Tea Room1

ようこそ!! Tea Room にお立ち寄り頂き有難うございます。
ここでコーヒーでも飲みながら、私の絵画誕生の一端をご理解いただければ幸いです。

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その1、女性美の原点
それは私がまだ3歳位のことでした。
父の後輩の奥さんがときどき家に遊びに来ていました。
その婦人は、色白でふっくらとして、柔らかな艶のある声でゆっくりとした話し方でした。
その人が初めて訪れたとき、私はたぶん母の膝の辺りにいたのでしょう。
「眼のパッチリした可愛い坊ちゃんネ、おばちゃんの方へいらっしゃい」などと言って、いきなり抱き寄せて、 彼女の膝の上にのせられた。
ふっくらとした暖かな膝だった。母の母乳の香りとは異った、かすかに化粧の香りと体臭の混じった甘い香りが、ほのかに 漂ってくるのだった。
それはまさに、白い柔らかな雲の上の花園の中にいるようだった。
その日以来、小さな胸の奥で、雲の上の居心地を、心待ちするようになっていた。
しかし、遊びから帰ってきて、玄関に彼女の履物が並んでいると、心臓が高鳴って、すぐには部屋に入れなかった。
そっと足音を忍ばせて部屋の襖を少し空け、片目でそっと中を覗くと、彼女は大抵は母と向き合ってこちらに背をむけていた。
母と私の眼が合うと、彼女もそれに気付いて、振り向いてニッコリ笑って「いらっしゃい」と手招きしてくれる。
その膝の中に飛び込んで行きたい気持ちと恥ずかしさとで、心臓がドキドキして、小さな体の中を血液が渦巻く。なんども呼ばれて、 のそのそと膝の中に入れてもらうのだが、母の目の前では、気恥ずかしくて落ち着かなかった。
そんなことが何回あったか、今はまったく記憶にない。たぶん間もなく彼女の姿は見られなくなったようである。
そして、10年以上氷結していた記憶が,十代の後半になって蘇えってきたのだった。
その2、美について 『美』即ち、美しいと言うこと、これは誰もが知ってはいるが、これほど不可解なものはない。
美と感じられそうなもの数種類を提示された場合、十人中七八人は同じように感じたとしても、全員が一致することは、まずないで しょう。
美はあちらこちらにあり、美はあちらこちらで造られる。
それを眼の前にしたとき、誰もが心地よく感じ、幸せな気分になる。
しかし、その感じ方や度合いは、人さまざまであり、その対象も異なることが多い。人種、文化、性別、生い立ち、教養等によって 様々である。
あなたが今までに一番美しいと感動したものは、何ですか。と問われたとき、まず最初に思い浮かぶものは何でしょうか。
富士山頂から眺めたご来光でしょうか。庭先から眺めたある日の夕景でしょうか。映画の中で涙する美女の横顔でしょうか。 あなたの腕の中で微笑む幼子でしょうか。それともラストシーンで静かに永遠の眠りにつく年輪の刻み込まれた老婆の顔でしょうか。 あるいは、美術館で観た名画のどれかでしょうか。
大多数の人は、海山川森等の雄大な自然界であることが多いようです。
それは、人類の永い歴史の中で、DNAの中に刻み込まれた自然への畏敬の念からくるのではないでしょうか。
美しい風景画を観て心の安らぎを感じるのも、人類が永く親しんだ自然を感じさせてくれるからであろう。
日本庭園は自然を模倣している。昼下がりの木漏れ日の造形美、秋の黄葉や紅葉は色彩の美しさを楽しませてくれる。
私達の美の規範の一つは、自然であるといえよう。全山紅葉もそれなりに美しいが、黄葉と紅葉のそれぞれの微妙な色彩の数々が、 鹿の子まだらに広がっているのは、この上なく美しい。
美は均衡と対比と比例の妙味にあり、ここに絵画の存在価値があると言えよう。
美の規範が自然にあるとは言っても、自然をそのまま描いても自然には及ばない。しかも、作品を鑑賞する側は作品の独自性に 関心をもっている。
高村光太郎は次の様に述べている、「他から或る特色をその芸術に認められたが故に、その特色を意識的に自己の特色と思うように なると、その作品は自然の流露を失って、だんだん偏奇の窮谷に導かれてゆく事はしばしば目にするところである。〜芸術作品を 作る者の側からいえば、気のついた癖はむしろ取り除かうとするのが本当であろう。〜独自性よりも普遍性を心がける方が正しい のではないかと思う。特性は自己の意識しないところから湧き出す香りのやうなものであってこそはじめて貴い」

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