「歌を歌おう」連載第十一回


泣き声が聞こえる。
誰かが泣いている。誰が泣いているのだろう。

慰霊碑の前で誰かが膝を抱えてるのが見える。
それは幼い少年の姿。
昔の、俺の姿。
泣かないことを誓った俺の。

泣き声が聞こえる。
誰が泣いているのだろう。

泣いているのは、俺なのだろうか。



その泣き声に呼覚まされる様にして、カカシは重い目蓋をうっすらと開けた。カカシの目に最初に飛びこんできたのは少し黄ばんだ感じの白い天井だった。それはよく見知った病院の天井だった。

俺は病院にいるのか。

カカシがぼんやりと辺りに視線を走らせると、自分のすぐ傍らにイルカが座っていた。イルカの黒い瞳から零れ落ちる透明な滴がその頬を濡らしていた。イルカは泣いていた。泣いているのはイルカだったのだ。イルカはカカシが目覚めたのを認めると、更に大粒の涙をその瞳からボロボロと零した。イルカは零れる涙もそのままに大声で怒鳴った。

「馬鹿か、あんたは....っ!」

その泣き顔をぼんやりと眺めながら、カカシは自分が動揺しているのを感じた。

何故イルカは泣いているのだろう。
何故怒っているのだろう。

どうしてなのか厭わしいはずのその泣き顔が、カカシの心を大きく揺らしていた。

「こんな...怪我をしてるのにっ...、お、音楽室なんかに来なくても....っ!」イルカは酷く怒っている様子だった。

ああ、そうか、とイルカの言葉にカカシは思い出していた。自分が任務先で負傷して、音楽室に着くなり倒れ込んでしまったことを。結局約束は守れなかったし、この病院まで自分を運んできたのはイルカなのだろう。それを怒っているのだろうか。

そう思っていると、イルカがポツリと呟いた。とても小さな声だった。

「...死んじゃうんじゃないかって....俺....」

イルカの言葉にカカシは茫然となった。この涙は心配の涙だったのか。俺のための涙だったのか。そう思うとカカシの胸は例え様もないほど震えた。イルカはいつも泣いている。その涙はいつも自分の心を波立たせる。厭わしいと思っていた。その弱くて愚かな姿を。それなのに。

カカシは何時の間にか手を伸ばしていた。力の入らない震える手を、それでも渾身の力を込めて動かして。
イルカの頬を拭っていた。指先で濡れるイルカの頬を優しく撫で上げるようにして。零れる涙を掬うように。
指先を暖かく濡らす涙がカカシの心の中さえも暖かく濡らしていた。

イルカは始めのうちは驚いたような顔をしていたが、抗うことなくカカシの指先を許していた。

「あんたはいつも泣いてる....」

カカシは辿る指先はそのままに、堪らず声に出していた。ずっと訊きたかったことを。

「どうして泣けるの...?どうしてそんな弱い姿を平気で晒せるの...?どうして...あんたは...」

カカシの言葉にイルカは大きく眼を見開いて、何度も目を瞬かせた。驚きに涙も一瞬薄らいだようだった。カカシの問い掛けに対し、イルカは心底不思議そうな顔をして答えた。当然のことだといわんばかりに。

「...泣きたいから泣くんですよ...」

別に意味なんてないです、と小さく付足すイルカにカカシは衝撃を受けていた。

ずっと、泣いてはいけないと思っていた。泣くまいと思っていた。

泣くのは弱いことだから。
泣くのは愚かなことだから。
そんなことは恥ずべき事だと。

泣いても何も戻ってこないから。
泣いても何の解決にもならないから。
そんなことは無意味だと。

愛する人々の眠る慰霊碑に誓っていた。絶対に泣かないことを。強い心で愛する人々の遺志を守っていくことを。
だけど本当は怖れていたからだ。泣いてしまったら。泣いてしまったら自分はそこから動けなくなるのではないかと。悲しみの淵から這い上がれなくなるのではないかと。怖かったのだ。泣くことが。本当は弱い弱い自分。

カカシはようやく気付いた。自分はイルカが羨ましかったのだと。無防備に泣き顔を晒すイルカに嫉妬していたのだ。イルカのことを弱くて愚かだとばかり思っていた。思いこもうとしていた。でも違ったのだ。イルカは自分なんかよりもずっと強かった。涙を零しても必ず立ち上がって笑顔を浮かべるイルカ。泣きたい時に泣けるイルカ。俺よりもずっとずっと強い....。

カカシは何故自分が優しく輝く時間を奏でられないのか分かった。

自分はあの悲しみに向かい合えていないのだ。あの時からずっと。


カカシ先生には本当に吃驚させられる。

イルカは病院のベッドで眠るカカシの傍らで、愚図つく鼻を啜りながら思った。血塗れのカカシを背負ってきたので自分も汚れていた。はやく着替えたいところだが、イルカはカカシの傍らを離れる気にはなれなかった。カカシは自分との食事の約束を守るために、重傷にもかかわらず音楽室まで来てくれたのだ。イルカはそんなことをされてもちっとも嬉しくなかった。カカシの気遣いは見当違いも甚だしい。

死んでしまうかと思った...

眠るカカシの青白い顔を見つめながらイルカはとうとう我慢が出来なくなった。込上げる嗚咽と共に涙が頬を滑り落ちる。こんな思いを俺にさせやがって、と内心悪態をつきながら。カカシの傷を見た時、また失ってしまうのではないかという恐怖に戦慄した。両親の時の様に、間に合わないのではないかと。カカシを病院に運び込むまでは夢中だった。怖くて。失ってしまうのが怖くて。助けたくて。治療を受けて命の心配のなくなった今、イルカは緊張の糸がゆるゆると解けていくのを感じた。きっと暫くこの涙は止まらないだろう。

イルカが泣くに任せていると、カカシが意識を取り戻してその目を開いた。心底ほっとした。ほっとしたら更に大粒の涙がボロボロ零れた。こんなに心配をかけたのを、カカシは分かっているのだろうか。いいや分かっていないに違いない。イルカの胸に怒りが沸沸と湧いてきた。言葉を考えるよりも先にイルカは怒鳴っていた。

「馬鹿か、あんたは....っ!」

俺の怒りを思い知れ。

「こんな...怪我をしてるのにっ...、お、音楽室なんかに来なくても....っ!」

命より大切な約束なんて、俺にはないんだ。

「...死んじゃうんじゃないかって....俺....」

本当に、心配したんだ。畜生、俺をこんなに泣かせやがって。

カカシはいきなり捲し立てるイルカに呆気に取られているようだった。カカシの不興を買ってしまうかもしれないと思ったが、自分の怒りと心配の前ではもうそんなことどうでもよかった。どうしても言ってやりたかったのだ。
すると思い掛けないことが起こった。カカシが自分の頬に手を伸ばし、その指先でイルカの涙を優しく拭ったのだ。
イルカは瞬間あまりの驚きに固まってしまった。
その指先の感触を、イルカは知っていた。
触れる指先の温もりを、イルカは知っていた。
自分を見つめる深い眼差しを、知っていた。
忘れたことはなかった。
だけど、夢だと思っていた。
熱に浮かされた頭が見せた、他愛なくも優しい夢だと。

だけど違ったのだ。イルカはこの時確信した。

カカシ先生....やっぱり俺のうちに来てくれたんだ....

イルカはなんとも言えない気持ちが自分の中を暖かく濡らすのを感じた。
その間もカカシの指先はイルカの頬を撫で上げるように、何度も何度も零れる涙を掬った。

だ、だけどなんだか変だよな...こ、こんな涙を擦ってもらっちゃって....大の男同士が...

イルカはそう思ったりもしたが、指先のそのあまりの気持ちよさに抗えないままだった。
するとカカシがポツリと言葉を洩らした。とても真剣な様子だった。

「あんたはいつも泣いてる....どうして泣けるの...?どうしてそんな弱い姿を平気で晒せるの...?どうして...あんたは...」

その言葉にイルカは吃驚した。よく意味が呑みこめなくて何度も目を瞬かせてしまった。カカシは本気で訊いているのだろうか。

いつも泣いてるって...今日とこの前のとで、2回だけだよな....
そ、そんなにカカシ先生の前で泣いてるつもりはないけど....
どうして弱い姿を晒せるのって...そういえば昔、そう考えてたこともあったよな....
誰かに泣く姿を見せたくなくて、一人で森に行って泣いたりしたっけ。
うん、でも泣くのは我慢しなかったな。泣きたい時は泣けばいいんだ。我慢する理由の方が思いつかないしな。

イルカはそんな風に自分の中で考えながら、さも当然の事のように言った。それしか答えようがなかった。

「...泣きたいから泣くんですよ...」別に意味なんてないです。

イルカの言葉に今度はカカシの方が吃驚したような表情を浮かべた。イルカはそれを見て、そんなに驚くような答えだったかな、と少しだけ焦った。カカシはその後何か考えるように無言のままだった。その顔が少し悲しそうに見えた。

カカシ先生は、泣きたいのに泣けないのかな....

イルカは何となくそんな事を感じていた。



つづく

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