第六章
御堂神菜
そして周が開けて火曜日の朝。墨由はいつも通りに三人で登校して、いつものように下駄箱の戸を開けると、いつもと違ってそこには上履きの他に手紙が入っていた。
なんだろう、これ。何気に手に取ってみる墨由。ピンク色の封筒には何も書かれてはいない。一瞬だけ撫子がやった事だろうかと思ったが、今更撫子がこんな事をするとは思えない。それは音羽にも言えることで、今更撫子と音羽がわざわざこんな手紙を用意するとは思えなかった。
そうなるとこの手紙は墨由の知らない第三者が出した物だと思われる。それが誰なのか墨由には一向に心当たりが無かった。
「すー君。どうかした?」
いつまでも下駄箱の前で手紙を見ていた墨由は突然後ろから撫子に声を掛けられて、何となく手紙を素早くしまうと撫子の方へと振り返る。
「ごめん、ちょっとボーっとしてた」
そんな墨由の言葉に撫子は軽く笑う。
「昨日は遅くまで起きてたの?」
「う、うん、まあ、そんなところかな」
「ダメだよ、ちゃんと寝なきゃ」
「うん、分ってるよ」
「ほらほら二人とも、さっさと行くわよ」
音羽に促されて墨由は急いで上履きに履き替えると二人の後を追って教室へと入って行った。
「皆、おはよう〜」
相変わらず教室に入るとそんな言葉を口にする撫子。そうなると男女問わず撫子の元へ集ってお喋りを開始する。そんな状況でも撫子は嫌顔一つせず、それどころか逆に楽しげに喋りながら自分の席へと付くと、周りのクラスメイトと一緒にお喋りを続けている。
そんな見慣れた光景に墨由はさっさと避難しており、すでに自分の席へと付いていたが違和感を感じていた。いや、正確には今までの違和感が無い事に気付いたというべきだろう。
いつもなら墨由が教室に入ると見られているという意識が今日に限っては無いという事だ。墨由が身体をちょっと移動させて神菜の席を見ると、そこには誰も座ってはいなかった。
御堂さん、どうかしたのかな? 墨由がそんな事を考えていると、これまたいつものように松居と寺内が墨由の元へやってきた。
「今朝も羨ましい限りだな。俺にもその幸運を分けてくれよ」
松居は墨由の机に腰を掛けるといつもと同じような言葉を掛けてきた。墨由はそんな松居を無視して寺内に顔を向ける。
「おはよう、今日も賑やかだね〜」
「いつもの事だからもう慣れたさ」
「というか、俺は無視するのか?」
こちらもいつもと同じように男三人でいつものような会話をするのだが、墨由はやはり神菜の事が気なってしかたなかった。ホームルームが始まるまで後数分。それなのに神菜の姿は未だに無い。墨由は寺内に神菜の事を聞いてみる。
「ああ、御堂さんなら今日は休みだよ。ちなみに欠席の理由は風邪だと言っていたよ」
「相変わらず情報が早いな」
「それだけが唯一の楽しみだからね」
他の楽しみを見つけてくださいと言いたい墨由だが、こういう時は寺内が持つ情報の速さによかったと思う事もある。
なんにしても、これで今日一日は平穏に過ごせると安心するように大きく背中を伸ばす墨由だった。
そうこうしている内にホームルームが始まり、授業へと雪崩れ込んでいく。そして三時限目、授業内容が古文になると、墨由は教師にばれないように欠伸をする。さすがにこの時間になると少し眠くなってくるのだろう。しかも授業内容は良く分からない古文である。そうなると教師の言葉など睡眠の呪文にしか聞こえない。
それでも何とか眠気を取り去ろうと墨由はノートから目を離して外に目を向ける。そこには相変わらず景観を邪魔する大きな木があり、ナベがその木の上で昼寝を楽しんでいた。
ナベのやつ、相変わらず気楽でいいよな〜。こっちなんていろいろと問題が多いのに。そんな事を思う墨由。もちろん墨由が持つ血統家宝の事も心配だが、それ以上に神菜の視線が気になっていたのだが、今日に限ってはそれが無いため墨由の気も緩んでいるということもあるのだろう。だからこそ他の事にも気が回ったようだ。
あっ、そういえば。ナベをボーっと見ていた墨由だが、突如としてある事を思い出した。それは今朝、下駄箱に入っていた手紙である。
封筒に差出人や誰に宛てた物かも書いていないため、本当に墨由宛てに届いた物かも分らない。そのうえ封筒がピンクだったために、撫子や音羽の前では無意識の内に手紙の事を隠してしまった。別にやましい事は無いと思うのだが、念の為という事もありえる。
もちろん墨由と撫子が付き合っている事は学校中の誰もが知っている事だ。そんな墨由にラブレターなどはありえないが、撫子の手前で念の為に隠しておいた手紙だ。
墨由は何気に手紙を取り出すと誰にも気付かれないように手紙の封を解いて中に入っている便箋を取り出すとそこにはこう書かれていた。
矢頭墨由様へ。
今日の放課後、校舎裏で待っています。絶対に一人で来てください。あなたに関わる大事なお話しがあります。それでは、あなたが来るのを心待ちにしております。
手紙にはそれだけしか書かれていなかった。一応裏側も見てみたが、差出人の名前は無い。そうなると誰が出した手紙かはまったく分らなかった。
僕に関わる大事な話しって……いったいなんだろう? 墨由にはまったく心当たりが無い……訳でもなかった。まず墨由が持っている血統家宝の事。それにナベの事。更には撫子との関係の事。どれも大事な事だけに、どの大事な話なのかは墨由にはまったく検討が付かなかった。
……しょうがないか。結局はここで考えていても何も分らないのだから墨由は行けば分るとばかりに納得して、手紙をしまうと再び授業に耳を傾ける墨由だった。
そんな時だ。突如としてクラスの誰かが手を上げて、そしてそのまま倒れてしまった。そんな事になる人物が一人しか心当たりが無い墨由はすぐに駆け寄り、倒れてしまった撫子を抱き起こす。
「撫子」
声を掛けるが返事は返ってこずに、顔が赤くなり、呼吸も荒くなっている。
「いつもの発作ね」
いつの間にか墨由と同じく駆け寄っていた音羽がそんな言葉を口にする。確かに撫子は病弱で時々こういった発作を起こす事がある。それは既にクラス中が知っている事であり、もちろん教師達にも伝えてある事だ。
だから墨由はすぐに授業をしていた教師に撫子を保健室へ連れて行くとだけ告げると、すぐに撫子を背負って教室を後にする。その墨由の後を音羽も追ってきた。どうやら教師が音羽も同伴するように言ったらしい。
まあ、確かにこうした事は音羽がいてくれた方が助かる事は墨由もよく分っているから助かった。音羽の介添えもありながら墨由は撫子を保健室へと連れて行く。
そして保健室へ入ると保健の先生がすぐに墨由の方を向いてすぐに事態を察したようだ。さすがにこのような事態が今までにも何回かあっただけに保健の先生も落ち着いて事態に当たるようになっていた。
墨由に撫子をベットに寝かせるように言うと、音羽と保健の先生はカーテンを閉めて撫子の容態を調べる。
さすがにカーテンの中に入る訳には行かない墨由は保健室の中で落ち着きもなく、ウロウロとするばかりだ。カーテンの中では音羽と保健の先生が何かしらの会話をしているようだが、話している内容から撫子の容態についてだと分る。
それが分るだけに墨由は落ち着けなかった。撫子が倒れた時の墨由はいつもこうだ。撫子が病弱で時々発作で倒れると分っていても、実際にその場面に立ち会う事になるとどうも落ち着けない。
まあ、それもしかたないだろう。こんな場面など何度経験しても落ち着かないものなのだから。だから墨由は落ち着きもなく、保健室をウロウロと歩き回っている。
「まあ、そんなに心配する事でもないじゃろ」
「それは分ってるけどさ」
「それにこういう事はよく有る事みたいじゃからのう。おぬしがそんな状態でどうする」
「うん、そうだね……って、ナベ!」
いつの間にか保健室に入って来ていたナベに墨由は驚きの声を上げる。その声に保健の先生が顔を出すが、墨由は急いでナベが見えない場所に立ってなんでもないと告げると保険の先生は再び撫子の元へ戻っていった。
そして状態に墨由は一安心したかのように一息付くとナベの首裏を引っ張り上げて目線を合わせる。
「何でお前がここにいるんだよ」
ナベを睨み付けながらそんな言葉を口にする墨由に対して、ナベは引っ掴まれているのにも構わずに笑ってくせる。
「くくくっ、なに、なにか面白そうな事になっておりそうじゃったからのう。ここまで着いて来た訳じゃよ」
「撫子が倒れたんだぞ、何が面白そうだよ」
墨由としては撫子の発作がある事は分っていても、実際に発作が起きると一大事である。それを面白そうと言われては墨由の機嫌は悪くなるばかりだ。
そんな墨由の機嫌を察したのかナベがこんな事を言い出してきた。
「どれ、ここは儂が一つ気付けでもしてやろうか?」
「気付け?」
「なに、軽くショックを与えて身体機能を元に戻すというわけじゃよ」
そう言われても墨由にはどういう事なのかよく分らないようで困ったような顔をする。そんな墨由に応急手当みたいなものと説明するナベ。そこまで簡単に言われれば墨由でも分ったようだ。
けれどもナベにそんな事が出来るのか分らない墨由はナベを疑う。
「本当にそんな事が出来るのか?」
「昔から論より証拠じゃと言うじゃろ。ここは儂に任せてみてはどうじゃ。まあ、これで病弱体質が治るわけではないが、目を覚ます事は確かじゃろ」
ナベがそこまで言うならと墨由はナベを信じて任せてみても良いかもしれないと考え始めていた。なにしろ墨由はナベにとって大事な餌の提供者だ。そんな餌の提供者を怒らせる事などナベはしないだろうと結論を出したからだ。
「じゃあお願いするよ」
そう口にする墨由だが、ナベはにんまりと笑みを浮かべるとすぐにその場から撫子の元へ向かわず二本足で立ち上がると、右前足を墨由に突き出して宣言するかのように言葉を口にする。
「マグロ」
突然そんな言葉を口にするナベに墨由は何の事だかさっぱり分らずに首を傾げる。そんな墨由にナベは更に言葉を投げ掛けた。
「今夜はマグロが食いたいんじゃ」
「なんでマグロなんだよ」
「そんな気分なんじゃよ。じゃから今晩はマグロを出さんとやってはやらんぞ」
こいつ、それが目的か。どうやらナベが撫子の気付けをやると言い出したのは、そんな目論見があったからだ。どうやら猫缶に少し飽きてきたらしい。それにナベにしてみてもたまには猫缶以外の食事を取りたいのだろう。
けれども、それだけで撫子の発作が一時的にも治るのならと墨由はナベの提案を承諾した。やっぱり撫子とマグロとでは比較にはならないようだ。それにナベはマグロといっただけで大トロとまで指定したわけではない。だから切り捨ての赤身でも文句は出ないだろうと墨由は考えた。
「マグロならなんでもいいんだな」
「うむ、そこまでの贅沢は言わんよ」
「……分ったよ」
墨由がそう言うとナベは満足げな顔をすると静かにカーテンの向こうへと姿を消して行った。その途端に音羽が息を呑むような音が聞こえたものだから、墨由は音羽がナベの存在に気付いたからだと、気にする必要は無いと察して状況を見守る事にした。
それからすぐに何かしらの違和感を一瞬だけ感じる墨由。どうやらナベが何かをしたかまでは分るが、何をしたのかは分らなかった。それからすぐにナベは墨由の元へ戻って来た。
「さて、これで大丈夫じゃろ」
「本当に大丈夫なんだろうな」
「もちろんじゃ、それよりも約束を忘れるでないぞ」
「撫子が目を覚ましたらな」
それだけの会話をするとナベは満足げに頷くとさっさとどこかに行ってしまった。それからすぐに保健の先生が出てきて、もう大丈夫よと墨由に伝えてきた。どうやらナベのやった事が功をそうしたらしい。
大丈夫という言葉に一安心する墨由。それからマグロぐらいならいいかとナベへの感謝も忘れてはいなかった。
そして続いて出てきた音羽がすぐに墨由の傍に近づき、保健の先生に気付かれないように話しかけてきた。
「どうしてナベが来てたの?」
やっぱり音羽はナベの存在に気付いていたようだ。
「興味本位なんじゃない。それから今晩はマグロを出せってせびられた」
「なるほどね」
それだけの説明で納得する音羽。どうやら音羽も分っているようだ。ナベの行動に深い理由が無い事を。それは他の妖描も同じなのだろう。
妖怪となったものは妖怪としての本質が強くなるが、妖描だけはそうはならずに猫としての本質が強くなると目の前の音羽から説明してもらった事がある墨由だけに、すんなりと納得した音羽に違和感を抱く事はなかった。
「ほらほら、もう大丈夫だから二人とも教室に戻りなさい」
いつまでも小声で会話をしている墨由と音羽を見て保健の先生がそんな事を言って来た。確かに撫子の発作は治まって今は寝ている状態だ。だから二人がここにいる意味はほとんどない。墨由としては撫子の傍に付いてやりたいと思っているのだろうけど、そういう訳にはいかないと二人は教室に戻る事にした。
二人が教室に戻ると三時限目も終わりに近づき、すぐに終了のチャイムが鳴り響いた。女子はすぐさま音羽の元へ集り撫子の事を聞いてきて、音羽はその対応に追われているようだ。
そんな音羽とは違い、墨由の元へは松居と寺内の二人だけがやってきた。
「それで撫子ちゃんの容態はどうなんだ?」
真っ先に撫子の心配をしてくれる松居。こういう時の松居はふざける事無く、真面目に相談に乗ってくれるだけに頼りになるのも確かだった。
「うん、もう発作は治まったから心配ないよ」
「ならもう大丈夫なんだね。それじゃあ、その情報を流してくるよ」
そういうと寺内はどこかに行ってしまった。どうやら今回の騒動を大々的に噂として流してくるらしい。
あいつもこういう事が好きだな。そんな事を思いながら寺内を背を見送る墨由。そしてクラス中の男子が寺内の元へ集ってきた。どうやら男子達は寺内からいろいろな情報を貰っているようだ。
その点だけを言えば助かってると言えるだろう。なにしろ音羽のように撫子の事で墨由が質問攻めに遭う事は無いのだから。それに寺内の事だから変な情報は流さないだろう。寺内にとって墨由と撫子の二人は大切な情報の収入源だ。そんな二人の不利益になる事を流しては寺内の信頼に関わってくる。だからこそ、その点だけは安心できて寺内に任せる事ができる。
だから墨由は誰からも質問攻めにされる事無く、ボーっと寺内とその周りにたかっている男子を見詰めているだけで済んでいるのだが、突如として墨由の視界を塞ぐように松居が机に腰を掛けてきた。
「なあ、前々から聞きたい事があったんだけど、聞いて良いか?」
「答えないかもしれないならいいけど」
「いや、撫子ちゃんの発作なんだけどさ」
墨由の答えを無視して勝手に話しかける松居。それは松居なりに二人を気遣ってつもりなのだろうと墨由は勝手に思い込むが、案外当たっているのかもしれない。
そんな松居が少しだけ心配げに話を続けてきた。
「俺も何度か撫子ちゃんが発作を起こして倒れるところを見た事があるけど、そんなに酷い病気なのか?」
「病気って訳じゃないよ。ただ病弱なだけ、だから少しの風邪でも大きな症状が出たりするし、今回のように突然の発作で倒れたりするだけだよ」
「そもそも、その発作ってなんなんだ」
「う〜ん、僕もよく分からないんだけど、時々高熱を出して倒れたりする事があるみたい。まあ、大抵はすぐに治るんだけど、いつも突然来るからびっくりするんだよね」
「ふ〜ん、そうなのか」
どうやら松居なりに撫子の事を心配しているようだ。その心遣いは墨由にとっては珍しいものではなかった。
松居もいつもはふざけたり、妬んだりしてはいるが、こういう時だけは撫子だけではなく墨由の心配までしてくれる。だからこそ墨由はそんな松居とでも、こうして友達でいられるのではないのかと思っていた。
「まあ、なんにしても心配ないよ。いつもの事だから」
「そっか」
それだけ言うと松居はいつものようにふざけ始めた。どうやら二人の事でこれ以上尋ねるのは返って心配を掛けるだけだと松居なりに思ったのかもしれない。それが分る墨由だからこそ松居の冗談に付き合ってやるのだった。
そして昼休み、その日もいつもと同じように音羽と撫子の三人で昼食を取っていた。撫子は発作も事もあり、午後の授業は欠席すると昼食が済んだら帰宅する事になっている。けれどもそれまでは墨由の傍に居たいのだろう。だからこそ昼食はいつものように三人で取っていた。
「すー君も音羽ちゃんも心配を掛けてごめんね」
「いつもの事よ、気にする事は無いわ」
「うん、そうだよ」
撫子としては二人に心配を掛けた事を気に掛けているようだが、墨由も音羽もそんな事は表に出さずにいつも通りに撫子と接していた。それだけで撫子の気が楽になるなら安い物だろう。そして撫子もそんな二人の気遣いに気が付いているからこそ、それ以上謝るような事はしなかった。
三人とも付き合いが長いだけに、こういう時はどう接して良いのか分りきっている。だからこそ三人はいつものように楽しく昼食を取る事が出来た。
「じゃあ、私そろそろ帰るね」
「気をつけるのよ」
「大丈夫だよ、音羽ちゃん。すー君もまたね」
「うん、じゃあね」
昼食が終わると撫子は少し寂しげに帰宅の途へついた。これもしかたない事だと割り切る墨由。本当なら墨由も付いて行ってやりたいが、もうすぐ午後の授業が始まるからしかたないと音羽が自分の席に戻り、何気なく外に目を向ける。
そこに写る景観を邪魔する大きな木とナベの姿。
あっ、そうだ。ナベを見つけて墨由はある事を思いつくと静かに窓を開けてナベに話しかける。
「ナベ、ナベ」
ナベは気持ち良く寝てたところを邪魔されてうっとうしいという感じで起き上がると、まだ眠い顔を前足で洗って墨由に目を向けてきた。
「いったい何じゃ?」
「ナベ、どうせ暇なんでしょ。だったら撫子を家まで見送って上げてよ」
やっぱり撫子の事が気になるし、再び発作が起こってもナベが傍に居るなら安心できるだろうと墨由は考えたのだろう。なにしろ先程の保健室でナベが撫子に気付けをしているのを感じているから墨由がそう考えるのも無理はなかった。
けれどもナベからは予想外の答えが返ってきた。
「嫌じゃ」
「なんで」
ナベの答えに不機嫌な答えを返す墨由。どうやらナベの答えに納得が行かないようだ。そんな墨由に向かってナベは言葉を返す。
「せっかく気持ち良く眠ってたんじゃ。これ以上は起こさんでくれ」
「そんな事言わないで……って、ナベ」
ナベはそれ以上は墨由と話をする気は無いのだろう。再び木の上で丸くなると耳を器用にたたんでしまった。
そんなナベにしつこく話しかけようとする墨由だが、そんな墨由の頭に軽い衝撃が走る。どうやら何かがぶつかったようだが、墨由はしかたないと一旦窓から離れると机の上を見る。そこにはノートの切れ端を丸めた物が転がっていた。どうやらこれが墨由の頭にぶつかったらしい。
そしてその紙を開いてみると『ナベに頼んでも無駄』と書かれていた。内容から察するに音羽が書いたものだろう。
音羽までもがそういうのだからナベにこれ以上頼んでもしかたないと諦める墨由は静かに窓を閉めて机に突っ伏す。やっぱり撫子の事が気になってしかたないようだ。
けれども、今回のような事は今までも何度かあった事で今回だけが特別では無いと思いなおす墨由は次の授業の準備を開始する。
すると机の中から何かが落ちた。
あっ、そういえば忘れてた。と落ちた物を拾い上げる墨由。それは今朝、下駄箱に入っていたピンク色の手紙だ。内容が内容なだけにこちらも放っておくわけには行かないだろう。
ここは幸いというべきか、一番気がかりな撫子が放課後に誘ってくる事が無い。音羽には用事があるといえば無理に付き合わせることは無いだろう。どうせ撫子のお見舞いに行くものだと思い込むだろうから。
だから墨由は安心して、この手紙の差出人と会うことが出来る。
それにしても僕に関する大事な事か……結局はいったい何なんだろう? 撫子の事も気がかりだが、やはりこちらも気になる墨由はどちらを優先するべきかを考えながらも午後の授業を聞き流す事になった。
そして放課後。思ったとおりに音羽が帰ろうと誘ってきたが、墨由はその申し出をすぐに断ると音羽はさっさと教室を後にしてしまった。やっぱり墨由が思ったとおり、音羽は墨由が撫子のお見舞いに行くと思ったようで、その後は何も聞かずに行ってしまった。
それから墨由が向かったのは撫子の家ではなくて校舎裏だった。やはり手紙の内容が気になるのだろう。それに手早く用事を済ますことが出来れば撫子のお見舞いにも行けるからこそ、墨由は逸早く校舎裏へと到着していた。
……早く着すぎたのかな?
さすがに校舎裏には誰もおらず、ただ校舎の横にはうっそうとした林が広がっている。校舎と林の広いとはいえない隙間には人影は見えなかった。
墨由としては早く用件を済ませて撫子のお見舞いに行きたいのだが、相手が居ないのではしかたないとここで相手が到着するのを待つしかなかった。
それから数分、数十分と墨由はその場で呆然と立ち尽くし、相手の到着を待ったが誰一人として来る気配はなかった。
このままここで待つべきか、それとも無視して撫子のお見舞いに行くべきか、その二択で迷う墨由はしかたなくウロウロと歩き始め、相手が来てないか探し始めた。
けれども誰も見付かる事はなかった。しかたないと墨由は手紙の相手を確かめる事を諦めて撫子のお見舞いに行こうと振り返って歩き始めた時だった。
突如として墨由の足元が光り始めると魔法陣が展開されて、そこから光の鎖が伸びてくるとそのまま墨由を絡め捕る。
「やっと捕まえたですの〜」
そんな言葉が林の奥から聞こえてくると、草木を掻き分けてる音が聞こえて、ある人物が墨由の前に姿を現した。
「あなたは……御堂さん」
「そうですの〜。やっと矢頭君を捕まえたの〜」
突如として墨由の前に現れた御堂神菜の姿に呆然とする墨由。なにしろ墨由の前に現れた神菜の姿はいつもの制服ではなく、音羽とは少し違った巫女服を着ているのだから。
そんな風に突然現れた神菜に見惚れていた墨由だけれども、すぐに我に返って自分の状況を確認すると暴れだした。けれどもそれは無駄な抵抗と言えるものだった。なにしろ墨由を縛り上げている光の鎖はがっちりと墨由を捕獲しており、緩むどころかがっちりと墨由を締め上げている。
それでもなんとか光の鎖を解こうとする墨由だが、無駄とばかりに神菜の方から話しかけてきた。
「どんなに暴れても無駄なの〜、なにしろ今朝から準備してたからなの〜」
「今朝から準備って……このために今日は欠席したの?」
「そうなの〜、これも全部矢頭君のためなの〜」
僕のため? そう言われても何の事かまったく分らない。けれども墨由には拘束されるいわれはまったくない。随分と理不尽な拘束だと理解するしかなかった。
「僕のためってなに! それよりもこれを解いて!」
いきなり拘束されれば誰しも怒るのは当たり前で、墨由も例外無くそんな怒りを目の前の神菜にぶつけるが、どなられた神菜は手にしている本で顔を隠すと怯えた感じて本の端から顔を覗かせる。
「そんなにどならないで欲しいの〜、どなると怖いの〜」
そんな言葉を口にする神菜。その口調と内容からすっかり怒りを忘れてしまった墨由。それはあまりにも神菜が弱弱しく見えたからだ。
確かに拘束されてまったく身動きが取れない墨由だが、こんな神菜の姿を目の前にすると怒りすら忘れて冷静になってしまうようだ。
墨由は一回溜息を付くと今度は言葉を荒くせずに神菜に尋ねる。
「えっと、御堂さん、これはいったいどういう事なの」
その質問に神菜はやっと顔の前にしていた本をどかすと墨由を見詰める。
「それはですの〜」
それだけ言うと神菜は何かしらを考える仕草を取った。どうやら何を言えば良いのかわからない様子だ。
そんな神菜が何かをひらめいたように手を打つと話を続けてきた。
「矢頭君、信じられないと思うけど妖怪は存在するの〜」
……いや、それはもう知ってますけど。ナベという妖怪を飼っているからには妖怪の存在を信じざる得ない墨由はそんな神菜の言葉に反論する事も無くただ耳を傾ける。
そんな墨由の行為に神菜は信じていないと思ったのだろう。鞄からお札を取り出すとそれを墨由の前に突きつける。
「本当はこういう事をしちゃいけないの〜。でも今は緊急事態だからしかたないの〜、だからこれを使って証明するの〜」
えっと、何をですか? 墨由がそんな疑問を口にする前に神菜は振り向いて墨由に背中を見せるとお札を空中へ投げた。
「式神召喚なの〜」
神菜がそう叫ぶと空中に舞い落ちている二枚のお札は光り輝き、墨由はあまりの眩しさに目を瞑る。そして光が収まると墨由は目を開けて驚いた。
神菜がお札を投げた場所にはお札はすでになく。そこには巨漢の鬼が二匹、刀と槍を手に立っていた。
「これが私の式神なの〜」
「えっと、そもそも式神って何?」
「何で驚かないで質問なの〜!」
いや、そう言われても。墨由はナベの一件ですっかりこういう事に耐性が着いているのだろう。だから今更、巨漢の鬼が突然現れてもあまり驚きはせずに冷静でいられた。
そんな墨由に神菜は可愛く唸ると口を開いた。どうやら墨由の質問に答えてくれるようだ。
「式神とは術式で作り上げた使い魔なの〜。だから私の命令通りに動いてくれるの〜、とっても便利なの〜」
え〜っと、それはいったい……どういう事?
神菜の説明に首を傾げる墨由。やっぱりあの説明では分らないようだ。
そんな墨由を見て神菜は慌てふためくようにオロオロとしてしまう。どうやら何て説明すれば分らないみたいだ。
「と、とにかく、妖怪は実在していて矢頭君の血統家宝を狙ってるの〜」
あ〜、うん、それは知ってるよ。
「それでそれで、矢頭君の傍にいる猫ちゃんがその妖怪なの〜」
えっと、それってナベの事? 墨由の傍に居る妖描と言ったらナベしか思いつかない墨由はやっぱり神菜がナベの事について話してると確信する。
「えっと、僕の血統家宝の事やナベ、じゃない、妖描の事は僕だって良く知ってるんですけど」
「へっ」
墨由の言葉にすっとんきょうな声を上げる神菜。どうやら神菜は墨由がまったく何も知らないと思っていたらしい。まあ、それはそうだろう。神菜は墨由の身に起きた事をまったく知らない。だから墨由が妖怪や血統家宝の事を理解しているとは思って無かったのだろう。
「なんで、なんで知ってるの〜」
「いや、なんでって言われても困るんだけど。全部音羽が教えてくれた事だから」
「おと、は?」
誰だっけとばかりに首を傾げる神菜。どうやらクラスメイトの名前を聞いてもすぐには思い出せないようだ。けれどもまったく覚えていないわけでは無いらしく、少し考える仕草をした神菜はすぐに手を叩いた。どうやら思い出したようだ。
「その人は〜、神津家の分家にあたる水山音羽さん〜?」
「うん、そうだよ」
「そっか〜、その人が全部悪いんだよ〜」
「えっ、なんで!」
音羽が悪いと言われて今度は墨由が驚く番となってしまった。音羽は今まで墨由を守るために頑張っていたというに悪いと言われる筋合いは無いはずだ。
「なんで音羽が悪いって言われなきゃいけなんだよ!」
音羽も墨由とは付き合いの長い幼馴染だ。だから音羽が悪いと言われると墨由の心にも自然と怒りを覚えた。
音羽は僕の為に頑張って守ってくれてたのに、その音羽が悪いと言われる筋合いなんてないい。そんな感情が芽生えてくる墨由。
一方でそんな怒りをぶつけられた神菜は再び顔を本で半分だけ隠して覗き見る格好をしている。
「だから怒らないで欲しいの〜、怒ると怖いの〜」
「じゃあ、なんで音羽が悪いって言われないといけないのか説明してよ」
墨由が声を荒げるたびに神菜が怯えるので、墨由は怒りを一旦奥底に無理矢理にでも押し込んで神菜に説明を求めた。
「だって〜、神津家の人なのに〜、いつまでもあの猫ちゃんを放っておくから〜」
「えっ? だってナベは僕の血統家宝を狙ってる訳じゃないよ。というか僕がナベを飼ってるんだけど」
「ナベ?」
「あぁ、僕の近くに居る妖描の名前だよ」
「妖怪を飼ってるの〜!」
いや、そこまで驚かなくても。墨由の発言に大げさすぎるほどにビックリする神菜。まあ、普通は妖怪を飼おうとは誰も思わないだろう。
けれども現に墨由がナベを飼っているのは確かな事で、こればかりは神菜も否定のしようが無い。それどころか墨由に質問攻めをして来るほど驚いているようだ。
「なんで〜、なんで妖描なんて飼ってるの〜?」
「いや、なんでって言われても困るんだけど」
それでも何でと聞いてくる神菜に墨由はいい加減に嫌気が刺すのを通り越して呆れきってしまった。どうやら完全に毒気を抜かれて怒りも忘れ去ったようだ。
そんな墨由の頭に突如としてある疑問が浮かんだ。
「それより御堂さんはどうしてナベや血統家宝の事を知ってるの?」
当然の質問といえるだろう。なにしろ妖怪の存在は墨由もつい最近知ったほどだ。それから退魔士などという存在が身近にいる事すら知らなかったのだ。それなのに神菜は全てを知っているかのように先程から話している。それが墨由にとって不思議でならなかった。
そんな墨由の質問に神菜は再びオロオロする。どうやら話してよいか困っているようだ。それでも説明しないわけには行かないと決意すると神菜は胸を張って答える。
「それは御堂家が神津家と並ぶ退魔士の家柄だからなの〜」
「えっと、それはつまり、御堂さんも退魔士とか巫女なの?」
「うん、正確には姫巫女なの〜」
「姫巫女?」
初めて聞く言葉に墨由は首を傾げる。そんな墨由を無視して神菜は更に言葉を続ける。
「だから偉いの〜、凄いの〜、大丈夫なの〜」
何が大丈夫なんだろう? そんな疑問が墨由の頭に浮かぶが神菜を前にすると真面目に聞くのも、どうしたものかとためらいが生まれていた。
けれども墨由は混乱する頭で神菜の姿を見ると神菜が退魔士である事を確信した。なにしろ今の神菜は音羽とは違った巫女服を着ている。ただでさえ巫女服を着ている人物などは神社ぐらいでしか見かけないというのに、こうも堂々と巫女服を着ているのは退魔士の証ではないのかと墨由は勝手にそう理解していた。
だがそんな神菜の言葉でも姫巫女というのは始めて聞く言葉だ。だから墨由もその点にだけは気に掛かったのだろう。そのうえ今の墨由は束縛されている状態だ。だからこそ、混乱しながらも目の前の神菜に尋ねる。
「えっと、その姫巫女さんが、いったい僕を拘束してどうしようというの?」
「……あっ!」
どうやら神菜は説明に夢中になって墨由を捕縛した理由をすっかり忘れていたようだ。そんな神菜が墨由に近づいて話を続けてきた。
「つまりはなの〜、私が矢頭君の血統家宝を狙っている猫ちゃんを退治するから、矢頭君には猫ちゃんを誘き寄せる囮になって欲しいの〜」
「ちょ、ちょっと待って、さっきも言った通り、ナベは僕の血統家宝を狙ってないから」
「そんな事無いの〜。だってあの猫ちゃんは妖描なの〜。だから矢頭君の血統家宝を狙ってるに決まってるの〜」
「もしそうだとしたら、とっくに音羽が退治してるはずでしょ」
「そうなの〜、でも神津家の人が動かないから私がやるの〜」
あ〜、ダメだ。完全に誤解してる。ようやくその事に気付いた墨由はどう説明して良いのか困り果てていた。その間にも神菜は手を叩くと先程呼び出した式神を使って墨由を荒縄で新たに縛り上げると、一方の鬼が墨由を肩に抱えて、そのままどこかへ行ってしまった。
って、僕はいったいどうなるの〜! そんな心の叫びを上げる墨由は隣を歩く神菜が呟いた言葉を聞くと少しずつ意識が沈んでいくのを止める事が出来なかった。