猫様ご乱行
葵夢幻
第一章
日常
この世の中で妖怪や化け物なんて物を信じる人はいったいどれぐらい居るだろう。ほとんどの人がこう答えるはずだ。そんなものは居ないと。
けれども、そういう妖怪や化け物を信じる時がある。いや、正確にはその存在を認めざる得ない時があると言えるだろう。そんな時が一つだけある。それは……そういう存在を目の前にした時だ。
目の前には大きな蜘蛛に女性の上半身がくっ付いている化け物が居る。昔見た妖怪図鑑では女郎蜘蛛というらしいが今はそんな事は関係無い。ただ、その女郎蜘蛛が矢頭墨由に迫っている事だけは確かだ。
墨由にもどうしてそんな事になったのかは分らない。分っている状況といえば目の前の女郎蜘蛛と玄関の外でドアを思いっきり叩く音が聞こえてきているだけだ。後は何が起こっているのかも分りはしない。
今朝まではあんなにも普通に過ごしていたのに。そう……今朝までは。
目覚まし時計が鳴った数秒後には五月蝿い音は止められていた。どうやら墨由は目覚ましがなる数秒前には完全に起きていたようだ。それから墨由はゆっくりとした動きで起き上がると大きく身体を伸ばす。
それからカーテンを開くと視線を下に落とした。
「やっぱり今日も来てたか」
墨由が住んでいるのは小さいアパート一階だ。だから小さい庭が付いている。一階ならでは特権と言えるべきスペースだろう。洗濯物やら、何かをする時やらでいろいろと重宝している。
そんな庭に目にしたのは一匹の黒猫だ。野良猫のようで首輪すらしていないが、異様なぐらい毛並みは良かった。どこかの飼い猫かもしれないし、誰かがブラッシングでもしてるかもしれない。それぐらい真っ黒で毛並みの良い猫が窓の外でちょこんと座り込んでいる。
墨由は猫の姿を確認すると一旦キッチンに行って買い置きしてある猫缶の一つを開けてやり、いつも使っている餌入れに入れてやると戻って窓を開けた。それを合図に黒猫は傍にやってくると墨由は餌入れを黒猫に差し出した。
餌の匂いを嗅いでから喰らい付く黒猫。墨由はそんな黒猫を軽く撫でてみる。もうすっかり慣れているのか、墨由が撫でてもまったく反応しない。すっかり墨由が飼っているようにも見えるが、餌を貰いにくるのは朝だけ。他の時間帯は学校や夕食の支度やらで忙しいから餌が貰えないと分っているのだろう。
だから黒猫が来るのは朝だけである。
その切っ掛けとなった出来事はほんの些細な事である。ただ雨の日に軒下で雨宿りをしていた黒猫を発見したのを墨由が気まぐれで餌をやった事から、毎朝になると黒猫が庭にちょこんと座り始めた。
それからだっけか、こうやって猫缶まで買い始めたのは。そう思う墨由はまだ猫缶が余っている事を確認すると、もう一度黒猫に目を向ける。黒猫は未だに餌を食らっている。
そんな時だった来訪を知らせるチャイムが鳴り響くと勝手に玄関が開いて一人の人物が入ってきた。
「おはよう墨由」
それだけを告げるとその人物は勝手にキッチンへと向かって何かしらをし始めた。
いつもの事だけど音羽も律儀に守ってるよな〜。そんな事を思う墨由は猫の傍を離れると勝手に入って来た人物の元へと歩いていった。
勝手に入ってきた人物は水山音羽。墨由の幼馴染である。なんで幼馴染の音羽が勝手に入ってきてキッチンに向かったというと、そこには墨由の父親である矢頭桜桃の存在が関わっていた。
桜桃は仕事で世界中を周る事になったらしく墨由を残して日本を後にしてしまった。しかも墨由の事を近所に住んでいる墨由の幼馴染である女の子二人に墨由の世話を任せて旅立って行ったのである。しかも合鍵まで渡しているのだから、二人の幼馴染は自由に墨由の部屋に出入りが出来るという訳だ。
音羽はそんな幼馴染の一人である。そんな音羽は墨由の了解を得る事も無く、キッチンで何かをしているが、墨由には音羽が何をしているのかは既に分っている。なにしろ音羽は毎朝必ず墨由の部屋を訪れては二人分の朝食を作って一緒に朝食を取るのが二人の日課となっているからだ。
そんな感じで墨由は生活に不自由する事無く、健康的な生活を送る事が出来ている。そのうえ、毎月送られてくる生活費のおかげで経済的にも困る事は無い。だから墨由としては何も言う事はないのだが、自分の息子をほったらかしにして、しかも墨由の世話を幼馴染の女の子に任せるという辺りが自分の父親ながらも少し呆れている墨由でもあった。
そんな音羽を墨由は改めて見詰めてみる。音羽は美少女と称しても申し分が無い容姿をしているが、目尻が上がっている所為か第一印象ではキツイ印象を与える事が多い。それでも毎朝墨由の朝食を作りに来ている律儀な性格からか、誰から嫌われる事は無いが、積極的に誰かと仲良くしようとしないのも欠点と言える性格をしている事も確かだ。
そんな音羽はいつものショートカットの髪を揺らしながら朝食の仕度を続けている。
そんな音羽の姿を見て墨由は桜桃が旅立った直後は自分で出来ると二人の幼馴染に言ったのだが、二人の幼馴染にそれは絶対に無理と言われてから食事の事は二人に頼りっきりになってしまった。
それ以来、墨由は炊事だけではなく掃除や洗濯までも二人の幼馴染のお世話になりっぱなしで、今ではすっかり任せっきりとなっている。
墨由はそんな音羽に挨拶だけを返すと再び庭に目を向ける、けれども黒猫の姿はすでに無く、空になった餌入れだけが残っていた。
餌入れを回収した墨由はそれをキッチンへと持って行く。そして餌入れを流し台に置くとそれを見ていた音羽が横から口を出してきた。
「なに墨由、まだ猫に餌なんてやってたの?」
「うん、なんか毎朝来てるから……ついね」
どうやら音羽は墨由が猫に餌をやっているのを快く思っていないようだ。それは音羽なりにも理由が有っての事だというのは墨由も充分に理解していた。だから音羽が毎日のように猫に関しての決まり文句を言って来る事を墨由はすでに理解している。
「いつまでもそんな事を続けているとそのうち居つくわよ。ここってペットは大丈夫だけど、猫を飼うってのも大変なのよ。いろいろとお金と手間だって掛かるし」
「分ってるよ。だから餌だけやってるだけで家の中には入れてないよ」
「ならいいけど、野良猫問題もあるし、あまり下手に同情しない方がいいわよ」
かなり厳しい意見を述べる音羽だが言っている事が正しいために墨由は反論する事が出来なかった。
確かに下手に野良猫に餌をやって問題になっている地域もある。この辺ではまだ問題にはなってないが、このまま繁殖を続ければそのうち問題になってくるかもしれない。けれども墨由はそこまで深刻に考えてはいなかった。
……でも、まあ、そうなったらやめればいいか。その程度しか考えていない墨由だが、音羽はこの事に関してだけは過敏に反応しているのではないかとも墨由は思っていた。
幼馴染で音羽の事は良く知っているが別に猫が嫌いというわけでは無いし、そんなに近所の問題について考えているとも思えない。けれども音羽はこの件だけは過敏に墨由に止めるように言ってくるのだ。
「所詮は野良猫だし、そのうち来なくなるんじゃない」
最後は墨由がそんな事を言い出して、この話はいつも終わる。こんな会話も墨由が猫に餌を与え始めてからの日課になっていた。
「ならいいんだけどね」
音羽の返事もいつもと同じで溜息交じにそう答えるだけだった。
そんな話をしているうちに墨由と音羽の朝食が出来上がった。音羽としては自分の家で朝食を取ってくれば良いと思われるのだが、墨由の世話を任されているからには墨由の朝食と自分の朝食を一緒に作った方が手っ取り早いし、その方が面倒が無くて良いのだろう。
美少女と一緒の食事。どこかの誰かが見れば羨ましい光景に見えるかもしれないが、二人の関係は恋人というより兄弟という感じが近い。それほどまでに二人の間に恋愛関係はまったく存在しない。
それどころか音羽には別に好きな人が、いや、正確には気に掛けている人が居るのではないかと墨由は睨んでいた。
けれども墨由はその事を一切口に出そうとはしなかった。なぜなら音羽から直接相談されている訳では無いし、相手の事に関しても墨由はまったく知らないからだ。それに音羽の性格から言っても、その手の話を切り出せば必ず話しがいつの間にか墨由の方に切り替わってしまうのは目に見えている。そこにはもう一人の幼馴染が関係しているので、墨由はその手の話を音羽に向かって口にする事は決してしなかった。
「それにしても音羽もそうだけど猫も律儀だよね」
突然そんな事を言い出した墨由に音羽は心外な心境を思いっきり顔に出しながら墨由に言い返す。どうやら猫と一緒にされたのが嫌だったようだ。
「猫は墨由が餌を与えてるから来てるだけでしょ。別に律儀に来てるわけじゃないわよ」
「そうかな?」
「そうでしょ。大体ここも餌場の一つぐらいにしか思ってないわよ、きっとね」
そうかな〜? 心の中でもう一度同じ事を思う墨由。一つの事が毎日続けばそれを律儀と言うのではないかと墨由は思っているようだ。
まあ、間違いではないが、この場合は音羽にとっては失礼なのかもしれない。
そんな話をしているうちに朝食は終わり、音羽は片付けをしているキッチンとは別の部屋で墨由も制服に着替えるのだった。
二人ともまだ学生だ。この近くにある翠逸高校の一年生であり、この春から高校に通っている。墨由と二人の幼馴染がこの学校を選んだ理由としては近くで便利だからだ。そのうえ授業がなければ最高なのだが、さすがにそんな事はありえない。そんな空想を墨由が思い描いているうちに墨由の準備は終わる。
教科書類は全て学校の机に仕舞ってあるため制服に着替えるだけで墨由の準備は終わりだ、後は空っぽのカバンを掴むだけだが、その頃には音羽も出かける準備が終わっていた。
音羽は墨由の準備が終わってるのを確認するとさっさと玄関を開ける。
「さっさと行くわよ」
「分ってるよ」
まだ時間的には余裕があるが、音羽は時間ギリギリに登校する事は絶対にしない。それは墨由の為であり、もう一人の幼馴染の為でもあった。
墨由も玄関を出ると鍵を掛けてから二人で一緒に学校に向かって歩き始める。
男女二人で歩いている光景は誰かの目にしてみれば羨ましい限りだろう。けれども本人達にそのような自覚はなかったし、そのように発展する事も決してありえなかった。
その理由となるべき人物を音羽は発見すると大きな声で呼びかける。
「撫子〜」
呼びかけられて振り向いたのは墨由にとってもう一人の幼馴染。樺原撫子だった。
腰まで伸びた長くて美しい黒髪をなびかせ、誰もが振り向くような容姿を持ち、その性格も穏やかで誰にでも優しい。正に大和撫子をそのまま具現化したような人物だ。その容姿から言っても音羽とは違った美少女と言っても良いほどだ。
そんな二人で違う点を上げるとすればやはり性格だろう。撫子は誰にでもやさしく接する事が出来て、音羽はその点に関しては積極性が無い。
そんな撫子と音羽が墨由の幼馴染だ。二人の美少女が幼馴染とは随分と羨ましいと思うだろうが、実はこの三人の関係は少しだけ変わっており、少しだけ発展していた。
そんな三人の関係を表すかのように撫子は二人の姿を見かけると歩み寄ってきた。
「おはよう、音羽ちゃん、すー君」
ちなみにすー君とは墨由の事である。
この三人の変わった関係というのは、既に墨由と撫子が恋人同士という事だ。それは高校に入る前の春先に、音羽の後押しで撫子から墨由に告白した事から始まった。
撫子の姿を見て墨由はその時の光景を思い出す。あれはまだ桜が咲き始めた頃に、近くの公園に呼び出されて行ってみると、そこには撫子が一人で立っていた。その時に初めて「ずっと……すー君の事が好きだったんだよ。だから……付き合ってください」と言われて墨由はかなり驚いた。
なぜなら墨由も撫子の事を気に掛けていたからだ。けれども、その頃の墨由は撫子の事をそこまでは意識していなかった。やはり幼馴染という長い時間が墨由にそんな感情を意識させるという事を薄れさせてしまっていたのだろう。けれども撫子は違っていた、ずっと撫子は墨由の事が好きだったのだ。
そんな撫子の告白により墨由の意識もガラリと変わり、一気に撫子を気に掛けるようになり。墨由は数日程考えた後に二人は恋人同士となった。
そして墨由は後になって聞いた話だが、撫子の告白を後押しした人物こそが音羽であり、そんな音羽の協力があったからこそ撫子は墨由に自分の気持ちを伝える事が出来たのだ。
そんな事も有り、三人の関係は二人が恋人同士で、もう一人が兄弟に近い女の子の幼馴染というややこしい関係なのだ。
けれども幼馴染には変わりない。音羽はいつものように撫子に話しかける。
「今日も学校に来られたんだね」
「音羽ちゃん、私の身体が弱いからって、いつも学校をお休みする訳じゃないよ」
「それもそうよね、けど……それだけじゃないでしょ」
音羽そう言うと墨由を撫子の前にまで引っ張り出した。
「お、おはよう撫子」
「うん、おはようすー君」
二人ともぎこちなく挨拶を繰り返す。恋人同士と言っても二人の仲がそんなに親密になった訳ではない。ただ幼馴染から恋人に名称が変わっただけであって、お互いに手すらまともに握って歩けない状態だ。
そんな二人を音羽は温かく見守り、時にはからかって今の位置を楽しんでいた。
「今日も元気そうでようかったよ」
そんな言葉を口にする墨由に対して撫子は少しジャンプして元気な事をアピールする。
「うん、最近は調子が良いんだ」
撫子はこう見えても病弱である。日常生活には問題無いが、時々発作を起こし倒れることすらある。それだけでなく学校を休む事もしばしばあるため、こうして毎朝に元気な姿を見られただけでも墨由は安心する事が出来た。
「それじゃあお二人さん、そろそろ行こうか」
確かにここでのんびり話をしていては遅刻してしまう。だから音羽は二人に歩くように促し、三人で一緒に歩き出すが音羽だけが少しだけ二人とは距離を開ける。
音羽なりに気を使っているつもりだ。さすがに恋人同士となった墨由と撫子の間に入ったり、あまり近寄りすぎたりはし難いのだろう。だからこそ音羽だけは少しだけ距離を開けて歩き続ける。
そんな音羽の気遣いに気付く事無く墨由と撫子は楽しそうに会話をしている。そんな二人を見て音羽は手ぐらい繋いでも良いのではないのかと思ったりもするが、さすがに登校中にそこまでいちゃいちゃされては周りが迷惑だろう。
だから今はこのままで良いのかもしれない。その後の進展は二人に任せて音羽は撫子を少しだけ押してやれば良いと思っていた。
そうこうしている内に三人は学校へと到着した。何の因果かは知らないが、この三人は小学校の頃からクラスが別になった事は一度足りとも無い。だからいつも三人で同じ教室に入る。
「あっ、撫子おはよう〜」
撫子が教室に入るなり、クラスメイトの女の子が挨拶をするのと同時に、数人の女の子が撫子をそのまま拉致してしまう。
撫子はその容姿と性格から老若男女に構わず人気がある。だから撫子が教室に入るなり、女の子達はすぐに撫子を拉致して行き、自分達の中に入れてしまう。そんな状況でも撫子は嫌な顔一つせずに、墨由に向かって手を使って謝るだけだ。
そんな仕草でも可愛いと思ってしまった。墨由はそんな撫子に気にしてないと手を振るっていると突然肩を組んできた男子が居た。
「よっ、今日も撫子ちゃんと一緒の登校とは羨ましいですな〜。さすがは世界公認のカップルだな」
「ま、松居、絞まってる絞まってる」
組んだ肩からいつの間にか首絞めに入っているのは墨由の友人である松居高弘である。
「その辺にしとけば、さすがに情報源に居なくなられると困るかね」
そんな仲裁なのか、自分の為なのか分からない発言をしたのが、寺内和輝。二人とも墨由が高校に入ってからの友人だ。
松居は何かがあるたびに絡んできたり、何かを仕掛けたりといろいろと迷惑な奴だが、全てを笑って許せる範囲で治めているので、実はそんなに迷惑でもなかったりするが。標的とされる事が多い墨由にとっては迷惑極まりないだろう。
もう一人の寺内は通称を翠逸高校のデータベース。ありとあらゆる情報を持っている。だから寺内に聞いて分からない事は勉強ぐらいだと言われているほどだ。
そんな人物だからこそ墨由と撫子は格好の標的だ。なにしろ学校一の人気者である撫子とその恋人である。だから二人に関しての情報はかなりの人間が興味を持ち、寺内も二人の事をかなり漏らしている……らしい。
以前に二人だけの秘密にしておいた事があったのだが、その翌日には学校中に知れ渡っていた。それほどまでに二人は、というより撫子の人気は高かった。
そんな貴重な情報をもたらしてくれる墨由である。寺内は二人の中に割って入ると墨由はやっと松居から解放された。
そして自分の席に座ると松居は墨由の机に腰を下ろした。
「それにしても、いいよな〜。俺も撫子ちゃんのような彼女が欲しいよ」
「毎日毎日同じ事を人を見ながら言うなよ」
どうやら松居はかなり墨由が羨ましいようで、毎朝登校するたびに今のセリフを墨由にぶつけているらしい。けれども二人の経緯を知りたいのは松居だけではないようだ。
「僕も墨由と撫子ちゃんの馴れ初めを知りたいんだけどね〜」
どうやら寺内も二人がどうやって恋人同士になったのか、そしてコツがあるならそれをネタにしようと画策しているようだ。
「そんな事を言われても知らないよ。僕はただ告白されただけなんだから」
「けっ、また自慢かよ」
違うよ。とは墨由は言わなかった。
墨由としては撫子の彼氏である事を自慢に使うつもりはまったくなかった。ただ撫子の傍に居られればそれだけで充分に幸せだと感じることが出来たからだ。だからあえてそのように誤解されそうな発言は控えている。
それに告白されたのは事実だし、実際に墨由は特別な何かをしたつもりは無い。撫子の方が早くから墨由に想いを寄せていたのは確かなのだから。それが音羽の後押しで春先の告白へと繋がった。
ただそれだけの事だと墨由は思っていた。そう高校に入学するまでは。
撫子の人気は入学式から始まっている。正確には中学のクラスメイトも一緒の学校に入ったので、そこから撫子の噂はすぐに学校中へと広まっていった。
容姿端麗の性格良好である。そんな人物が学校中にいるのである。そんな状況で同級生から上級生に至るまで男女問わずに撫子に関心を寄せる人物は相当多かった。そしてそんな撫子を狙おうとしている男子も当然出てくるわけである。
そんな風に噂に尾びれや背びれがついて、しかもその付いた尾びれや背びれが本当の事だと知れ渡るには三日も掛からなかった。そうなると当然のようにクラスの女子から質問される事がある、もちろん『彼氏は居るの?』である。
普通ならはぐらかすか、誤魔化しそうな質問ではあるが、そこは撫子である。撫子の人気は墨由も肌で感じてから二人が付き合っている事は内緒にしておこうとしたかったのだが、性格良好の撫子は素直に墨由の事を一発で話してしまった。
そうなるとクラスを問わずに学校中から痛い視線を向けられる墨由。そんな墨由を許さないかのように学校中が墨由の敵となって墨由は命の危機すら感じたという。もちろん、そんな話を聞いて黙っている学校中の男子はおろか女子までもが墨由を阻害する視線で溢れていた。
そんな不満はすぐに膨らんで行き破裂するまでに一日も要しはしなかった。学校中に知れ渡った墨由の名前は敵と認知されて、撫子を慕っている男子女子は連合して墨由に迫るのだった。
そんな緊迫した事態に音羽だけは墨由を守るために動くのだったが、なにしろ学校中が撫子を奪い合うかのように墨由に迫ってくるのである。そんな中で音羽一人の力は無いに等しかった。
そんな状況でドンドンと追い込まれていく墨由。そしてついには教室の片隅に追いやられた墨由は覚悟を決めて、その命が風前の灯火となると思われた時だった。突如として撫子が人込みを掻き分けて墨由の前に立つとそのまま泣き崩れてしまった。どうやらこれ以上墨由が学校中から敵と認識される事に耐えられなくなったようだ。
そんな状況に今まで殺気立っていた学校中の男女は一気に毒気を抜かれて、ここは二人の仲を認めるしかないと断腸の思いでクラスメイト達は納得せざる得なかった。なにしろ傍で泣いている撫子を見ながら墨由を問い詰める事などは学校中、いや、世界中を探しても居ないからだ。こうして二人は学校中が認めるカップルとなった訳だ。
恐るべき撫子人気。ちなみに寺内の情報では、この学校では撫子を敵に回した者は学校中から阻害されるという暗黙の掟が既に出来上がっているらしい。
そこまでの事なのかと当人たる墨由は思っているが、追い詰められた時の恐怖感と、幼馴染として長い時間を過ごしてきたために撫子の長所も良く知っているから慣れてしまっているのだろう。だから今更、撫子の良さを語られても知っているから反応に困るだけだ。
だから墨由としてはそこまでなる学校中の人間が良く分からなかった。まあ、撫子のような人物が希少種であり、滅多に見かけることが出来ない事を墨由が知らないのも事実だ。
その撫子はというと男女関係無く楽しく話している。墨由としても撫子を独占する気は無いからそれはそれで良いとして、今は自分の席でゆっくりとする事を選択した。
ちなみに墨由の席は窓傍の後ろから二番目という格好の席だ。授業中に昼寝をするにしても気兼ねなく出来るのだが、窓の傍に高い木が立っているのが唯一の不満だ。それさえなければ、それなりの風景を楽しめただろうに。けど文句を言ってもしょうがないとこれだけは諦めていた。
松居は未だに撫子の事で墨由に問い詰めようとしているが、墨由もすでに慣れており適当に聞き流しているとホームルームを告げるチャイムが鳴り響き。撫子を含めて自分の席を離れていた者は戻り始めて、担任の先生が入ってきた。
四時限目の授業が終わり昼休みが訪れる。そうなると当然のようにお弁当を両手に墨由の席にやって来る撫子と音羽。この三人で昼食を取るのも日課になっている。そこにはさすがの松居も寺内も入り込めない特殊な空間が広がっている。
これも全て撫子の要望による物だ。音羽としては二人っきりにしてあげようと気を使おうとしていたのだが、墨由との二人っきり、しかも公然たる場所では未だに恥かしいようで撫子が音羽を引っ張ってくるような状態になっている。そんな状態に音羽も諦めたかのように毎日溜息を付きながらやって来た。
「いい加減に二人で食べられるようにしなさいよ」
音羽としても撫子に聞こえないように墨由を突付いてくるが、恥かしいのは墨由も同じであり、今は音羽に居てもらった方が安心して食事が出来るのも確かだった。
「まあ、もう少し付き合ってよ」
墨由からも頼まれて再び溜息を付く音羽。そんな音羽を見てさすがに墨由も自分が呆れられている事には気付いている。
う〜ん。確かに音羽の言っている事は正しいと思うんだけどさ、今まで三人で食事する事も多かったし。撫子と二人っきりで誰かに見られてると思うと、さすがに恥かしさが抜けなんだよね。そんな情けない事を思ってしまう墨由。つまりは未だに恋人同士に成れていないという事なのかもしれない。だからこそ巻き込まれている音羽は溜息ばかりだ。
けれども音羽としても三人での食事が嫌な訳ではないが、二人の事を考えるとやはり少しだけ二人っきりにしてやりたいという気持ちがあるのは確かなようだ。
だからなるべく早く食事を済ませると音羽はさっさと自分の席に戻ってしまった。そして二人っきりになるのだが、音羽が居ないと無言の食事が終わり。食事が終わると撫子は再びクラスメイトに拉致されてしまった。
……えっと……はぁ〜、また普通に話す事が出来なかった。やっぱりこういう場所で二人っきりはどうすれば良いのか分らないよな〜。そんな情けない事を思う墨由に松居は楽しそうに再び肩を組んできた。どうやらすぐに肩を組んでくるのは松居の癖なのだろう。
「二人っきりのお食事お疲れ様で〜す」
「なんだよ、それ。それに音羽だって居たよ」
「…………」
……えっと、突然になんだこいつって目はいったい何ですか?
「撫子ちゃんのみならず音羽ちゃんまで居たんだぞ」
「いや、そうだけど」
相変わらず松居が何が言いたいのか分らない墨由を見かねた寺内が現れると音羽についても情報を提供してくれた。
そんな寺内の情報によれば音羽もそれなりに人気があるらしい。ただあの鋭い視線が人を寄せ付けないだけで、傍目から見ている分には充分に人気があるそうだ。
ただ撫子人気に押されて表に出てないだけで、寺内が言う未確認の情報によれば隠れファンクラブまであるらしい。
あぁ〜、確かに音羽も見かけは可愛いし、撫子と逆で運動の方が得意と言った感じだからな〜。それは少しぐらい人気が出てもおかしくは無いよね。
ちなみに音羽のファンクラブには女子が多いそうだ。あのクールな感じが良いそうだ。
そんなどうでも良い情報に適当に相槌を打つ墨由は不思議そうに音羽の席に目を向けたが、そこに音羽は居なかった。どうやらどこかに出かけているようだ。
購買にでも行ってるのかな? 墨由がそんな事を思って音羽の席を見ていると、松居の顔が突然目の前に現れて視界を遮る。
「やっぱり撫子ちゃんのみならず音羽ちゃんまでも」
そんな事を言い出した松居に寺内から完全否定が出てくる。
「それは無い無い。なにしろ彼女が撫子ちゃんだよ。二股掛けよとした時点で墨由はこの世に居ないよ」
そこまでなんですか! 撫子人気! 撫子が人気者なのは墨由も当然知っているし体験しているが、まさかここまで尾びれ背びれが付くとは思ってはいなかったようだ。
「音羽とは只の幼馴染で別に狙ってるとか、そんなのは絶対に無いよ。それに、さすがにこの歳で死にたくはないよ」
「まあ、それが賢明だよね」
余計なお世話だよ。寺内の言葉にそんな突っ込みを入れたくなる墨由。そんなふざけた会話をしているうちに昼休みは終わりを告げるチャイムが鳴り響いて午後の授業が始まった。
そして放課後。少し前までは音羽が撫子を連れてくるのだが、ここ最近に限っては撫子は皆に拉致される前に墨由の所に来ている。さすがに二人で帰ると宣言されては手出しは出来ないのだろう。
もし強行策に訴えるものなら、その先に待っているのは闘争と混乱かもしれない。それはクラス中が分っているから最近では放課後に拉致される事は無くなった。
だから撫子は今日もゆっくりと墨由の所まで歩いてきた。
「すー君、帰ろう」
「ああ、そうだな」
そう言いながら立ち上がると音羽の席に目を向ける。そこには音羽の姿はもう無かった。どうやら既に帰ったようだ。それが気を利かせた結果なのか、それとも用事があるのかは墨由にはまったく分らなかった。
けれども、ここ最近は音羽はすぐに居なくなってしまうのは確かだ。だから何か忙しい用事でも出来たのかな、としか墨由は思っていなかった。
だから下校は登校と違って二人っきりである。けれども二人っきりで歩く事には慣れているが手を繋ぐ事はまったくせずに並んで歩いていた。
「そういえば、今日も猫さん来てた?」
墨由が毎朝猫に餌を与えているのは撫子にも話してある。撫子も猫は嫌いじゃない、どちらかといえば好きな方だろう。だから墨由の家に来る猫に興味を持っているようだ。
「うん、もう居つきそうだよ」
「わ〜、もしそうなったら遊びに行くよ」
「ああ、またいつでも遊びに来てくれ」
撫子が墨由の部屋に遊びに行ったのは今までは数え切れないぐらいある。なにしろ幼馴染だ。小さい頃から墨由の部屋で遊んだ事もあったし、告白してからも何度も訪れている。けれども猫が来るのは朝に限っている。
さすがに墨由の部屋に泊まる訳にはいかないし、そこまで行きたいとは思っていても実行は今のところは不可能だろう。
なにしろ二人がこんな状態だ。お泊りなんていつの事になるのか分ったものではない。
「今度もちゃんとお掃除したり、お食事作ったりするね」
「うん、その時はよろしく」
意外にもあっさりと承諾をする墨由だった。
墨由もこう見えて年頃で普通の男子である。だから決して撫子に見られてはいけない物の一つや二つ隠してあっても不思議は無い。というか、その手の物は確かに墨由の部屋に存在していた。けれども普段から音羽が出入りしている所為か、そういった類の物は最初っから全て隠してある。
それだけではなく、撫子も墨由の父親である桜桃から合鍵を預かっている一人だ。つまりは撫子も墨由の部屋に自由に出入りが出来るという訳だ。そんな状態で墨由がその手の物を撫子や音羽に見付かるような場所に隠している訳がなかった。
だからこそ撫子が遊びに行くと言ってもまったく取り乱す事が無い墨由だった。
それから撫子を家まで送ってやり、家先で別れると墨由も自分の部屋に向かって歩き始めるのだった。
夕食を適当に済ませて風呂に入って来た墨由は自分の部屋に戻ると布団を敷いて寝る準備に入る。
生憎というべきか、残念というべきか分らないが、翠逸高校は進学校では無いためか宿題というのがあまり出ない。時たま先生の気まぐれで出るぐらいで頻繁に出ることは無い。だから机に向かう理由が見当たらない。
そのため敷いた布団に寝転がる墨由。もうこのまま寝てしまおうとした時だった。
……あれっ、地震? 地面が微かに揺れるのを感じた。それからいきなり蛍光灯が消えると一気に真っ暗になる。地震の影響での停電かなと思う墨由だが、さすがにいきなり電灯が消えると怖いもので、それが誰であろうと恐怖という物を与えるだろう。
だ、大丈夫だよね。すぐに復旧するよね。
そう思って表の状況を見るためにカーテンを開けてみるが表は真っ暗だ。いや、真っ暗なんてものじゃない。窓に真っ黒な紙を張られたように向こう側がまったく見えない。それどころか窓ガラスは墨由の姿も写しはしなかった。
どうなってるんだ?
ドンドンドン! と突然玄関を激しく叩く音が聞こえて墨由は思いっきりビックリした。さすがにこの状況でそんな音がすれば誰でも驚くだろう。何事かと玄関に向かう墨由はのぞき窓から外を見るが、こちらも窓と同じ状況でまったく見えない。
けれども外で叫んでいるのか、微かに聞こえてくる声で音羽が外に居る事が分った。
鍵でも無くしたのかな?
それならチャイムを鳴らせば良いと思ったが今は停電中だと思っている墨由はそれは無理かと納得してしまった。
だからとりあえず内側から鍵を開けて見るがドアが開く気配がまったく無い。未だにドアを激しく叩いている。そんな状況に墨由はドアノブに手を掛けて開こうとするがビクともしない。
「な、なんで」
どんなに力を込めてもドアノブは動きはしなかった。そんな時だ、突如後ろからくぐもった女の声が聞こえてきた。