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「巧言令色(こうげんれいしょく)は、鮮(すく)ないかな仁(じん)」(孔子)
「測隠(そくいん)の心は仁(じん)の端(たん)なり」(孟子)
1.巧言令色は、鮮ないかな仁
巧言も令色も、それ自身必ずしも非難すべきことではない。しかし、口にきれいごとを並べ、容貌、態度をものやわらく美しく見せることが主になると、
その主の人には、とかく、人間の根本の道である仁の心が薄くなりがちでる。
2.測隠の心は仁の端」なり
「思いやりの心は、仁という大道の端緒、すなわち第一歩である」
に
3.仁とは、東洋思想おける「まことの愛」を課題に課題にしているものであるといわれていることを考えるとき、学校教育においては、核となるべきものである。それは、教育における、教師の愛とその根本に関する問題である。
① 教師は教え子たちが、教師である自分を信頼して、慕ってくれるとき、教師としての喜びを深くするが、それと同時に、その教え子たちに対する愛情の気持ちが、一層強くなるものである。子供とのそういう人間関係ができて、そこにいつも温かい心の交流があるとき、教育は、教育はその成果をあげることができるはずである。
② 教育とは、人間を人間として発達させるさせるために働きかけるそのすべてであり、また、それは、人を人として善くするための働きかけである。
そのことは哲学者カントが、「教育とは、人間を人間にまで創造する過程である」と言われていることにも通ずものと言える。
③ その人間の、人間である中心となるものは、「情緒」
であるとは、数学者・岡潔の言われていることであるが、その「情緒」とは、これを、愛情とか、心の働きにかかわるものとしてとらえることができるから、人間を人間として発達させる教育においては、その中心を、感情を豊かに育てること、心を豊かに育てることにおいて進めることが大切になる。
④ その人間における「心の豊か」とは、要するに「人間に対するまことの愛とその表現」の問題にかかわっている。
⑤ ペスタロッチは、「教育とは、母の愛に変えることだ」と言っている。
その母の愛とは、純粋な愛であり、何よりも償うことを求めない、いわゆる無償の愛である。
その愛は与える愛であり、犠牲的に尽くす愛であり、その犠牲を犠牲と思わないほどに与える愛であり、また、その愛は、子供のために、喜んで忍耐できるそういう力をもつ愛であると言われている。
教師が問題行動の多い子供のための指導を、忍耐強く、くり返し指導したり」、また、学習につずいている子供のために、わかるまで、時間をかけて、ていねいに教えることができるのは、その教師に、子供に対する「まことの愛」があるからである。