黒蝶再び前編
「イルカよ。国境沿いの北の森付近から紫の狼煙が上がった。」
煙管を燻らしていた火影が、イルカに向かって厳しい面持ちで告げた。
「...緊急の救援要請の狼煙ですね。しかも、紫...」イルカはそう言ってゴクリと唾を飲んだ。
その色の意味するところは、敵がかなりの凄腕だということだ。それ相応の救援を要請していることに他ならない。つまり、狼煙を上げた木の葉の仲間は、今まさに苦境に立たされているに違いなかった。
「狼煙を上げたのは、お前も良く知っておろう、アスマの率いるチームだ。木の葉をちょろちょろしておった鼠を追わせとったんじゃが、小物と思ってぬかったわ。相手は虎だったらしいの。」
火影の言葉を聞きながら、木の葉の里でもその実力を誇るアスマ先生が、とイルカに緊張が走る。咄嗟にシカマル達の顔が浮かんだ。もしアスマの身に何かあったら、子供達が悲しむ。そう思うとイルカは居ても起ってもいられなくなった。愚図愚図している暇は無い。イルカは決心した。自分の暗部への復帰を願う、火影様の思う壺のような気がするが、そんなことを言っている場合ではなかった。
「それで、適当な人材が俺しかいないということなんですね?」
それに対する火影の返事は、イルカにとって、大変じれったいものだった。
「左様。木の葉の里三代目火影の名において、海野イルカに特別任務を...」
「分かりました、火影様!これ、借りていきますよ!」
火影の話を最後まで聞かずに、イルカは机の上に用意された暗部の衣装を乱暴に引っ手繰ると、疾風の如き素早さでその姿を消した。
その軽やかな身のこなしに火影の口から、ほう、と感嘆の息が漏れる。
「流石、イルカ...腕は鈍っておらぬようじゃの。」
なかなかやりおるわい、と火影は一人愉快に笑った。
「救援はまだか!?」アスマの怒号が大地を震わせる。
鼠を追いかけて罠に嵌った。追いかけていた鼠は強かな頭脳を持っていたのだ。アスマ達は知らず、予め張り巡らされた呪の術印の上を走らされていた。右へ左へとすばしっこく逃げる敵の動きに、明確な意図を読み取れなかった。
俺の失態だ、ざまあねぇ。
アスマは舌打ちをした。ある程度追いかけたところで、突然足が大地に絡め取られたかのように動かなくなった。術のトラップに自ら嵌ってしまったのだと、その時になってようやく気付いた次第だ。術は複雑に幾重にも張り巡らされていたようで、解の印を組んでみたところで一歩たりとも足を動かすことができない。すぐに救援の狼煙を上げたが、勿論敵は待ってくれなかった。足が動かなくては流石のアスマといえど、敵の攻撃を避け、距離を保つだけで精一杯だ。アスマをしてその状態なのだから、部下達の状態はもっと悲壮だった。部下の一人が膝をついた気配を感じながらも、どうすることもできない自分にアスマは苛立った。
このままだと嬲り殺しだぜ。くそっ、救援は間に合わねえのか!?
アスマの悲痛な叫びが天に届いたかのように、まさにその時頭上から声が降って来た。
「お待たせしました、」猿飛上忍、とその声がアスマの耳に届いた時には、ひらりと舞い降りた影が、動けぬアスマ達の間を風のように駆け抜けていた。その影は木の葉の暗部特有の獣面をつけていた。救援がやっと到着したのか、とアスマが喜んだのも束の間、次の瞬間には忽ち顔を曇らせた。
まさか、救援はたった一人か...!?馬鹿な。
それにこいつ、腕に暗部の刺青がありゃしねえ。一体どういうこった。
こんな奴、見たことがねぇし。大丈夫なのか?
しかも呆気に取られるアスマの側らをその影が掠めた時、クスクスという子供のような、無邪気な笑い声が聞こえた。その場違いな笑い声にアスマは益々不信を募らせた。
だが、そんなことは杞憂だったとアスマは一瞬の内に思い知ることになる。
その男はまさに風のようだった。
敵に防御も攻撃も許さぬ素早さで、刀身を閃かせる。
その素早さの前に、敵の動きは止まっているかの如く緩慢に映った。まるで男に殺されるのを、首を並べて待っているかのようだった。
間合いを詰める速さが半端じゃねぇ。
アスマは呻いた。
目測で動いていちゃあ、命がねぇな。俺が敵だったら...そうだな。あいつの気配を読んで動く。それでも間に合うかどうか。
アスマは自分の置かれている状況も忘れて、何時の間にか興奮に目を輝かせていた。
面白い奴がいたもんだな。今度是非とも、手合わせ願いてぇな。
男が動く度に、風に舞う木の葉のように、敵の体がきりきりと廻ったかと思うとドサリと崩れ落ちる。崩れ落ちた肉塊からは血飛沫が上がり、辺り一面を赤く染めていた。しかし、その男の白い装束はただの一滴すらも返り血を受けていなかった。
「な、何が起こってるんですか?」
部下の一人が怯えたように呟いた。アスマの目ですら追うのが精一杯の男の姿を、部下達が捕らえられるはずも無かった。
「さあな。ま、俺達が命拾いをしたってことは確かだな。」
アスマがそう答えた時、男がゆっくりとこちらを振り返るのが分かった。それは戦いが終った合図だった。
男の括られた黒い髪がゆらゆらと揺れるさまを、アスマは茫然と見つめた。こうなることとは予想してはいたが、いざ現実のこととなると怖気立つ思いだ。
本当に、全部一人でやっちまいやがった...まじか...
男の圧倒的な強さに痺れてしまったかのように、アスマは体を動かせないでいた。
そんなアスマの様子に、暗部の男は呆れたように言った。
「何ぼんやりしてるんです?術はもう解けてますから、足は動くはずですよ。」
その声に何処か聞き覚えがあるような気がして、アスマは首を傾げた。
「紫の狼煙なんか上げるから、どんな敵かと思いましたよ。この程度の敵に上げるかなー普通。」
男の横柄な口の利き方に、一瞬アスマはポカンとしてしまった。
な、何だ、こいつ。
木の葉広しと言えど、アスマにそんな横柄な口を利く怖いもの知らずは、今まで存在しなかった。カカシを除いて。
間抜け面を晒すアスマに、男は止めを刺すように言った。
「あんまりがっかりさせないでくださいよ。」
な、な、な、
「なんだとーーーー!?」アスマが我に返って咆哮した時には、男の姿は風のように消えていた。
「....と、いうわけなんだ。生意気な奴だろ?全くムカツクぜ。」
アスマの話をカカシは信じられない気持ちで聞いていた。似ている、似過ぎている。
風のような素早さ。
圧倒的な強さ。
生意気な口調。
そして揺れる括り髪。
まさか。
カカシは逸る心を押さえつつ、決定的なことをアスマに尋ねた。
「その人、腕に暗部の刺青が無かったんじゃない...?」
アスマは「おぉっ?」と驚いたような声を上げた。
「何だ?奴を知ってるのか、カカシ?確かに腕に刺青が無かったぜ...そのことを不思議に思ったから、良く覚えてる。間違いねえ。」
...黒蝶だ。
カカシは興奮に胸が高鳴るのを感じた。
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