(15)
なかなか死ねないものだな。
カカシは追ってくる敵の気配を数えながら思った。
今回の任務でカカシの仕事は二つあった。まずは密書を無事運び届けること。届け先は戦乱の火蓋が切って落とされたばかりの激戦区だったが、その任務は先日完遂した。二つ目の任務は復路に返書を運ぶ振りをして、敵を誘き寄せること。つまり囮だった。本物の返書はその国で待っていた、別の忍が預かっている。その返書は戦乱を左右する重要なものだったので、慎重に作戦が為されたのだ。その忍が敵の追随可能な範囲を越えるまで、カカシは敵を引き付けておかねばならなかった
だが、その役目もそろそろ終わりだ。もう安全な地点まで返書は運ばれたはずだ。
Sランクの任務を強請った時、火影はいぶかしげな顔をした。ナルとはどうする、と訊かれた。
帰ってから面倒見ますよ。俺は殺し合いがしたい気分なんです。この里は平和過ぎてもう飽きちゃいました。
カカシはわざとらしく肩を竦めて見せた。火影は疑わなかった。カカシは今までもそんな奴だったからだ。
だけど火影も少しだけ読み違えている。
カカシは任務を終えても帰るつもりはなかった。
筋書きはできている。敵の攻撃をかわしきれず、最後は敵諸共自爆。
俺にふさわしい最後だ、とカカシは薄く笑った。
足を止めたカカシの周りを殺気が取り巻く。敵の気配は10、いや12か。大層なことだ。
数えたところで、最早あまり意味はないけれど。
敵がじわじわと間合いを詰める。
あとちょっと。
あとちょっとで。
イルカを解放してあげられる。
カカシが自爆装置に手をかけようとしたその時。
「何ボケッとしてんですか、あんたはっ!!」
降って来る怒号と共に緊張した空気が破られ、戦いが動いた。手裏剣を立てられた敵が4、5体一気にドサリと倒れる。それでも呆然としているカカシの前に黒い影が降り立った。カカシを庇うようにして背を向ける後姿に、括られた髪がぴょこんと揺れている。まさか。
「さっさと動け!」尚も激しくカカシを罵るその声に、カカシは身を震わせた。
イルカ...!
カカシはすぐに動いた。鮮やかな手つきで的確に襲い来る敵を仕留める。
イルカはカカシを補佐するように動いた。イルカがなかなかに強いことにカカシは驚いた。
戦いの決着はすぐについた。もとより、カカシを煩わすほどの敵ではなかったのだ。
肩で息をするイルカにカカシは詰め寄った。
「どうしてこんなところにいるんです!?死ぬつもりか、あんたは。」
「死ぬつもりだったのは、あんたでしょう。」イルカの思わぬ返答に、カカシは虚をつかれて言葉をなくした。
「あんなところでボケッとして....。俺が来なきゃ、あんたは...死んでた。」イルカの息がはあはあと荒かった。
「あんたの様子が変だったから...。」心配で。来てみて良かった、と言ったところでイルカはガクリと膝をついた。
「イルカ...ッ!?」カカシが慌ててイルカに近寄った。イルカは返り血で汚れていたので、気付くのが遅れてしまった。イルカは腹部に深手を負っていた。いつ。いつから。こんな。イルカはもうどれくらい血を流してしまったのか。カカシは焦った。とにかく応急処置をしなくては。カカシは消毒薬と包帯を探してポケットをまさぐったが、手が震えて上手く探せない。
「カカシさん、」とその時イルカが言った。
始めてイルカに名前を呼ばれた。そんな馬鹿なことを考えていると、カカシの目の前にイルカは自分の手をかざして見せた。その手は敵との応戦で血に染まっていた。
「俺の手は、汚いですか?」
敵を殺めて血に濡れる手。でもそれはイルカがカカシを庇ってそうなったものなのだ。汚いどころか、それは。
「汚く、ない。」カカシはイルカの手を取ってもう一度言った。「汚くなんかない。」
すると、イルカが嬉しそうに柔らかな笑顔を浮かべた。カカシが欲しかったものの一つだった。カカシの胸が詰まる。
「カカシさんの手も、おんなじです。あんたの手、汚れてませんよ....」
イルカはそう言ってカカシの手をぎゅうっと握った。
汚れてませんよ。
カカシはイルカの握る自分の手を見る。イルカの手も赤い。カカシの手も赤かった。
赤いけれど、汚れていないのだ。
汚れて、いないのだ。
「イルカ....」とカカシは掠れる声で呟いた。胸から熱いものが溢れて自然と声が押し出される。
「イルカ、イルカ、イルカイルカイルカ.......ッ!!」
この激情をどうしたらいいのか。
抱きしめたい。
離したくない。
こんなに傷つけてしまったのに。
そんな資格はないのに。
心の何処かで。
イルカがもし許してくれたら、と。
だが次の瞬間カカシの葛藤は遮られた。
イルカの手が力を失い、カカシの手の中をするりと滑り落ちたからだ。
「イルカ!」
ぼやぼやしている間はなかった。カカシは手早に応急手当を施すと、イルカを背負って走り出した。
傷に響かないように気を遣いながらも、カカシは急いだ。
絶対に助けるのだ。
そして。
今度イルカが目を覚ました時には。
イルカが目覚めると、そこは病院のベッドの上だった。
病室に差しこむ陽の光りが赤い。今は黄昏時なのだとイルカは知る。
火影が心配そうにイルカの顔を覗いていた。
「気がついたか、イルカよ」火影が安堵に顔を綻ばせた。
「火影様...」俺、どうしてここに?
イルカがぼんやりとした頭で記憶を辿りながら尋ねると、火影は複雑な表情をした。
「カカシじゃ。カカシがここまでお前を運んできたんじゃ。お前はカカシの任務を追いかけて重傷を負ったんじゃ。」
1週間も生死の境を彷徨っておったんじゃ、全く無茶しおって、と火影がぶつくさ文句を言った。すみません、とイルカは素直に謝りながらカカシのことを考えていた。
カカシが自分を?そういえばカカシはどうしたのだろう。
「あの火影様、カカシさんは....」
「そこに居る」火影はドアの外の廊下を指差した。
「お前が目覚めるのをずっと待っとったからの。儂は退散するとしよう。」
火影は立ち去りかけて何か言い忘れたように、もう一度イルカの方を振り返って言った。
「お前の言ったとおりじゃったの。」
イルカはその言葉の意味を悟って、会心の笑顔で答えた。
イルカの言った通り、カカシには心があったのだ。
カカシがイルカを連れて帰った時、火影は心底驚いた。
カカシが仲間を見捨てなかったのはこれが始めてだった。
それどころか、あんなに取り乱したカカシを見るのも。
イルカが、カカシを変えたか....。
火影は口元に緩く笑みを浮かべた。
火影と入れ替わりで入ってくると思っていた人の姿は、なかなか現われなかった。
イルカは痺れを切らして、その名を呼んだ。
「カカシさん」
空気がピクリと震える。
やはりそこにいるのだ。
「カカシさん、入ってきてください。」
イルカの言葉に促されて、カカシがようやく入って来た。
「カカシさん、助けてくれてありがとうございました。」そう言ってイルカは軽く頭を下げた。
カカシは暫くずっと黙ったままだった。
イルカははやくカカシの手に触れたくて、うずうずしていた。
あの戦いで傷を負った時、もう駄目かと思った。だから最後にどうしてもカカシに伝えたかった。
カカシの手は汚れていないことを。
カカシは苦しむことによってもう充分その罪を贖っていることを。
それは、伝わっただろうか。
その時カカシの手がイルカの頬に優しく触れた。
あったかい。
カカシの手が。
あたたかかった。
「あんたが礼を言うことなんて、ないんだ。」カカシが悲痛な声で言った。
「俺はあんたに酷いことをしたんだから。」
カカシはイルカの頬から名残惜しげに手を離すと、イルカの目を見据えて言った。
「酷いことをしたのに、俺はあんたの傍にいたいんです。あんたの傍がいい。
どうしたらいいですか?どうしたら許してくれる?俺にできることなら何でもします。
虫のいい話だとは分かってます....だから」傍にいてもいいですか。
カカシが震えている。目で見て分かるほどに。
そしてイルカの返事を待っている。そんな縋るような痛ましい目をして。
イルカは悪戯っ子のような笑みを浮かべた。
「カカシさん、そういう時は何て言うか知ってますか?」
イルカの言葉にカカシが戸惑ったような表情を見せた。
「ごめんなさいっていうんですよ。」
カカシが瞠目した。
「俺のしたことは、そ、そんな言葉くらいで許されるようなことじゃ....」
「ごちゃごちゃ言ってないで、ほら、はやく。」
イルカはカカシの言葉を待つようにじっとしていた。
「ごめんなさい...」カカシが意を決して頭を下げると、イルカがふわと笑みを浮かべた。
「いいですよ。許します....」
許します。
カカシがずっと欲しかったもの。
もう手に入らないと思っていたもの。
それをイルカがくれた。
「イ、イル...」
名前を呼ぼうとするのに、込み上げてくるものに胸を塞がれ言葉にならない。言葉の代わりにカカシはイルカを抱きしめた。イルカの体を気遣おうと思うのに、加減ができずに痛いほど抱きしめる。熱いものが頬を伝っては落ちる。
イルカはそんなカカシの背中に手を回して、優しく宥めながら外を眺めた。
ああ、あの日と同じだ。何て綺麗な夕陽なんだろう。
夕陽に赤く包まれて、俺達も赤い。その赤が今はなんてあたたかい。
イルカは言った。あの日と同じように。
「カカシさん、夕陽が真っ赤で綺麗ですね。」
カカシはイルカの言葉に何度も何度も頷いた。
その瞳は涙で曇って、夕陽を見ることはかなわなかった。
終
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「