牧島要一の指導による個展
1968年牧島要一の指示によりシマ画廊で個展
オノサトの指導と影響をうけながら、一方で牧島要一氏(岡田三郎助の弟子)に外光派の洋画技法の教習を受けていた。
恩師牧島要一に指導を受けた作品から(1965〜68年)
時計のある静物 | 菊の咲く静物 |
りんごと水差し | 横たわる裸婦 |
石膏像とリンゴ | 赤絵磁器のある静物 |
祖母と孫 | 裸 婦 | 人形遊び |
吾妻公園から見た景色 | 水仙のある静物 |
くつろぎ | 静 物 | 梅田の農家 |
人 形 | 写 生 | 人形のある静物 |
1960年代、毎晩のように岡田三郎助の弟子だった牧島要一の自宅に押しかけ、外光派の絵の描き方を教えて頂いた、幸運にも牧島先生は本当に私の手をとって筆を運んで教えてくれた。 この事はオノサト・トシノブから「教授お抱えの殿様だな!」と冷やかされた。
★牧島先生は私に石膏デッサンを勧めて教えたが、時おり手を握って線の運びと形のとり方を教えてくれた。また常にマリー・ロウランサンや若いときのピカソ・マチスの木炭デッサンの複製を脇において比較しながら表出方法を示唆してくれた。
個展へのメッセージ 恩師の牧島要一とオノサト・トシノブの推薦紹介文
牧島要一(画家)
保倉君は一流の高級織物意匠家として織物界に認められている人です。
生来絵を描くのが好きで、少年時代から私が制作上の相談相手になっております。
情趣ある誠実な天賦と,たゆまない修練の結果がこの展覧会となりました。
木が自分自身の葉をつける様に其の作品は作者の個性をゆたかに感じさせます。
どこにでもみられるもの、どこにでもある情景を彼の心を通して薫り高く表したのが保倉君の作品です。
なにとぞご高覧の上、今後進むべき指針として御批評、ご助言をお願い申します。
保倉君が私の所に現われるようになったのは、まだ桐工の学生だったころ、今から十数年前からであった。
其の頃一度大変重い病気をしたことがあって、危険な状態になったとき、ぜひ私に会いたいという知らせをよこしたことがある。
そのご彼のなかで私の存在は大変重要なものとしてあるらしいが、今まで一度も私のまねのような絵はかかなかったようだ。
ところがつい先日、スケッチブック全部に円と正方形を組み合わせたデッサンをみせにきて、 抽象がやりたくなったという。 具象的な精密描写をいっぱいやっているうちに、急激にそんな気持ちが生まれてきたものらしい。
彼はその気になると実に割り切って考えるほうだから、おそらくまた沢山の円と正方形の作品が生まれるのであろう。
ところで、今度発表する作品は、全部、印象派風の風景とか、人物であっておよそ私の仕事とは異つた画風のものであって、私とどうゆう関係があるのかと考えられると思うのだが、彼の人生観とか、絵をかいていく考え方は一種独特のものがあって、ここまで徹底してやってみることはよいことであり、次の仕事に大きくプラスすることであろうと思われる。
牧島先生から東京芸術大学の学生時代の聞いた話を記したい
入学して岡田三郎助の教室を希望して入った生徒は、その年2名だけで他はすべて人気絶大だった黒田清輝の教室に押しかけてしまったのだそうだ。
岡田三郎助は2人の生徒を大事にしてくれて、学校へは通わずに先生の私邸へ赴き、書生としてのかたちで、先生の自宅で授業を受け、冬はこたつで講義を受けたそうだ。当時芸大の生徒は袴をはいていたそうだが、岡田は2人に洋服を与えて着せ、月謝(授業料)を学校へ納めに行ったら、先生が支払ってあったそうで、驚いたと言う。
若き日のオノサト・トシノブの思い出 保倉一郎
二十歳前の時の思い出に、当時オノサト・トシノブ夫妻が養鶏をしていて私が時折に手伝っていた、私も養鶏に少なからず興味があったことも確かだった。
ある時「保倉さん、鶏は一所懸命に餌を食べて自分の生命をつくすことに夢中だよ!」と唐突に言った。時折にそのような思いがけない事を言う方だったが、その時ばかりはハッとして無言のまゝ眼で問い返した。
「鶏は自分のなりゆきや立場などは考えずにたゞ生きることに精一杯で、毎日を暮らすから偉いよ」と言うような意味のことを独り言のように呟きながら私に話続けた。
数年を経てから、「僕が画家になれたのも、教員勤めや養鶏をやっていたのも、みんな人から勧められたり世話されたりしてそうなったので、自分の考えや努力はいつも後から続いて生じてきたものだよ! 何事も一身にやっていればチャンスや道は自然に出来るよ」と話してくれたのも、忘れられない言葉だ。<br>
自分に大切と信じられることをひたすらに追い求めて行く努力よりも、それを求めて当面の行いを継続して築いていく実態のほうが大切なのだと解している。
オノサト・トシノブは精敏でいながら朴訥なまでにそうした生活を実行できる一面を持った人だった。
還暦を過ぎた今に思い返して、私の人生にもおゝかた当てはまっていると思われる。生活の糊口をつなぐ為の家業のやり繰りは、まわりの人々の計らいで不思議とチャンスと道がついてくれて、どうにか人並みの人生を過ごしてきた。
だが、好きで描きつづけているアートの方は未だ「人並みの線」までは繋がっていないようだ。知恵と努力が足りないせいだろう?・・・
なにしろ好奇心と興味と楽しさが中心で続けていることだから、趣味とか道楽の範囲を出ることは難しいのだと感じる。私の生活の知恵で「アートの道に職業として生きること」をためらって避けて通って来た。だから仲間うちで私ひとりが素人でいる。
それは気楽であったが、厳しさに欠けた面もある。それでも、人さまの世話を頂いて個展やグループ展を幾度も経験し、汎美術協会の運営活動に道が繋がっているのも、それなりの幸運な巡り合わせだったのかもしれない。
こゝにオノサト美術館の主催で「7の会」のメンバーに参加できるのは、かって五反田のオノサト美術館での個展に次いで大きな喜びであり、故オノサト・トシノブ夫妻に深く感謝したい
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