Tea Room 2

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その3、美的体験について(3)
美の規範は、人類の数千年にわたる地球と言う大自然の中での原初的体験に基づくものであると言う考えは、先に述べたましたが、 人類の感性が磨かれるとともに、この広大な大自然の中で、絵画・彫刻等においては、「均衡と対比と比例の妙味」を見いだし、 19世紀に入ってルネッサンスという文化・芸術の華を咲かせたことは周知の通りです。
これまでこの小文の中で、美の概観・形態に注目してきましたが、これは美の一側面であることは、すでにお気づきのことでしょう。
即ち、美的形態としての美の対象が不確定である以上に、美的判断をする側は、先にも触れたようにその感じ方受け止め方はさら に様々です。
加えて美的対象は、美的形態等のみならず、美的現象として眼の前に存在しないある美談に感動した場合にも、美的なもにを体験した ことに他ならない。
”美”は人がそれを認識することによって初めてそこに存在する。ここに美的なるものは、個人それぞれの意識構造 即ち、経験的意識構造に負うところが大であると言えよう。
”感動”そして”美的なるもの”これこそは、この地球上の無限の生物の中で、人間のみが感受でき得る最高の幸せといえよう。
しかも悠久の時の流れから見れば、人の一生は僅か数十年、その中で美的体験ができるのは、どれほどの時間であろうか。夜空に 幾百の種類の花火が打ち上げられ無数の感動があり、世界で無数の花火が散っていくように、人もまた幾つかの恋をし、慌しい生活の中で 幾つかの感動を胸に抱いて消え去っていく存在であるがゆえに、人の命は尊いのではなかろうか。

『美とは、幸福の約束のことである』という言葉を、フランスの小説家・スタンダールは残しています。人類は数千年もの間、 生き延びることに多大の時間を費やしてきたが、ルネッサンス以降、理性をもった人類に「光り輝く幸福の約束の旗」が掲げら れました。(現在もなを一握りの独裁者たちの欲望の犠牲にされて多くの人が疎外されていることは、痛ましいことである。)
その幸せを享受できるよう、先人達は、クラシック音楽やその他の音楽、小説・詩歌等膨大な文学作品、そしてなんど観ても見飽きない 美術作品の数々、その他先人の残してくれた数々の人生の楽しみ。その先人達自身、それを創作する多大の苦痛の中で、人一倍強烈に 美を体験し、生を充実させていたことでしょう。
音楽に陶酔すること、陶酔できる音楽に接している間は、充実した幸せの時であり、優れた数々の小説を読んで感動できれば、実人生 では体験できないそれぞれの人生を、主人公と共に生き、充実感を得ることができます。
絵画・彫刻等においても、それを眼の前にして、それが制作された時代の文化の香りを会得することによって、自己の人生の幅を 広げることができる。これらのことは人間にのみに与えられた”幸福の約束”でしょう。
もっとも人類は、文化に関しては、まだまだ進化の過程にあるため(あるいは既に退化が始まっているのかも知れないが・・・) この”幸せの約束”を享受できる人の比率はかなり低いのかもしれない。
このように考えてくると、美的なるものを探究することは、人生そのものであると言えるのではないでしょうか。
スタンダールは、「赤と黒」「パルムの僧院』「恋愛論」にも窺えるように、人生を十二分に生きたと思われる彼自身が、墓碑銘に ”生きた、愛した、書いた”と、あえて書かしめたのは何ゆえであろうか。
彼は、「幸福を追求すること」即ち「強烈な感動をとことん追及することにこそ、人生の目的があるのだ」と言っています。
音楽・文学・絵画等の芸術は、いつの世の人々にも感動をあたえ、”美”は永遠であるとも言えます。
  しかし、”強烈な感動"もやがて薄れて行き、”乙女の美しさ”は、間もなく変貌し、"皺の刻み込まれた老婆の顔の美しさ"は、まもなく この世から消えて行きます。”美”は、はかないものでもあるようです。パスカルは「人は一本の葦である」といっています。
人生とは、このようにはかないものでしょうか。パスカルはもう一言つけ加えています「人間は考える葦である」と。私も十代の後半に、 人並みに「生と死について」考えました。そして、空腹を忘れてむさぼるようにように読みました。そして、五〜六年後、生きる力を得ました。
その4、生きると言うこと

次の機会に・・・・。

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