(14)

イルカはあの日から。
カカシが長期任務についたあの日から、ずっと後悔していた。
あの日イルカは諦めてしまったのだ。カカシにこの手が届くはずないと決め込んで。

傷を受けたのはカカシだったのに。
血を流していたのはカカシだったのに。

怯えてしまった。カカシの闇の深さに。自分は救うことができないと、放り出したのだ。
中途半端に関わっておいて。
カカシの叫びが、聞こえていたのに。

それは時に悪夢となってイルカを苛んだ。夢の中のカカシはいつも断崖絶壁にぶら下っていた。イルカに向かって助けを求めて片方の手を伸ばす。イルカも助けようと必死になって手を伸ばし、何とかその手を掴むのだが思うように引き上げられないのだ。手を離しちゃ駄目だと思うのに、重さに耐えかねて段々と握る力が弱くなる。助けようとしているのに。助けたいのに。夢の中でもイルカは途方に暮れる。そして遂にはカカシの手がイルカの手の中をすり抜けてしまうのだ。
その悪夢は幾度となく繰り返されたが、ある時を境にぱったりと見なくなった。
最後に見た悪夢の中で、イルカはカカシの手を離さなかった。
力尽きる、と思った瞬間。
イルカも一緒に飛び込んだ
決して離さなかった。
カカシと落ちながら、イルカは至極簡単なことだったのだと気付いた。
手を、離さなければいいのだ。
例えこうして二人で落ちることになっても。
結果として救えなくても。
決して。
決して。

カカシを独りにしない。


だからイルカは心に決めた。

もう次はないのかもしれないけど。
もしまたカカシが自分の前に現われたなら。

もう決してその手を離すまい、と。
例えどんなことがあっても。


火影は嘆息した。
無駄だと分かっていても、忠言せずにはいられなかった。
何故なら見る度毎に、イルカの体に巻かれた包帯の面積が増えているからだ。

「イルカよ、もうお前はアカデミーの教師になるために必要な任務数をこなしている。もうそんなに実戦に出る必要はないじゃろう。」

イルカの返事は火を見るよりも明らかだ。

「いいえ、火影様。俺が実戦に出ていたいんです。教師になっても任務は続けるつもりです。」

火影は首を横に振った。

「お前は実戦向きじゃない。自分でも分かっておろう。だから教師の道を選んだのではないか?お前は忍にしては情がありすぎる。だからそんなことになるのだ。」

そこまで言って火影はイルカの包帯を意味ありげに見つめた。そう、イルカは優しすぎる。腕は立つがそれを生かすことができないほど。辛辣に言えば、甘過ぎるのだ。仲間を庇い敵に情けをかけ、巻き込まれた人々を放っておくことができない。それでは命がいくつあっても足りなかった。だが、アカデミーではイルカの優しさは貴重だった。子供たちを導く時、その過程において優しさは必要なのだ。以前はそんなものは必要ないと一笑に付されて来た。しかしカカシの存在がそれを覆した。人として著しく劣る者は真の忍足り得ないのだと皆痛感するところとなったのだ。

そしてその尻拭いを、今イルカがしている。

火影は居たたまれない気持ちになった。

「カカシのために、お前がそこまでする必要はない。生きて戻って来るという保証もない。それなのに...」

火影の言葉をイルカは遮った。

「火影様、カカシさんのためじゃありません。俺のためなんです。俺が、理解したいから。」

カカシと同じ戦場に身を置きたい。
そうすれば、少しでもカカシの心に近付ける気がするのだ。
もう血に慄いて自分を見失うこともない。
向いていないということは分かっているが譲れなかった。
それに実戦を積んでおけば、今度はカカシについて行ける。
カカシと同じ、戦場へ。

火影は深い溜息をついて笠を目深に被り直した。
言うことは言った。それでイルカが折れないのならもう仕方がなかった。

「イルカよ。そうまでしてもカカシにお前の心は通じんじゃろうよ。」

諦めたように火影がこぼした。


そしてカカシは帰って来た。
長い歳月が二人を隔てていたにもかかわらず、カカシはやって来た。イルカのもとへ。
カカシはまだ自分の手を必要としているのだ、とイルカは思った。

一度振り払った手を、カカシが求めている。

イルカに触れたカカシの手が、以前と同じように冷たかった。
イルカは泣きたい気持ちになった。
長い歳月の間に、誰か他の手がカカシを癒したかもしれないと考えることもあった。
だが離れている間もカカシは独りで苦しみを抱えたままだったのだ。
その正体も知らぬまま、カカシは落ちない血を洗い流し続けていたのだ。

カカシをどうしたら救えるのか今も分からない。
自分にそれができるのかも。
でももう2度と手を離さない。
絶対に。

カカシがイルカの体の傷跡を責めて、クナイを取り出した。それを見てもイルカの心は驚くほど静かだった。

カカシが傷つけたいなら、傷つけられるがままに。
弄りたいのなら、弄られるがままに。
今はまだカカシを救う方法が分からないから。
だから今は。
共に落ちよう。
手を、離さずに。


翌日もカカシはやって来た。
帰宅すると既に家の中にカカシがいたので、イルカは少しばかり驚いた。
いつもは寝込みを襲われるような感じだもんなあ、とイルカは苦笑した。
昨夜の情事の際に刻まれた傷が案外深く、今日は失神せずにいられるだろうかなどと剣呑なことを考える。
カカシはいつにもまして性急だった。畳に叩きつけられるように押し倒されて、昨日の傷が開いてしまったようだった。背中を中心に痛みが全身に散るように走る。そこを強引に捩じ込まれた。こんな風に酷くされることはいつものことだったが、いつものことなのにちっとも慣れない。あまりの痛みに自然と涙が零れた。自分の意思では止められない、生理的な涙だった。カカシが揺さぶれば揺さぶるほど、止まることなく涙は溢れた。
すると、その涙をカカシが舐め取った。丁寧に優しく。イルカの目から零れる度に、何度も何度も。その行為がひどく優しくて、イルカは何がなんだかわからなくなってしまった。涙を零すほど乱暴に責めたてているのはカカシなのに、カカシの舌は宥めるように優しくイルカの頬を辿る。こんなことはなかった。今日のカカシはいつもと少し違う気がする。

その時、カカシが言った。

「痛い?泣かないで。」

驚いて。見上げたカカシの瞳が。カカシの瞳の方が。
胸が締めつけられるほど、痛ましくて。
イルカは居た堪れない気持ちになった。
こんなカカシを見るのは始めてだった。

「泣かないで。」カカシはもう一度言った。

イルカは叫びたかった。
あんた自分がどんな顔して言っているのか、わかっているのか、と。
それはこっちの台詞だ、と。

だけど言葉にならなかった。胸が一杯で。

カカシは泣いていた。

どうしてカカシが。

そう思った時、カカシの手が自分の首に回されていた。

カカシは自分をを殺すつもりなのだとイルカは分かった。カカシの力を込める手が震えていた。

こんなに大泣きに泣いて。
こんなに手を震わせて。

カカシも痛いのだ。痛いから泣いている。
「泣かないで」とカカシは言った。
イルカを傷つけながらカカシも傷ついていたのだ。
イルカを傷つけることを、カカシは痛いと感じてくれていたのだ。
痛いと感じるのに、止められないのだ。きっと。

痛みを感じてくれていたなんて。

カカシの心が近くにあった。少しだけその心に触れることができた気がした。
イルカの頭に火影の姿が浮かんだ。

ほら、火影様。俺の言った通りだったでしょう。彼は痛みを感じる心を持ってる。彼は人の心を持っているんです。

イルカは何処か誇らしげな気持ちになった。

だからいいか、と思った。
カカシを苦しめたくなかった。カカシはもう充分独りで苦しんできたから。
自分を傷つけることでカカシが傷ついて苦しいなら。
そんなこと、終わりにしてあげたかった。
だから言葉にした。

「いいですよ...俺を、殺していいです。」

本当にその時、そう思った。



カカシはイルカを殺さなかった。
それどころか、その後ひどく優しいセックスをした。
そんなことも始めてだった。
甘くて柔らかい口付けが体中を愛撫した。
カカシはイルカの傷が痛まないように、気を付けながら動いた。
気持ちが良かった。カカシとこんなセックスができるなんて思ってもみなかった。
わけがわからなかった。今日はカカシの知らない面を見てばかりだ。
カカシに確実に近付いたと思うのに、言い知れぬ不安を感じた。

情事の最中に、カカシがイルカに何かが欲しいと呟いたようだった。
何が欲しかったのか。

それはとても大切なことのような気がした。

今度会った時に聞いてみようと思ったが、今度はなかった。

イルカの知らぬ間に。
カカシはSランクの任務についていた。


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