第四章

 

夜雀

 

 

 日が完全に暮れる前に墨由は撫子の家を後にした。さすがにこれ以降の時間は撫子の父親が帰ってくる可能性が出てくる。別にまったく知らない仲では無いのだが、二人が付き合い始めてからというもの、どうも顔を合わせづらくなっている事は確かだ。

 だからこそ墨由は撫子のお見舞いも早々に切り上げて自分の家に向かって歩いている途中だった。

 向こうから音羽が歩いてきた。音羽も伊達に幼馴染をしている訳ではない。墨由の家とも近所だからこうやって道端で出会う事も少なくは無い。それに今日はナベの事で顔を出すと言っていたから丁度良いのかもしれない。

「今日は巫女服じゃないんだね」

「それが幼馴染に対する第一声?」

 二人が出会うなり、そんな会話を門前で始めた。

「そんなに巫女服が見たいなら撫子に着てもらえばいいじゃない」

「いや、それはやめとく」

「なんで? 似合うと思うわよ」

 うん、その意見には同意するよ。内心でそんな事を思う墨由。けれども口では否定したのには理由が在った。

「撫子にそんな事をお願いしたら本当にやっちゃいそうじゃん」

「……確かに、撫子なら普通に着ちゃうでしょうね」

 仮ではないにしろ二人は恋人同士。更に撫子の性格から言えば墨由のお願いでそれぐらいなら平気でやってのけるだろう。下手をしたらその格好でデートとかもするかもしれない。少なくとも墨由はそんな風に思っており、音羽もそれに同意した。

 なにしろ墨由と撫子の二人は未だに手を繋いで歩けないほどの関係だ。そこに更にハードルを上げるかのように巫女服でデートなんて墨由達に出来るはずが無かった。

 そんな事を考えていた墨由がもう一度音羽の格好を見るともう一度同じ質問をする。

「でも、今日はなんで巫女服じゃないの?」

「まだその話を引っ張るわけ。だいたい巫女服で街中を歩いてたら目立ってしょうがない。そんな恥かしい真似が出来るわけ無いでしょ」

「だって昨日は」

「昨日は仕事だから巫女服を着ていただけ、一応あれが仕事着なんだから。退魔士の私にとっては只の巫女服じゃないって事よ。今日はその必要がないからいつもどおり普通の服を着てるでしょ」

 確かに音羽の格好は至って普通の女の子同様。いや、それ以上に似合っている格好をしているのだが、やはり目元がキツイせいか、それともいつもの雰囲気の所為か。他人が声を掛けるのはためらわれるだろう。それでも音羽は美少女に分類されてもおかしくはないと墨由は改めて感じるのだった。

「それで今日は仕事じゃなくなんなの?」

「今日は仕事半分、私用半分よ。ナベの監視を含めて今日は墨由のところで夕飯を頂くわ」

「大変なんだか、大変じゃないのか良く分からない用件だね」

「まあ、私もいろいろと」

 二人がそんな会話をしている時だった。突如として墨由の部屋から女性の悲鳴が聞こえてきた。何事かと近所の人も窓を開けるが、それだけで誰も何もしようとはしない。

 まあ、普通はそんなものだろう。それから静かになると野次馬達も何事も無かったかのように日常へと戻っていった。

 そんな光景を目の当たりにした後、音羽は未だに呆然としている墨由の引っ張るとさっさと墨由の部屋へと向かって行く。原因は墨由の部屋にあるのだから、墨由が行かないと意味は無い。それに墨由の傍にはナベがいる。だから何が起きても不思議は無い。

 墨由は改めて自分の現状を思い出すとやっと我に返って、部屋の扉を開けて中に入ると呆然と立ち尽くした。それは隣に立っている音羽も同じだ。

「あっ、そこの人、早く助けて、これをどうにかして───っ!」

 ……えっと、これいったいどういう状況なんでしょうか?

 困惑する墨由、それは当然だ。なにしろ部屋の中央には女の子がうつ伏せで寝そべってジタバタともがいており、その女の子の上にはナベが平然と顔を洗っていた。

「えっと、とりあえずナベをどかせば良いのかな?」

 そんな事を音羽に尋ねてみる墨由。そんな墨由の質問に音羽も我に返ったのだろう、墨由の質問に答えてきた。

「その前にその夜雀がなんでここにいるのかが問題なのよ」

「よすずめ?」

「そう、夜雀。背中を見て、小さな羽根があるでしょ。それに妖気もしっかりと感じることが出来るし、そんな妖怪がなんでこんな場所に居るのかが問題なのよ」

 墨由が女の子の背中を見てみると確かに小さな茶色い翼が存在していた。どうやらナベと同じように妖怪のようだが、それがなんでこんな状況になっているのか墨由にはまったく分らなかった。

「夜雀って危険な妖怪なの?」

 とりあえず夜雀について説明を求める墨由に音羽は簡単に答えた。

「たいして危険視するような妖怪じゃないわよ。まあ、せいぜい悪戯程度の事をするだけよ」

「じゃあ、そんな夜雀がなんでこんな所に?」

「この猫の所為よ! だから早くなんとかしてーっ!」

 いつまでも話している墨由達に女の子も耐えかねたのだろう。二人の会話に割り込んでくるとそんな事を言って一刻も早く助けを求めていた。

 う〜ん、そんなに危険な妖怪じゃないんならナベをどかしても問題ないんじゃないかな。それに音羽もそんなに警戒している訳じゃないし。とりあえずナベをどかしてから話でも聞いてみようかな?

 そうは思っても墨由は一応音羽にナベをどける事を告げる。音羽もそんな墨由の言葉に頷くだけだ。どうやらナベをどかしても構わないようだ。

 その肝心なナベだが、今度は女の子の背中で伸びて羽根にじゃれ付いている。

 墨由がそんな事をしているナベに手を掛けて持ち上げると、女の子はすぐにその場から遠のいて部屋の隅へと移動して行った。そのスピードはかなり速かった。どうやら相当ナベに嫌な思いをさせられたらしい。

 とりあえずナベを移動させようとした墨由は部屋に猫専用のベットが置かれている事に気付いた。どうやらナベが勝手に持ち込んできたらしい。少し汚れてはいるものの猫にはこれぐらいの汚れなどはまったく気にならないのだろう。だからそこがナベの寝床だと墨由にはすぐに分った。だからナベを寝床に戻すと墨由は女の子に目を向けた。

「えっと、とりあえず状況だけでも説明してくれないかな?」

「説明? そんなのはこっちがしてもらいたいわよ! 空を飛んでたらいきなりその猫に撃墜されて散々いびられたんだからね!」

「ナベがなんで」

 今度はナベに向かって説明を求めるのだが、ナベは大きくあくびをすると丸くなりめんどくさそうに答えた。

「なに、只単に空を飛んでたから捕獲しただけじゃよ」

「……えっと、それだけ?」

「んっ、他にどのような理由が必要なんじゃ?」

 どうやらナベは本気でそのような質問をしているようだ。そんなナベの行動が理解できないのか墨由は困ったように息を吐くと音羽が寄って来た。

「猫って時々は鳥を捕まえる事があるでしょ」

「えっ、う〜ん、そういえば、そんな話を聞いたことがあるような」

 いきない話し出した音羽に墨由はすぐに記憶をほじりだす事が出来ずに少し考え始めた。そういえば猫って鳥をくわえてるところを見た事があったな。あれって自分で捕まえたんだ。そんな事を思い出した墨由。

「でも、なんで鳥なんかを」

 当然の質問だ。なんで猫が鳥なんかを捕まえるのか墨由には疑問に思っても不思議は無いのだが、音羽とナベは当然のように答える。

「本能だかよ」

「本能じゃからじゃよ」

 ……あ〜、野性の本能ってやつですか。

 猫というのは元々狩りに関してはかなり優秀な能力を持っている。だから鳥ぐらいなら捕まえる事があってもおかしくは無い。

 跳躍力はもちろん追跡能力においても野生動物以上だ。それにナベは妖描である。通常の猫よりも能力は全てにおいて優れている。だからナベが夜雀如き妖怪を捕獲しても不思議は無いほどの狩猟能力を持っていた。そして動いているものを捕まえる本能も通常の猫と変わらない。

 だからこんな事態になったのだろう。墨由はそう理解すると大きく溜息を付いてナベに向かって話しかけた。

「だからって部屋まで連れてこなくてもいいだろう」

「捕獲した獲物で充分に遊ぶのも猫の本能なのよ。それはしかたないわ。それよりも、そっちはいつまでも放っておけないでしょ」

 あっ、そっか。

 音羽が指差したのは未だに部屋の隅でナベを睨みつけている夜雀の女の子だ。

「えっと、この場合は音羽が話した方が早いのでは?」

 墨由は撫子という彼女が居る割には、あまり女の子との会話は得意ではないようだ。まあ、音羽と撫子は幼馴染だから特別なのだろうが、初対面の女の子にどう接すればいいのか分らないようだ。だからこそ音羽にそんな事を言ったのだが、音羽からはそれはよした方が良いという答えが返ってきた。

「ナベの飼い主は墨由でしょ。飼い猫がやった事ぐらいの責任は取りなさいよね。それに私の役職を忘れたの。私は巫女で退魔士なのよ。だから事情を説明する前の妖怪に接近すると返って相手の警戒心を強めるだけなのよ。だから先に墨由が飼い主の責任としてあの子をどうにかしない」

「まあ、確かに……そういう事になりますよね」

 確かに今回の騒動に関する原因は全てナベにあるのだ。その責任をナベに追及しても無駄だろうと墨由も分っているようだ。なにしろナベは猫の本能に従って行動したに過ぎない。それは人間が食事をしたり、睡眠をとったりと、そういった欲求と変わりはしない。だからこそ墨由がナベの飼い主としての責任を取らなくてはいけない事を理解せずにはいられなかった。

 それに音羽は退魔士である。退魔士は妖怪にとっては天敵と言っても良い存在だ。まあ、全ての退魔士が妖怪を見つけたらすぐに退治するわけでは無い。神津家のように害を及ぼさない妖怪とは共存の道を探る退魔士も多いのも確かだ。

 けれども何も知らない妖怪にとっては退魔士は、その存在感だけで恐れるに充分な存在だ。それも力の弱い妖怪ならなおさらだ。

 どうやら音羽の話しでは、この夜雀はそんなに強力な妖怪では無いから、音羽の話を聞く前にその存在だけで恐れを抱いているようだ。

 そんな状況にしかたないと墨由は諦めて夜雀の傍へと寄って行き話しかけた。

「えっと、大丈夫?」

「大丈夫じゃないわよ! 人が嫌いな雷の術を散々使われたのよ、これで大丈夫なわけないでしょ。それになんだか知らない部屋に連れ込まれて、そこに巫女まで現れて、私が何をしたっていうのよ! ただ普通に飛んでただけじゃない」

「えっと……」

 さすがに弁解のしようが無かった。彼女はナベの本能で遊ばれただけの被害者である。そんな彼女にどう声を掛ければいいのか墨由にはまったく分らなかった。

それでもなんとか話を続けていればこの状況をどうにも出来ないだろうと、そう判断した墨由はもう少し夜雀との会話を続けてみる事にする。

「とりあえず名前を教えてくれる」

「……夢夜(むや)よ」

「夢夜さんか、えっと……なんかごめんなさい。ウチの猫が粗相をしたみたいで」

「あれは粗相なんかじゃないわよ! イジメよ、暴力よ、武力という弾圧よ!」

 ……そこまでいいますか。というかナベはそこまでの事をやったのか。夢夜の言葉を聞いて墨由はナベを睨みつけてるが、ナベはそんな墨由の視線をまったく気にする事無く、寝床で丸くなっていた。

 そんなナベに墨由は思いっきり溜息を付くと夢夜を部屋の中央に来るように説得した。さすがにナベのみならず巫女である音羽もいるものだから夢夜もちゅうちょしているのだ。けれども墨由が根気よく説得してとりあえず部屋の隅から移動させる事だけは出来た。

 ナベは寝床で丸くなっており、いつの間にか音羽が出してきたテーブルに付く夢夜。そこに墨由と音羽も座ると音羽の方から夢夜に話しかけた。

「私は水山音羽、察しの通り巫女だけど神津家、水月止水流の巫女だからあなたを退治しようとは思って無いわ」

「あ〜、神津家の人なんだ。よかった〜」

 一安心した夢夜の態度を見て墨由は首を傾げながらも昨日の話しを思い出す。それは神津家が人畜無害の妖怪をむやみやたらに退治する訳ではなく。人間社会に溶け込んでいる妖怪などを保護しているという話だ。

 つまり今の夢夜にとって音羽という退魔士は恐れるに当たらない存在だと認知したらしい。

 だからか、夢夜は音羽の事が分るとすっかり安心したようだが、ナベが少しでも動くと過敏に反応を示した。やはりナベには心を開く事は決してないようだ。

「だから猫なんて嫌いなのよ! 何もしてないのに襲ってくるし、捕獲されたら弄ばれるだけなのよ!」

 あの〜、そういう事はあまり大声で言わないでもらえませんか。

 すっかりこの場所に居ついた夢夜は先程のうっぷんを晴らすかのようにそんな言葉を口にする。もし誰かに一部だけを聞かれたら誤解されかねない内容だ。だから墨由としては夢夜を落ち着けたかったのだが、なかなか夢夜の怒りは収まらないようだ。

確かに夢夜としては一方的な被害者なのだからしかたないにしても、あまり大声で喋って欲しくないのも確かだ。そんな夢夜を落ち着かせようと墨由が口を開こうとした時だった。先に音羽が口を開いた。

「まあ、その気持ちも分るけどね。なにしろこいつは妖描だからね。猫なんて何をするか分ったものじゃないわよ」

「そう、そうなのよ!」

 いや、あの、音羽がナベを嫌っている事は知っているけど、ここで意気投合されても困るんですけど。

 二人の会話にすっかり蚊帳の外にされてしまった墨由は呆然としている。その間にも夢夜は被害者面、いや実際に被害者なのだが、よほど頭にきていたのだろう。さんざんと喚き散らし、音羽もその度に頷くだけだった。

 どうやらナベに相当な扱いを受けたようだが、その肝心なナベは何処吹く風とばかりに知らぬフリを続けていてまったく関心を示さなかった。

 自分の悪口を言われているのにまったく関心を示さない辺りが妖描らしいのかな、と墨由が思うほどナベは弁明するどころか関心すら示さなかった。それどころかあくびまでして寝る気が満々だ。

 もう夢夜で遊ぶ事に飽きたかな? とか墨由が考えていると、その被害者である夢夜がナベに向かって怒りの矛先を向けてきた。

「だいたい、なんで私が撃ち落されなければいけないのよ。私はただ普通に飛んでただけでしょ」

 というか普通に飛んでいる時点で問題じゃないんですか? そんな事を思った墨由はこっそりと音羽にその事を聞いてみた。

「あぁ、それなら大丈夫よ。妖怪っていうのは普段から普通の人間に認識できないように結界のようなものを自分の周りに張り巡らしてるのよ。だからよっぽど訓練された人間にしか結界を張ってる妖怪なんて認識できないものなのよ」

「へぇ〜、そういうものなんだ」

 つまりは妖怪は音羽のような退魔士にか見えないもの。そう思った墨由だが、目の前にいる夢夜は墨由にも見えている。それは何でだろうと思ったのが顔に出たのだろう。音羽は墨由が尋ねる前に答えた。

「今の夢夜はナベに散々なぶられて力が弱まってるからね。それで墨由にも見えるの、それに夢夜みたいに人間慣れした妖怪は人間のフリをして人間社会に溶け込む事も多いからね。たぶん普段からそんなに姿を隠しているわけじゃないのよ」

 先の説明にもあったように妖怪も人間社会の中に存在していて、普通の人間には普通の人間としか認識できないという事だ。

 随分と人間慣れした妖怪も居たものだなと思う墨由はまじまじと夢夜を見てみる。確かに背中の小さな羽根さえなければ妖怪です、といわれても頭が可哀想な子としか認識できないだろう。

 それでも妖怪は妖怪である。時には妖怪らしく空を飛ぶ事もあるのだろう。けれども不幸な事に今日の夢夜は偶然にもナベに出くわして撃ち落されてしまったようだ。

 その事について散々ナベに文句を言う夢夜だが、肝心のナベは耳を伏せてまったく聞き入れようとはしなかった。どうやら文句を行っても無駄なのだろうと墨由と音羽は思っているのだが、夢夜は怒りが収まらないのだろう。散々と喚き散らした。

 それでもナベは返事一つしないので夢夜の怒りゲージは上がるばかりだ。そして夢夜もこれ以上はナベに行っても無駄だろうと悟って怒りの矛先を墨由に向けてきた。

「ちょっとあんた、こいつの飼い主なんでしょ。ならちゃんと面倒を見てなさいよ!」

「いや、そう言われても、まだ飼い始めたばかりなんですけど」

「そんなのは関係ないわよ。飼い始めた時点で飼い主の責任は発生するんだからね」

「まあ、そうなのかもしれないけど」

 夢夜の言っている事が正論なだけに何も言い返せない墨由はすっかり困り果ててしまった。確かに一方的にナベが悪いのだが、だからと言って墨由にナベの行動を制限させるだけの力はない。なにしろ墨由は退魔士ではなく普通の人間だからだ。

 それが昨日の因果でナベを飼う事になってしまったが、こんなにも早く厄介事を起こすとは墨由にも予想外な事だ。

 だからすっかり夢夜の対応に困り果ててしまった墨由。そんな墨由を見かねて音羽は溜息を付くと二人の間に割って入った。

「はいはい、そこまで。確かにナベが一方的に悪い事は確かだけど、夢夜だって妖描の性質を知ってるでしょ。それを今更とやかく言っててもどうにもならないでしょ」

「そうだけど! 私はここまでされて黙っている訳には行かないのよ!」

「ならナベと戦って決着でも付ける?」

「うっ、さすがにそれは……ちょっと」

 先程散々なぶられたからナベの怖さが分っている夢夜だけに音羽の言い出した事には賛同できなかった。それどころか再びあの恐怖を味わうと思うと身の毛もよだつようで、夢夜は自らの体を抱きしめる。

「まあ、今回の事は犬にでも、いや、猫にでも噛まれたと思って諦めなさい」

「けど、この妖描がまた私をいじめる可能性だってあるじゃない」

「……大丈夫よ」

「その間は何よ! 結局そこは保障出来ないんでしょ!」

 確かにその通りである。再びナベが夢夜をいじめて、いたぶる可能性は充分にある。二度とそんな事をさせないという保障をしない限り夢夜の怒りは収まらないのだろう。

 そんなやり取りをしている間に夢夜の矛先はいつの間にか音羽へと移り、二度とこんな事はさせないと保障しろと怒鳴り散らすばかりだ。

 そんな光景を見ていた墨由は指を鳴らした。いや、正確にはちゃんと音は出ずに指が擦れただけだ。だから誰も墨由に視線を移す事無く、先程と同じ光景が繰り広げられている。

 墨由としては自分に注目を集めたかったようだが、上手くは行かずに何も変わってない。そこで墨由は一度咳払いすると今度は手を叩いた。さすがに今回はちゃんと音が出たので夢夜も音羽もやり取りを一旦中止して墨由に視線を移した。

 そして墨由は笑みを浮かべると寝ているナベを揺り動かして起こした。

「なんじゃ?」

 ナベは大きなあくびをして後ろ足で耳の裏を掻きながら答えた。そこが妖描らしいところなのだろうが、夢夜としてはそんなナベの態度にも頭に来たのだろう。再びナベに文句を言おうとするが、音羽が黙って見ているように止めた。

 音羽はこう見えても巫女で神津家の人間である。だから夢夜のような妖怪にとっても信頼があるのは確かだ。それに墨由に何かしらの考えがあったからこそ自分に注目を集めさせたのだ。その事があったからこそ、ここは素直に引っ込むしかない夢夜だった。

 夢夜の介入が無くなると墨由はナベにこんな事を告げた。

「ナベ、二度と夢夜さんをいじめないってここで誓ってくれる」

 そんな頼み事のような言い方で話し始めた墨由。けれどもナベがそんな約束をする訳が無い事はここに居る全員が分っていた。

「それは無理じゃな、なにしろ猫の本能でそこの夜雀を撃ち落したんじゃからのう。それを抑えろと言っても無理な話じゃ」

「妖描なんだから猫の本能ぐらい少しは抑えられるでしょう」

 音羽が横からそんな援護をしてくれる。そんな音羽の援護が功をそうしたのか、ナベは少し考え込んでから口を開いた。どうやらナベなりに言葉を選んだようだ。

「……確かにそうじゃがのう、儂とて猫には変わりない。その猫が猫らしくない行動を取れると思っておるのか」

「取ってもらわないとナベが酷い事になるけど」

 そんな事を言い出した墨由に音羽は驚きを示した。墨由は退魔士ではなく普通の人間だ。だから力でナベに敵うわけが無いから酷い事なんて出来るわけが無い。それでも墨由には何か考えがあるは先程の態度で分っている音羽は黙って墨由の言葉を聞き続けた。

「ほう、言ってくれるのう。いくら儂の飼い主になったからといって酷い事が出来るとは思えんのじゃが、いったいどうするつもりじゃ?」

 そうよ墨由、いったいどうするつもり? 音羽も同じ事を考える。力のない墨由がいったいどうやってナベをどうにかしようなんて音羽には考えもよらない事だ。それなのに墨由は勝ち誇ったように笑みを浮かべて宣言した。

「それはもちろん……今ある猫缶を全て捨てる」

「にゃんじゃと!」

 さすがにこの宣言には驚きを隠せないナベ。

「それでは明日からの餌はどうするつもりじゃ!」

「さあ、妖描なんだから何とかしてみれば」

「バカを言うでない。餌場の確保がどれだけ大変か分っておるのか。儂にとってはここは絶好の餌場なんじゃぞ。それを取り上げるなんて」

「取り上げられたくなかったら誓えるよね。もう二度と夢夜さんに酷い事をしないって」

「うにゃにゃ」

 さすがにこれにはナベも唸る事しか出来なかった。

「せっかくの三食昼寝が、せっかくの三食昼寝が」

 同じ言葉を繰り返すナベ。どうやらナベの中では本能と理性の葛藤が行われているようだ。

「なるほど、確かにこれは酷いわね」

 横からそんな感想をもらす音羽。それだけ野良猫にとっては餌場の確保は死活問題なのだ。だからこそナベも墨由を守るという条件を付けて、餌場の確保に成功したのだが、それが取り上げられるとなるとナベにとってはこれほど酷い事は無い。

「さあ、どうする?」

 墨由が詰め寄るとさすがのナベも諦めたのか、がっくりとうな垂れると呟くように宣言した。

「よかろう、今度からはこのような行為はやめるとしよう」

「ありがとう、ナベ」

「ふにゃ、今回だけだからのう」

 それだけ言うとナベは不貞腐れたように再び背を向けて丸くなった。

 その一方でその宣言を聞いた夢夜は喜びの声を上げて墨由の手を取った。

「ありがとう、これで安心して空が飛べるよ。でもさ……」

 夢夜は墨由の手を離すとナベを思いっきり指差した。

「こいつだけは大嫌い!」

 まあ、そうなりますよね〜。

 そんな事を思う墨由。やっぱり未だに夢夜は先程の恐怖を拭うどころか、取り除く事すら不可能な領域に入っていったのだろう。

 

 

 ……えっと、ここは僕の部屋だよね。

 先程の出来事から数時間。墨由の部屋は賑やかになっていた。ナベは相変わらず不貞腐れたように寝ているが、何故か未だに墨由の部屋にいる夢夜は音羽と意気投合して世間話で盛り上がっていた。

 あ〜、妖怪が人間社会に溶け込むってこういう事だったんだね〜。

 今更ながらそんな事を実感する墨由。なにしろ夢夜の外見は背中の羽根さえ隠してしまえば普通の人間と変わらないのだから。そのうえ携帯電話まで持っているのだから墨由はその事に驚いたが、音羽はこれが普通よと言わんばかりに普通に電話番号をお互いに交換していた。

 そんな二人が未だに墨由の部屋を占拠して女の子同士の会話をしているものだから、墨由は自分の居場所が無くなったようで居心地が凄く悪かった。

 そんな二人の会話に入ろうとするのだが……入る隙がない。なにしろ墨由は撫子と音羽以外の女の事はあまり会話をした事がないのだから。そんな墨由が気安く女の子同士の会話に入れるはずが無かった。

 そろそろ夕食の時間なんだけどな〜。

 今晩の夕食は音羽と一緒に頂く予定だったのが、夢夜の事で音羽の関心がすっかりそっちに行ってしまい。二人は未だに話しているようだ。

 そんな二人の会話に少しうんざりとしてきた墨由がナベに目を向けると、未だに丸くなっているが身体が震えている。別に寒くは無いのだろうが、何があったのかとナベに近づくと墨由の気配に気付いたのか。ナベは一気に二本立ち立ち上がると大声で叫んだ。

「そろそろ餌の時間じゃぞーっ!」

 ……はい、その通りですね。そこだけはナベに同意する墨由だった。

 そんなナベの叫びに夢夜は警戒しているのか妙な唸り声を上げて、音羽はやっと時計を確認した。

「あっ、もうこんな時間だったんだ」

「音羽、僕としてもそろそろ夕飯にしたいんだけど」

「そうね……あっ、ついでだから夢夜も食べてく?」

「いいの?」

「構わないわよ、ね」

 最後の『ね』だけで墨由に同意を求める音羽。そんな音羽に墨由も首を盾に振る。別に断る理由も無かったし、このまま夢夜だけを追い出す気にもなれなかったのだろう。

 それにせっかく音羽と夢夜が意気投合したのだから、ここで別れるのもなんだろうと墨由なりに気を利かせて首を縦に振るのだった。

「じゃあ決まりね、それじゃあ晩御飯を作るわ」

「あっ、私も手伝うよ」

 音羽が立ち上がると釣られるように夢夜も立ち上がってキッチンへと向かって行く。そんな二人を見送るとすぐにナベが来て餌をねだって来たので、墨由も立ち上がると二人の後を追ってキッチンへと入り、ナベの餌を用意する。

 そうして戻るとナベがここに置けとばかりに、すでに餌の置き場所まで決めてあったようで、墨由は素直にそこに餌を置いてやるとナベは一気にがっつき始めた。

 そんなナベを見ながらも夜は深けていくのだった。

 

 

「じゃあ、また今度ね〜」

 そんな事を言いながら夢夜は玄関から歩いて出て行ってしまった。

 飛べるなら飛んでもいいんじゃ? と墨由が尋ねたのだが、今晩はナベの所為で散々なぶられて力を使い果たして飛べないそうだ。それに普段からも飛んでいる訳では無いらしい。どうやら徒歩や交通機関を使った移動の方が多いみたいだ。

 そんな話を聞いて墨由は妖怪にもいろいろなのがいるんだな〜と思う。

 昨晩出会った女郎蜘蛛も妖怪なのに夢夜と比べると全然違う。それにナベだって妖怪である。一口に妖怪と言ってもいろいろな妖怪が居るのを実感した瞬間でもあっただろう。

 夢夜が出て行くと音羽はキッチンへと向かった。もちろん夕食で使った食器の片付けをするためである。それぐらいは自分ですると墨由は言うのだが、よほど信頼が無いのか、そんな墨由の申し出を音羽はきっぱりと断った。

「墨由に任せると明日が苦労しそうだからね」

「……いや、そんなことは……やっぱりお任せします」

 結局は最後にそんな事を言って音羽に任せる墨由。確かに音羽の言ったとおり、このまま忘れて明日までこのままという可能性が高いだろう。だから墨由は素直にキッチンから遠ざかるとナベのところに行った。

 特にこれと言って理由があった訳ではない。ただ自分の寝床で丸くなっているナベを撫でるためだけに行ったのだ。だから理由も無くナベを撫で始める墨由なのだが。

「もうちょっと優しく、毛並みにそって撫でい」

 撫で方について注文を付けられてしまった。墨由はそんな事を思いながらもナベが言ったとおりに撫でてやると、ナベは気持ち良さそうに喉を鳴らし始めた。

 そんな事を続けてるとキッチンの後片付けが終わったのか、音羽が顔を出してきた。

「じゃあ私は帰るから、また明日ね」

「あっ、送ってくよ」

「いいわよ、どうせ近所だし」

 まあ、確かにそうだけど。けれども夜道を一人で歩かせるのには抵抗があったのだろう。墨由がそんな事を思っていると音羽は更に言葉を付け加えてきた。

「それに昨日の事で私の実力が分ったでしょ。普段からあんな妖怪を相手にしてるんだから普通の人間なんて私の敵にすらならないわよ」

 なるほど、というか音羽。それはそれで凄い発言じゃないかな。そう突っ込みたい墨由だが、音羽から返って来る反応が怖いのか、それは口にしない事にした。

 要するにチンピラだろうが不良だろうが、相手がナイフや拳銃を持っていようが音羽の敵ではないという事だ。

 自分の発言が墨由のどう思わせたのかまったく理解していない音羽は、なんの気兼ねもなしにそのまま墨由の部屋を後にして行ってしまった。

 結局はいつものように部屋に一人で居る墨由。いや、今ではナベという妖怪が傍に居るが、そんなナベは興味を示さない限り墨由の話相手にすらなってくれないだろう。

 さて、どうしようかな。そんな事を考えながらナベを適当に撫で回す墨由。そのうち飽きたら風呂に入って、寝床を用意してそのまま就寝するのだった。