中編

今頃どうして黒蝶は現れたのだろう。
今まで一体何処で何をしていたのだろう。

今も木の葉の里の何処かに黒蝶はいるのだろうか。

カカシはアスマの話を聞いた時から、そんな事ばかりを始終考えるようになっていた。
どうしてなのか。そんなの決まっている。会いたいからだ。その気持ちは日増しに強くなる一方で、抑え難い感情に出口が与えられないことにカカシは酷く苛立った。自分がこんな風になるとは思ってもみなかった。というのも、カカシは諦めていたからだ。もう黒蝶には二度と会えないものだとばかり思っていた。
何故なら自分が暗部に所属していた時でさえも、黒蝶について一欠けらの情報も得ることができなかった。この写輪眼のカカシの実力を以ってしても。暗部の誰に訊いても、そんな奴は知らないと皆一様に答えた。唯一答えを知っているであろう火影についてもまた、その消息や素性について一言も洩らす事はなかった。木の葉の里にその気配を探すこともできなかった。
その事実から判断して、黒蝶は長期に渡って国外で極秘任務を続けているか、もう死んでいるか、どちらかしか考えられなかった。どちらであっても、カカシには歓迎されざる結末だった。

それなのに、生きて。この里に。

そう思うとカカシは居ても起ってもいられない気持ちになるのだ。どうしても会いたい。また黒蝶がこの里から消えてしまう前に。鮮烈な過去の情景がカカシを甘く痺れさせる。
恥ずかしながらアスマにも頼んでその行方をまた探っているところだが、今のところ何の手がかりも掴んでいない。予想していたこととはいえ、カカシの心は募る焦燥と落胆に暗く沈んでいた。他に気を払っていられないほどに。




「あの...カカシ先生?俺の話、聞いてましたか?」

イルカは訝しげな声でカカシにそう尋ねた。その声に弾かれたように、カカシがハッと正気付いて「き、聞いてましたよ〜勿論ですヨ、イルカ先生〜」と焦ったように言う。見え透いた嘘だと一発で分かるような大根ぶりだ。一生懸命イルカのご機嫌を取り出すカカシに、イルカは知らずふう、と深い溜息を零していた。イルカとカカシはいつもの如く、二人で飲みに来ていた。今日誘ったのはイルカだ。そんなことは本当に珍しいことだった。普段ならばイルカが誘う間も無いほど、カカシの方から言い寄ってくる。

イルカ先生、今日は何か予定がありますか。
よかったら、俺と飲みに行きませんか。
ね、いいでしょう?

そう言って三日月の形に目を眇めて微笑む。自分に向けられる、その何とも言えない優しい微笑が、イルカはとても好きだった。自惚れる訳ではないけれど、カカシが頻繁に誘ったり優しい微笑を向けたりするのは、どうも自分だけのような気がしていた。ひょっとしたらカカシ先生も俺のことを...と少し期待していただけに、目の前のカカシの変貌ぶりに落胆せずにはいられない。最近カカシはイルカと向かい合って酒を飲んでいても、心ここにあらずといった感じで何処か上の空だ。そんなことは今までなかった。いつもイルカの瞳をじっと見つめ、つまらない話にも耳を傾けてくれた。しかもそれだけではなく、カカシはあまり自分を誘わなくなった。そのことを問うと、最近調べたいことがあって忙しいと言う。そんなことを言われると、俺は避けられているのかと疑いたくなる。

全部俺の独り善がりだったのかな。
それとも、俺が何かカカシ先生に嫌われるようなことをしたんだろうか。

イルカが沈んだ様子で顔を俯けると、カカシが慌ててその顔を覗き込んだ。

「イ、イルカ先生?怒ったの?ごめんね、俺なんかボーッとしてて...」

カカシのその顔が本当に申し訳なさそうで、返ってイルカを悲しくさせた。あなたの気持ちに応えられなくてごめんね、とカカシが自分に向かって断りの言葉を告げているような気がする。イルカは堪らなくなって、思わず席を立った。

こんなカカシ先生と飲んでいても、気が滅入る一方だ。

「あの...俺、今日飲み過ぎたみたいなんで...もう帰ります。こちらから誘っておいて、申し訳ありません...」

ようやくそれだけ口にすると、イルカは逃げるようにその場を去った。

「イ、イルカ先生....待って!!」

カカシが自分の失態を悟って大急ぎでその姿を追う。しかし、カカシが居酒屋の扉を開けた時には、最早イルカの姿は何処にも見当たらなかった。術でも使ったのかというほどの早さだ。

「素早いなあ...イルカ先生...」カカシは茫然としながら小さく呟いた。

この素早さ...まるで黒蝶のよう。

そう考えてカカシは自分の頭を抱えた。何でも彼でも黒蝶、黒蝶。俺の頭はそればかりだ。イルカが機嫌を損ねるのも無理は無い。イルカの話を、全く聞いていなかったのだから。イルカは怒っているのだろうか。それとも呆れているのだろうか。

「俺は一体どうしたいんだ〜よ...」

情けないボヤキがカカシの口からポロリと零れた。




翌日のイルカの気分は最悪だった。イルカは受付所の仕事をしながら、「はあ〜」「ふう〜」と何度も何度も深い溜息をついた。そのあまりに浮かない様子に、イルカの爽やかな笑顔しか知らない受付所の同僚達は、イルカ、一体何があったんだ?俺で良ければ相談に乗るぞ、と皆必要以上に深刻な顔でイルカに耳打ちしてくる。周りに気を遣わせている自分が情けなくて、イルカは余計に自分の顔を曇らせた。
更に追い討ちをかけるように、席を外していた同僚が戻ってくるとイルカに言った。

「イルカ、火影様が呼んでたぞ。なんでも至急の用事だそうだ。」

...またか。

イルカはゲッソリとしながらも、「ありがとうな、」と礼を言って、のろのろと席を立った。できればこのまま蝸牛の如くのろのろと進んで、火影の部屋に着く前に終業のベルを聴きたいくらいだ。火影の用事なんて、イルカには分かり過ぎるほど分かっていた。
あの一件以来火影の「暗部に戻って来い」要請は、かなりしつこいものになっていた。過言ではなく顔を合わせる度毎に言われる。イルカは辟易してなるべく顔を合わせないように苦心していたが、呼び出されてしまってはどうしようもなかった。

何を言われても、俺は戻る気なんてないのになあ。

イルカが浮かない顔をしながらトボトボと歩いていると、反対側からアスマがやって来た。

「よお、どうした?元気がねぇなぁ、イルカ。」

アスマの言葉にイルカは苦笑を浮かべた。本当に俺は分かり易過ぎる...。

「最近体の調子が悪いんです...」イルカはどうでもいいような言い訳をした。

アスマはふうん、と自分の顎鬚を撫でつけながら、悪戯けた調子でイルカに言った。

「とかなんとか言って、お前ぇも恋煩いかなんかじゃねえのか?」

「いえ、そんな...」とイルカは答えながら、アスマの発言に何か引っ掛かるものを感じて言い淀んだ。

何も知らないアスマは話を続けた。

「どうだかなあ。最近カカシの奴も色ボケ気味でな、春でもねぇのに皆お盛んなこって。」羨ましいぜ。

アスマの言葉に瞬間イルカは固まった。自分の体がサーッと冷えていくのが分かった。カカシの変貌ぶりを不審に思っていたが、その原因が自分以外の他にあるとは考えてもみなかった。

カカシ先生に好きな人が。
俺....じゃないんだろうな、この場合....

黙って俯いたままのイルカを、アスマは勝手に恥ずかしがっていると勘違いして、ま、上手くいったら報告しろや、酒ぐらい奢ってやるぜ?とイルカの肩をポンポンと軽く叩いた。
全く余計な気遣いだった。



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