第五章

 

二人っきりの休日

 

 

「確かに見られてるね、すー君」

「確かに見られてるな、撫子」

 夢夜の出来事から数日。撫子が休んだのは一日だけだが、墨由が感じている視線は相変わらず続いていた。

 場所は墨由の席で今は丁度昼休みだ。そんな中でも墨由に向けられる熱心な視線は未だに続いている。

「そんなに気にする事はないんじゃない」

 昼食を共にしている音羽がそんな事を言い出すが、墨由と撫子にしてみれば気になってしかたないのだろう。

 その熱心な視線を送ってくるのが御堂神菜。あの日からずっと神菜の視線は続いている。

 そんな視線を送ってくる神菜に、何でそんなに見て来るのかな? と墨由にもさっぱり理由が分らず、話をしようとして近づくとすぐに逃げてしまって話すどころか近づく事も出来なかった。

「いったい何が理由でこっちを見てるんだろう?」

 音羽は何かを知っているみたいだから音羽に尋ねてはみたものの「さあ?」という答えしか返ってこなかった。どうやら話せない理由があるらしい。

 そんな音羽に撫子も首を傾げる。別に二人の仲が悪いわけではないが、音羽は昔からあるところで一定の線を引いている為に撫子でも聞けない部分もある。それは墨由も同じだ。それは昔からあったことで、まさかその理由が音羽が巫女で退魔士という仕事をしているなんて最近までは知らなかったのだから音羽がそんな態度を取っても撫子は不思議にも思わなかった。

けれども墨由にとっては今まで音羽に守ってもらっていたという事実も最近になって分ったことだ。その事に関しては音羽の言い分もあり、撫子には墨由も話してなかった。

 確かにいきなり妖怪などと言っても撫子に笑われるだけだろう。墨由だって先日の事件が無ければ同じだ。それにナベの事もあるから既に信じるしかなくなっている。

 だから墨由は自分の置かれた状況を未だに撫子には話してはいなかった。

 それよりも気に掛かるのが今もなお向けられてくる視線の事だ。その事にどう対処して良いものかと墨由と撫子はここ数日の間は頭を悩ませていた。

「すー君、やっぱり直接聞いた方が良いよ」

「とは言ってもな〜、なんか御堂さんはすぐに逃げちゃうし」

「そっか……あっ、だったら私が聞いて来てあげるよ」

「……なるほど、それもありかも」

 女の子同士なら話しやすいだろうと墨由は考えたようだ。確かにその考えも一理あるだろう。けれども二人は学校中が認めた公認のカップルである。その話は当然の如く神菜も知っているかのようで撫子が近づいてくると感じると否や、すぐに荷物をまとめて逃げ出してしまった。

 どうやら撫子は以前にも神菜に逃げられて友達になりそこなった事をすっかり忘れてしまっていたようだ。もちろん墨由もそんな事はすっかり忘れており、神菜が逃げ出した事でやっとその事を思い出して、今では撫子に向けて遠い目をしていた。

 完全に逃げてしまった神菜にその場で呆然となる撫子。冷たい風が吹いたように身体を震わせると撫子はトボトボと帰ってきた。

「ううっ、逃げちゃった」

「ま、まあ、しかたないよ。御堂さんはああいう性格だし」

 落ち込む撫子を必死にフォローする墨由。そんな光景を音羽はジュースを飲みながら、のんびりと見ていた。どうやら最近になって少しずつこういう光景に慣れてきたようだ。

 そんな音羽が外に目を向けると相変わらず景観を壊す邪魔な木があり、そこにはナベの姿があった。ナベも同じくまったく墨由達に興味を示していないかのように木の上でのんびりとくつろいでいる。

 すっかりそこがナベの特等席となったようだ。そんなナベをのんびりと見ていた音羽だが、急に立ち上がった撫子に驚きジュースをこぼしそうになってしまった。

「うん、私決めたよ」

「えっ、なにを?」

 撫子の宣言に墨由は驚いて聞き返すし、音羽は相変わらずのんびりと撫子の行動を見ていた。

「私……御堂さんと仲良くなるよ。うん、そうした方が絶対に良いよ」

 どうやら先程の事がよっぽどショックだったのだろう。撫子はそんな事を言い出した。その撫子の宣言はクラス中に響き渡り、撫子の宣言を聞いたクラスメイトもその意見に賛成とばかりに撫子の意見に同意し始めた。

 これも撫子の性格が招いた事なのかな。ヒートアップするクラスメイトを見ながら墨由は冷静に撫子とその取り巻きを見ていた。

 そんな墨由が事態の収拾を諦めて音羽にも相談したけど首を横に振られてしまった。どうやらこうなってしまっては音羽にもどうする事も出来ないらしい。それに神菜に関しても教える気は無さそうだ。

 音羽にもそんな態度を取られてしまった墨由は無造作に窓を開ける。そして外にいるナベに話しかけるのだった。

「ねえ、ナベは神菜さんの事について何か知ってるの?」

 神菜が墨由を見るようになったのはナベを飼い始めてからだ。だからナベとも何かしらの関係があると思ったのだろう。

 そんな墨由の問い掛けにナベは木の上で大きく伸びをした後にちょこんと座るとめんどくさそうに墨由と向き合った。

「あのような小娘を儂が知っている訳がないじゃろ」

「でも御堂さんはナベを飼い始めてからこっちを見るようになったし」

「じゃから知らんもんは知らん。それに餌をもらった覚えも無い。じゃからあのような小娘などは知った事では無いわ」

「へぇ〜、あんたも餌をもらった相手ぐらい覚えてられるんだ」

 横から音羽がそんなちゃちゃを入れてきた。音羽の発言にさすがのナベも少し頭に来たのだろう。少し顔をしかめると言い返してきた。

「バカな事を言うでない。餌をもらった相手ぐらいちゃんと覚えておるぞ。なにしろ次に行っても餌をもらえる可能性が高いからのう」

「なるほど」

 変なところで感心する墨由に音羽は思いっきり溜息を付いて見せた。

「その餌をくれる場所の例が目の前にいるいからね。そりゃあ餌をくれる人の事ぐらい覚えてて当たり前でしょ」

 それって僕の事ですか、音羽。もちろんその通りです。だからこそナベは毎朝、墨由のところに餌をもらいに着ていたのだから。

 その事に気付かされた墨由は妙に居心地が悪くなり、話を元に戻してきた。

「それで神菜さんが僕を見ていた理由なんだけど、ナベは心当たりは無いの?」

「思いっきりあるぞ」

「思いっきり心当たりがあるじゃない」

 予想外な事にナベと音羽が同じ事を言い出してきた。けれどもその心当たりが何なのか分らない墨由は首を傾げて二人に尋ねようとした時だった。

 突然に撫子がやってきて墨由を窓から引き剥がしてしまった。

「決まったよ、すー君。だからすー君も協力してね」

「えっと、とりあえず何が決まったの?」

「もちろん神菜ちゃんの事だよ。私は神菜ちゃんとお友達になるから」

 そう宣言した撫子にクラス中から喝采が湧き上がる。どうやら撫子は本気であの御堂神菜と友達になる気らしい。

「……えっと、話の本題からずれてると思うけど、とりあえず頑張ってね撫子」

「うん、私頑張るよ」

 というか、結局は僕が見詰められている理由がまったく分らないままなんですね。そんな事を墨由が思っている間に撫子は音羽にもその事を伝えるために窓の傍に近づく。

 そして音羽にも同じような事を伝えると音羽も適当に話を合わせて撫子を応援する事が決まった。そんな撫子がふと音羽から視線を逸らせて窓の外に目を向ける。

「あっ、猫」

 どうやらナベを発見したらしく撫子は窓から少しだけ身体を乗り出す。

「すー君、猫だよ猫」

「いや、さっきからずっとはな、いや、居たから」

「へぇ〜、そうだったんだ」

 そんな事を言いながら撫子は更に身体を窓の外に乗り出そうとしたため、音羽が慌てて撫子の身体を支えて連れ戻した。

「何やってんのよ」

「だって猫だよ音羽ちゃん、撫で撫でしたいよ〜」

「ここから届くわけ無いでしょ」

 確かに音羽が言ったとおり窓から気までは二メートルほど離れている。どうやっても手が届くはずが無かった。けれども撫子はよっぽどナベが気に入ったのだろう。なんとか撫でようとしてみるがどうにもならないと分るとがっかりと肩を落とした。

 そんな撫子を見て音羽は思いっきり溜息を付くとナベの事を告げた。

「それにあれは墨由が飼っている猫なんだから墨由の部屋に行けば何時でも撫でられるわよ」

「えっ、そうなのすー君」

「うん、まあ、一応飼ってる猫だけど」

 本当は妖描だけどね。そんな事を思う墨由。さすがにその猫が妖怪だとは告げられるはずがなく、ただ飼っているとだけしか言えなかった。

「じゃあじゃあ、すー君の家に行けばいつでも撫でられるんだよね」

「ま、まあ、そうかな?」

「そこで私に聞かないでしょ」

 妖描だけに素直に撫子の要求に応えてくれる自信が無い墨由は音羽に話を振るが、音羽としてもはっきりと言えるはずも無く、ただ適当に答えるだけだった。

「でも、こんなところにまで来るなんて本当に懐かれてるんだね、すー君」

「あ〜、うん、そうだね」

 本当は違うんだけどね。実はあの猫に守ってもらってますとは言えない墨由。それもこれも墨由の中にある血統家宝が原因だ。

 まあ、ナベとしてみれば餌が貰えれえればある程度の要求には応えてくれるのだろうけど、撫子の要求まで応えてくれる自信を墨由は持てなかった。

 なにしろナベは気まぐれの妖描なのだから。その事を散々聞かされているうえに、先日には夢夜の件もある。だから撫子の要求に対して素直に応えてくれる自信が持てない墨由だった。

 そんな事をしている間にも学校のチャイムが鳴り響き、午後の授業が開始される事を告げてくる。撫子を始め、クラス中が自分の席に戻っていく中で墨由は窓の外にいるナベに話しかけた。

「撫子に変な事をするなよ。それに喋ったりするのもダメだからな」

「分っておる。儂としてもお主の機嫌を損ねて餌場を捨てる気は当分はないぞ。それに簡単に妖描だと分らせたら儂の居場所が無くなってしまうではないか。じゃから安心せい」

 まあ、それはそうか。と納得する墨由だった。

 墨由を怒らせたり機嫌を損ねたりするという事は大切な餌場を失う危険性がある。ナベとしてはせっかく手に入れた安定した餌場を失うのは相当の痛手だ。それに喋って妖描だとバレるのもその場にいる事が出来なくなる事に繋がる。なにしろ喋る猫の噂が広がれば世間は大騒ぎだ。そんなバカなマネをナベがするとは墨由には思えなかったようだ。

 だから墨由は窓から離れて午後の授業に専念する事にした。

 

 

 そして放課後、撫子はいつものように墨由のところにやってきた。そして珍しく今日は音羽も引っ張ってきた。どうやら撫子は三人で帰りたいようだ。

 ナベの一件で音羽も断る理由が無くなったのだろう。だから撫子の申し出を断りきれなかったようだ。だから音羽は困った顔をしながらも三人で帰る事を承諾した。

 そして撫子を挟む形で墨由達は帰路についていた。

「それにしても知らなかったよ。あの猫ちゃんがすー君の飼い猫だったなんて」

「まあ、いつの間にかそういう事になっててね」

 確かに毎朝餌をやったり、ナベを飼う事を決めたのは墨由だが、飼う事に至るまでの経緯はどうしようも無い事だ。まさか妖怪に襲われそうになったところを助けてもらったからとは言えないだろう。

「やっぱり、すー君が話してた猫ちゃんなの」

「うん、そうだよ」

「そっか〜、じゃあ次の休みはすー君の家に遊びに行くね」

「……えっと、なんでいきなり」

「だって、あの猫ちゃんを撫で撫でしたいじゃない」

 どうやら撫子は相当ナベの事を気に入ったようで、撫でている姿を想像しているのか少しだけうっとりしたような顔になっている。そんな顔で撫子は音羽の方に顔を向けた。

「音羽ちゃんも行くよね?」

 どうやら音羽も連れて行きたいらしい。どうやら音羽を無理矢理引っ張ってきたのはこの話をすうためだったようだ。撫子としては久しぶりに三人で遊びたいのだろう。けれども音羽は首を横に振った。

「残念だけど、その日はすでに予定が入ってるのよね」

「え〜、そうなの〜」

 凄く残念そうな声を出す撫子の頭を軽く撫でてやる墨由。

「予定をずらす事は出来ないのか?」

 墨由はそんな事を音羽に向かって言い出した。墨由としても撫子の願いをかなえてやりたいし、久しぶりに三人で遊びたいという気持ちがあるのも確かなのだろう。

「それは無理、なにしろ本家の用事だからね」

「本家って?」

 撫子が聞き返すと音羽は無表情で歩きながらも答えた。

「ウチの水山家は分家で、本家は神津家っていうのよ。ちょっとした用事でその神津家に行かないといけないのよね」

「う〜ん、よく分んないけど大事な用があるんだね」

「そういうことね」

 というか、そういう事で済ますんだ。そんな突っ込みを心の中でする墨由。多少天然が入っている撫子に深く突っ込んでも無駄だろうと墨由は自分自身を納得させる。

 それに墨由はナベの一件で音羽が神津家の人間である事を知っている。だからこそ音羽が神津家に行くということが、何か音羽の仕事に関する事だと思い。それ以上は聞かないようにした。

「そういう事だから、今度の休みは二人っきりで楽しく過ごしなさい」

急に音羽がそんな事を言い出したからだろう。墨由と撫子は急に顔を赤くしてお互いに視線を合わせないようにしてしまった。やはり未だに二人っきりという言葉には抵抗があるようだ。

「じゃ、じゃあ、そうしようか、すー君」

「ま、まあ、そうだな」

 恋人同士という意識が急に浮上してきて恥かしくなったのだろう。墨由と撫子はお互いに意識し合って、もどかしくもそんな会話をする。そんな光景を音羽は半分楽しく、半分は呆れながも二人を見ていた。

「それにしてもあの猫ちゃん、毛並みがよかったよね。すー君、いつもブラッシングとかしてるの?」

 恥かしさを隠すために撫子は急に話題をナベの事に切り替えてきた。

「いや、そんな事はやってないけど……生まれ付き?」

 ナベの毛並みが良いの所為を墨由は良く分からなかった。なにしろナベは普通の猫では無くて妖描だ。だから毛並みの事など知る由も無く、その手の事なら音羽の方が詳しいはずとそっちに話を振ったが、音羽は簡単に答えるだけだった。

「そうなんじゃない」

 うわっ、適当に答えられた。そんな事を心で思いながらも撫子の方に顔を向けると「そうなんだ」と納得していた。どうやらナベの毛並みが良いか悪いかは然したる問題では無いようだ。

「あっ、そういえば忘れてた」

 撫子が何かを思いついたのだろう。急に声を上げると墨由に詰め寄ってくる。

「そういえば、あの猫ちゃんの名前は何ていうの?」

 あ〜、そういえばまだ名前は教えてなかったな。今頃になってその事に気付く墨由と撫子。どうやら猫の事だけに夢中になってて名前までは気が回らなかったようだ。

「ナベだよ、あの猫の名前はナベ」

 墨由がそう答えると撫子は更に詰め寄ってくる。もう少しで撫子の胸が墨由の腕にくっ付きそうになるぐらいに詰め寄り、顔を近づけてきた。

「すー君……猫ちゃんを食べちゃダメだよ」

「食えるか! あんな猫!」

 思わずそう叫ぶ墨由に撫子は離れると楽しそうに笑っていた。それは音羽も同じで墨由のネーミングセンスが悪い事を撫子と一緒に中傷していた。

「私も最初に名前を聞いた時に同じ事を言ったわよ」

「すー君、その名前だけはないよね」

「まったく、いったいどんなつもりでそんな名前を付けたんだか」

「実は本当に食べるつもりなんじゃない」

「それはそれで悪役っぽくて良いわね」

 えっと、名前の事だけでそこまで言われないといけないんですか。すっかり話の種にされてしまった墨由のネーミングセンス。撫子も音羽もその名前は無いとばかりに楽しげに話している。

 ……まあ、いいけどね。墨由は自分のネーミングセンスをどう言われようとも怒るつもりは無い。そもそも自分に天才的なネーミングセンスがあるわけでも無いし、いつ出て行くか分らない妖描にそこまでしっかりとした名前も付ける気も無かった。

 そういえば、ナベは飽きたら出て行くと言ってるけど。このままいつまでも居座り続けるんじゃないかな。そんな事を思う墨由。ナベにしてみれば餌を出してくれれば誰でも良いのだ。けれども妖描にも義理はある。餌を貰っているかわりに墨由を守ってくれているのだ。

 だから墨由が餌を出し続けている限りは出て行くつもりは無いのではと思う墨由だった。

 

 

 それから数日、墨由が待ちに待った休日がとうとう訪れた。今日は約束どおりに撫子がやってくる。

 前日に音羽がやってきて墨由の部屋を徹底的に掃除してくれたので、部屋の中はすっかりと綺麗になっていた。

 音羽も律儀だよね。ここまでしなくても良いと墨由は思っているのだが、音羽にしてみればそんな雑用を撫子にやらせて二人っきりの時間を減らさせたくはないのだろう。

 けれどもそのおかげで墨由は綺麗になった部屋で適当にナベにちょっかいを出しながらも撫子が来るのを待ちわびていた。

 そして来訪を告げるチャイムが鳴り響くとすぐに玄関の鍵が解かれて扉が開かれた。

「すー君、来たよ」

「いらっしゃい、撫子」

 玄関まで迎えに出る墨由だが、撫子はすでに玄関から上がっており、手にしていた袋をキッチンにあるテーブルの上に置いた。

 それから撫子はキッチンと隣続きになっている墨由の部屋を見回した。

「さすが音羽ちゃん、綺麗にしてるね〜」

 すっかりお見通しですね。そんな事を思う墨由は苦笑いしか出来なかった。どうやら音羽が掃除をしている事は撫子には察しが付いていたようだ。まあ、そこは三人が幼馴染たる由縁でもあるのだろう。

 それから撫子はテーブルの上に置いた袋を開けると、中から幾つかの物を出して冷蔵庫へとしまっていった。

「どうせお昼ご飯の用意なんてしてないんでしょ。だから今日は私が作ってあげるね」

「ありがとう、というか、すっかり見抜かれてるね」

「伊達にすー君の恋人と幼馴染はやってないよ」

 そのとおりですね。撫子の言葉に墨由は自然と笑みを浮かべる。それだけ撫子という存在が身近に感じられたのが嬉しかったのだろう。

 それから撫子は全ての準備を終えるとさっそく墨由の部屋に入っていった。そして部屋の片隅に丸くなっているナベを見つけると、瞳を輝かせてさっそくナベの元へと向かった。

「ナベちゃん、こんにちは」

 そう言いながらナベを撫で始める撫子。そんな撫子に反応したかのようにナベは身体を起こすと撫子と向き合うと「にゃ〜」と一鳴きする。

「すー君すー君、ナベちゃんも挨拶してくれたよ。ナベちゃんは頭がいいね」

 そりゃあ妖描だからね。心の中でそんな事を思う墨由。それはナベは人間の言葉を話すぐらいだから人間の言葉が分って当然だ。

 それから撫子はナベを抱き上げるとそのまま抱っこした。

 うっ、それはちょっとうらやましいかも。撫子とナベの光景にそんな事を思う墨由。普通の猫なら墨由もそんな嫉妬心を沸き上がらせる事は無いのだろうけど、ナベが妖描だけにそんな事を思ってしまうのだろう。

「すー君、ナベちゃんは人懐っこいね」

 撫子の腕に抱かれて大人しくしているナベ。けれども墨由はそこまで素直にナベは人懐っこい猫では無い事を知っている。だから余計に嫉妬心が沸いてくるのだろう。

 そんな墨由の心を見抜いたかのようにナベは撫子に気付かれないように、墨由に顔を向けると意地悪な笑みを浮かべて見せた。

 ナベ、お前はワザとそうやってるな。確かにナベが妖描だと撫子に悟られる訳にはいかない。だからと言ってこのまま撫子に抱っこされたままはムカツクのだろう。

「撫子、どうせだったらこれで遊んであげれば」

 そう言って墨由が取り出したのはいつも使っている猫じゃらしだ。ナベが時々暇だから遊べというので墨由が以前に買って来ておいたものだ。

「うん、そうだね」

 撫子もナベを充分に抱っこして撫で回したので気が済んだのだろう。素直にナベを降ろすと墨由から猫じゃらしを受け取ると、それでナベと遊び始めた。

 ナベが撫子から離れてようやく一安心する墨由。そして気付いた。

 って、僕はなんで猫なんかに嫉妬してるんだろう。やっとその事に気付いた墨由はワケの分らないまま、モンモンとした物を心の奥に仕舞いこむ事にした。

「それじゃあ、そろそろお昼ご飯を作るね」

 撫子がナベと充分に遊んだ後にそんな事を言い出した。墨由が時計に目を向けると確かにもうすぐ昼時だ。そろそろ準備をしないとなのだろう。

「はい」と撫子は猫じゃらしを墨由に返すと一人で楽しげにキッチンへと向かって行った。墨由は手伝おうとはしなかった。なにしろ撫子の手料理だ。クラス中の男が聞けば殺気のこもった視線が送られてくる事が間違いない状況だ。

 そんな楽しげな事を邪魔する気にはなれずに、返された猫じゃらしでナベを相手に待ってようとしたが、ナベは猫じゃらしに反応する事無く。墨由の膝の上に乗って来て撫子に聞かれないように話しかけてきた。それも意地悪な笑みを浮かべたまま。

「そなたの恋人はなかなか良いものを持っているようじゃのう」

「まあ、性格はいいからね」

「いやいや、そうではないぞ」

 そう言い返してくる。ナベは楽しげな笑みを浮かべながら墨由の顔を見る。

「さっき抱っこしてもらった時に気付いたんじゃが、あれはなかなかのボリュームが」

「……ナベ……思いっきり首を絞めても良い?」

「くくくっ、そう照れるでない。撫子と言ったかのう、そなたの恋人なんじゃろ、じゃからあれはどうせそなたの」

「…………」

「む、無言で、首を絞めるで、ない」

 その言葉に墨由はナベを解放するとナベは咳き込んだ後で、またしてもこの話を続けてきた。

「そなたらは恋人なんじゃろ。じゃったら、それぐらいで照れておってどうする」

「妖描にそんな事を言われたくない」

「くくくっ、まったく、儂の飼い主は照れ屋じゃのう」

「ナベ〜」

 またしてもナベに手を掛けようとする墨由だが、逸早くそれを察したナベはさっさと膝の上から降りると自分の特等席へと引き返して行ってしまった。

 どうやらこれ以上は墨由の相手をする気は無いみたいだ。自分で話を振っておきながら勝手に終わりにするところは妖描らしいと言えばらしいのだろう。

 けれども墨由の心には先程の言葉が胸に残る。

 た、確かに撫子は着やせするタイプって音羽から聞いた事があるけど、実際に触ったわけじゃないし、ナベの言い方だとすると相当の。そんな事を思いながら墨由の妄想は膨らんでいくのだった。

 

 

 その頃、音羽はというと立派過ぎるほどのお屋敷に居た。辺りは木々で囲まれており、その建物は純和風の作りとなっている。

 そんなお屋敷の一室で音羽は平伏しており、高段に居る人物に向かって頭を下げていた。高段には薄での布で囲まれており、中に居る人物は見る事が出来ないが、この神津家の当主である。

「分りました。あなたの報告は以上ですね?」

 布の向こうから女性の声が聞こえてきた。どうやら神津家の当主は女性のようだ。

「はい、かの妖描に関しては以上です」

 音羽も普段とはまったく違っている真面目な雰囲気を出しながら頭を上げると当主の質問に答えた。どうやらナベの事を話していたようだ。

「けれどもかの者が妖描を飼うと言い出すとは、かの者の性格は聞いていたのですが、まさかこんな展開になるとは思いもよりませんでした。かと言ってかの妖描をそのまま信用するわけにもいかないのは確かな事実です」

「はい、いくら墨由の血統家宝を狙うつもりが無いとはいえ、相手は妖描です。いつ何時心を翻すか分ったものではございません」

「ふむ、そうですね」

 布の向こうで良くは分からないが、当主は何事か考えているようだった。そして考えがまとまったのだろう。音羽に対して口を開いた。

「けれども今のところは問題は無いでしょう。しかし警戒は怠らぬよう。そして時には妖描と手を組んでかの者の血統家宝を守りなさい」

「はっ」

 音羽としては少し意外だった。まさかナベと手を組んで墨由を守れと言われるとは思ってもよらなかった事だからだ。

 当主も伊達に神津家を背負っている訳ではない。だから妖描の気まぐれさを知っているはずだが、それでもナベに墨由を狙う意思が無い事を音羽の報告だけで悟ったのだろう。だからこそ、そのような言葉を音羽に掛けたと音羽自身はそう思う事にした。

 音羽も最近になってようやくナベの事を少しだけ分ったつもりだ。どうやらナベは本当に餌場の確保と墨由をからかって面白がっているだけで居ついているようだ。それに餌を提供してくれた義理として墨由を守るというのも嘘ではないと音羽は思い始めていた。

 それだけナベが信頼できると最近になって思い始めたのだが、そんな音羽とは違って当主は音羽の報告を聞いただけで、そこまで判断した。けれども、それだけ音羽が信頼されている訳では無い事は音羽自身がよく分かっていた。だからこそ、当主が音羽の報告だけで判断を音羽は意外でならなかった。

 当主にはなにか音羽が知らない何かを知っているのではないのかと、そんな事を音羽は考えたりもするが一介の退魔士風情が神津家の当主に意見できる訳でもなく。音羽はその疑問を胸の内に封じ込める事にした。

「報告は以上ですか」

「はい。妖描に関する事は以上です」

「そうするとまだ何か問題でも」

「いえ、そんなに心配する事でも無いと思われますが念の為にご報告します」

「聞きましょう」

「最近になって御堂神菜が墨由の事を気に掛けているようです」

「御堂……あの御堂神菜がですか?」

「はい。それが墨由が妖描を飼いだした翌日には、もう墨由の事を気に掛けていたようです」

 音羽がそう報告すると当主は黙り込んでしまった。どうやら何かを考えているようだ。それが何なのか音羽には何となく察しは付くが口には出さなかった。

 どうせ何を言っても私の意見など聞く気はないでしょ。そう思っているからこそ、当主の意見を待っている音羽だった。

「……その件に関してはこちらからも釘を刺しておくとしましょう。なにしろ、あの御堂神菜ですから。ですから、あなたは自分の任務に専念しなさい」

「はっ」

「では下がってよろしい」

「はい、それでは」

 音羽はもう一度頭を下げると立ち上がってその部屋を後にした。部屋の外は外廊下になっており、神津家の中庭がよく見える。そんな景色を無視しながら音羽は早足で出口へと向かう。

 ここでは誰にも会いたくは無い。そう思ってるからこそ、自然と足が速くなっていくがさすがに走るわけにもいかず。早歩きで廊下を進んでいく。

 どうやら音羽は神津本家の人間と会いたくはないようだ。その理由が自分にあるからこそ、音羽は急いで神津家を後にしようとしているのだが、丁度曲がり角のところで運悪く神津家の人間と出会ってしまった。

「あっ」

 相手の顔を見て音羽は思わず声を上げてしまう。なにしろ一番出会いたくない人物に出会ってしまったのだから。

 音羽は自ら廊下の脇へ移動すると道を開ける。そしてその人物に挨拶するべく口を動かす。さすがに出会ってしまっては挨拶をしない訳にはいかないようだ。

「に、いえ、京谷様、お久しぶりでございます」

 音羽は軽く頭を下げてそんな言葉を口にするが、京谷と呼ばれた人物は足は止めたが音羽の方を見る事無く言葉を返してきた。

「そうだな」

 それだけを口にすると京谷は再び歩き出して行ってしまった。音羽は顔を上げると京谷の背中を見送る。少し悲しげな瞳で。