「歌を歌おう」連載第12回

イルカのピアノの旋律は今日も乱れていた。だがそれは技術的な問題というよりも、イルカが注意力散漫な所為だった。ピアノを弾いているとどうしてもカカシのことを思い出してしまうのだ。練習で一緒だった時のことは勿論、この前優しく涙を拭われたことまで。今もまだ自分の頬に、その指先の感触が残っているかのようだった。その事を思い出す度、イルカの動揺に震える指先が不協和音を奏で、その酷い音に自分でも頭が割れそうだった。

ああ...俺何やってんだ...

イルカはピアノを中断して、赤く火照る頬を手のひらで擦った。なんだかおかしい、と自分でも思う。夢だと思っていたカカシの指先が現実のものだと知った瞬間から、なんだかとてもカカシのことを意識してしまうようになった。しかも頬を拭われて恍惚としていた自分を思い出すと、あまりの恥ずかしさに身を捩ってしまう。そのためイルカはカカシを病院に運び込んだあの日から、カカシを見舞いに行っていなかった。カカシの容態が気になるのに、イルカはどういう顔をして会えばいいのか分からなかった。そして自分がカカシを前に自然に振舞えるのかも。ピアノの練習で忙しいんだから仕方ない、と自分に言い聞かせながらも、気まずさと気恥ずかしさが自分の足を遠のかせていることに気付いていた。

カカシ先生はなんとも思っていないのにな...

イルカが意識する、あの一連の行為はカカシにとって多分何でもないことなのだ。泣いている子供の頭を撫でてやるような感覚なのだと思う。事実、イルカは子供のように大泣きをしていたのだから。しかもそんなイルカの様子にカカシはどうして泣けるのか、と訊いてきた。あの時は質問の意図がよくわからなかったが、冷静になって考えてみれば、「いい年をした大人が子供みたいに泣いて。よく泣けるな。」と呆れた上での発言だった気がする。

しょ〜もないなぁ、俺って.....

ハーと深い溜息をついて自分の馬鹿さ加減を呪う。そのままイルカは暫くぼんやりとしていたが、また意を決したように背筋を伸ばして鍵盤に指を下ろす。今日で練習は最後だった。明日はクリスマス会の飾り付けなどの準備の日で、その翌日が本番だった。何時の間にか残された日々は過ぎ去っていたのだ。カカシのいないまま。

こんなに頻繁にカカシ先生と会うこともなくなるんだろうな。

もう苦手なピアノの練習をしなくてもいいのだというのにイルカは消沈していた。意識し過ぎて顔も会わせ辛いと思っているのに、どうしてなのか、今この場所にカカシがいないことをイルカは酷く淋しく思った。

もう一度、一緒に弾きたかったな....

イルカは最後に二人で弾いたピアノのことを思い出していた。カカシの長くて綺麗な指先が鍵盤を滑る様を思い浮かべながら、それを真似るように自分の指を動かす。すると何となくカカシと一緒に弾いているような感じがした。イルカはそれに気をよくして、あの日の音を辿るようにピアノを弾いた。気のせいか少し上手くなったような気までしてくる。イルカが何時の間にか夢中になって弾いていると、突然鍵盤の上に長くて綺麗な指が降りて来た。イルカはあまりの驚きに瞬間息が詰まった。そんな馬鹿な、とイルカは思った。まだ安静にしていなくちゃいけないはずだ、こんなところにいるはずがない。
しかし、イルカが見遣ったその先には、思った通りの姿があった。
銀の髪が燃える夕陽を受けて飴色に輝いていた。

「カカシ先生....!」

なんでここに。怪我はどうしたんですか。色々聞きたいことはあるのにイルカはどれも口にすることが出来なかった。カカシはそんなイルカに構うことなく、まるでいつもの調子で言った。

「続けて。」

イルカはカカシのその言葉に、浮かしかけていた腰をまたストンと椅子の上に戻した。そしていつものようにピアノを弾き始める。カカシのピアノがそれに続いた。ただいつもと違っていたのは、イルカが奏でるピアノの音よりも早鐘を打つイルカの心臓の音の方が大きかったことだった。イルカは今が夕暮れでよかったと思った。赤々と燃える夕陽が自分の赤くなった顔を隠してくれるから。


今日で最後だとカカシは覚えていた。今日でイルカのピアノの練習は最後なのだ。ピアノがなくなったら二人を繋ぐものはもう何もないのだ。そのことに気付いたのは、イルカが最初の日以来自分の病室を訪れなかった所為だった。おかしな話だが、イルカは自分を毎日見舞ってくれるような気がしていた。それが当然の事のように。だがそれは思い違いだったのだ。それもそうだ、とカカシは今更ながらに思う。自分はイルカに辛辣にあたってばかりだった。ピアノの練習も勝手に覗きに行っていただけだ。それはいつもカカシの一方的なものだった。思えばなんと薄っぺらな関係なのだろう。カカシは居ても立ってもいられなくなって、こっそりと病院を脱け出していた。

最後にもう一度だけ、イルカと一緒にピアノが弾きたかった。

ようやく着いたアカデミーの廊下に響き渡る下手糞なピアノの音を聞いた時、カカシは自分の心の中が暖かいもので満たされていくのを感じた。音楽室ではイルカがいつものように一生懸命ピアノを弾いていた。カカシが入ってきたことには全く気がついていない様子だった。カカシは逸る気持ちに急きたてられるようにイルカの横に立つと、徐に鍵盤に指を下ろした。驚くイルカを横目に先を催促する。

「続けて。」

イルカが奏でる音に自分の音を重ねた。途端に優しく輝く時間に包まれていく。

それはカカシが過去に封印してしまったものだった。臆病で弱い心ごと。優しい想い出は、自分に深い悲しみしか齎さないことを知っていたから。それはもう失われてしまって、二度と取り戻せないものだと知っていたから。
だから。カカシがいつも過去を振り返るとそこには後悔と絶望しかなかった。それしか思い出すことが出来なかった。後悔と絶望は自分を戒め鼓舞するためのものだったから、カカシはそれを自分自身に許した。

愛した人達が残してくれたものはそれだけじゃなかったのに。もっと心を優しく暖めてくれるものをくれたはずだったのに。

カカシはその全てを忘れてしまったかのように生きて来たのだ。認めるのが怖かった。もうそれが自分の手にないのだと。悲しみに立ち上がれなくなるのが怖かった。カカシにとって最も愛する優しい想い出は最も忌避すべき思い出でもあったのだ。

そのはずだったのに。

それなのにイルカと一緒に音を奏でると、俺はこんなにも安らかにその優しい思い出を辿ることが出来るのだ。
イルカだけが俺にこの優しく輝く時間を俺に許してくれるのだ。

どうしてなのかわからなかった。ずっと。

だけど、今ようやく分かった。

イルカの涙が、本当は弱いものではないとわかった時から。
涙を恐れる自分の弱さに気づいた時から。

調子っぱずれのイルカのピアノが、こんなにも胸を震わせる訳が。


不意に伸ばされたカカシの腕が、イルカの体を自分の胸に包み込むようにして抱き締めた。

優しく輝く、その存在を。

愛する人の体を、きつく。強く。


つづく


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