分の出身地のじゃない言葉を使ってるから嫌ってこと?」
「うん。」と彼女。
「‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥。」
ショックでした。当時、一回目の流産の処置の直後といっていい時期で、しかもその処置が関係があったものかどうか、膀胱炎にかかっていました。その治療のために訪れた大きな病院の副院長とやらに、「あんたの言葉はこの辺の言葉やないねぇ。僕は地元の出身やから、この辺の言葉を知りたかったら、毎日僕と喋りにおいで。」と言われた頃でした。なんでもない時なら笑って「授業料はいくらですか?」と切り返せるようなことですが、ダンナの転職に伴って辞めたくなかった会社を辞めて不慣れな関西での生活が始まったばかりで、しかも妊娠して喜んだのもつかの間、繋留流産でバサバサに毛羽立った心には、その副院長の言葉はただただ脳天気で無神経にしか響いてきませんでした。それでも気持ちを奮い立たせて慣れないこの土地の言葉で話す努力をしていた私の前で、同じ努力をする芸人を悪く言う彼女。関西人独特の東京や共通語に対する感情もあったものでしょうが、彼女自身は生まれ育った宝塚市から一度も出た事がなく、職場も大阪市内だったためいつでもどこでも関西弁で、独り暮しの経験も無く、他人の釜の飯を食べた事も無く、当然他所の土地で暮らす事、ただそれだけのことがどんなに大変な事か想像すら出来ない彼女が、私を傷つけるつもりは無かったろうとはいえ私の前で言い放った言葉の、なんと残酷な事か。

このことがあってから私は、身内の前で関西弁を話す事をやめました。叔母などは「宝塚さんが言葉が綺麗やから、ムスコ君も言葉が綺麗よねぇ。」と皮肉を言いますが、友達と話す時以外は、私はまだ関西弁を使う気になれません。10年経って、やっとこんなふうに書けるようにはなりましたが、当時のことを思い出すと心はまだ波立ちます。
このことを思い出しても目と鼻の奥が熱くならなくなったら、その時は自然に身内の前でも関西弁を話す気持ちになれるかもしれません。

仕切り

11 みなさんの地域ではどうなってますか? 2000/10/3


ムスコが幼稚園に入ってから知った事ですが、宝塚市では兵庫県南東部または兵庫県南部に「大雨」「洪水」「暴風」「暴風雪」「大雪」警報が出ると、学校や幼稚園が休みになります。もうちょっと詳しく説明しますと、通っていた幼稚園では朝7時のNHKニュースで警報が出ていたら全日休園(幼稚園によって多少の違いがあるらしい)、小学校は警報が出ていたら自宅待機、午前10時までに解除になったら、各登校班ごとに随時登校、午前10時の段階で解除されなかったらその日は休みなんですな、はい。

私が子どもの頃は、警報が出ているからという理由で休校になったことはありませんでしたね、そういえば。一晩のうちに降った雪が胸の高さまで積もって除雪が追い付かなくて歩く道路が無いなど、「警報が出てるワケじゃないけど登校は事実上無理」ってことなら、ひょっとすると1回くらいはあったかもしれません。でも幼稚園小中高校の14年間で1回あったか無かったかなんて、あったうちにも入りませんな、まったく。
今はどうなんでしょうね。むつ市内のとある幼稚園に妹が勤めているので、ちょっと聞いてみました。すると、「幼稚園によって対処は違うと思うけど、うち(の幼稚園)は警報が出ているという理由だけで休園にしたことは、今までは無かった。警報が出ていてもいなくても、この先天候が著しく悪化するという事がハッキリわかれば休園にする。」とのことでした。妹はこの幼稚園に開園当初から勤めて13年程になりますが、悪天候のために休園になったのは、平成3年の台風19号(収穫直前の青森りんごが甚大な被害を受けた台風)の時くらいだったそうです。妹の子どもが通う小学校でも、似たようなものらしいです。
なるほど、そうなのか。でも考えてみれば青森県はしょっちゅう強い風が吹いてるし、冬になったら一部を除いて雪がどかっと降るし、それでいちいち休校にしていたら、1年の何ヶ月分が休校になるか分かったもんじゃありませんしね。その埋め合わせで夏休みと春休みを全部返上して授業を受けるなんてことにでもなったら、みんな他所の県に引っ越しちゃって、青森県民はいなくなってしまうかもしれません(←それは無い無い)。第一何かあった時に避難する先ベスト1は学校ですから、ひょっとしたら「それならいっそのこと学校に行かせてしまえ!」という、なんともありがたい親心を反映していたのかもしれません(←それも無い無い)。
いや〜〜〜〜、知らなかったとはいえ、なんて凄いサバイバルな生活を送っていたんでしょうか。

ここで一つ、みなさまにはふと疑問に思われた事があるのではないでしょうか?そう、「休園、休校になった時の給食はどうなるのか?」という、一見些細な事のように見えて、実は子どもの1日の栄養の大半を賄っているかもしれない程に重要な給食が、警報発令時にはどういう扱いになるのかという、実に重大な疑問です。幼稚園のように早い段階で休みかどうかスパッと決まると、給食関係では都合がいいようですね。休園と同時に「給食も無し」になっちゃうわけですから。小学校の場合は、え〜〜〜っとPTAから配られたプリントによりますと‥‥‥‥あ、あったあった、えっとですね、
「午前7時の段階で警報発令中」あるいは「午前7時以降に警報解除」の場合は給食はありません。「午前7時の段階で警報解除」だと給食はあります(時間が少し遅れる事もあります)。
だそうです。では登校した後で警報が出たら給食はどうなるのか?登校した後で警報が出たら児童は集団下校する事になるので、この場合も給食の有る無しが気にかかるところではあります。プリントによりますと、
発令された時点での物資の納入状況・調理の進行状況等によって、判断します(パン・牛乳などがすでに納入されている場合は、極力食べるようにします)。
だそうです。わりに細かく取り決められているんですね。
ところで警報のせいで給食が中止になっても、前の日に材料が納入されていることとか、主食が早朝から加工されていることなどから、当日は給食を実施した形になるんだそうです。食べていないのに、あるいは調理すらしていないのに給食が「あった」ことになるなんて、なんとも不思議な話じゃありませんか。それに関して「納得がいかない!」とごねた保護者が以前いたものかどうか、当日の給食費の差額については、原則として後日の給食の副食に食材料を追加して精算する、というふうになっているようです。1日の金額にすれば220円ほどの給食費ですが、子どもの健やかな成長を助けるばかりか親の財布や感情にも気を使うという、なんともニクイ220円なんですな。しかも薄味で美味しいときた日には、「勉強は嫌だけど給食を食べたいから学校に行く。」なんていうマンガチックな子も、もしかしたら本当にいるかもしれませんね。

ん?なになに‥‥‥?「500円でつくる、家族4人のおかず」!?
神業ですな‥‥‥‥‥。

仕切り