(9)

イルカはアカデミーの中庭にある木陰で弁当を広げていた。風がそよそよと気持ちいい。イルカは座ったままの姿勢で、う〜んと大きく背伸びをした。うとうとと心地良い睡魔が襲ってくる。ああ、眠いなとイルカは思った。
イルカの体は前日の疲労を残していた。
それというのも。昨夜は、男の態度がいつもと違っていたので。
イルカはどこか胸が苦しくて、魘されながら夜明けと共に目を覚ましてしまった。汗がじっとりと滲んでいた。
最悪の寝覚めだった。

まあ、夢なんてそんなもんだよな。

イルカは漠然と思った。夢というものは自分の思い通りになんてならないものだ。時にはどうしてそんな夢を見たのか、自分でもビックリするような、奇妙奇天烈な内容だったりする。そして大抵は目覚めるとすぐに忘れる。夢を見たのは覚えてるのだが、目覚めると同時にその輪郭はすぐにぼやけてしまう。
ただ。あの男の夢だけが。目覚めても鮮明に記憶に残り、現実の世界のイルカをも支配する。

イルカは胸がきゅう、としめつけられる感じがした。夢と割り切ろうとしながら、割り切れない自分。
昨夜の男の拒絶がイルカの心を苦しめていた。

馬鹿だよなあ、ほんと。

イルカは今夜が来るのが怖かった。以前の自分とは違った意味で。

苦笑を浮かべながら、睡魔に身を委ね、うとうととまどろむ。イルカはこれまでの経験から昼間の夢にはあの男が現れないことを知っていた。不思議な話だった。淫夢に疲れて睡眠不足だった時、やはりこうして昼休みに眠りこけてしまったりしたのだが、そういう時には男は現れないのだ。そのことに気付いてから、イルカは意図的に昼休みにこうして木陰で休んだりしたものだ。だから今もイルカは安心して目蓋を閉じていた。
イルカは半分眠っているような、半分覚醒しているような状態を享受していた。

その時。

イルカ先生、と小さく呼ぶ声が、聞こえたような。気がした。

その声に、聞き覚えがあった。それは誰だっただろう。眠りに沈む意識の中でイルカはぼんやり考えた。

次の瞬間。ふわ、と。柔らかく暖かい感触を唇に感じた。

は。え?夢にしてはなんてリアルな...なんだ?

まるで、口付けのような。

柔らかく暖かいものが離れたと感じた時、言葉が、降って来た。眠るイルカの心の中に。

イルカ先生、
俺のこと、好きになって。

「ええっ!?」イルカは驚いて、ガバッと目を覚ました。

そしてもっと驚いたことに、目覚めたイルカの前にはカカシがいた。
目覚めたイルカに驚く風でもなく、「そんなところで寝ていると風邪をひきますよ、イルカ先生。」とカカシは淡々とした口調で言った。特に悪びれた様子もない。

イルカは混乱していた。寝惚けた頭では思考が上手くまとまらなかった。

今。今。か、カカシ先生。
俺に、何かしなかったか?す、好きとか、言わなかったか?

いや、それは夢だったのかとイルカはブンブン頭を横に振った。わからない。肝心なところがわからなかった。目覚めると忘れてしまう夢のように、唇の感触と落ちてきた言葉が今は急速にぼやけ始めていた。

そんなイルカの様子に構うことなく、カカシは「もうお昼休みが終っちゃいますよ。」と言って、その場を立ち去ろうとした。

その腕を。
去ろうとするカカシの腕を。
気付くと、イルカは引っ張っていた。
カカシが驚いた顔をして振りかえった。

なんだ、俺は!何をしようっていうんだ!?そんな焦る心とは裏腹に、イルカは落ち着いた口調で言った。

「カカシ先生、今晩飲みに行きませんか。今度は俺のいきつけの店で、仕切り直しましょう。」

カカシがゆっくりと、頷くのが見えた。


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