保倉一郎のエッセー

の会」と「汎美だより」に掲載された、
いくつかを紹介いたします

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ロシアの旅

ロマノフの至宝と世界遺産の旅   2003920日〜928日(9日間)

世界遺産:クレムリンと赤の広場

午前はクレムリンの観光、並んで入場を待ってから入ると、赤の広場は意外に重厚は広大さを感じない。中央のレーニン廟は閑散としてパトロールカーが2台止まって護衛?しているだけ、広場の奥に見える聖ヴァーシリー聖堂の玉葱形ドームが美しくシルエットを見せている、近づくにつれて屋根や壁の彩色の鮮やかさが映えてくる。

ガイドのマリアは会話が下手だが、複雑な話もよく解し、語彙も豊富で、日本語は全て大学で学んだと言う。大戦のときのドイツ空軍のモスクワ空襲をたずねたら良く答えてくれた、年齢は私と同じぐらいでは?・・・  当時として、諜報関係の目的におかれる立場だろうと感じるし、かなりな秀才らしい。 なにかアメリカ映画に出てくるソ連のスパイみたいな感じがする?

 モスクワからウラジミールへむかう。モスクワ市外を眺めながら郊外へ進む、環状道路を抜けて市街と別れる。小さな製鉄所と火力発電所を見ながら進むと、昔、貴族の離宮のあった狩の出来る森が公園になって残っているのを横に見ながらしばらく走る。さらに白樺の林と広い森も中を道が通っている。

郊外へ進む車線は空いているが、市内へ向かうそれは凄い込みようで、渋滞を避けて?反対車線をハイスピードで走りぬける危険な車が絶えない。あきれたものだ

ダーチャが団地のように点在しているのが見えてきた、脇道の入口には店もありアメリカの田舎のようだ。牧場もあり牛が飼われている、白樺が多くブナもあり、大木は見当たらないが木質が美しい。湿地には菩提樹もあり、これは細工に向いていて、マトリョーシカ

などに使われるそうだ。

    黄金の門          ウスペンスキー大聖堂

昼少し前にウラジミールの街に入る。この街のシンボル「黄金の門」は凱旋門であるが中が軍事博物館となり、タタールの恐ろしかった時の蒙古軍の襲撃がパノラマにしてあった。クレムリンの手本となった「ウスペンスキー大聖堂」の5つの金色に輝くドームを見て、次へ向かった。

ボゴリューボヴォの街へ着き、白亜の「ポクロフ・ナ・ネルリ協会」を見てスズダリへ向かう。

世界遺産スズダリ観光

女性修道院「ポクロフスキー修道院」で鐘楼や教会をみる。スパソ・エフフィミエフ修道院に入って教会を見る。

小さな教会がそこかしこに見える。レーニン通りもあり街に点在するロシア正教の教会の屋根が夕景を飾って美しい。

この街は気品のある昔のままの光景を残す素朴な農村で教会や修道院が数多く保存され、さらに修復されて美しく、世界遺産に指定されている。人口は1万2千人しかない。

グラブニー・ツーリスト・コンプレックスと言うホテルも木造の2階までしかない洒落たデザインで、土産物も上品で丁寧な高級なものが多くグレードが高い。マトリョーシカの産地とあって見事な出来ばえの作品が飾ってある。

 森の暮らしダーチャ

ダーチャと呼ばればれる田舎の家は、およそ誰でも持つていて、100から200坪ほどの土地に粗末な小屋風の家を建て、菜園をおき、時には井戸を掘ったり、冬でも住めるように二重窓を付けたりもしている。トイレも完備しないものがあるそうだが、その庵か小屋で極北の夏の季節を生活のために過ごすのだそうだ。食料の自給自足をこれで成し、夏の陽光を身体に浴びて冬に備えるため、精いぱいに、ここで活躍しているそうだが、今ではレジャーもかねた夏の喜びの生活を送るとろらしい、いずれにしても冬の厳しい極北の地ではダーチャでの夏の生活が欠かせないものらしい。

これはロシアの生活文化の特質であり、真に森の民と言われる存在をしめすと思う。

ロシアは西欧や他の諸国と違う。日常の思想や信念が大きく違っていて、経済の意識や生活の立場が、ロシア独特の風俗文化と生活観念を持っているように感じざるを得ない。

「自らの手で自然の中に働いて生きることが信条の生活意識は、この暮らしから生まれてくるのだろう。

晩年のトルストイの思想をつくったのも、この自然の中の農村の暮らしではないだろうか、

ドフトエフスキーの「罪と罰」も前半の事件の罪と青年の意識の葛藤と矛盾に重点を置きがちだが、後半の流刑の中にいつしか希望と進展を見出していく結末の方が深い意味を持っているのかも知れない。自然の中に溶け込んで安らかな生活を続けるロシアの精神があるようだ。

ショーロホフの「静かなドン」の終末も自然回帰の情緒が汲みとれるように感じる。ロシア正教の聖母への崇拝と帰依は優しく暖かい救いを呼び起こすのだろう。

チェーホフにしても、ヒューマニズムな優しさが底流にあるストーリーの進行で物語も戯曲も構成しているのは、ロシアの民の風俗と聖母の与える母性愛の心の流れがあって成立しているのでは?・・・

 

イサーク聖堂

エルミタージュ美術館はさしおいて、しっかり眼にする事が出来たイサーク聖堂はフランス人モンフェランによって造られ、時代は大きく異なるが、ローマのそれをしのぐ豪華さと美麗で創造性の高い宗教建築だと感じた。ローマのサンピエトロ寺院も当時として最先端の斬新な創造性の基につくられているはずだが、このイサーク聖堂もその意味において斬新な要素がずば抜けている。

先ず伝統的にあこがれたローマのスタイルに固執してはいるが、窓を最大限に広げて明るく内部を照らし、イコンである聖母の姿が伝統のスタイルを大きく変えて当時として、全く新しい写真描写的なスタイルのバロックから生まれたアカデミック様式で、後の典型的写実主義のスタイルを素直な表現方法でまとめている。

聖母子像の顔面の表情が優しく和やかで、ヒューマニズムな穏やかさを伝えて、異教徒(ただの不信心な)私にも宗教的な母性の感情が移ってくる。

信仰する聖母の像はそれ自体清楚で優しく、麗しい母性を含み、磔刑の虐殺死体の伴う十字架の匂わせる恐ろしい厳しさではない。

ロシア正教寺院を祀るべきイコン像として配されている全ての聖なる画像はイコンの金箔に描かれたテンペラ画でなく、フレスコでもない。カメラのフラッシュも許される堅牢なモザイク画だ。

 

                            聖母子像          明るい窓と天井と極細モザイクの壁画

詳細微細なモザイクは超絶的職人技巧で、モザイク片が密着して埋め込まれた執念な技工と作業によって作られ、視るほどに驚く。その密度はまさにハイヴィジョンのような表現だ。

実はこれは、斬新的な創造で、現在に引き継がれ、写真・映画を中心にする映像の各種につながり、科学の視覚認識の表現スタイルにまで繋がっている、本来、事物の視覚の認識はもっと幅広く、多様なのだから、これは、この時期に創造された形態の説明をする表現様式の一分野なのである。

絵の具に替わったモザイクの利用も画期的な絵画の表出技法で色彩の安定性と堅牢において抜群だろう。この創造性の価値観は計り知れない素晴らしい効果があると感じる。

ロシアのバレー

幼年からはじめる必要のあるものは、人生の行路設定が難しいだろう、30歳で引退し教師になるとは厳しい。ここを見てからエルミタージュ・シャーターに移動する。

この劇場(エルミタージュ・シャーター)は、大理石の柱で飾られた舞台で、流石にロシアだと感じた。

ジゼルのカーテンコール         最前席で鑑賞

今夜の出し物は「ジゼル」で、入って最前列の席に妻と並んでかけた。指揮者よりも近くに第一ヴァイオリンがいて、演奏する各種の楽器の音が細部まで聞こえ、不思議な音の方向感覚を経験した。

 

サンクト・ペテルスブルグ

300年前に、急進的で勇ましいピヨートル大帝の伝記にあるようにして創られたサンクト・ペテルスブルグは先取の気鋭に満ちた意思と伝統を伴って今に至るようだ。

フインランドヘの戦勝、エカテリーナの登場と活躍、それと時を同じくした多くのインテリゲンツィヤの出現と、その活躍の進展のはやさ、その中でもプーシキンによるロシア語の文学と芸術文化の発展は、そのまま、世界の注目するまでのランクを築いたことなどが、この街の随所に残り、ソ連崩壊の今も、なにやら新しい動きを予感させている。

先ず街が美しい、おそらく再建の実態は観光目的だけでなく、経済活動の源泉をも担っているだろう?・・・東欧諸国の都市復元の計画と同様ではないか?

パリと比べてネヴァ河の美しさは勝るとも・・・いや確実にこちらの方が綺麗だ。

宮殿と河と空だけで町屋や一般家屋が少ないからだろう?・・・

ネヴァ河の水は暗いが、濁りを含まない鮮度の高い暗色で、これが景色を引き立たせる。

ロシア・バロックの統一した街の並びも他には無い、整然としたまとまりと安定感をもち

高尚な感じで、全てのものに高級感があり、人々の賑わいも街の全てにありこれが他の都市と比べて際立っている。サンクト・ペテルスブルグの優れたセンスと文化の感性と感情がこの中にある。

貴族のサロンの文化とゴージャスな生活はその下にある下層の召使達とナロードと呼ばれる大衆や農奴の生活を同じ街においていたようで、酷寒のこの地では、立場が極端に違っても同じ街の建物のうちに同居せざるを得なかったようだから、いずれの人々も、貴族の高い文化は会得出来なくても、そのムードだけは共有していたろうと思われる。

おそらくモスクワや他の地域の古い体質をそのままに引きずる社会とは大きく異なのではないか。

美しいネヴァ河の光景

この度の観光ガイドでは触れない10月革命の事は、観光客の私でも連想を避けがたい、レーニン達の登場による共産主義革命は、これまた斬新な理想と革新で世界に先駆けて打ち上げた歴史的な事件であり、その変遷は20世紀の三大特色(マルクス・ダーウイン・フロイトのもたらした)をなすものであり、特に記録されるべきこの街の史実である。

レ−ニンを先頭に革命の理想は新鮮でモダンなあらゆる革新的な試みを成そうとした。

宗教を否定し、性の開放から男女の平等のもとに階級を排し、新しい芸術の創造と実験、科学や機械の賛美・・・、ロシア・アバンギャルドと機能主義のデザイン・・・、

モダニズムのもつ全てを盛り込もうと期待した活動・・・、

それらは革命期の初期において、前進的な文化にあこがれた世界中の進歩的な感情を持つ者達に注目されたものだったから。

その後、まもなくにスターリンのロシア的な圧制の統一体制にしかれ、または支えられてしまったが、一時期革命の歴史が刻んだ急進的斬新的な社会を求めたことは、この街の伝統的な特質では?・・・

そのときのロシアのインテリゲンツィヤ達の実伝とロシア・アバンギャルドやナロード達の試みた革新的な生活の実験が創ったものを知りたかった。

平等・ナロードの参政・性の解放と平等。神と皇帝・貴族・大地主の支配などの否定は、新体制の創立を目指したが、ナロードへの文化の浸透と典型的社会主義レアリズムの創造はそれ自体、貴族文化に育まれたロシアの高い文化を否定する矛盾と葛藤をはらんでいる。

あたかも王政独裁を否定したインテリゲンツィヤが自らの貴族性を崩壊に導いたのと似ていよう。

その点、革命以前のロシアの芸術・音楽・美術が、近代化の初期において自国のそれを低く卑下して、ヨーロッパを強く意識して追いつこうとしたのは、日本の明治に、和魂洋才の意欲で欧米の文化を追い求めたのに共通していて、私の興味の中心である美術について、ロシアのそれを深く見つめたかった。

エルミタージュ美術館がヨーロッパの美術を展示しているのに伴い、トレチャコフ美術館がロシアのそれを網羅しているはずなので、ぜひとも観たかった

ロストフのクレムリンの城壁

移動派の画家クラムスコイやレーピンの作品と革命と共に、新体制が呼び起こした構成主義や生産主義芸術を生んだロシア・アバンギャルドの活躍による絵画や工芸品。

スターリン体制以後のナロードの文化として扇動的に描かれた典型的社会主義レアリズムのゲラシモフらの扇動とスローガンを中心に、大衆化されるアートの低迷する運命の絵も実際の作品を視たかった。

19世紀に文学と共に栄えたロシアの音楽も、この街で優れたオーケストラの演奏で聞いてみたかった。この街(レーニングラード)が独ソ戦でドイツの包囲と猛攻に耐え、自衛の守備力を誇示して、愛国の意思を示すために、戦力でなく、ショスタコーヴィッチの創作する第七交響曲の演奏を電波にのせてヨーロッパに発信し、市民の健在を示して戦闘を鼓舞しドイツ軍を恐怖させたこと。今も毎年戦争の記念日に演奏しているそうだ。

ソ連の崩壊で破産したロシアが手放す財産は文化と芸術の公演であった、それは手放しても減ることが無く、あるいは増えているだろう。かつて日本が日露の戦役でロシアから奪いとれたものも文化であった。

エルミタージュ美術館

この美術館の特別観覧を期待して来たのは誰しも同じで、宮殿だけに建物の立派さに眼を奪われながら入って進むと沢山の宝物が並び、テレビで紹介していた金鶏の仕掛け時計が目を引く、エカテリーナ二世が集めた古典の絵画は、世界の三大美術館に数えられるに相応しく、レオナルドとミケランジェロとラファエロを持っている。

ダヴィンチの母子像を見つめる    ミケランジェロの作品

展示はルネッサンスからの年代別ではなく、各地域ごと(国別)に別けて配置されているので、大いに戸惑った。印象派のコレクションの作品の質が優れていて、セザンヌもルノアールもゴッホも秀作である。

現代に続く初期のピカソの作品とマチスの大作を含む多数のコレクションがあり、近代絵画の発展を予測してとりあげた、このコレクターの優れた感性と知性を賞賛したい。

独り遅れてセザンヌの作品に見とれていたら、場内の監視係に急き立てられ追い払われたのは意外だった、「くだらない絵をいつまで見ているな」と言う感じだった?・・・

これらを見ていると、またフランスへ行ってみたくなった。

ロマノフ王朝の宮廷ディナー

晩餐会と称して宮殿に続く建物にラストパレスと言うところで「ロマノフ王朝の宮廷晩餐会」を楽しめることだ。ホテルに戻ってドレスアップするように言われてあわてる。

晩餐会                 待望のキャビアの一皿

 

ペテルスブルグの郊外に近いところに一体だけ残るレーニンの像を見た、「タクシーを呼ぶレーニン」と言われているとか?・・・ 先日見たピヨートル宮殿のある旧プーシキン市の通りに沿った所に、独ソ戦の勝利の記念像が車窓から垣間見られた。

昔しソ連がスターリンの像と共に自国の宣伝文書に掲載していた写真でよく知っていた。

タクシーを呼ぶ?レーニン像            車窓から見た戦勝記念の像

 

ロシアの飲み食い

出発前にロシア大使館で「ロシアン・ティージャムを入れてかき混ぜないでください!」と注意された。「ジャムはスプーンですくって食べながらティーを楽しむように」とのことである。ちょっと行儀が気になる?・・・

南国の果物やジャムもティーもコーヒーも、そしてチョコレートや砂糖も遠い国から来る貴重な贅沢品で珍しいものなのでしょう。ジャムをなめるなど、昔、秀吉が茶の席で砂糖をなめて喜んだような感じですが、それが素直で贅沢な用い方なのでしょう。

音楽の題名にもチョコレートの兵隊が出てきます。三つのオレンジのへの恋などと使われます。 絢爛豪華な貴族の晩餐にイメージするものは?・・・

 

食事もシチーと言うキャベツのスープや麦粥が基本の食事だとか言われ、ボルシチもピロシキも御馳走なのだそうだ。

かなり厳しい食材しか無い極北の土地らしい。何か豪華でボリュームのある肉ばかりの重い食事かと期待していた者には、肩透かしを感じる。

酒については言うまでも無い。

・・・・・参考資料・・・・・

        ロシア(世界の歴史と文化)   原 卓也著     新潮社

        プーシキンへの誘い      藻利 佳彦著    東洋書店

        レーピン           大月 源二編    青木書店

        週間世界遺産(サンクト・ペテルスブルグと・・) koudansya

                      〃  (モスクワのクレムリンと・・・)   〃

        NHKのハイヴィジョンの特別番組のロシアの紹介の放送

        ロシア大使館のホーム・ページ

        ロマノフ至宝と世界遺産の旅        恩田裕子著

        サンクト・ペテルスブルグ       ロシアで買った本

              

20031020日          保倉 一郎

保倉URL  http://a011w.broada.jp/hokura/

E:メール hokura@a011.broada.jp

 





「汎美だより」2015101

保倉 一郎

テンユウヲホユウシ・・・・ギョメイギョジ

厭戦少年は迷う 

チンオモウニ・・朕惟フニ我カ皇祖皇宗國ヲ肇ムルコト宏遠ニコヲ樹ツルコト深厚ナリ
我カ臣民克ク忠ニ克ク孝ニ億兆心ヲ一ニシテ世世厥ノ美ヲ濟セルハ此レ我カ國體ノ精華ニシテ教育ノ淵源亦實ニ此ニ存ス
爾臣民父母ニ孝ニ兄弟ニ友ニ夫婦相和シ朋友相信シ恭儉己レヲ持シ博愛衆ニ及ホシ學ヲ 修メ業ヲ習ヒ以テ智能ヲ啓發シコ器ヲ成就シ進テ公益ヲ廣メ世務ヲ開キ常ニ國憲ヲ重シ國法ニ遵ヒ一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ以テ天壤無 窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ
是ノ如キハ獨リ朕カ忠良ノ臣民タルノミナラス又以テ爾祖先ノ遺風ヲ顯彰スルニ足ラン
斯ノ道ハ實ニ我カ皇祖皇宗ノ遺訓ニシテ子孫臣民ノ倶ニ遵守スヘキ所
之ヲ古今ニ通シテ謬ラス之ヲ中外ニ施シテ悖ラス朕爾臣民ト倶ニ拳々服膺シテ咸其コヲ一ニセンコトヲ庶幾フ

明治二十三年十月三十日   御名御璽

テンユウヲホユウシバンセイイッケイヲホコルダイニホンテイコクテンノウハアキラカニチュウセイユウブナルナンジユウシュウニツグ・・・コンアカツキ、テイコクリクカイグンハベイエイニコクニセンセンヲツウタツセシメタリ・・・・

小学一年生にこれを暗唱させ軍国少年の意気高揚をはかった愚行は若い皆さんは知らないでしょう。

昭和16128日の朝、病弱で床に臥していた6歳の幼稚園児の私は、早朝に近くに住む番頭に門の外から呼んで起こされた。

「旦那・大変だ! 戦争だそうです」。女中を含む数名の住込みの若衆と家族7人が飛び起きてラジオのニュースを出して聞き入った。

翌年4月には早生まれの私は「7つ上り」と言う歳足らずの新入生として第一期国民学校一年生になって桐生市立北国民小学校へ入学した。

戦局が進むにつれ、2年生の姉は勤労奉仕で学校から遠く離れた生品(いくしな)の飛行場まで滑走路をつくるための芝草を運ぶために、学校に運び込まれた芝草の束を背負わされて途方に暮れていた。母が芝の土を落として軽くして包み治して出かけて行った・・・

体操の時間に胸を張って歩調をとって歩くと「一郎君、金鵄勲章!」なんて褒められて得意になっていたが、反面、痩せてヒョロ長の少年は色白でもあったからアメリカ人と陰口され嫌な思いもしていた。

家に有った本から覚えた乗り物の図をまねて描くのが好きで、

日本の飛行機は全部・アメリカのカーチス・ロッキード・グラマン・ダグラス・・・独逸のメッサーシュミット・伊太利の半双胴の変翌機・・・前大戦ではチェコスロバキアの保有機数は世界一で、先進工業国だったが、ヒトラーに進軍されて消えたのを知っていた、ヒトラーの名演説もラジオで聞いてしっていた、

 軍国初年でも飛行機少年でもあった。

教室で皆にかこまれてこれらの戦闘機が空中戦している絵を声上げながら描き遊んでいた。

後でこの絵の米機が街の空に飛んで来ようとは夢にも思わずにいた。

軍人・兵隊さんには向いていないし、なりたくない気持ちが強かった。

この町で織物の図案業を営む父は鏑木清方のもとに伊藤深水に手ほどきされた美人画の愛好者で、母の実家は花柳界とあっては軍国主義になじむ家庭ではない。

それを避けた将来を考えるぐらいは子供心にも根強くあった。

勉強して工業高等専門学校へ進んで技師になり、中島飛行機工場へ入り飛行機の設計をすれば兵隊にならずに済むだろう。

戦時が苦境になると、

兵隊をまねて、連帯責任を制裁するとして班長が部下を並べて、順に往復ビンタをくらわせた、まさか弱虫な幼な馴染みの保倉が皆に制裁を加えとは自他ともに予想しなかった。奴にやられるとはひどいと、途惑う彼等の恨めし気で寂しそうな顔に容赦なく食らわせなければならなかった、泣きべそ描いて鼻血を流す幼馴染の顔が心に焼き付いて70余年たつ今も消えない思いがある。

大本営発表に戦意高揚し、靖国神社の鳥井を仰ぎ見て祈った

「みごと散ろうよ、国に為!」東京大空襲から・・・

近隣の街・町が灰になり、わが町も突然にグラマンの機銃掃射に襲われて震え上がって畳に伏せた・・・

軍事工場の職工に

オシャカだー・オジャンだー・

と言う言葉が流行った。

ついにギョクサイ・ギョメイギョジだーとあいなった。

  今日、安保改定に思いをはせる、介護にたよる「年寄りは死んでください国に為・・・」

歴史は繰り返し、またいつか・・・  御名御璽に?

追記

天佑ヲ保有シ万世一系ヲ誇る大日本帝国天皇ハ明ラカニ忠誠勇武ナル汝勇衆ニ告ぐ・・・

今暁、帝国陸海軍ハ米英二国に宣戦を通達セシメタリ・・・・

 


ニュー・オリンズと桐生の街

 いま桐生の街に残る古い家並みや、明治から昭和の始めにかけて造られた経済と文化の近代化遺産の建物を補修改良して街の活性化に役立てようとして識者が努力しているが、ある意味で桐生の近代化時代の後継者の生活文化はフレンチ・クオーターの現状に共通した部分があるようで考えさせられる。

 桐生の人にさしさわりがあると思うので巧く話せないが、過去に織物景気で栄え人々が小さな街に密集して働き、周辺の他の街に比べて活気に満ちて人々の所得も消費も潤沢で「自己開放の欲望」が満たされていた状態があった。それを南アメリカでプランテーションの栄えた時代に例えれば、人的労力を原動力にした経済と時代の需要に乗じて生まれた小市民的な経済交易が盛って、大衆的で安易な享楽と色街の繁盛や安直な経済生活が自由な開放意識を生み、一方では勤勉な人々のそれ相応の蓄財なども活発にあったから、自由都市の様な社会が育って来て、街に「斬新的」な建築やプチブル的な生活文化の誕生を成していた。この点で両者は共通した市民生活の感情をもちあわせた所があると感じる。  むろんプランテーションと桐生の織物景気は、蓄積できた富の量と取り込んだ文化的な贅沢の程度において巨木と鉢の木ほどの違いはあろうが、その下に暮らした庶民の立場と実態は両者でそれほど変わらないと思う。

 開拓移民によって築かれたプランテーションの支配者にヨーロッパの封建社会の伝統的な貴族出身の様な誇るべき家系の名門のあるはずがない様に、桐生の過去にもそれらは無く幕末からこの地に流れ集まり、精々2〜3代までに家門をなした支配階級だから、いわば成り上がりの浅い文化知識と知性しかなく、成熟したブルジョワ文化人の高い知的な人格が完成されずにいたのも仕方ない。

チャンスに恵まれて身に余る金銭的利益を得て、贅沢や我が儘が身についても、肝心な自覚する「知的な人格」には限りがあり。幾分かの立派な人物と知識の流入はあっても深く根ざすまでのことは極めて例外であったろう、この事は資産を成しただけの支配階級とその文化に共通していると思われる。        

「風と共に去りぬ」のシーンを思わせる豪邸とフィールド

桐生の街の大衆はいずれも下層だが自由な経済生活と、低級だが豊かな庶民的文化におおわれていて、支配階級とのつながりは家内工業的な支配の元に置かれたから、日常生活のなかで互いが強く密接した主従関係にあった。

この事は、プランテーションにおける奴隷労働の実態とはかなり違うが支配者と大衆の人間関係が日常生活の中で密着していた点が共通する、これは家内的な生産構成の特色だと思う。即ち支配階級の文化が、下層な大衆の文化生活と切り離されないところにヨーロッパや京都の貴族の生活と同じになれないところがあったと思う。

 逆に下層の大衆は、成り上がりの支配者の生活感情と文化に溶け込んでいて、贅沢や先取の気鋭のある性格を持ち合わせていたようだ。それ故に大衆も機会あればすぐに成り上がれるし、下克上も気を咎める事がない?・・・

両方とも時代と経済の変遷にとり残されて支配者がほぼ消滅して衰退した今日、残された大衆の生活と文化は共通した多くの問題をもつ。いずれも今は発展性が閉ざされて未来への失望の中に置かれている。だが不安に迷っても楽天的で遊びや欲求の発散は上手で、不況にも忍耐強く、めったにへこたれない底力を持っている。これ等を比較しながら考えることは興味深いとおもう。                      

ジャズ・クルーズとプランテーション

観光遊覧船「クレオール・クイーン号」に乗って、ミシシッピ川の河口を回ってクルーズを楽しんだ。

生演奏のジャズを聞きながら川風に吹かれてビールを味わうのはまことに爽快である。



波こそ無いが広い川幅で海軍基地の一部になっていて軍艦が繋留されている程だから見かける船はどれも大きい。昔イギリス戦争でここにいた海賊の協力を得てイギリス艦隊に立ち向かって勝ち一躍有名になり第7代の大統領になったジャクソンは、「インディアン強制移住法」を制定してインディアンを壊滅した。さらに黒人奴隷の弾圧を強烈にしてプランテーションを拡げてニュー・オリンズを栄させた。

        

 

 

 

 

                                  

 

 

 

 

 

河口の街角にある遊覧船は「トムソーヤの冒険」を思わせる

 だが、南北戦争では北軍の工業力と船を使った作戦に南軍は敗退して、奴隷制度も無残に解体されプランテーションも荒されて「風と共にさりぬ」のごとくに斜陽の一途をたどり「欲望と言う名の電車」のような落ちぶれ方を経験した街だから、複雑な問題と深刻な悩みを引きずっている。それ故にジャズの音色もやるせない悲哀をあわせもつのだろう。 遊覧船は樹齢300年の樫の木があるプランテーション・ハウスの遺跡へ寄り、当時の名残を伝える屋敷のなかへ案内してくれた。立派なルネッサンスとギリシャ様式をあわせた豪華な館だが、それ以上に広いフィールドの緑が美しい。             この屋敷のガイドの黒人女性は奴隷制度の歴史を話しているらしいが私の英語力では話の脈絡がつながらない。遠くに奴隷小屋が残されてあり、主人と奴隷の差の大きさを見せている訳だろう。でも奴隷小屋と桐生の我が家を比べて見ると誠に悔しく不味い結果が出てくる?・・・残念だ

 船にもどって再びジャズを聞きながらすれ違う観光せんの情緒を楽しむ、もと来た所までもどりクルーズは終わった。

船着場から出てすぐに赤い電車が来たので乗った、フレンチ・クオーターまで数分で着いた。これがリバーフロント・ストリートカーと呼ばれる玩具ような電車で1j25¢の一律料金だ。「欲望と言う電車」にも乗ってみたい・・・

黄昏のフレンチ・クオーター

 姉と二人でカッフェ・ド・モンドに入って美味しいコーヒーを飲みながら傍らで一人でサキソフォンを吹いているオジサンの音色に聞き入ってみた。この街の大道芸人は皆んな達者な演奏家らしい、料金は取っていないが投げ銭は欲しいのだろう?・・・

良く見ると傍に自作のカセットテープをおいて売っているらしいので、尋ねたら7jでサインをいれて渡すと言うから買った。良い土産になった、時おり仕事場で思い出しながら聞いている。  

        

 

 

 

 

                                 

 

                                       

 

アイアン・レースで飾られた町並みは懐古的で馬車にふさわしい

夕食にケイジャン料理とクレオール料理を食べようと案内書でしらべたリタス・オール

ド・フレンチ・クオーターに入り「テイスト・オヴ・ニュー・オリンズ」と言う17jの人気料理を注文した。古い使い古されたままの荒れ果てたような暗い店内でウエイターも二人しか居ない、大変に親密的で気楽そうな雰囲気だが貧乏くさい感じでもある。

 ここは沖縄の那覇と同じ緯度にあり、亜熱帯だから自然に香辛料を沢山つかった料理が好まれるのだろ、各種の香辛料の集散地として有名な街でもありこの土地独特の趣向性もあるらしい。カレーや朝鮮料理の香辛料に慣れた私には珍しい不思議な感じがするが、何か「いまいち」だと思われる。

食事をすませて散歩する、鉄のレースと言われる唐草模様の鉄制の柵で飾った家並みがこの街の特色で美しく、各々に工夫されてどの家も古風な建物を上手に仕立て上げている。例えれば、「原宿の竹下通り」や「浅草の仲見世」と「京都の祇園の路地」を一緒にした様な光景と雰囲気を想像してみて欲しい感じの不思議なエキゾチズムのある街だ。

 夕暮れの大聖堂の前の広場に出ると、盛んにジャズの演奏をやっている。皆がまわりを囲んで聞いているすぐ隣では、異様な感じのする風体の易者のおじさんが3人小さな机を並べて、各々ひとりずつの客を相手に話している。何れも女性の客で歳はまちまちだが、その一人は食い入る様にまじまじと易者の目を見ながら話を聞いている。

もう一人は目を瞑って陶酔したように頬杖をして易者の暗示をうけている様に見え、他の一人は易者に一所懸命になって何かを話している。

ブードー教の信仰者だろう、信仰まではいかなくも何となく救いを求める人々が多いそうだ。弱い立場に迷う人達の儚い願も聞いて心配を和らげてくれるのも易者の勤めなのかもしれない?・・・

        

    

 

 

                            

 

 

 

           ジャクソン広場の夕景、ブードー教の占い者がすぐ後ろで婦人を観ている

陽気で明るく、人なつっこく、呑気そうな楽天家で、それでいて何処かもの淋しい感じ

のするフレンチ・クオーターの人々は、ジャズの音曲の感情が優れて深く、生活の精神の表現には言葉以上の伝達力をもって共感しあっているようで、平和な心の安らぎをこの夕景のなかに感じない者はいないだろう。夕刻の一時は、ここに暮らす人々の喜怒哀楽が全て浄化されてこの世の極楽を演じる、神聖な儀式のような光景になっているのではないかと感じた。

帰り道は、にぎやかな所を選んで通った。両側の店から音楽が溢れ出て食べ物の香辛料の匂いと溶け合い、気炎の上がる夜の盛り場の雰囲気の中をまるでトンネルをくぐり抜けるようにして通り抜けた。

盛んに演奏しているスナックの出入口の前で手に提げていた買い物のビニール袋を振り回しながらジャズの音曲にスイングしている年寄りの黒人は、見栄も欲も捨てゝ幼児か聖人のような汚れなさを感じさせる顔になって、「これが態度で示せる人生の歓喜だ!」とばかりに見える楽しみ方だった。今でも残って消えない強い印象だ。 


「汎美だより」201527日       保倉 一郎

今でも想う事

左手の機能が驚くまでに動くようになり歩行もかなりできます、右手は健在ですから絵も字も自由に書けます、すべて工夫次第で出来るようになります。人生と同じように?・・・

79歳になります。 良い人は先に逝くと言いますが、残る私は開き直って命を大切にして楽しく生きましょう。

 

制作中

古代ローマの生活が分かて来て人間の歴史と文化は大きく広がっています、

天文学の可視範囲が知りうる時間の歴史で、その空間は数百億光年らしく、実感は誰にも持てないでしょう。 

人類の歴史も生物学的に、派生と同時に現代人と同じ能力を維持していると考えられ、ホモサピエンスは発生以来同じなら文化も文明も早くから開けて、歴史も流れる水のごとく次ぎ次ぎに生まれては消えたと考えられ、現代人が知り得る歴史の時間も空間も限られ、歴史も6000年までが限度、それ以前のものは知ることが出来ないだけで、無かった筈は無い。

現に4000年前の見事な壁画がエジプトで見られ日食の予測計算も出来ていた。 

精神も思考認識も脳の生理的感覚から生じるならば、すべての概念は主観で客観の実態は人間には知りえないのですね。

孔子様が「前世が分からないのに後世が分かるはずはない」と言っていたそうだから人の思考には限界がある。

広大無辺これが最先端で、しかも昔から伝えられていた儘の実態の感覚・・・

 

★古代の人々の本来の生活はもっと自由と楽しいもので、私達のように働くばかりで稼いでは使って、お金のことばかりに明け暮れすることなく、食べて呑んで歌って恋して暮らすことが生活することで、仕事は興味を持ってする業や行為のことで、労働者として働くことではない。

歴史を知る南の人たちは皆そうです。経験だけに生きる経済人で、産業経済を中心に生きます。ギリシャ人は破産などかまわない人たちですでに生活出来ているからお金の貸し借りの心配などしないようです。 お金は交換手段の便利を作るだけで、生産経済の向上を維持するなんて意味のないことだと考えているのでしょう。

「愚者は経験だけに学び、賢者は歴史に学ぶ」と言います。

私はそれが本当だと思います。 「死んで持っていけるものは無い!」、 今のマネーは実体のない唯の数字、実体のある真の資産ではないのです。

死を知るとき感じます。

話題のトマ・ピケティ著『21世紀の資本』で富の偏在な配分を知って驚き、全訳された「共産党宣言」を見比べ、なんと言うことかと考え込みます。

 

 今の私は絵の創作を考えることが仕事で、また孫子の成長を楽しみながら暮らすことが生活です。

まだ生きていられることに感謝しています。

 これは無学な私に代わって学習した娘たちに教えられたことです。

不思議と子供たちに恵まれ、いずれも特殊早熟児で、3歳で分数を理解し、2分の13分の16分の5と暗算しました。中学で微分積分と多次元方程式で因数分解を駆使して解くことに挑戦していました。 受験勉強はせず特待生となってエリート大学の心理学コース(現代の哲学)に進みました。 次女は学芸大附属高校をへて東大を嫌って早稲田へ奨学金を受けて出ました。

 そこで人の幸せを研究し、人生は愛と楽しい家族生活が幸せを意味すると学び、それを選んでいます。 

老いては子に従い、わが人生も世間で言われたような不幸でも愚かでもなかったと感じています。 15歳になる孫が早稲田高等学院に試問試験だけで入学出来ました、今期の主席になるらしく、馬鹿の血筋ではない様です。

 

古い校舎が残る桐生の群馬大学工学部同窓会会館はTV/映画のロケ使われています。

群馬大学工業短期大学部紡織科

 

 保存されたあの教室で悲しみと共に深い思い出の所です、家業を父と共に働いていたので夜間部に入って勉強していました。

生徒は出来が悪いので、わたしが群馬大学工業短期大学部紡織科の主席になっていて、級長は授業前に教室の用意と教授に代わって出席を取り、後かたづけもさせられて休む暇なく、仲間の代返は出来ても自分のそれは出来ず、ついにはバテテしまい、父にも急死されて断念を余儀なくされることになりました。

あのころの教授たちは親切で、その後もよく面倒を見て下さいました、図案の牧島要一先生(岡田三郎助の弟子)父親のような心配をしてくれて、それ以後は師の家に通って師が亡くなるまで絵の勉強を伝授させていただきました。

良き師に恵まれて幸せだったと思えます。

生きて喜べるのは、人に逢えることです。」

死の淵をさまよったものが解ることは、会える・話せる・喜べる・愛せると言うことの思いだけです。 

それが生きることの具体的な意味で知性も倫理も心情には勝てません。

 15汎美展は、暮れから制作に没頭していますが進行が芳しくありません。

 「大胆にかつ単刀直入に感情表現を試みたい!」強烈で鮮明でありたい・・・

 

「死にそくない、の戯言(たわごと)  「汎美だより」 2012年度  

 昨年夏に脳梗塞を患い左半身不随になりましたが、10月末にリハビリの専門病院を出て、自宅でリハビリを続けて加療しています。

脳梗塞もリハビリで元気を取りもどし

  良い人は早く死にます、毎度生きながらえる奴は国賊?「年寄りは死んでください国の為!」亡国の輩は困ったものです。

散歩も絵の制作もこれを書いているパソコン操作も出来ます、これもリハビリの一環なのですがここまで出来る様になりました。

制作の意欲も衰えはないと感じます。体の不自由は致し方ありませんが、感情も感受性も増して来ているようにさえ感じます。

身体障碍者にはなってしまいますが、どうにか生活できるまでになりました。

拾った命は誠に幸運?な事だと感謝して毎日を楽しさと喜びのなかに生きて行こうと、のんきに開き直って、やりたいことのみを我が儘に暮らすつもりです。( 国賊め! )

かつて繰り返し見た、夢と知りなら見る悲しい夢を見なくなりました。心が解放されたか、老いて夢を見る必要が無くなったからでしょうか。

その夢は工学部の教室に授業を受けつつなぜか自分は休学中の聴講生で学籍が無くなり、しかも受講の反応がまどろっこしく、不安で、しかも不思議なことに子供の頃あこがれていた女の子が教室の何処かにいてそれが強く意識されるのです。

「ああ!またこの夢を見ているのだな」と感じて目覚めに救いを求めて戻るのです。

 生活のために学校での勉学をあきらめざるを得なかったことと、未熟な自分の弱さからもつ劣等感に悩まされて、青春の恋をはるかな高嶺の花とあきらめていたコンプレックスが生んだ悲しい夢が、人生の不安の度に夢に変形されて現われていたのでしょう?   

みじめな男も、いつか人並みの人生を!と欲張った心情が自分を苦しめていたのでしょう。  

今は、はかなく老いた現実を悟り、なり行きに任せて生きる自然を容認出来る様になった

のでしょう、不安が無くなりました。

 

この度のフランス製油所の事件?戦い?は身近に不安を感じる困惑にあります、次女の婿殿が日揮のトップエンジュニアの一人でこの製油所の創設あたり彼がオートメーション・コントローラーとしてコンビュナートを立ち上げたものです。

現在は横浜の本社に在勤で安全です。

フランスが石油確保に絶対的な安全を期待して砂漠の奥深くに道も付かない孤立させたコンビュナートで当事者以外はコミュニケーションも不可能なところで、辺りには、わずかな野生のラクダしかいない砂漠だそうです。

彼が建設中はメールで通信をとり現場の写真も良く見ていました、決して秘密ではなく。

おそらく今は当事者か三者かに通信は切られているのでしょう、破壊か誘拐か戦いかも不明らしく、誘拐はいずれとも重なっているでしょうが、対応が極めて難しいようです。

日揮はフランスの配管に詳しいので原発事故の冷却配管をフランスから持ち込まれたとき、東電のエンジュニアに接続が出来ないので陰で助けたそうです。むろん本人は出向かずに。

我々は人命救助が第一でも、関係諸国の当事者はそうはいかないかもしれません。

もし破壊がなされていれば、コンビュネーションの中心であるコントローラーはフランスの要請で出向かなければ?…

動乱とは国会だけではないのですね、家族の命に関わってきます。

すっかり元の政権に戻ってしまいましたが、政治屋さんたちの顔は頼りない、経済と外交に弱い政治は社会を乱して行くでしょうか。

 

莫言の物語に魅かれて読み続けています、ペンネームの「莫言」は物言わないの意味だが、良くものを言う人ですね、取材が田舎の現近代の変化と人間生活に集約され、繰り返し編纂構成される追求性は大江健三郎にも似て、登場人物の度知らずの素朴さはショーロホフの「静かなドン」のコッサック達の様を思わせます。

村上春樹のシュールレアリズムと比べて、大きな違いはリアリズムの追求が徹底していると感心します。 それにしても大陸の人の暮らしは厳しいものなのですね。

弱くても意気地無しでも日本の方が楽なようですね。

無知と粗野が平穏な命を危ぶむ、これは身の回りに常に在り、避けて通る知恵が何よりも大切な事だと知ることが、真面に生きる道を繋げます。

 莫言はこの人々の暮らしの普遍性や実態の矛盾な姿を通して、世と人生の在り方を提言させる。

 時代のなかの日本と近隣諸国と金融経済を共にする欧米諸国との関わりや種々の対立する無常を、莫言はその物語に深く鋭く比喩させて、感銘させる。むろん彼は中国の事として取り上げているが国際性を通じても共有できる普遍性を含み、私たちの為の物語でもあると言えます。

莫言のシュールレアリズムが、これほどの内容の制作なら、いかなる表現の自由の抑制も抑えがたいだろうと痛感します。

逆に言えば自由とは優れたセンスと表現の力によって成り立つもので、取り巻く環境が成せるものでは無いとも思えます。

 

私達に汎美の運動を通して自らが階層性や従属に堕ちっている過ちはないでしょうか?・・・  そんな心配をします。


                                      背 骨
                                                                                                                                                                               
保倉一郎 2004825
「姿勢」と言うと体の構えや物事に当たる態度を示す大切な表示で、これをなす背骨に歪みを生じて、さぁ〜大変!「後縦靭帯骨化症」は背骨に生じる難病の一つで、これが私にあったとは大きなショックでした。実は20年も前から頚椎と腰椎の変化が問題になっていたのですが、施す術はないと思ってあきらめていたのでした。
 ときたまに激しい坐骨神経痛を覚え、昨年の暮れにもそれがおきて騒ぎになり入院して調べたら、腰も首も悪く、首は既に危険な状態にあって手術が必要となりました。
言わずと知れたことで、命がけの手術は大変なもので、「生命」をクローズアップして眼前に見詰める羽目になります。
幸い優秀な医師の執刀で、結果は見事に成功して、腰を残す上半身は日ごとに回復してきました。
首の保護カラーと本 病床でのイメージスケッチ
一昨年に東欧への観光旅行で、偶然に歴史学の橡川一朗先生といっしょになれて、その縁で先生の著書をみて、なんとなく現代の哲学の動向に心寄せられていました。

入院中の読書に、今どき流行らないことですが青春の昔を想い、「嘔吐」と「源氏物語」と「静かなドン」に「青い鳥」等を枕元において見なおしました「嘔吐」が、今20世紀の代表作の一つに選ばれていると知って、16歳の春に初めてサルトルに魅せられた想いに重ねながらそれを感じなおした。
あの頃は、ヨーロッパの人たちが信仰の外に出る難しさを理解出来ず、何故こんなあたり前の意識の流れや光景の描写が革新的なのだろうかと狐につままれた想いがしていた、シュール・レアリズムな描写の場面があるのを改めて気付きスタイルの優れている意味もやっと解った。
橡川一朗氏が「源氏物語」で、日本の文学思想はヨーロッパにはるかに先んじて、人間の存在の意識と無常観を中心にみた思想を深く広げているとの指摘に改めて驚愕します。
 人生観(哲学)も文芸も永い歴史の時間の中に普遍性をもつものが流れて繋がっていくように私の生命も限られた時間に生きて、遠く永く続く世の流れの中へ消えて戻っていくのだろうと感じます。 残された時間を精一杯生きて歓び楽しみたい!
9月になると再入院して腰痛の手術を受けます、失敗が無ければ秋の「汎美会員展」に元気な姿で出席いてします、そうしたいと願っています!!

今の文壇?の様子と比較を試み、代表する?一作として「蛇とピアス」見たら美術界と同じく迷っている、あるいは昔のような迷いが今様の迷いに変遷していると感じます。

                      思い出                保倉 一郎 
 
二十歳前の時の思い出に、当時オノサト・トシノブ夫妻が養鶏をしていて私が時折に手伝っていた、私も養鶏に少なからず興味があったことも確かだった。 
ある時「保倉さん、鶏は一所懸命に餌を食べて自分の生命をつくすことに夢中だよ!」と唐突に言った。時折にそのような思いがけない事を言う方だったが、その時ばかりはハッとして無言のまゝ眼で問い返した。
「鶏は自分のなりゆきや立場などは考えずにたゞ生きることに精一杯で、毎日を暮らすから偉いよ」と言うような意味のことを独り言のように呟きながら私に話続けた。
数年を経てから、「僕が画家になれたのも、教員勤めや養鶏をやっていたのも、みんな人から勧められたり世話されたりしてそうなったので、自分の考えや努力はいつも後から続いて生じてきたものだよ! 何事も一身にやっていればチャンスや道は自然に出来るよ」と話してくれたのも、忘れられない言葉だ。
 自分に大切と信じられることをひたすらに追い求めて行く努力よりも、それを求めて当面の行いを継続して築いていく実態のほうが大切なのだと解している。
オノサト・トシノブは精敏でいながら朴訥なまでにそうした生活を実行できる一面を持った人だった。
 還暦を過ぎた今に思い返して、私の人生にもおゝかた当てはまっていると思われる。生活の糊口をつなぐ為の家業のやり繰りは、まわりの人々の計らいで不思議とチャンスと道がついてくれて、どうにか人並みの人生を過ごしてきた
 だが、好きで描きつづけているアートの方は未だ「人並みの線」までは繋がっていないようだ。
知恵と努力が足りないせいだろう?・・・ 
 なにしろ好奇心と興味と楽しさが中心で続けていることだから、趣味とか道楽の範囲を出ることは難しいのだと感じる。私の生活の知恵で「アートの道に職業として生きること」をためらって避けて通って来た。だから仲間うちで私ひとりが素人でいる。
 それは気楽であったが、厳しさに欠けた面もある。それでも、人さまの世話を頂いて個展やグループ展を幾度も経験し、汎美術協会の運営活動に道が繋がっているのも、それなりの幸運な巡り合わせだったのかもしれない。
 こゝにオノサト美術館の主催で「7の会」のメンバーに参加できるのは、かって五反田のオノサト美術館での個展に次いで大きな喜びであり、故オノサト・トシノブ夫妻に深く感謝したい。                   

いつも立ち寄って制作を見て楽しんでいた  オノサト・トシノブ    保倉一郎


   2001年8月13日 
                  
「命の歓び」                     
 終戦記念日が近づき、TVで野坂昭如原作のアニメ映画「蛍の墓」を放映していた。幼女の餓死するシーンで、少年の目から見た絶望の境遇に終焉を迎える妹の姿を観衆も共に目の前に置かれる。       
為す術もない「死の招き」の前に、人は心の癒される愛情と生理的な命の営みの安らかさを求めて、切なく追いすがろうとしながら、薄れる意識の迷いの中に「何を」求めようとするだろうか?・・・
この「何か」こそ、人生の最も大切なものに対する呼びかけではないだろうか?。
人間の思考力の限界を遙かに越える問いには、誰しも本能の直観に感じて、不安と迷いのまゝに救いを探そうとするだけしか出来ないだろう。
 私の感じて求めることに、「明るく優しい慈悲の救いが?」がある。
まったく受動的で、求めずして与えられる幸せな救い!・・・
生理的な苦痛を感じることなく、むしろ快楽におよぶまでの安らかな心地と悩みや不安の無い癒しの境地が待ち受けてくれることを切に希望する!
人生の終焉を告げる自然な「死」は別として、被害や身体機能の崩壊による病理のために命の軌道を外れなければならない恐怖は耐えがたい?・・・
「生きる!」ことは、生命の誕生と発展の根源のことで、フロイトの潜在意識の世界にあると思いたい。誕生から物心つくまでの若芽がのびるような勢いのときに人は不安と絶望を希望以上に感じることは先ず無い!・・・
 私の絵のことを思えば「命の誕生と発展を示すものを求めるためのアート」が私のオブジェでありたい!
それを示唆する死の暗示や苦悩の分析はさけて、出来るだけ素直に「命の希望」だけ求めたい。シュール・レアリズムの方法の中に模索してイメージ・スケッチを繰り返しそれらしきものを見つけては、連想と創意を注ぎ込んで試作を進めている。
溢れる明るさと色彩に救いを受けて、形は優しいエロスの誘いの中に命の活動を知り、癒しの安堵の境地を感じることが出来るような絵でありたい。   
「命を呼び覚ますア−ト」で、それが美しくありたい!              


 97年汎美だより
              思い出の版画                       汎美協会 保倉一郎
 青年時代にオノサト・トシノブ夫妻の好意をうけていた思い出の中に、「池田満寿夫の版画」を入手した記念的な追憶がある。
ある日オノサト・トモコ夫人に誘われて栃木の真岡町にある久保貞次郎氏の屋敷に久保コレクションの作品を見に訪れた。
 宮地佑治さんと黒田オサムさんが同行したように思う。
御存じの通り久保氏は著名な美術評論家であり当時の前衛的な絵画のコレクターとして定評があり、特に版画と児童絵画の収集が多く、その普及と啓蒙に力を注いでおられたから関係する美術作家達のパトロンでもあった。
 その頃は、極く限られた著名な作家を別にして、かなり立派な活躍をしていた人達でも自立して制作に専念できる状況では無かったから、久保氏の様なきとくな方のもとに寄り集まって啓蒙運動に夢中になって活躍しながら切磋琢磨して自らの作家生活の場を立ち揚げるしかなかった。  
大先輩の北川民次を出頭に、論客の瑛九が中心になってオノサト・トシノブ、靉嘔、池田満寿夫達の多くの若い画家たちが久保さんの傘の下に集まっていた。
 後に大成したかなりの数の作家がこの中から生まれた。もちろん消えて行った仲間の方が幾倍も多かった事は言うまでもない。
若し、私も強く望んで参加すれば、その点だけではOKのはずっだった良き時代でもあった。それだけは望んだことの無い私だったが、野次馬として強い感心を持ちながらチャンスを利用していつも楽しんで来た幸運は維持出来ていた。
 久保さんの所に集まるときは、仲間の便利と互いの気使いが少ないように、手弁当や自払いの習慣と共に「紹介と親交、作品の宣伝普及」の為に、参加者は手土産に自作の作品を持込み、帰りに見返りの土産として久保さんから他者の作品をいただいって帰った。
 その日、私は水彩の「並木のある風景画」を持っていき、帰りにいただいたのは池田満寿夫の版画だった。彼のことはオノサト・トシノブからも聞き、久保さんからは言うまでもなく詳しく聞いていたので何となく嬉しかった。(当時、彼は無名で作品も限り無く安かった)
後年になって調べて知ったこの作品の由来は、満寿夫が初めて色彩付のエッチングを試み毎日新聞主催の「現代展」に出品して審査に同意を得られずに苦戦?したとき久保さんが「エッチングに彩色したのは革新的な創意だと」と援護し、いあわせた審査員達の同意をうながして展示させた記念すべき?作品だそうであるが、今、私がよくよく見直しても何か躊躇するところのある難解な絵で、何としても好きになれない不満がある。
 ちなみに、宮地さんは、この時いただいた池田の木版画を不快に感じて破いて捨てたそうだ。
この春、画商にオノサト・トシノブを所望されたが手放せず、言い訳がわりにこの満寿夫の版画を渡したら、後日、「どうしても売れなかった」と戻してきた。どうも私の手元に止まる「縁」が深い品物なのかもしれない。
そうだ!、「思い出」と言うものは大切に守らなければならないのだ。
かえり見れば、オノサト・トシノブを通じて安く手に入れたり、手助けのお礼にいただいた小品が?点ほどたまっている。今では何れも貴重な作品であるが、戴いた義理と人情から売って遊んでしまう訳にもいかないだろう、それ以上に私にとって一つひとつに強い思い出があるアルバムの写真の様に懐かしい宝物になっている。
時おり思い出してはケースから出して見ていたが、そうだ!全部とりだして額装して書斎の壁に並べて展示して楽しもう。アトリエに飾ってあるオノサト・トシノブの大作2点と瑛九のエッチング一点と組ませれば、尾崎正教さんの提唱している「わたくし美術館」に参加して名乗りをあげられる?・・・(5点以上の展示品があればOKとの事)
同時にこれらの作品は私の制作の出来ぐあいを見るときの贅沢な「当て石」として役立つだろう。
  昨年亡くなられた久保さんには縁あって親しくお話しできたチャンスが数回あった。オノサト夫妻も無くなって遠い。
不思議なことに、池田満寿夫とは重なるチャンスを得ながら遂に会って話した事がなかった。                                                                                              ’97年9月10日 

池田満寿夫のエッチング

ピカソのゲルニカに想う  
                                                                           保倉一郎  200610月 

この秋に妻とスペインの観光旅行をしてバルセロナで自由行動をとりピカソ美術館を訪れ、20数年ぶりにゲルニカをみた。
 以前ニューヨークに訪れた折に足しげく通ったニューヨーク近代美術館にこの大作は置かれ、入り口を入ってまもなく必ず前を通らねばならないところの壁面に設置されその脇に「アビニヨンの娘」の派手な立体派の初期の絵が飾られていた。あまり奥行きのない場所に飾られた大作は、有名にもかかわらず見逃す人もあったほどで、モノクロームのせいもあって目立なかったのだろう、また全体像が距離の不足でとらえ難い感があった。
ピカソがモノクロームで描いたのは、当時(1930年代)の伝播は新聞やそれに類した写真雑誌へ掲載されることを意識してのことだったと聞かされていた。
スペイン内戦で共和国政府に内乱を起こしたフランコ将軍を後援してドイツ空軍が参戦しゲルニカを爆撃し戦闘に関係ない街の女や子供を犠牲にした。
それに憤激したピカソがヒューマニズムの立場から、博覧会の出し物にこの絵を描いて発表した彼の憂国の作品である。

ピカソのゲルニカ

 今この美術館の広間であらためて見ると、昔感じた激しく荒い画面の感じと異なり、意外に静かな理性の表現で、よく見れば戦闘の直接の惨い場面は避けられて、若い母の悲惨な表情と牛馬の像に託して示唆した戦いの暴挙の暗示があるだけで、立体派表現でも線と面だけの平面の表出を墨絵のごとくに描いている。
ナチズムの台頭と列強各国のナショナリズムの悲劇に奔走される人々の人生が無残にかき消されていった悲惨な時代だった。 スターリンのソビエトまでがフランコを推して人民戦線を打ち砕いた事実がある。
ピレーネ山脈の国境に救いを求めた敗残の難民をフランスの警備兵が追い払ったことを、ある小説で読んだ覚えがある。うろ覚えだがサルトルの「自由への道」か、あるいはアラゴンの小説だったろうか?・・・

平和と人間性の社会の進展のために戦争に散ったヒューマニストたちの人生があった。
写真家キャパの撮った、人民戦線の義勇兵が撃たれて倒れ逝く場面が鮮やかに脳裏に現れる。ダリの「内戦の予感」もそうだ。へミングウエイの作品を映画にした「誰がために鐘はなる」が思い出される。高校生のとき、あの映画を見ていたとき偶然に行き会った同窓生のSさんと並んで観て、思春期の二人は、映画以上にイングリット・バーグマンに魅了され感動して一緒に話した。今は亡きその友人Sさんのことが鮮明に思い出されてくる、なぜか忘れられない懐かしい昔のことだ。

 帰ってからその映画のDVDを借りて観て、内容の意味する意思とシナリオの演出が優れ、登場人物のアップのアングル構成が上手で、各シーンが簡素な表現でつくられたみごとな映画と再認識した。
 場面に出てくる風景や衣装がスペインを良く表現している、食事の場面のパンも、旅で見て知ったあのおいしいパンだ、ジプシーのなりをした女も今のスペインは未だそのままで、石灰岩の岩石ばかりの山岳地帯の谷あいの物凄さも、すさまじいシーンの感じを深めている。
70年前の歴史事実が今の平和な彼の地を残しているのだろうが、コートダジュールの海面の美しさは、昔物語とギリシャ神話のままだった。フランコ独裁のため国際社会に孤立し40年余も鎖国したこの国は、未だ現代の経済社会に振り回されずにいる生活があり、うらやましい。   
 ラテン系の文化の人たちが気楽で気さくな毎日をおくるのは、永い歴史のなかに人間の生んだすばらしい知恵を選んで暮らしているのだと感じる。

 日常の暮らしのこと、家事のことを大切にして、労務も苦労も家事と心の満足のために使われ、職業の勤務や苦心などにはあまり携わろうとしない生活が一般のようだ。

勤勉実直・蓄財と倹約・禁欲の美徳などは、本来は間違った観念? ではなかったかと考えてしまう。

 スペインの長閑な暮らし向きは、日の出が8時で9時には出勤しています。   
11時ごろ職場を離れて喫茶で1時間を休息し、午後の1時頃から遠くまで帰宅してワインを飲みながらディナーを楽しみ昼寝して過ごし、4時頃に勤務場所へもどります。
夕方帰宅して、夜は必ず着替えるそうで、気分を新たにして遊びに出かけ、食事はディナーではなく居酒屋のような店で、一皿の簡単な食事(チーズ・生ハムやスープ・魚の揚げ物など)をワインで楽しみながら会話に耽り、皿が空くと店をかえて、また別の食べ物でワインを楽しみます。 遅くまで、あるいは翌朝まで飲んで歌って踊って帰り、なぜか早朝に勤務先へ向かう?・・・祝日と休日は当然お休みで、 毎日、夜は遊んで、昼は飲んで休んで・・・・欲はなく結構な暮らし向きでうらやましい。 
 本当はこれが良いのだ!

 それでも世界経済の発展の種はここにも蒔かれて、建設ブームに巻き込まれている。働くのは移民たちで、国内に宗教の異なる移民が溢れ社会変化が迫っている。

コートダジュールの浜辺に憩う若い人

富に支配される経済観念を強力に推し進める思想をもつようになれば利害の衝突と貧富の差が生む階層意識が先鋭なる。
 差別と無知の欲望と行いは、互いの違和感と不平を生じ、反抗や争いをもたらす。経済競争社会が生む戦争の不安と危機は、やむ事なく続くのだろうか?・・・
 私たちにも北朝鮮の矛盾が身近にある。
60余年前に国民学校(当時の小学校)で叩き込まれた愛国の精神は国粋主義のもとに富国強兵と侵略戦争に奔走して、国のために命を捧げることだった。
 世界中の列強と言われる国家は皆そうした状況でしのぎを削っていたのだ。
 芸術の魂は平和を求め、そのなかにしか存在できない。ヒューマニズムと平和の革新のためと言っても戦いに散るのはいたましく賛同できない?・・・

残り少ない我が生涯が、和やかで平穏でありたい。


後期印象派の画家を訪ねる旅

ルノアールの館を訪ねて           南フランス カーニュ「ヴィラ・コレット」   2002年3月1日

 快晴のニースの春の爽やかさが、なんとも有り難い。海辺の道路から見上げる高い丘の続く中にあると聞く、バスを降りて白壁や塀に囲まれ植木の良く繁った、やや急な坂道も含む小道を進むと、程なくルノアールの館に着く。外からは変哲も無い狭い門が道路に面していて、「ルノアールのミュージアム」と小さく書かれたプレートがなければ通り過ごすほどの入り口だ。

 ざっとした注意事項をガイドから聞き、路面を囲こむ塀の中に入るとまぶしく広がる青空の下に、丘に開けたオリーブの古木が数メートル置きに点在する広い庭に出る、眼下には地中海の紺碧の海が横たわり、木の回りには色とりどりの花が散らばる。

 丘の少し奥に二棟の薄茶の屋根を伴う建物が見え、一方は住まいだった瀟洒な館で、他は納屋だったところで、今は売店になっている。

アトリエを持つ住宅は、入り口に改札口を設け、観光客を迎えている、離れの納屋も中はお土産屋になっている、外観は地味だが、外壁も内壁も重厚で堅牢な石造りの3階建ての家屋だ。

階段も壁も穏やかな明るい灰色と鈍いベ−ジュ色で柔らかな階調を保ち、屋内すべてが穏やかな明さに満ちて優しい温かみを感じる。まさにルノアールの住まいに相応しい。

やや高めの木製のテ−ブルとシンプルな木製の椅子数脚がある部屋は家族の日常の一番の中心に使われたいわゆる「茶の間」であろう。

壁面は山吹色で腰回りとドアが象牙色のこの居間の暖炉でくつろぎながら家族と和やかに暮らしていたのだろうか?

南欧風に造った「桐生倶楽部」の建物と同じような感じで、ニース地方の極ありふれたスタイルの内装だと感じるが、ルノアールの絵が飾られているので、とても洒落た雰囲気だ。       

  彼が使っていた画具が、そのままのかたちに配置されたアトリエを見ることが 出来る。

少し大きめの部屋ぐらいで、アトリエとしては手ごろな広さで、モデルの裸婦に使わせた小作りなベッドと着替えのコスチュームの置ける所があり,イーゼルの脇にはキャスター付きのワゴンに絵の具箱と筆やパレットがおかれ、晩年リューマチで不自由な体を支えた車椅子が書きかけの絵に向かっておかれている。

 書きかけの絵とは言っても実はつくりものではあるが、よく雰囲気をつくっていた。この壁も山吹色で床は木組みの自然な茶色であるから、温かみのある優しく明るい作業場で、立ち仕事で使う形の彫刻台がイーゼルの後ろに置かれ、ルノワール作?の裸婦の胸像が乗っている。

この彫刻は日本では永らくルノワールの作と言われて疑わなかったが、数年前から彼が他の人の助けを借りて造ったと聞いていた。

だがここでは、はっきりと彼の友人が彼の注文道理に造ってルノアールの望むままの形に仕上げたと言っている。さらに「友人」と言うだけで改めて名前もあげず、「彫刻家」とも言わない、あれほどの完成度で見事な仕上がりを誰がルノアール作と信じずにいられるだろか。

周りには「ルノアールかな?」と疑うまでのルノアール・スタイルの絵がいくつも飾ってある、これらは彼の友人たちが描いて、彼と共にその芸術を語りながら協調して描いた作品だそうで、弟子とも私淑している人とも説明していないから、彼は豊富な最新の知識と優れたセンスと技量も持ち合わせた同調者たちに囲まれて後期印象派のルノアールの道を切り開いていたのだと感じる。         

優れた哲人としての素養を示す。     

 ルノアールの人気が盛んになった時点でも、知識階級とされる美術愛好家の一般からは、なお後期印象派は斬新過ぎて、前期印象派との違いを意識する以前に、印象派全体が特別に隔たった価値付けの、脈絡が出来かねる存在だったろう。               

それでもなお、先端の科学知識だった色彩理論を背景にして新しい視覚表現の様式をかざして立ち向かう様はまさに前衛で、台頭する市民階級一般に浸透するブルジョワ革命の自由な市民意識を押し開く先鋒にあったはずだ。

 ブルジョワの台頭もその文化は貴族的な旧態を根に持っていて久しかったのだから。

次の旅で知るゴッホにしてもオストワルドの色彩環の構成をゲーテの学説から知ったと聞く、当時有名になったゲーテとニュートンの色彩環の論戦を比較していただろう。

ゴッホは、おそらくニュ−トンではなくオストワルドの色彩環からの色彩調和の理論をゲーテから引用していたと感じる。

前期印象派の築いた画法に上乗りして可能な方法を模索することは当然の必要をもたらしている。過去の視覚表現の歴史を振り返って、アートの心理的・内面的な表現と画面の構成の自由な描写や強調と複数の画面の同時設定の象徴性の示唆・複数の物語を視覚構成して来た歴史に照らして、 前期印象派の一点から成る物理的な視覚のもたらす表現範囲の固定化される行き詰まりを乗り越える為の手段を、エキゾチックな東洋の日本画にヒントを得たりした。浮世絵の二次元的平面を表現しょうと大変な冒険と摸索を繰り返し、異なる色彩の縞状の並列塗りこみで視覚の中の色の共鳴効果を創った。また黒を混ぜて使う暗色効果を否定した。この試みを守りながら限られた時間内に多数の絵を書いて研究した。

セザンヌは複数の視点から見た画像を同じ画面の上に組み合わせた構成の試みと、画面内に作られた各セクションを副次的に異なった視覚内容を想起させて、複雑に発展させる試みや、大きな「水浴の図」に試みる大胆な画面構成を押し進め、後のキューピズムへの発展を促がした。ゴーギャンも未知の文明世界に新しい境地を求めてタチヒへ渡る。

いずれも後期印象派のもたらした,外形だけでは表現できない心情の内面性や思想を表現したい必要と画面構成の多角的な表現スタイルを目指して、模索と思考を広げ、モダンアートへ繋げる深い意味と大きな成果を創った。

ルノアールは印象派に彼の哲学としてプチブルジョワの市民意識を基底として、地中海的な開放された明るく開けた雰囲気に、当時の新興の市民生活があこがれたモダンで洒落た風俗や流行を大胆にかつ気品の良い趣味性を売り物に人気も高めている。
自由闊達な開放感はブルジョワ的進歩の観念を大胆に謳歌し、しかも格調高く清純な開放を展開している。

木漏れ日の中の裸婦は印象派のスタイルの大胆な試作で「腐った肉体」の誤解まで生んだ有名な話があるように、それだけでも斬新な意識が計り知れる。

 純粋に晴れやかで清純なエロスの歓びは地中海の古典からの裏付けを持っているのだろう。これは現代にニース近郊で活躍した、マチスとピカソにも引き継がれてこの土地を明るく息きづかせているようだ。

地中海の解放感のもたらすやさしく明るいロマンチックな雰囲気は、ドビッシーやラベルの音楽とともに「ダフネスとクロエの物語」を思い起こさせて、日差しの中に午睡の夢の長閑さを誘う。「トリスタンとイズー」の物語もキリスト教会の支配以前からの地中海文明がヨーロッパに与えた思想だ。
地中海を取り巻く地域全般に深く浸透して、遺跡とともに今も続いて人々の心を豊かに支えているのだろう。

新興のプチブル市民階級の思想をここに求めたルノアールは、性の意識の開放にも挑戦的に打ち進んだようだ。
 矛盾の上ではあるが 元来ここでは「自由な性愛」が肯定されて平然と実行されている、おおらかな存在だったようだが、夫人の理解と同調に助けられて、モデルの選定や彼女や家族のモデルとしての表現も協力的な同調を得ていたようだ。
 日常の生活でもそれは密接に生かされて、抑圧されない真実に清純な愛の暮らしを得て、家族と知人、関係者に囲まれてともに平穏で豊かな愛の生活が、まさに彼の絵の対象とされていたと感じる。

前期印象派が斬新な科学の手法と市民の生活感情に根付いて発展したが、内面の思想と物語や寓意性とロマンスを求めるには後期印象派の表現の努力が必要とされ、その一翼をルノアールがここに成している。

当時のままの光景が残り、タイムスリップと言う事を感じさせない存在として今日に繋がっている。この辺りの人々は今も当時と変わらぬ生活を続けているようだ。日本では考えられない実際がここにある。

ルノアールの晩年は、ここでの生活で、リューマチに悩まされて、筆を手に巻き付けて制作していたその写真は良く知られている。達筆すぎるので、易しさと親しみを妨げないように、晩年は画風に、彼自身意識し筆の勢いを抑えて並外れた技巧の驚きや威圧感を生じさせない様工夫していたようだから、その意味では指の不自由が役立った事もあるか知れない?・・・

年齢的に眼も衰えたと解説された覚えもあるが、そのような感じは受けない。友人に頼んで作った家族の彫像も、後日、文献でこの彫刻の達人はマイヨールの弟子でリシャール・ギノーがルノアールの依頼に合わせた作だと知る。

優れた同調の人々に取り巻かれて暮らした彼の生活の素晴らしさが良くわかる。

 晩年には、二人の息子が戦傷し夫人は介抱のために疲れて病        を得て他界し、寂しい半面ももちあわせていたが、すぐに新しいモデルを雇ってこのカーニュの地のオリーヴの林に囲まれた「ヴィラ・コレット」の館で車椅子の生活を続けて七十八歳の長寿をまっとうしたと記されている。(生涯は1841年から1919年)
 今日もルノアールの画集を開き、この優しくおおらかな愛情と豊かな心に魅了される。思い出してオノサト・トシノブの晩年にも彼の明るい思想に於いて、それなりの共通点がある。懐かしい思い出だが、私も恵まれた友人達の中に在ってそうありたいと願う。

オリーヴ樹の林の庭から見下ろすと、下町の家屋と地中海の景色が広がる

2002年8月11日     汎美術協会 保倉 一郎


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