ストーカー100日 

(1)

石の上にも三年って言うけど、
三年ぐらいでなんとかなるならお安い御用だと思う。
だけど、現実は何年思っても駄目なものは駄目なのだ。

現実は厳しい事を知っているから、俺は今日もひっそりと愛しい人の後姿を追う。

なんてたって、あの人は未だ俺の存在すら知らないんだから。




「…っかしいよなあ……」

イルカは仕事の帰り道、突然足を止めて辺りをキョロキョロと見回しポツリと一人言ちた。イルカの周りに怪しい人影は見当たらない。それなのに。

なんだか最近、視線を感じるんだよなあ……

イルカはハアと深い溜め息をついてまた歩き出した。
仕事のし過ぎで疲れているのだろうか。始終誰かに舐めるような視線で見られているような気がする。
それは決して恋する婦女子の可憐な類のものではなく、もっと禍々しく、取って食われそうな恐ろしい気配がした。

誰かに恨まれるような事をした覚えはないし……
き、気のせいだよな、きっと……

イルカは気を取り直して、買い物をして帰ろうとスーパーに立ち寄った。夕飯の買い物にはやや遅い時間だが、それでもスーパーは値引きを狙う買い物客で意外に混雑していた。

「できあいのコロッケでも買おうかな……」

買い物カゴを片手にぶつぶつと一人言ちながら、イルカが悠長にお惣菜コーナーを見ていると、値引きのシールとマジックを持った店員が姿を現した。わざとらしく腕時計を見る店員のもとに、いつの間にか続々と人が集まり始める。

ま、まずい……!

オバサンに前後左右を囲まれ、イルカが失態を悟った瞬間、店員が高らかに叫んだ。

「今からタイムセールです!!!どれでも値引きしますよ!!!!」

ひーーーー!!!!

イルカは内心大絶叫を上げた。
今までもうっかりタイムセールの戦いに巻き込まれて、オバサンの波に揉まれて身も心もボロボロになった経験が幾度となくあった。

な、何とか逃げないと……!

イルカは焦ったものの時既に遅く、わっと殺到するオバサンの波にあっという間に飲み込まれてしまった。もうコロッケどころの騒ぎではない。
「お、押さないで下さい……!」
イルカは叫んでみたが、
「こっちの天ぷらにもシールを貼って!」
「これは100円引きじゃないの!?」
他のオバサンの鬼気迫る叫び声に全て掻き消されてしまう。イルカはオバサンという激流の中を葉っぱのようにくるくると回っていた。しかも誰かドサクサ紛れにイルカあそこを撫でたり、尻を揉んだりしている痴女がいる。

オ、オバサンに痴漢されてる……!!

そんな事は初めてで、イルカは失神しそうになってしまった。イルカはどうにかしてその人ごみを抜け出そうとしたが、どうすることも出来ず、しかも痴漢もされっぱなしで、なんだか情けなくて目頭が熱くなった。
と、その時。
グイッとものすごい力で腕を引っ張られた。
「え?」
イルカが間抜けな声をあげた時には、スポンとオバサンの群れから飛び出していた。イルカは急に肉厚のオバサンの圧迫から解放されて、呼吸が楽になるのを感じた。

だ、誰かが助けてくれた……?

呆然とするイルカがふと自分のカゴに目をやると、その中には半額に値引きされたコロッケのパックが入っていた。

「い、何時の間に……?」

イルカは目を丸くしながら小さく呟いた。





なんか最近変なんだよなあ。

イルカは鉛筆を口に当てながら、ぼんやりと考えた。
よく分からないけれど、微妙に自分の物が性質を変えているような気がする。それはどういう事かと言えば、例えば今着ている忍服。これは里から支給されるもので、皆同一規格のものだ。甲乙なんてない。それなのに。

なんかこのベストとか・・・急に軽くなった上、寒暖の調整もきくようになったような・・・
それにアンダーもごわごわしてたのに、急にさらさらと肌触りの良い感じになったんだよな・・・

ポリ100%のはずのベストから、時々白い羽根のようなものが出てくるのが不思議だった。
それを見た同僚が、「スモールフェザーなしの高級ダウンか?特注したのか?」と目を丸くしながら訳のわからない事を言ってくる。忍具もやけに切れ味がいいし、内緒だが、あまり使わないから手入れの怠ったそれは少し錆気味だった筈なのに、今は鏡の様にイルカの顔が映るほどぴかぴかに砥がれている。

俺の思い違いか?本当は錆びていなかったのか?

イルカは一生懸命考えてみるが、そんな事は明らかになる事もない。
それにその奇妙な違和感は日々大きく膨らんでいく傾向にあった。自分のボロアパートに帰った時もそうだ。
冷蔵庫の中の、売り切りで少し色の悪くなった豚の細切れが、非常に鮮度の良い色合いに変貌していた時には吃驚した。でもパックは変わらない。「売り切り半額」のシールがちゃんと貼られているし、パックも開けられた形跡がない。それなのに中身だけが違ってしまっているような奇妙な感覚。不思議に思いつつも、その肉でキャベツと炒めてホイコーローを作ってみて、イルカは更に吃驚した。

うま・・・!何だこれ?本当に豚肉か・・・!?

確かに豚の味はするのだが、その弾力といい風味といい、自分がいつも食べている豚肉ではなかった。
そんな事は日常茶飯事で、干乾びていた筈のシソが青々としていたり、白いカビの生えていたナスが美しい紫の新鮮なものになっていたり。

それになんだかベットのシーツも、ぱりっと糊付けしたものになってるんだよなあ・・・

毎日毎日、シーツから洗濯のいい香りがする。それはいいのだが、時々ゴミ箱の中に見覚えのない丸められたティッシュが入っていたり、部屋の中の様々な場所が糊をなすりつけたようにがびがびしている事がある。それがどうしてなのかイルカにはサッパリ分からなかった。

俺、今朝無意識の内に鼻とかかんだのかなあ・・・?
家中ががびがびしているのは、知らないうちにアカデミーで作業中糊を袖口にでもつけてきたんだろうか・・・?

とにかく微妙にイルカは自分の生活に違和感を感じていた。
だが、それはイルカにとって見れば気のせいかもしれない、と思えるような範疇の出来事だったので、首を傾げつつもそのままに日々を送っていた。
しかし最近はそうもいかなくなってきた。イルカはフウと大きな溜息をついた。
なんだか最近は猛烈に視線を感じるのだ。町を歩いていてもアカデミーで授業をしていても。家で寛いでいても。
殺気とは違う、しかしどこか尋常ならざるオーラを孕んだ視線を、イルカはひしひしと感じるのだ。

誰かに見られてるのか、とも思うけど。でもこんなに四六時中俺を見ているもの好きなんていないよな・・・

そう、その視線をイルカは24時間起きている間はずっと感じている。
そんなに誰かを見詰めるなんてありえないことだった。だからイルカは自分が何処かおかしいのかと不安になった。

俺・・・ノイローゼ気味なんだろうか・・・?

イルカが暗い面持ちでフウともう一度大きな溜息をついた時、
「どうしたんですか?イルカ先生。元気がなさそうですけど・・・」
思いがけず声を掛けられた。イルカがハッと顔を上げると、そこには報告書を片手に最近知り合ったばかりの上忍はたけカカシが立っていた。
「俺でよければ、相談にのりますけど?どうですか、この後飲みに行きませんか?」
疲れたイルカの瞳に、カカシの爽やかな笑顔が映った。






「・・・で、一体何があったんですか、イルカ先生?」
いい感じで酒が回ってきて緊張が解れた頃、カカシがさり気なく訊いて来た。イルカを覗きこむ目が真摯だ。
しかし。
「ええ・・・いや・・・ははは・・・」
イルカは曖昧な笑みを浮かべ言葉を濁すだけだった。
だって相手は上忍だ。さっきは精神的に切羽詰っていたところに優しく声を掛けられて、ホイホイついてきてしまったが、カカシとはまともに口を利くのが初めてだといっても過言ではない。ナルトを通じて最近知り合ったばかりなのだ。

そ、そんな人相手に『ストーカーされてるかも・・・』なんて言えないよな・・・
それにストーカーって言ってもなあ・・・

イルカは改めてそのことを考えて腕を組む。

何の取り得も無い一介の中忍である俺が。今までの人生でもてた事のない俺が。
誰かにストカーされてるかもしれない・・・なんて、自意識過剰というか、ちょっと嫌な勘違い野郎と思われるんじゃないだろうか?

それに何の確証も無いのだ。
何となく、そんな感じがするというだけで。

こんな事、とてもカカシ先生には言えないよな。
大体、この程度の事でぐだぐだ考えている俺がおかしいんだ。

イルカは思いなおして、
「な、何も無いですよ・・・お、俺そんなに暗い顔してましたか?すみません、カカシ先生に気を遣ってもらって・・・」
視線を外してズズッと盃を啜った。話を打ち切るつもりだった。
すると。
ダン!とカカシが拳でテーブルを叩いた。
その勢いにテーブルの盃から酒が零れ、料理が皿からずり落ちる。ついでに吃驚した周囲の客の体もビクリと揺れる。
息を呑むイルカに物凄い形相をしたカカシがズズズイイッと詰め寄った。
「イルカ先生・・・なんで嘘つくんですか!?俺が頼りないからですか!?気のせいなんかじゃない・・・
貴方は今朝ぼんやりしてアパートの階段から転がり落ちたり、いつもは丼5杯は食べてる昼ご飯を2杯しか食べなかったり、溜息の数に至っては今日一日で391回もついてるんですよ!?
なんでもないってわけないでしょ・・・!?これでも俺は心配してるんです・・・!!」
ペペペ!と唾を吹き付けられる勢いで捲くし立てられ、イルカはその迫力に思わず身体を仰け反らせた。

カカシ先生にそんなことまでばれていたなんて・・・!!

イルカはカカシの言葉にカアと顔を赤らめると同時に、とても嬉しい気持ちになっていた。
自分の事を気に掛けて心配してくれている、それが伝わってきたからだ。

全く付き合いのない俺にこんなに親身になってくれるなんて・・・カカシ先生ってなんていい人なんだ・・・!

イルカは感動で目がウルウルとしていた。
「流石はカカシ先生ですね・・・!何でもお見通しなんですね・・・」
イルカは鼻の下を擦りながら、一拍置いて声を潜めて言った。
「実は俺・・・ストーカーされてるみたいなんです・・・」




え・・・っまさかそれって俺のこと・・・?

カカシはあまりの驚きに猛烈な動悸息切れ眩暈に襲われていた。口布をしていてよかったと心から思った。イルカは全くカカシの動揺に気付いていないようだった。
そう、カカシはイルカに何年も片思い中だった。その年月はそのままストーカーの記録でもある。
最初に会った時はまだ暗部だった。自分の忍犬が怪我して倒れていたところをイルカが救ってくれたのだ。普通訓練されたカカシの犬はそんな事をカカシ以外の他人に許さない。それなのに。
カカシが見つけた時には犬は腹さえ見せてイルカにじゃれ付いていた。
その時のイルカの笑顔にパッパッとお花が咲くのが見えたのだ。目を何度も擦ってみたが、何度擦ってみても、イルカが笑い声を上げる度、その回りにお花が見える。
まさに恋に落ちた瞬間だった。
今はイルカの笑顔を見る度に、別の場所を擦ってハアハアしてしまう自分だったが、まさか。まさかまさか。

す、ストーカーを、き、気付かれていたなんて・・・

思ってもみない事実にカカシはうろたえていた。絶対に気づかれていない自信があった。なんてったって、自分は木の葉一の技師。上忍で写輪眼の実力をフルに駆使してストーカーしているのだ。
ちょっと失礼な言い方ではあるが、一介の中忍如きに気取られるものではない。
はすだったのに・・・
俺以外にもストーカーが?と思ってみたが、イルカの話によると、やはり自分のことらしい。

ああっ・・・俺のストーカー人生最大のピンチ・・・!!!!
このままストーカーを続けてイルカ先生にばれたら嫌われる・・・!!
でもイルカ先生の一部始終を覗かずにはいられない・・・!

イルカの見ていられないほどの憔悴振りに思わず声を掛けてしまったカカシだったが、だからといってアプローチを試みようと思っていたわけではない。
そこまで心の準備ができていなかった。

まだストーカーしてるだけで十分幸せなのに・・・!その機会さえ失ったら・・・

カカシは追い詰められていた。どうしたら、どうしようと焦る頭の中は鳴門の渦潮の様に激しくぐるぐると回っている。
そしてその時正々堂々とストーカーできる、いい考えが閃いた。
「イルカ先生・・・俺が24時間、そのストーカーとやらを見張っていてあげましょうか?」
我ながらいい考えだ、とカカシは内心うんうんと頷いていた。





何でこんな事に・・・

イルカはつい三十分前には考えてもみなかった事態に陥っていた。思わずハアーッと大きな溜息をつけば、
「大丈夫ですか、イルカ先生!?」
すかさず何処からか声が掛かる。
カカシの声だ。
イルカはもう一度吐いてしまいそうな溜息を押し殺して、
「大丈夫です、なんでもないです・・・」
何処から聞こえてくるとも分からない声に返事をした。
そうなのだ。恐れ多い事になった。
何故かカカシが二十四時間イルカをボディーガードしてくれる事になったのだ。
しかも、ストーカーを捕まえるために、カカシ自身も気配を殺して物陰からひっそりと。
善意とはいえ、微妙な申し出だった。

24時間何処からか監視されてるなんて、これでは、ストーカーがもう一人増えたのも同じじゃないか?

イルカはそう考えて首を左右にブンブンと振った。

カカシ先生は俺の為を思って、無理をしてくれているのに・・・俺がストーカーの相談なんかをしたから悪いんだ・・・

イルカは30分前の居酒屋での事を思い出していた。
「ストーカーされてるみたいなんです・・・」
呆れられるかと思ったが、それどころかカカシは真剣な眼差しでイルカの与太話を聞いてくれた。
「他にどんな事に気付きましたか?」
「ええ・・・?そ、そんなことまで・・・!?」
「トイレの個室も落ち着かないわけですね?」
日常にジワジワと迫り来る恐怖を、カカシはかなり理解してくれたようで、相槌を打ちながら驚愕に慄いた表情を浮かべていた。
イルカはそんなカカシの態度が嬉しく、全てを話した時点で、鬱々としていたものは吹き飛んでしまっていた。

誰か、親身になってくれる人がいるってだけで、精神的にかなり違うものだな・・・

それだけでイルカは満足だったのだが、カカシはとても正義感の強い男だったらしく、見過ごしてられないとばかりに強い口調で言った。
「イルカ先生・・・俺が24時間、そのストーカーとやらを見張っていてあげましょうか?」
「ええっ・・・!?と、とんでもない・・・!!」
イルカは丁寧に何度も何度も断わったのだが、カカシも退かなかった。
「ストーカーなんて卑劣な行為、絶対に許せません・・・!何かあってからじゃ遅いんです・・・!」
結局物凄い勢いで流されてしまった。

はあー・・・ストーカーが勘違いだったらどうしようかな・・・

イルカは胃をキリキリさせながら、コップに水を汲んで一気に飲み干した。あまりに勢いよすぎて口の端から零れてしまった水を無造作に拭うと、ゴクリ、と何処からか音がした。

あ・・・カカシ先生も喉が渇いたのかな・・・?

イルカは自分の気の利かなさを恥じて、「カカシ先生も水、どうですか?」と訊くと、「いえ、結構です」と返事が返ってきた。
その身の潜め場所はやはり全く分からない。

さすが上忍だなー・・・

イルカはそんな事を考えながら、また溜息をつきそうになった。
何故なら今から風呂に入らねばならないのだ。
同じ男同士、別に裸を見られたところでどうということも無いのだが、じっと見られていると思うと、何だか気恥ずかしい。

ま、まあ、俺の裸をじっと見ているわけは無いんだけどな!その辺は見て見ぬ振りをしてくれるだろうし・・・!

イルカは思いなおして、
「カカシ先生、俺、今から風呂に入らせてもらいます。」
姿の見えないカカシに断わり、ベストのファスナーに手を掛けた。
またゴクリという音が聞こえて、

やっぱりカカシ先生、喉が渇いてるんじゃないかなあ・・・水ってのが悪かったのかな・・・そうだよな、客人に水じゃなあ・・・

風呂から出たらお茶を入れてあげよう、と決心しながらイルカはズボンを躊躇い無く引き下げた。


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