<目次>

英語奮戦記

クラシックとの出会い   

アルバイトで電蓄を

職場と吹奏楽団

ステレオ奮戦記

座右の銘


電話回線を切断して、ごゆっくりとご覧ください。

進路標識へ戻る
  大好きな おじぃちゃん
  応援するわ
  がんばってネ




 更新 2000年2月5日




英語奮戦記

42歳だったと思うが、ある日曜日、「赤尾の豆単」をなんとなくめくっていた。
ところが昔は(?)憶えていたはずの英単語が、さっぱりピンとこなくて全ページを走破したところ、 自信のある単語は500程度。
いまさら・・・と思ったが、もう一度やってみるかと決心した。

さて、なにをどうはじめるか周りに思いを馳せた。

そうだ、うちの会社で「英会話教室」を早朝やっていたぞ。
さっそく幹事と掛け合い週2回の教室に通うこととした。

教師は、NEW ZEALAND から来ていて講道館へ通うJohn Robertsonというまじめな青年でした。
教室仲間とジョンは、すっかり打ち解けていて、「ジョン」と呼び捨てで通した。
銀座のど真ん中でジョンとばったり逢ったときなど、10メートルも先からお互い手を上げて、わたしは「ジョーン」、ジョンは「おお・・ミスターハラーダァ」と呼び合い、銀ブラ族の笑いを買ったこともあった。

<ジョンというのは、日本ではもっともポピュラーなイヌの呼び名だもんな。>

別途教材も調査・・・ THE DAILY YOMIURI が毎日配達で月千円とのこと。
『讀賣』のこととて、西武ライオンズ・ファンとしては、切ない気持ちだったが、一般新聞紙の半額以下なので飛びついたが、毎日のこと、一面と「三面記事」がやっとだったが、頑張って読んだ。
意味の取れない文があっても、余り深く考えずじゃんじゃん読んだ。

赤ん坊が言葉を憶えてゆくのに、いちいち辞書を引くわけでもなし、とにかく英語漬けになることだ。そのうち、英語で夢を見るようになった。

2年も経ったころ、
英検 を受けてみたくなり、二級に挑戦。
ある日曜日、早稲田実業の教室で、まだガキっぽいおにいちゃん・おねえちゃんたちと一緒に受験。
結果は「SUCCESS」とだけ書かれたハガキを受け取る。・・・合格でした。
次は一級をと、受験読本をはじめたら、過去の出題として

     「喪家の犬」   「推敲」     英文で説明を・・・だと。

こりゃだめだ。英語どころじゃない。
日本語から始めなくっちゃ・・・・あほらしくなってやめた。

あれから、もう15年。また英語から遠ざかってしまっている。

  いっぷく・・どうぞ




   
わたしの座右の銘
わたしの座右の銘
(還暦を迎えてこれに変えた)

I am aged but not old.

(年はとったけど、老けたりはしません)





クラシックとの出会い

 1955年、新潟県の糸魚川高校から東京の大学へでてきて下宿生活をはじめた。
 その下宿は、おばさんと早稲田大学生のひとり息子(謙ちゃん)のうちで、僕のほかに三人が下宿。
 すぐ近くの別の下宿に北海道から、武蔵野音大生のふたりの女学生がいて、みんな仲良くしていた。
 謙ちゃんが音楽好きで、うちへ帰ると同時にラジオのスイッチを入れていたので、ぼくの生活の場に常に音があった。
 新潟の家は山間で 親不知・子不知 のある町。
 電波の届きが悪く、屋根より高く、家をまたぐようなアンテナを張り、
 やっとラジオ放送を受信していた。

 一家に 遊女も寝たり 萩と月 〜芭蕉の句

 そんな環境からの変化に、「やっぱり東京だな」と幸せな気分になっていた。
 毎日聞いているうちにだんだんと興味がわいてきて、知らぬ間にクラシックが好きになっていった。

 NBC交響楽団の指揮者トスカニーニが亡くなった頃らしく(当時僕はそんな人知らない)そのNBC響が シンフォニー・オブ・ジ・エアとかいう名で来日、「学生のための演奏会を破格の料金で招待」の報に 下宿と音大生で行くことにし、枚数限定なので前夜から新聞社の前に並び、やっと入場券を入手した。
 当日、日比谷公会堂に着いたら,真中の一番前の席でみんな小躍りして喜んだのを憶えている。
 そんなことから、クラシック音楽に没頭していった。

 その頃、喫茶店のコーヒーはほとんど60円だったが、名曲喫茶は70円というのが相場。

 ♪♪ 国鉄(いまJR)・山手線全駅10円で行け、銭湯が13円、散髪が50円、公衆電話は市内10円無制限。
でも、その時代・・・ピースは10本40円もしてました。♪♪

 クラシックの曲は長く、客も長居をするのを当たり前と3時間でも4時間でも粘ったものだ。
 僕もそんな仲間になっていたが、当時クラシツクのLPレコードは二千三百円もしていたので、 レコード一枚分で喫茶店なら1ヶ月通えると原価計算をし、店で曲をリクェストし、それがかかるまで頑張った。

 ♪♪ とはいっても、毎日通えるわけでもナシ。
 1ヶ月の小遣いは、昼飯・定期券・散髪・銭湯・たばこを含め、 4,000円しかなかったんだから・・・。
 でも、下宿代は二食付き6,000円でした。♪♪

 そのせいでもないが、大学卒業に5年もかかった。



アルバイトで電蓄を

 1962年、大学2年の夏、電蓄(電気蓄音機)が〜いまでは死語だが〜欲しくてアルバイトを計画。
 夏休み期間のデパートの求人広告を大学で見て、三越の宅配をしている大和運輸(現〜くろねこやまと)に決めた。

 都内の限定地区を宅配する仕事。自転車とリヤカーの2種あり、どちらかをはじめに登録せよとのこと。
 内容を聞いたら、伝票一枚(配達一件)につき自転車は13円・リヤカーは17円とのこと。
 リヤカーで登録すると、たとえ応接セットでも配達一件だが、ハンカチや靴下などの小物でリヤカーを付けず 軽々と自転車だけで配達しても、リヤカー扱いで一件17円くれるという条件。
 当時、重量挙げ部でクラブ活動をしていて体力には自信があったので、リヤカーを選んだ。

 配送所の希望を聞かれ、椎名町のデポーに決めた。
受持ちの区域は豊島・新宿・練馬・板橋区の限られた地区だった。
 場所を覚えるためには交番の巡査と仲良くなることだと、ひまをつくってはおまわりさんと雑談をしながら タバコを吸い、時にはお茶を進められたりもした。
 そのうちに僕が行くと「きょうは何処だ?」と向こうから聞いてくれる始末。ありがたかったなぁ。

 リヤカー契約だったから、ビール2ダース入りのお中元ものは僕へ回ってくる。 自転車に取り付けてある荷カゴの縁は顔の高さくらいあり、上げ下ろしに苦労した。

 ある交差点を右折するつもりで片側2車線の左側から、中央へ向かおうとしたら左車線に大きなアメ車、 右車線にバス、信号が赤。僕も両車の隙間で待機。青に変わり進もうとしたら自転車特有の揺れで両車に荷カゴを 挟まれ3人とも(?)ストップ。
 途端にアメ車から甲高い英語、当時はまだいた進駐軍だった。バスの乗客も窓から首を出し「おにぃちゃん、大丈夫?」と頭の上から 聞いてくれた。  軍人も降りてきて僕の肩を叩いたりして「大丈夫か?」と心配してくれたが、気がつくとアメ車の右側は一直線にキズ、「すまん」と 思ったので「OK」「OK」を連発して笑ってみせたら向うもホッとしたらしく、一件落着といったことだった。

 リヤカーを付けていて、中野区哲学堂の方から目白方面への坂道を下っていたときブレーキの効きが悪いことに気づくが 下りでどんどんスピードは増す一方、下りきったところに左からは江古田の方からの通称十三間道路、車が多い。「しまった」と思ったが どうにも止まらない。
 「仕方が無い。ハンドルを急切して転ぶしかあるまい。」と・・・電柱など無いところを確認して歩道に乗り上げるように 急ハンドル。ガシャーンという音とリヤカーが体にのしかかってきたのは憶えているが、なにやら朦朧としてくる。
 気を失うほどのことではなかったが、周りにひとが集まり「大丈夫か?」と言いながらリヤカーをどかしてくれたっけ。
 幸いひざをちょっと擦りむいた程度で済んだから、「ありがとう。心配かけました。」と一礼して、 下までは自転車を引いてと、下り始めたがリヤカーの重みで支えるのが大変だった。

 そんな一ヶ月のアルバイトだったが、他の学生より多分に多い一万七千円位もらったように憶えている。
 <一万三千八百円>という給料取りの歌があったくらいだから、相当良い手当てだったと思う。


 さっそく秋葉原へ走り物色、コストパフォーマンスを考えるとメーカー品は無理。店舗自作のパワーの強い 真空管を使ってある剥き出しのアンプに決め、スピーカーは板に穴をあけて設置することにし8インチを、プレーヤーは厚板にモーターとピックアップを取り付け自作することに決め ナショナルの部品を買った。

 レコードは取敢えず鶴田浩二「赤と黒のブルース」(SP)一枚っきり。いくらクラシックが・・と思ってもクラシックLP レコード一枚2千300円。らーめん一杯35〜40円のころ、簡単には買えない。それでもFMは無い時代 だったが、NHKがいい放送をしていたので結構楽しめた。

 中古レコード店へゆき、人が買わないような人気のないLPを探し一枚700円くらいのを買った。 そんなレコードに輸入盤R・シュトラウス「ツァラツゥストラはかく語りき」などがあり、友達に「ふざけた曲を買って・・」 と馬鹿にされたこともあったが、その数年後、伊勢湾台風の朝日新聞ニュースでこれが流れたのを映画館で聞いたときは びっくりもしたが、「それ見ろ。わかるひとはわかってんだ」と感無量だった。
 その後1968年、世界を湧かせた映画「2001年宇宙の旅」ではテーマ音楽として、だれの耳にも心地よく響き渡ったのは有名だ。
 その後、親父が見かねたのかLPを買えと言ってお金をくれた。初めての新品LPはドボルザークの「新世界」とサージ・チャロフ のバリトン・サックス(JAZZ)だった。
 あれから、もう40数年。懐かしいよき時代だったな。




 
職場と吹奏楽団

 1960年、電気化学工業梶`デンカ〜に入社。下記の青海工場などで一ヶ月半の入社教育を受け、有楽町にある本社の 経理部主計課への配属となる。
配属早々、決算期と増資のための膨大な資料作りで、大忙しの職場だった。
 大学は商学部とは言っても「簿記」の授業は一回だけ出席したが借方・貸方と聞いて、アホらしいと放棄。  主計課ともなれば簿記は日常言語のごときもの。習うより慣れろとは良く言ったもので、大した苦労もせず なんとかついていけた。

 本社ビルは宝塚劇場と地下で続いていたので、有名人と顔つけあうのも、しょっちゅうで、ビルの間の人通りの少ない歩道を 渡ろうとした時、30m位先をこちらへ向かってくるカッコいい男がいておやっと目を凝らしたら、あの裕次郎だった。
 すれ違うとき、「やぁ」と右手をあげたら、裕ちゃんも「やぁ」と手を挙あげてくれたっけ。

 入社から三年経ち、1963年、新潟県の青海町にある工場へ転勤となる。
 その工場は標高1200mの黒姫山をダイナマイトで発破し採取した石灰岩を主原料とし、 生石灰〜カーバイド〜石灰窒素・酢酸・塩ビ・クロロプレンなどを生産するデンカの主力工場で従業員が約四千人。
 石灰岩から最新鋭の合成樹脂までと、化学の歴史を実地に見るような工場だが、配属はやはり経理部。原価計算などを仕込まれた。

 工場の式典のとき吹奏楽部があるのを知ったがフルートがいない。  「フルートは?」と聞きにいったら「いないんです」という返事。「じゃ、ぼくをいれてください」で即決まり。
 週二回の練習に自分のフルートで参加。
 化学工場のことで現場は三交代制。
 きのうはサックスがいないし、きょうはドラム無しといった練習しかできなかったが、わたしには楽しい日々でした。

 幸いなことに都市対抗野球(社会人野球)のチームを持ち、後楽園への夢が工場といわず町中がそうであった。
 その季節間近になると、バンド部員は昼間の勤めだけに特別扱いしてくれて、揃って練習ができた。
 都市対抗信越予選には、富山・新潟・長野と野球部と共にした。
 三年目だったか、宿敵「三協精機」さんを破り、われらが音を後楽園で吹きまくった。
 それから数年連続出場したが、「鐘化」さんと延長十数回引き分け再試合など、楽しかった。

 11月には、工場所有の三階建ての劇場で発表会を恒例とし、日曜夜に千人にも及ぶ聴衆を集め演奏会を催した。
 苦しくて楽しい雪国の生活だったが、社命じゃどうにもならず本社へ戻った。  思い出深い五年間だった。
   




  ステレオ奮戦記
  1964年のこと。親父が55歳を迎え30年以上勤めた会社を定年退職した。
その退職金から10万円をねだって、念願のステレオをと〜パーツに思いを馳せた。
当時はラーメン40円(?)の時代、いまの価値なら100万円というところか?。
 
その時選んだパーツ
フォノモーターTEAC〜マグネフロート式
ピックアップNEAT〜形式 忘却
カートリッジNEAT〜形式 忘却
プレーヤーボックス 自作
スピーカNational〜8PW1
スピーカボックス内径 W=60 H=90 D=45密閉型
 家具製造業に製作依頼
チューナーTRIO キット
プリ・メインアンプTRIO キット
レコードケース 自作
TRIO=現 KENWOOD

 当時の住まいは、入社三年目の転勤で新潟県青海町にある工場勤務中だったので、東京〜秋葉原の、 とある店と手紙(電話は相当な金持ち・・?)をやりとりして価額を決め、現金書留で送金。
 FM電波受信用の本格アンテナを屋根に取付け、プレーヤーケースを、頑丈な木材と格闘し 〜その頃はまだ電動のこぎりなど一般家庭には普及していない〜 一辺を切るのに一時間もかかった〜なんとか作り上げ、パーツの到着を待つ。

 工場は8時半〜4時半まで、工場正門からわが社宅までは100m、夕食もそこそこ、 図面とにらめっこしながら慎重にハンダ鏝を振るい、朝も早起きで取り組んだ。

 アンプは真空管8本、チューナーは6本だった。
 はじめてだったが、10日ほどで組上げスピーカボックスの完成を待ったが、なかなかできない。
 待ちきれず、そこらの板切れに適当な穴をあけ8PW1を取り付けスイッチ・オンの感激の瞬間だったが 機器のランプは点くのにボリュームを廻しても音はナシ。

 アンプを裸にして配線図とわが回路を見比べて行くが、どこも間違っていない。
 3〜4回チェックした記憶だが、主配線の前工程でボデイにアースする第一歩の手順を忘れていたことに 気がつき、苦笑いを禁ぜず。

 ようやくスピーカボックスが運ばれてき、内部にハシゴ状の補強材をガッチリと組み込み、吸音材を貼り 8PW1を取付けるのに丸一日費やし、やっと完成。


すばらしい高音と、うなるような低音に、
「あぁ・・これがわが音だ」

わが人生、佳き日のひとつであった。

  さぁ、これからレコードプレーヤーの製作だ。当時ヤマハ製と人気を二分していたTEACの名機マグネフロート・モーターだ。
 予算の3分の1はこのモーターだもんな。