オノサト・トシノブの制作と実際

オノサト・トシノブの制作の実際  041110修正

戦後復員して間もなくのころのオノサト・トシノブを知って、幸運にも親しくしていただいたそのころ自身の絵のことばかり考えながら通いつづけていましたが、自然と彼の材料や技法を記憶するようになりました。

知遇を得る以前、オノサト・トモコ夫人が著した「オノサト・トシノブ」の記録書に、妻として聞き知っていた事を良く伝えていると思います。

オノサ ト・トシノブが「べた丸」を始めたころは.未だ手書きの円にー色のべた塗りをして、手造りの味を残し、それが情緒のある趣きを伴なって親しみやすい 情感を生んでいました。彼自身も手づくりの趣きを好ましい良さだといったことがあります。

 だがまもなく、それはオノサ ト・トシノブ自身により否定され、全ての形は幾何学的な純粋な形でありたいといいだしました。

「自然の形や何かのなかに感じたり、外に求めて見い出したりする感情で無く、自分のなかから出てくる直接的な感情の要素だけで画面を作ろう」という意思の基に彼の抽象画の意識が始まっていたのです。

定規でかなり正確な方眼と縞を力ンバス上に割付け、コンパスで正円を入れて塗り分け、更に円のなかに方眼に合わせた単純な市松模様を入れて円内の平面に複数の色彩の対比効果を使って   視覚を複雑化した様式を用いて表現を発展させました。

                             手描きの味に情緒と趣をもつ初期の作品     

市松のべた塗りも始めは同系の色の濃淡や、ごく近い色相の色を使ってべた丸に深みを付けていましたが、これに調和する対比色や違相色を入れるようになって複雑化が進むにつれ、市松のなかを更に細分化して変化市松の模様にし、なかに入れる色も増やし多様な効果を生みだしました。円の中の複雑化にともない、他の分割部分にも色々な方眼の変化模様を作って入れて円のなかの範囲と対比させ、これにより各セクションの平面に複雑な感情表現を組込ませることが可能になり、オノサ ト・トシノブの抽象表現を、より純粋に幾何形体の要素に依存出来るように進展させました。

 モンドリアンを始めとする多くの純粋抽象の作家と比べてもこれ程の多様な表現要素を必めた形式を発見した作家はいないだろうと思います。

 この要素こそオノサ ト・トシノブ的と云われるべきであります(一般に丸の作家や太陽の画家と云われるのも嬉しいですが、それはオノサ ト・トシノブだけのもつ特色ではありません)

 これに関して大切な説明が必要です。よく世間でオノサ ト・トシノブは方眼の模様に織

物の組織図を使って利用したので桐生の織物の柄をヒントに作品を創作したと云う誤解です。

 彼の制作に親しく付き添っていた私は、専門がその組織図や織物でありましたので。当然それが取り入れられたと思われるでしよう。しかし私が証明できることは、オノサ ト・トシノブは織物の伝統の装飾や組織図を利用することを意識して避けていたということです。

新しいスタイルを創造するために、過去の方向にこだわって民芸品の趣きや古い形式に強く反発していたのです。

 この点については曼陀羅や家紋の類についても同じでした。現実に曼陀羅の図や織物の組織図と同じ形がそのまゝ使われていることがありますが、いずれも昔から誰にでも使われていた自然に生まれてくる手法であり、この場合も同じように使われて当然に出来てしまっただけです。

「円の発見」としてオノサトが次のような言葉を残しています。 「円」はかたちに違いないが、実は私は「かたち」だと思っていない。画面に的確に何かを決定したいと思うとき、それが思想であり、最も明確な実在であった。それが私に「円」を真ん中に大きくいれる、それを分割していって、最後にただの連続模様にさせてしまったわけなのだろう。「円」は私にとって目的でも、主題でもないようである。 このことは良く理解されなければならないと思います。

                            感情をもった各セクションの市松模

格子と市松模様について

市松模様の色の混成によって印象派の点描の様に色を筆跡の一刷毛や縞で並べたり、その面積や数の量で発色の効果が多様に変えられるので、これは純粋抽象の図型では最も自由な表現方法のひとつでしよう。ゴツホの試みた平面の色彩混合にヒントを得ていたわけではないが今に思えば、ゴツホもその面で膨大な試作と努力をしていたのが解ります。面の彩色表現にとつてそのことは大切な要素なのです。

 オノサト・トシノブの更に大きな創造は、この組合せの合成のパターンは思わぬ視覚効果をあげ、またオプチカルアートに通ずる光の混成効果を生み、更に平面に意外な動きやリズムを作ったことです。また点描や並べた色彩の響き合いにより、純粋な幾何形の抽象形態のなかに、自由な意志と情感を投入して表現出来る技法を確立させたのです。

 これにより、区切られた各々の範囲の平面が複雑な感情表現を生み出すことを可能にし

たことです。

市松模様と格子の彩色

方眼図のなかの組合せ形態に複雑な配色を塗り込んでいくとき、全ての升目のなかをファーストタツチで塗りたいのですが、これは難しいことです。オノサトといえども、技法的にそこまでの形の構成と配色を予測してはいませんでした。ですから、始期の作品にかぎらず70年代のものにも、細部に於ては色を重ねた作品が数多くあります。重色による発色の違いが出来たのはやむないことです。またこれにより生じる微妙な変化が視る者に快い感じを与えたり、効果的にも良好な結果をもたらしている場会が多いのですが、作者の本心ではなかったといえるのです。

作家は誰れでも意外に拘りを持つものです。またこのことは後に表面の変質や亀裂や剥離の発生をもたらしました。

作図とパターン

作図は技法の一部とです。オノサト・トシノブの方形の割り付けは、それ自体が作画の発想とも深く関係する大切な技法であります。

ごく初期の「べた円」は手書きでしたが、オノサト・トシノブは「手つくりの持つ不思議な味に助けられて、絵に求める本来の目標以外の要素を含んで純粋な形態と色彩の構成を追求するのに不要の要素となるべきだ」と考えて正確な直線と方形や正円を強く求めました。

実は、始めからこれを求めて、手書きの縞や格子もできる限り正確に直線・平行線・正円の円弧をていねいに一律の太さや濃淡に手書きの強弱が出来ないように努力していたのです。なにぶんにも油彩画の性質はこれに不向きなもので、大変な努力でした。

因みにモンドリアンの晩年の作品を見ても、彼の狙いに反して意外なほどに手書きの特徴を残しています。

キャンバスの上に書くとなると、円の位置もコンパスの使い方が難しく、方形と円の接点を正確に求めるとき下絵取りの仕事は意外に難しいものです。

ぶるぶるした布貼りの生む歪みと不安定さが扱いにくく、木枠の方形も決して理想体の直角四辺形ではなく多少の狂いがあり、単純な区割りや円の中心点の設定も簡単には出来ません。オノサト・トシノブは中学校教員の経験から、黒板に使う「白墨コンパス」や分度器を利用しようとしましたが、中心点の「ずれ」やコンパスの滑りの広がりがわざわいして難しかったので、コンパスの中心点の針の代わりにくくり付けた釘も、鉛筆も不安定でした。それでも「べた円」のときは利用出来ました。

円に格子や方形が入ってくると難しくなり、二股のコンパスでなく、半径の長さより少し長めの木の棒の両端に鉛筆と釘を付けて、中心点の針のずれを加減しながらコンパス代わりに使った事もありました。この頃まではあまり大作がなかったのでこれでも間に合ったのです。

黒板用のコンパスを使う

もう一つの問題があって、線を引くのに鉛筆ではすぐに芯がすり減ってしまいました。

鉛筆がキャンバスに擦れてすり減る量は意外に大きく、また擦れるとその付近を黒く汚しました。鉛筆の汚れはともかく芯のすり減りは、コンパスの幅の歪みと作業の中断とやり直しを伴うので不自由でした。

それに替わって使ったのはボールペンでした。加減しながら書くときに思わぬ汚れを残しますが、そのころには他の工夫も手伝って、歪みの加減を上手に避けるようになってきました。コンパスの使い方も製図用の長い棒状の金属製のものも手に入り、小さなものはこれで間に合い、大きなものは木の棒や紐を使いました。また中心点に針の受け台を使う事が出来るようになりました。製図ではこれが一般的に利用され始めていたので、私が思いついて、セルロイドの透明な下敷きや分度器を使ってキャンバスに穴や凹みを作らずに、手で少しは滑らせながら中心点を移動して多少の加減も出来るようになって便利になりました。

大きなキャンバスに方形や格子を書くには等分した目盛をしるしたいが、これが難しいのです。

キャンバスは四辺がかなり狂いのあるもので、さらにこれを任意の数に等分するには、容器画(定規やコンパスの容器で幾何学的図形を描く画法)にあるように、斜めに目盛りをおいて等分し、それを平行線で分ければ簡単に出来る事は指物師の木割りにも伝統的に使われていますが、押せばへこんで歪む大画面の画布の上では思うようにいかないものです。この方法は四辺で分割点がかなり狂ってしまい、加減して合わせるにも難しい事が多く無理が生じます。

比較的に楽で正確な操作が出来るのは、まず対角線の交差点に中心を求め四辺も2等分して中心を出して印し、これを起点に左右と上下にY軸とX軸をおきそれを原点にして、四辺に1センチずつの目盛りを印していきます。四辺の目盛りを縦横平行に格子に結べば中心点を中央に持った方眼の画面が展開されます(センチでなくも寸やインチでもOKです)                       

キャンバスはセンチ単位で縦横が決められていましたが、この時に歪みの為に、画面に1センチに合わない端が出来る事がありますが、途中から少しずつ加減してずらせば無理なく目盛りを等分にしわ寄せが出来ます。

この方法は現実的で便利でありました。故にオノサト・トシノブの絵はセンチ単位の格子構成が多いのです。

更に、中心からの展開に円を書くときもセンチ単位の細かい目盛りは円弧の修正にも強みがありました。

                             オノサト作品はセンチの目盛りに合う

円を書くのに方形の上下左右の寸法に正確に合わせた接点を結ぶのは、先ず、この上下と左右に接点を正確に書き込み、その間の等分角に当て印をしながら少しずつ円弧を書き込みあたかも正確な円が一気に書き込まれたように収めるのです。これには二人以上で協力して気を合わせて書き込む必要があり、トモコ夫人が上手に手助けしました。

晩年には波状の円弧を斜めに流したり6角形や12角形も使いました。まれには星型もありますが、いずれも用器画の作図を私がサゼスチョンしました。しかしこれも展開図にして格子に当てはめるのは難しく、あるとき、オノサト・トシノブの思いつきで良くできた多角形の画面を大きな紙に写し取って切り抜き、これを他の画面に当てはめて、幾分ずらしながら修正して外核をなぞって書き込みました。

描きにくい図形

六角形は簡単だが十二角形は面倒だし、画面を汚すので展開図の4分の1の図形を紙に書いて切りぬき、画面のしかるべき位置にあてがい外輪に沿ってボールペンで書込んでいく、良く合わないときは形を調節します。そして方形に合せる波も円周の4分の1を紙型にして、回しながらまたは裏返して使います。

作図は星型や波や斜線等の大きな面の分割から順に描き、細かい格子や分割は後から入れる方が画面に余分な線を入れずに汚れを少くすませます。余分な線は彩色すれば消えて見えないがやはりない方が良く、上に塗る色にも影響するので黒と赤のボールペンを使いわけました。しかし、なぜか青や他の色ボールペンを使いませんでした。四辺の大きな形の位置を印すときは鉛筆を使っていました。

70年代に二ュ一トン・キヤンバスを使うようになったときに細目のキヤンバスを選んだのは、発色の効果だけでなく凸凹の少ないことが鉛筆やボールペンの摩耗が少ないからでした。

                                           作品の写真参考にして      藤岡ギャラリ−の作品より

                                 中央からセンチ単位で分割され両端に半端な升目が残る 

写真のごとく中心ら左右と上下に1センチ単位の格子により出来た方眼が規準になっているのがわかります、良くみると左右の両端には半端な升目があります。これがーセンチ単位では割り切れずに出来た端数を埋め合せた部分なのです。また良く視るとスケールの自盛りと方眼のそれが少しずつずれているのです、目盛りをわずかずつ調整して方眼の格子を合せたためです。更に手描きの歪みによる幾分の大小の差が出来るずれもかなりあります。いずれも手描きで幾何的な面を書くむずかしさを示しています。

描き割の線入は塗り込みに必要な決定的な線のみをボールペンで定規やコンパスを使って入れていきますが、どうしても与分な線が入ってしまい邪魔になるのはやむをえません。それでも慣れるに従って、それをさける工夫も上手になりました。

大きな割付の線を先に引き必要に応じて細部を追加します。もし全部を入れたらとても煩雑で形の選定に迷ってしまうのです。

初期の格子や「べた丸」に市松が入り始めたころは色を塗りながら追加したものが多く、色も重ねて塗りました。格子線や市松も1センチごとの方眼線を案内にして目で見当をつけながら手描きで直接塗り込み、複雑な塗り分けと重ね塗りを丁寧に描き込みました。

それでもー度決めた設定は途中でパターンを変更出来ません。

(オノサトの特微は展開と対象形の組合せを守ることでした。ただし晩年の数点には例外を創ってぃますので別記します。)                                                

 

                                     円キャンバスの割付

 実川暢宏の依頼による円キンバスの作品は、画布の張り方もパターンの割付も特別になります。張るときは木枠の十字にあわせてY軸とX軸の両端から固定し、その半分と更に半分の所と順に多角形の対角を追って張り、その間を適当にしわよせを加減しながら張っていきます。  かなり難しいので一度に上手に出来ないから仮止めをしながらホツチキスを打直して、たるみしわを加滅します。画面の下描きも特別になり、パターンも入線が難しく、まず中心点を求めるにはキヤンバスの裏の木枠の桟を目安にYとX軸の直経を割出しますが、画面分割の線描きはコンパスで作れるものに制約されます。方眼の升目分割はやりにくく、仮に張る前にキヤンバスに書込んでも正しく張ることは無理でこれは避けています。

  円キャンバスでは、これまでに工夫したパターンや展開と対象形にもこだわらず、図形も自由に創作しました。それでもオノサ ト・トシノブの特色は強烈で他者と間違うことはありえない不思議があります。

 円の作品とオノサト・トシノブ 実川暢宏氏

彩色画法の秘密

彩色は、オノサ ト・トシノブのー人舞台で他者が立ち入ることは出来ません。これは別に説明しますが天才のみが行う仕事だったのです。多くの人が指摘するようにオノサトは展開図の約束を利用していることはまぎれもなく。その展開図に斜線を入れて2分割し色彩で昼夜に対立させたり、波や半円や円孔を利用して転開図を複雑にするときでも順列やくりかえしの作図方法は決まっていて、誰にでも関単に理解出来るものでした。

しかし配色の実際を考えると彼の天才的な才能技法が必要だったことがわかります。

2色の構成

 例へば、まづ市松で構成する画面で、単純に二色に塗り分ける展開図はそのなかのー片をAときめればABの市松の全体がきまってしまいます。
このなかに斜線で二分して二つの画域を昼夜に塗って対像にしてもABの比は二等分のままであります。赤と緑を入れ換えればこの逆の図も出来ます。

これに画面最大の円を入れて円の内側と外を分けると外側の市松と内側の市松になり、の4色で斜線に2分された昼夜をもった市松画面が出来ます。上図には4色で4通りの配色が出来ます。いずれも幾何分割された展開の約束よって決まってしまいます。

色も4色だから関単そうに思えますが、しかし選ぶ4色は、全ての色を指し、オノサトの好む数色にしぼっても、更に組み合せを考えればそれだけでも四つの組合せ分だけあり、更にまた4種の図柄を合せればその4倍にもなります。
 因みに、3色の配色を図によって表してみましょう。色の組み合わせを計算し、更に図柄と組み合わせた数は計算するまでもなく大変な数になりますが、それ以上に実際の作図は難しくなります。どこまで出来るかやってみましょう・・・・・

              これまで作って精魂つきました、重複の識別が辛くなったのです。

オノサトの使った色に限っても3色から12色ぐらいあり、よく視れば30色程もあり。多くは8色でありますが順列と組み合せの計算をしなくても、複雑で出来そうで出来ない難しさです。ですから、4種類までのセクションが展開している画面に完成図をイメージすることは大変な才能を伴う技法なのです。ましてそれ以上の組合せを持つものを配色してみるのは超絶的なセンスと技巧なのです。約束に従った配置に配色するのですから一点一片の変更も調整も出来なぃのです。

囲碁の世界を思い出してみましよう、名人は10手も20手も先を読むそうです。1回の対極を全部記憶していてTVで解説してみせる神技を会得しています、オノサトはいつでもオノサト的な配色が出来る特別な才能を備えていました。

折角ですから4色の配色構成の主なものだけ作ってみましょう。

左から3っ目までは円のなかが2色です。次の二つは斜めを対照に2色ずづに分かれます。6番目7番目は青が半数を占めています。8番目は典型的な4色組み合わせになります。これらを基礎的構図として次々に組み合わせれば、組み合わせの数式の数まで可能なわけです。

彼の脳裏に想定する完成図が出来てしまえば実際の作画作業は、工程順に色塗り作業をしていくだけなのです。オノサトのアトリ工を訪れて制作を見た人は、彼がいろいろの話をしたり、ときには音楽を楽しみながら描いていたのをご覧らんになったことでしよう。そのときのオノサトが制作している姿は、すでにイメージで決まっている作画作業をしているだけだったのです。

オノサトの作品に駄作はなく失敗もなかったのはそのためです。しかし予想外の秀作とか傑作はときおりに出来ました。

オノサト・トシノブの絵具の塗り方

材料について

復員から戻って桐生で養鶏と代用教員をして、彼の哲学の中にアートを思考していた頃は

以前から持ち残した画具と絵の具に加えて、三俣画材店に戦前から残っていた幾分かのものを含め、早くも生産復興されていた国産の絵の具「くさかべ」「オリエンタル?」「ホルベイン」などを使っていました。

(当時買い求められる絵の具は貴重品で、戦前からの手持ちの絵具をあつかう店は少なかった。三俣画材店は戦前の絵の具の在庫にあり、戦後も、いち早く織物の図案屋が使う絵の具類を商っていた。オノサトもその店に買い求めていた。)

絵の具と材料についてはよく気配りする人でした。

柔らかく細い平刷毛で丁寧に絵の具を塗る

オノサト・トシノブは画材には注意深い人でした、戦後絵の具は贅沢品で舶来は望むべきもなく高価なので、キャンバスも「船岡」を使っていたはずです。当時は国産の標準的な意味で「船岡」は上等なキャンバスでした。

70年代になってからはニュートンの肌理(きめ)の細かいキャンバスを使いました。絵の具もそれと一緒にニュートンを選び、木枠も地元の建具屋に注文して作らせた正確な仕上がりの上等なものを使っていました。

木枠は日本製のものが良く正方形特殊な方形も注文して作れたからです。円形は実川氏の考案により特製されたものでした。

キャンバス張りはオノサト・トシノブと奥さんのトモコさんの二人で張る事が多く、アメリカ式に、釘は使わずホッチキスで止めました。

一般的な張り方にしたがって、釘で張るのと同じく、始め十字に止めてだんだんに周辺に広げる様に張り、キャンバス鋏(はさみ)で引っ張って置きながら釘の代わりに大工用のホッチキスで止めていけばよかったのです。

円いキャンバスもホッチキスならそれ程難しくなく止められ、十字に止めてからは×字の所を止めさらにその半分角の所を止めていく。実際にある程度止めれば、後はたるみを加減しながら自由に細かく止めを入れていきました。アトリエが広く、整理整頓が好きなオノサトさんでしたから何事も作業が楽でした。
画布について

若い頃の作品には違った絵を重ね描きしたり、裏にも描いたものがあります。以後は、戦後の始めの頃を除いて古キヤンバスに下塗リしたりした再製キャンバスを使うことは、ほとんどありませんでした。私が知るかぎりでは2点だけあります。古キンバスに白の下塗りをした小品で2点を並べて描いた試作でした。 いずれも画面の塗り上がりが悪く失敗で、後日に変色しています(これは別記したい)。

失敗したのは、三俣画材店で仕入れた古いキャンバスの再生のために開発された地塗り用のジンクホワイトです。よほど有名な画家でない限り国産のものしか使えなかったころで、その魅力に引かれて試した2点があります。クサカベかホルベインで出した太い大きなチューブに入った下塗り用のジンクホワイトを使って2枚の小品に再生キャンバスとして塗り、その上に彩色を試みたものです。

私も使ってみましたが乾きが悪く表面がいつまでも湿ったような感じで、白さもかなり鈍くさっぱりした硬い表面にはならなかった記憶があります。恐らく油か材料に増量材を使って、安くて量が多いジンクホワイトをつくり,当時流行った厚塗りする油絵の下地や盛り上げの下地に使われることを期待して売り出されたものだったのでしょう。その2点ははっきり記憶があります。

そのひとつが後に問題になった大川美術館の所蔵作品で、朱色が茶色に変色している絵なのです。もう一方の作品も同じようなパターンの作品でしたが、これもこの下塗りのための試作でありました。変色はかなり後になって生じたものですが,これらの作品は満足する出来映えではなく、 出来上がりに疑問を持って筆を置かれたままのものでありました。それ以後この再製用の絵の具も再生キャンバスも使っていません。

絵の具

オノサト・トシノブは自論として「絵貝の製造業者は、良く出来た綺麗な色をチューブに納めて製品として売るので、これを大切にして使うのがー番良い!」といっていました。

絵貝の製造や調合と調整を知るものなら、これが正論であることを疑うはずがありません。これにもオノサトの才能がおよぼした大切な点であったのではないでしようか。選んだ色を尊重して手を加えずに使い、画面構成で調和を図った一面があったようです。オノサトの裁量はそれが可能だったのです。

無彩色の絵の具

無彩色の作品もあります。白と黒の作品は多いので親しみがあるでしょう。他に金属色と灰色を使った作品もあります。金と銀はアルミ粉を加工したー般のチュ−ブ入りの絵具です、メ一カ一の使った固着剤は不明ですが油彩と併用して使えるものでした。使うときはそのまま単一で使用しました。色絵の具と混ぜて使うことはしませんでした。
灰色はチタニュームホワイトにアイボリーブラツクを少しずつ混ぜて調整していました。

オノサト・トシノブが好んで使った色はエメラルドの他はおおむね安定色とされる色を使っていて、染料や蛍光色を入れてあるものはさけていましたが、今になってわかることにニーユトンの青や工メラルドには蛍光が含まれていて夕暮や明方の自然光の中でそれが感じられます。

 白にも入っているかも知れません。特に好んで使った色は.バーミリオンオレンヂ、カドミューム・レツド、コバルトブルー、カドミューム・イエロー、カドミューム・グリーン等です。

絵具を塗るときは必要な量だけをパレットに出して使う習慣が守られていて、多量に使うときは一度に数日分を出してこねてパレット上に保存しておくこともありましたが、なるべくその都度に出してパレットのすみに寄せておき端から少しずつ筆先に着けて使いました。

パレットの上には数多くの色を並べることはなく、なるべく1色だけを置きたがっていましたが、小品のときなどは2色か3色を出しておきました。

オノサ トは絵具をチューブから出しながら塗ることをしません。かならずパレット上で良くねり直して使うことにこだわりました。このとき絵具に溶油をまぜて色具の固さを調整することにもこだわりが強く、溶油を適量だけ上手に添加するために眼科で使う点眼のスポイトを使っていました、良く混ぜるためにパレットナイフで幾度も丁寧にこねて調整しました。溶油にも執着心が強く品質にこだわり、初期のころはリンシード・オイルを使っていましたが70年代になって関係者の間で、何故かポピー・オイルが発色を良くするといわれたことがあり、それを真に受けて使っていました。特にー時期は多くまぜて透明度を良くしたいと、澄んだ発色を期待して使った作品があります。だがポピー・オイルを多く混ぜて使ったものは後に塗りむらを生じ堅牢度も悪くしています。溶油については別記したいことがあります。

50年代の全般までは、昔の絵の具が、手元にも?画材店にもいくぶんかあったので、それらが使われ、物資の不足な時代でしたが、いち早く下町の職人達が油絵の具の生産を復興させたらしく、地方の画材店でも入手できました。桐生では三俣画材店(三俣佑一氏)が販売していて、オノサト・トシノブもそこから購入することが多く、クサカベが中心的なメーカーだったように感じます。

その頃は、技術や製法は戦前のままに、材料もあらかた在庫か、同じ製法によるものを使ったと推測されます、代用品の安物もあったかも知れませんが、それを避けて信頼できそうなものを使っていたようです。実はこれに大事な意味があります。

60年代に入り生産の合理化や、技術のアイデア化が始まると、油の製造過程に化学工業的な工夫をする技術が生じはじめ、油を絞り出して採る方法に変わり、他の軽い油を溶剤に使って溶かして抽出することが始まり、溶剤の残る不純な油が生で使われ出した?ようです。また油絵の具の製法は旧来の用法では油は加熱されていて、酸化が重合複合されていたそうで粘り気があり酸化して固まった後の堅牢さが強く、刷り込むように書かれた時の付着力が優れていて、文献によると、発色の安定も良いそうですが、ボイルしない油を使うと堅牢度が弱くつやも変わるらしく、生産コストは簡略になるが種々の問題を抱える事になるそうです。
また、当時は噂として、リンシード・オイルよりもポッピー・オイルの方が透明で鮮やかな発色が期待できると言われ、高級感をもたせて売り込まれていた事がありました。だがこれは良くない結果をもたらしました。

白を混ぜた色

白をまぜて明度を上げた色づくりは少なくありません。一般にチーブの単色には明るい彩色は少く、種類をもつと多く欲しかったためです。
しかし白を加えると明るくなっても鮮度は落ち色の冴えは弱まります。白で明度を変化させる方法でボカシの効果を作った例がいくつもあります、同一色に白を少しずつ加えて、明度の異なる段階色を作り、展開図に散らして配置された各々の面に濃淡を段々に配し、離れてみるとボカシを感じるように構成しました。しかし区切られた部分の同一面のなかで明暗をもつ変化を作ることはありません。 純粋に平画的な表現を守っていたからです。またボカシの同系色を接して並べることもありません。

オノサト・トシノブの作品

市松模様の混色と感情表現の効果を今一度ここに入れる

市松模様と格子のもつ感情表現の要素が沢山使われる 市松模様が画面の全体を占めた作品

画面の部分別の変化

オノサト・トシノブの作品の視点の変化について考えてみると、画面内の分割された各セクション範囲の彩色の情感の変化の拡がりが複数になり、それを意識して見わけると視点の移りかわりに従っていろいろの情景が次々に生じて見えて来ます。−種のイルージョンといえるかもしれません。セザンヌは画面に複数の違った位置からみた視点の景観を合成して、一枚の絵に合成したように、分割されたセクションごとに独立した情景を発展させ、異る各セクションを合同させたり対比させたりして、見る者に別の情景と感情を想像させるのです。

オノサト・トシノブは、更に進んで幾何的に分割された各画面の範囲内に複教の情感をもつ分割画面を作って、これらを合同させたり対比させて別の情感を創る効果を発明したのです。セザンヌは複数の視点からの情景を一体化して後のキュービズムを生じさせただけでなく、自らも晩年には分割分部の画面内に別の感情を生じる場景を創っています。それでも具象の範囲だったので気付きにくいのですが、「水浴図」の中や風景のー部に大胆に展開させています。オノサトはそれを理解していて、セザンヌを高く評価し強く愛好していました。セザンヌのこの仕事については、私はオノサトだけでなく牧島要一からも教へていただきました。

セザンヌが具象だったので、その創造効果は同じ具象的な「立体派」ではすぐ発展しましたが抽象画への進展には静かに間接的に伝わっています。

カンディンスキーのような心象の情景から発生する抽象絵画には、この効果はいちはやく利用されて来たと感じます。

しかし、オノサト・トシノブは若いときに始めから完成されたカンディンスキーやモンドリアンの抽象を知り、自身で具象から抽象への道をさぐる過程や経験を必要としなかったので、その影響を受けながらも、完成されて一般に認識化された抽象画の世界を出発点として生まれ、さらに抽象表現のなかに新しい独自の方向を求めていたのです。

数多い抽象画家の描く世界もいろいろの方向と内容がありオノサト・トシノブもその一人として独自の世界を求めて出発しています。

そして、市松模様の要素を利用した感情表現の方法を自ら展開したことは特筆すべき創造ですが、彼が特に好きであり強い影響を受けているセザンヌの表出技法をオノサト自身の理解により、このセザンヌの方法をオノサトの絵の中にハッキリと同化させています。

同一画面上に、別々の心象的な画面の情感と情景を置いて構成して作る効果は、セザンヌがキュービズムを生じさせたと同様に、彼も自身が編み出したスタイルの異なる感情表現をもった複数の抽象画象の重合を、同一画面に構成させる手法を生むヒントを創りました。

セザンヌは印象派の写生の中に異なる写生視覚を立体的に組み合わせて、複数の視覚場面を画中の画としてはめ絵的に複合させ、オノサト・トシノブは自身の異なった感情を生む複数の抽象表現の画面部分をそれぞれに対比させることで、多元的な感情表現を合一場面に演出させる表現方を編み出しています。

この表現技法はオノサト・トシノブの晩年の作品に強く意識的に組み込まれています。私のもつオノサトの絵で説明してみましよう。

波に赤星と青三角の絵

 私のもつオノサ ト・トシノブの絵で説明してみましよう。

1メートルの正方形で、 80年夏の作品です。 簡潔明瞭で細かい市松模様を使わず明確な構成で色彩も単色の赤・青・黄・朱・緑と黒だけで、青と縁には淡色があります。

鮮明で強烈な感じのなかに激しいほどの生命力と健康にみなぎる意欲と希望を与えてくるエネルギーを感じます。 親しみある明るく爽やかな優しさもあります。 右上の波型があるためでしよう。 花形のような凸凹の円形は二重になっていますが花でもなく星でもありません。 最とも強い印象は青い逆三角でしょう。 

1メートル四方の原画

こゝで、オノサ ト・トシノブの言葉をのせましよ「純粋な絵を創っていく。 その上で感情移入が行われた場合、 完全な感情移入になる。」 まさに全ての形は普遍の感情を含めて見る者に語りかけて来るようでしよう。

 この全体から来る感情を部分にわけて良く視ましよう。 

図 A                                      図 A“

先ず構図の形を分析してみましよう。−辺が1メートルの正方形キヤンバスです。方眼の格子は、定規で10等分割されて端数はありません。

                    図 B                                       図 B“

中心点から展開させる図柄で12の角をもつ星型は、 六角形を二つ重ねて、 その頂点が上辺に接しています。 即ち六角形を作るときの円は半径が50センチで内側の星型はその半分の半径25センチの円で作られていす。 波型も中心から発して半径20センチの円弧をつないで波型を作りました(作図はいずれも厚紙を切ぬいて使い線を書き込みます)。

この絵は展開を変則させた効果を使っています。星型の中心と波型の出発は中心から展開の約束は守られていますが、 星の外側を走しる辺の線はー部が格子と一致しません。 波型も外側に接するとき完決出来ません。 逆三角形の中心点は中央に重なります、下の角が外接して外辺の緊張を保ち重心を良く支えています。 しかし上辺と他の2角は外接しないので、中心からのバランスが変化して視覚に強い特徴を作っています。

中心部の黒を見て下さい。 黒の上下のー対は対象ではありません。 これは変則な塗方であり、青い逆三角の上辺の水平線の力を助けるため更にたての中心の格子線を消しこの黒に上接する朱もそれにならったから良く同調しています。 このために星形は上下の対象を欠くが、むしろ微妙な変化とリズムを生んでいるのです。

この様に晩年の作品にしばしば対象と展開をくずした構図が使われましたが、そのために自由で優しくほがらかな雰囲気をつくりました。

実はこの絵は同じパターンで別色の作品がオノサト・トシノブ美術館にあります。 でも、 この絵の方があまりに秀れた出来ばえなので共通性を感じないのです。
  傑作はこの様にしてときどき生れます。

  この絵は、 右上がりに動く流れを持っています。 

                                図 C                                       図 D

 図Dをみると、 左上と右下での緑のある部分の感じは、 おとなしく柔らかで穏やかな和みの情をもたらしています。  それ自体に動きは無く、 逆に画面全体の右上りの大きなドラマチックな流れを強調させています、 即ち図Cの流れの部分をみると、 左下の黒の所から青三角と中史の黒へ、 さらに右上の黒のコントラストの強い流れを引きしめてー層強く動感を与え、 絵全体を陽気に闊達にしていることに気付きます。

  逆三角形の所をみましょう。

                     図 E                                       図F

図E図Fを比べて、 図Eの青い逆三南形の範囲について感じることは、 鮮明で強い赤の星の陽気な動に対して穏やかな青の静の世界を示しています。

逆の三角形は下降と静寂をあらわして、画面全体の激烈な動きと感情を調和させると同時に逆に激しさを助長させてもいます。

赤と青は同等の強い鮮明度をもつ色でが共に強調しあうのです。中の小さい方の星形も赤も朱に変えてあり、青も柔らかい中同色の青紫になっています。

中心の小さな方形は黒のコントラストと展開図の変則な形どりで心理的にしゃれた気分のよりどころを生じさせ、 強さと硬さからこの絵を解放していす。

逆三角形は下降と共に天空への広がりを想わせる解放感をもたらし、 このセクションを強く独立した揚面または画面として存在させています。

この様にして、 この絵は星形・逆三角形・波・中心部分・等・・・の複数に、 各々が独立出来る範囲として存在して、 互に視点の移動に共って違ったイメージの世界を映し出して競い、 視点の動きに応じて対比するイメージの広がリを見る者の脳裏に重合させます。

この効果の創造にオノサト・トシノブの功績・業積とも言える素晴らしさがあるのです。

複合的な表現は混乱したり、 戸惑ったり、 ときには迷ったりする不思議を否定できません。 これはキーピズムの絵に経験することがあり表現方法の長短でもありますが、 それ故に深く複雑な要素なのでしよう。

                 以上が私の知るところを伝えたい「オノサト・トシノブの制作の事際」です。  ご覧いただけたことを感謝いたします


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