Isostasy〜アイソスタシー〜前編
「イルカ先生、彼女できましたか?」
飲み屋の席でカカシが何気に訊いてきた。酒を交して程好く酔いがまわってくると、カカシはいつも色事めいた話になる。
またその話か、と問い掛けられたイルカは何処か困ったように眉根を寄せて嘆息した。そんなに毎回訊かれてもできてないものはできてないし。訊かれると最近は惨めになるイルカだった。
初恋はいつですか。
今まで何人と付き合いましたか。
どんな人がタイプですか。
彼女は作らないんですか。
今好きな人はいるんですか。
酔っ払っているのだから仕方が無いとはいえ、カカシは同じような質問を果てし無く、飲む度毎に繰り返す。
そして最後には必ず、好きな人できたでしょ、彼女ができたでしょ、と執拗に食い下がるのだ。できたらカカシに隠すことなく惚気ていると思うのだが、全くできる様子も無い。幾ら叩いても埃は出ないし、無い袖は振れないのだ。そう言っているのに、カカシはなかなか納得してくれない。いつもしつこいくらい追求してくる。
嘘嘘。隠したって駄目ですよ。この前同僚の女教師とご飯食べてたでしょう。あの人と何かあったんじゃないですか。
それともいつもイルカ先生が立ち寄る、お惣菜屋の娘さんですか。
ああ、アカデミーの卒業生で、イルカ先生にお熱だっていう美少女がいるらしいですね、まさかその子?
なんだかイルカ自身も思いも寄らないような相手を、ごくごく自然につらつらと並べ立てるカカシに、何処か普通じゃないものを感じて戦慄してしまうのは何故だろうか。
ともあれ、イルカはこの手の話にウンザリしていた。カカシに自分のもてなさぶりを露にされているような、居た堪れない気持ちになるのだ。
カカシ先生はもてるからいいかもしれないけど。もっと気を遣って欲しいよなー。
イルカが口を尖らせているとカカシがその顔を覗きこむようにした。
「あれ、なんです?口なんか尖らせて。何か気に障りましたか。」いけしゃあしゃあと言う。
「カカシ先生、もうこの話はやめにしましょう。彼女ができたらカカシ先生に一番に報告しますから。彼女ができないのにその事ばかり訊かれると、正直俺、気が滅入るんです。」
わあ、なんて情けない告白だ、とイルカは我ながら目頭が熱くなる思いだった。でもこうでも言わなくてはカカシには分かってもらえそうにも無かった。以前に居酒屋のカウンターで飲んだ時などは悲惨だった。
えぇ!?イルカ先生は彼女いない暦10年なんですか?
じゃあ、15歳の時の彼女が初体験の相手?え、違う?それじゃあ、もっと前の彼女がそう?えぇ?それも違う?何怒ってるんです?
それより10年も彼女いなくて、処理はどうしてたの?遊郭もお金が掛かるでしょう。なんでそんなに顔を赤くしてるんです?まさか、イルカ先生...童貞ってわけじゃないでしょう?
大声で突っ込むカカシに、カウンターの中の店員やら隣席の客やらが聞き耳を立て、クスクスと密かに笑いを零しているのがイルカには分かった。とても恥ずかしかった。その質問を上手にかわす事ができずに、最後には正直に白状させられてしまう自分も。
本当に童貞なの?そうか...そうなんだ...へえ。
途端にニヤニヤとした顔でイルカを見つめるカカシに、25年間男として生きてきた自尊心をズタボロにされたイルカだった。その瞬間、本当にカカシに殺意を覚えたほどだ。
だけど、とイルカは思う。だけど、いい人なのだカカシは。その辺にはデリカシーが全く無い人だというだけで。
写輪眼で上忍でエリートで。ただでさえ凄い人なのに、ちっとも偉ぶったところがない。というか、砕け過ぎだろうという気もする。忍の世界は完全なる縦社会で、イルカから見ればカカシは殿上人の如き人で、対する自分は地下人といったところか。本来ならば言葉も交わすことさえ憚られる身分差だ。それなのに、カカシはそんなものはまるで存在しないかのように、自分のところまで飛越えてきてくれるのだ。ナルトの担任だったというだけで、敬意を払ってくれる。すごく当たり前のことのように。イルカはそれが嬉しかった。
でも、色恋の話は金輪際止めてもらおう。
それが良い友好関係を保つ秘訣だとイルカは思った。
強い決意の元に紡がれたイルカの言葉に、カカシは瞬間微妙な顔をした。
「彼女ができたら、報告....」
そうぽつりと繰り返すカカシに、突込みどころはそこか?そこじゃないだろ!?とイルカは思わず声を上げそうになってしまった。
声に出せなかったのは、目の前のカカシが見る見る間に意気消沈してしまったからだ。
「報告、いりません....。」
何処か傷ついたような目をして、俯きがちにボソボソと喋るカカシに、イルカは面食らった。まずい。俺の言い方が悪かったのだろうか?こんなにカカシ先生を傷つけるつもりじゃあ...。予想外の出来事に、イルカの頭はパニックに陥っていた。
「あ、あの、嘘です。冗談です。ああ、もう何でも訊いてください。
ただ俺は恋愛経験に乏しいですし、彼女のできる気配もありませんからね。カカシ先生を楽しませるような話はできませんよ、ってことが言いたかったんです。ははは。もうどうすれば彼女ができるのか、カカシ先生に手取り足取り御教授願いたいくらいですよ。あっはっはっ....」
もう笑って誤魔化すしかない!!半ばヤケ気味でイルカが乾いた笑みを浮かべると、カカシは今度は突然上機嫌になった。
「教えたげます。」と熱い眼差しでイルカの手を握る。
え?何を?とイルカは首を傾げた。何かカカシの突込みどころはいつもずれている。
ああ、そうか、彼女の作り方か、とイルカは自分の適当な発言を思い返して、ようやく納得した。まあ、そこはどうでもよかったんだけど、自分で言ったんだから仕方ないかと諦める。カカシ先生が折角機嫌を直してくれたんだし。
「はい。教えてください。」イルカはにっこりと笑ってカカシを見つめ返した。
カカシの顔が心なしか赤く染まったような気がした。気のせいか?
それが平穏な日常生活の基盤を揺るがす、地殻大変動の始まりだとはイルカは知る由も無かった。
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