(8)

その夜の男はいつもと様子が違っていた。
いつもは性急にイルカを求めてくるのに、今夜は触れてさえこない。ただジッとイルカを見つめるばかりだ。

「どうしたんですか、」貴方らしくもない。

イルカは揶揄するような口調で、わざと肩を竦めておどけて見せた。内心イルカは焦れていた。今日は。もやもやとした蟠りが胸に残る今日は。男と熱を共有したかった。貪るように求めてくる唇と、きつく絡み付いてくる両の腕が欲しかった。
それなのに今日に限って男は何もしてこない。
イルカは焦れていた。

だから。

自分から抱き寄せた。
男の頭を自分の胸に掻き抱くようにして。そんなことをするのは、初めてだった。

男は少し驚いた様子で一瞬身体をピクリとさせたが、その後は身動ぎもせずイルカに身体を預けたままだった。イルカはそんな男の反応に拍子抜けするのと同時に、男に何かあったのではと不安を覚えた。夢の中の男の身を案じるなんて、俺も相当な酔狂だな、とイルカは苦笑する。男の顔を覗きこむと、目を閉じて、まるでイルカの鼓動を子守唄にして眠っているかのようだった。意外にあどけないその表情にイルカの胸は締め付けられる。

何があったんだろう。

そう思いながらもイルカは何も訊かずに、男を胸に抱いたまま、その背中を優しく撫で続けた。

と、突然。ぎゅう、と腕に力を入れて男がイルカにしがみついてきた。容赦なくぎゅうぎゅうと締めつけられ、イルカは堪らず情けない声を上げた。

「いだたたたたァ...ッ!な、何すんですか、あんたはっ!ちょ...、離してくださいっ!」

男の身体を渾身の力をこめて引き剥がそうとするが、びくともしない。何なんだ一体。これもこの男の新しい遊びの一環かと疑ってしまう自分が悲しい。

「おい、こら....」いい加減にしろ、そう言いかけた時、「イルカ先生....」と男が小さく呟いた。それに続く言葉は更に小さかったがイルカは聞き逃さなかった。


イルカ先生...俺のことを好きになって。


小さく紡がれた言葉は、イルカの心に大きな波紋を作って沈んだ。心が、震える。そんなこと。もうとっくに好きになってる。

「....好き、ですよ。」

その言葉に弾かれるように男は身体をおこし、イルカの顔を食い入るように見つめた。イルカの告白を男は喜んでくれるに違いないと期待して、イルカは男の反応を待った。

なのに。

男は顔を歪めた。

「あんた、じゃない。」男は声を絞り出すようにして短く吐き捨てた。

何のことか分らずイルカがきょとんとしていると、もう一度男は「あんたじゃない。」と叫んでイルカを乱暴に組み敷いた。まだ解されていない秘所に強引に指をねじ込まれ、イルカは悲鳴を上げた。何回か出し入れするとすぐに男は己自身をあてがって、強引に腰を突き進めた。引き裂かれるような痛みに、イルカの視界が赤く霞む。どうしてこんな、とイルカはうめいた。こんなことは今までなかった。男はいつも痴態を晒す羞恥を凌駕するほどの快楽をイルカに与えた。イルカを執拗に愛撫し追い立て、イルカが欲しがって泣くまで入ってくることはなかった。それなのに。今イルカは苦痛しか感じていなかった。無理な揺さぶりに身体が軋む。
さっきまでの幸せな気持ちが嘘のようだった。
男と繋がっているのに、熱は肌を伝わらなかった。

一際大きく中を抉ると、男は射精した。乱れた息のまま、イルカの唇を貪る。
何度も何度も。その舌がひどく優しくて、イルカの心はまた乱れる。
あんなセックスをしておいて、どうしてこんなに口付けは甘やかなのか。混乱する。男の気持ちがわからなかった。

男は口付けしながらうわ言のように繰り返した。

イルカ先生。
好きです。
好きです、イルカ先生。
だから。
俺を好きになって。

切なく甘やかに繰り返す。

イルカは男の気持ちがわからなかった。

俺も、好きだっていってるのに。

言葉は男に届いていないようであった。



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