Tea Room3

”美 ”について、寄稿を頂きましたので、掲載いたします。
  ご寄稿有難うございました。

英語版 Googleのウェブ ページで翻訳  
  1, 美について「序」
 「美」という、この捉えどころのない概念の扉をどこから開いていけばいいのだろうか。
 少なくとも、誰が見ても美しいもの意外に、過ぎていった時を想像の中に呼び醒ますようなもの。
 <古代の遺跡・古びた町並みや石仏・古い道具・食器>等々。
 これらには、清潔感や出来た時の色彩・完成の度合いなどは失われでいるものの、ある種の美がある。
 うがった言い方をすれば、時間の流れの中で完成度が失われたり、破壊されてしまうことによって、 まったく別の美しさを醸し出すのである。
 しかしながら、これは見る側の美的あるいは知的な観念によって、美的なものと知覚されるものであって、 それらを認識できない者にとっては、美的なものと言えないのである。
 ー若い女性の美に対して、加齢による老いた姿をー 時間の堆積に於ける知的な美”と表現したとしても、 これは1つの方便もしくは詭弁であって、素直に視覚的な美とは認めにくいのである。
 かく言い出してしまうことは、化粧品とか申す秘薬を信じ、日夜顔面修理に勤しむ方々には失礼なことなのだろうか。  40歳・50歳。この摩訶不思議にして危うい年齢。
 女性なのか、それとも女なのか。いかんとしても名状し難い美。詩的に、これを青春の廃虚と言ったら失礼か。
2,美の角度  
 私の美。  創造的な肉体的な印象としての美について言えば、
私にとって、最も美しいもの、それは1人の女(そのたった1人ということであって、それ以外の誰でもない)を、 抱きしめ愛し合う時、その白いふくよかな胸に顔を埋めながら、切ない思いの中、 何かしら懐かしいものを見るような思いで、充足に吐息する女の顔である。(無明者ー稿)
”氷上の美〜奇跡の美!!”
トリノ冬季五輪第14日(2月23日)早朝、今世紀最大の感激わ味わった。
まさに”美”の誕生を目の当たりにしたと言えよう。
ガラスの天使コーエンが転倒、ベテランの女王スルツカヤもまさかの転倒。
荒川選手は、ヘッドホンを付けて、彼女らの演技を全く見ないで自己の演技に向けて集中していた。
後刻、銀盤の女王達の苦難の数々を知れば知るほど、荒川選手の演技は
努力の結晶以上の奇跡に近いことを知らされる。彼女の”イナバウアーの美しい姿態は、
いつまでも瞼の中に焼きついている。
最も不安定な氷の上の演技が、”美”としての成功率が低いがゆえに
それが達成された瞬間の感動は、最高に達するのだ。
しかもリングサイドで、会場の空気と共に目の当たりにした人は、演劇や絵画の比ではない。
この瞬間、電波を通して目にした我われも、その感動を共にすることが出来た。
しかし、ひとたび達成された後の映像は、名画を眺めるのと似ている様である。
”美”は危ういがゆえに美的であるのか。いづれにしても、わずか4分間で、
”美”を極め、多くの人を感動させたことは、芸術と言えるのではないだろうか。(耽美者)

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