西部中学校で 初めに担任した学級の3年間のあらまし

 私は長野市立西部中学校に、昭和43年4月1日から48年3月31日までの5年間お世話になりました。教員になって3校目の中学校です。
 43年に担任したのは1年4組の男子21名女子22名でした。この学年は5組ありました。私は担任の中で最年少者でした。血気盛りの私は他の学級よりも自分の学級の生徒と親の願いを実現させてあげようと心に誓い私なりに誠心誠意努力しました。

 その結果、
親と生徒たちの力で「勉強や清掃など」をよくする学級なったことを全校の先生から認められるようになりました。昭和36年3月に、3年4組の男子21名、女子22名計43名の生徒は胸を張ってどうどうと卒業していきました。私は昭和46年4月1日に1年生を担任し2年まで担任して他校へ転勤しました。

 さて1年生の途中で転出したTTさんが、2年生の途中で転入してきました。しかし不治の病にかかっていたために2〜3回登校してきただけで病院に入院していました。3年生になったとき、病院から家に帰り自宅で療養していました。そのために卒業式まで一日も登校できませんでした。 病床にいる彼女をお見舞いに行ったとき、彼女の学校へ行きたいという言葉に対して、私には答えることができませんでした。級友が高校生のとき、他界されたとの連絡があり告別式でお悔やみを申し上げてきました。若すぎます。神も仏もないのかとやるせない気持ちで一杯でした。
 また、KM君の奥さんが女の子を出産されましたが、出産後の経過が悪く死去されたという知らせを、原山雅人君から連絡があり、すぐにKM君の自宅へ駆けつけお別れしてきました。 まともに赤ちゃんの顔を見ることができませんでした。その後、数年して男の子が1人い
る方と再婚したのでほっとしました.。KM君は幸せな家庭生活を送っていましたが数年後突然KM君がが他界したという知らせを原山雅人君から受けました。「どうしてまた!」言葉が出ませんでした。
 私が教員になって退職するまでに担任した学級の生徒の中で、若くして他界した生徒は男性が2人、女性が2人です。4人とも40代です。特に女性は小学生の子どもをの残して他界しました。4人はあまりにも若すぎます。
 生きていればこそ、苦しんり、悲しんだりしますが、だからこそ生きている喜びも味わえるのです。そのためには目的を持って生きることです。家族と自分の健康管理には細心の注意を払いましょう。お互いに
健康で生きていることに感謝しましょう    

 


生きがいNO6

平成20年8月27日(水)