1999年 新歓山行 山行記

筆者 Y・I (3年生)

5月8日

 「吐きそう」と顔を青くして、バスで1時間という蛮行の後、ついに中ノ平のバス停に到着。間髪入れずに、一路キャンプ場を目指す。まもなく、「アト2フン・スグソコ」という下手な手書きの看板が現れ、案の定、S・Nがそれを「グリコ」と読むのであった。

 事件は、人間古来の本能のまま炎に目を輝かせていた、の身に起こる。被害者である彼は、沢に面した土手沿いに体育座りをして火遊びに興じており、或る時ふと、自分の簡易型携帯電話機の亡失に気づく。被害者は、自分のテントを捜すものの見つからない。まさかとヘッドランプを照らしたその闇の向こうに、驚愕の光景が待っていた。彼の照らした先は沢。いくつかのヘッドランプの光にライトアップされ、荘厳にうかびあがる文明の利器。なんと幻想的な光景であろうか。彼のPHSは、沢に落下した後、2メートルほど下流へ流されていたのである。傷心の被害者に人は言い放つ。「はいりもしねえピッチなんか山に持ってくんじゃねえよ」と。そして、傍観者たちの笑い声が高まるのと同様に、炎はますます燃え盛り、5月の夜は更けてゆく。



5月9日


 2日日の起床は3時。予想以上に寒い初夏の奥多摩の気候と、隣でシュラフカバーのみで震えているのオールナイト不規則運動のため、少々寝不足である。外は、予想以上に暗い。自分も眠いが、立場上、食事の用意の指示をうるさく言う。食事に時間がかかったが、撤収はスムーズにいき、無事5時に出発する。

 登りは、それほどキツくはないが、西原峠は遠い。一番初めの目印が比較的離れていると、精神的に疲労しやすいものである。それでも登りつづけ、ついに三頭山の山頂にたどり着く。そこで、8時過ぎだが、ランチタイム。富士山がうっすらと見え、人々は奥多摩の山々に見向きもせず、缶詰を食う。ワンゲルの伝統といえばパイン缶であったが、寂しいことに西友上石神井店の戸棚からリストラされており、急遽、はごろもになった。これまで数多くの山行において、頂上での喜びを共にしてきたパイン缶のご冥福を祈り、ここに哀悼の意を記しておきたいと思う。なんてね。

 昼食を終えると、後は下るだけである。急な坂道はゆっくりだが、緩やかなところは快調に下る。しかし、このペースが、後方の人々を深い苦しみに至らしめていたことを、私は2日後に知ることとなる。私は、ニュートンの法則を証明するかのように、地球の魔力に操られ、ハイスピードでヌカザス尾根を下り続けたのであった。そろそろ奥多摩湖の水面が見えてくるという頃、二輪車の「幻聴」が激しくなってくる。もちろん周遊道路をツーリングするバイクの本当の音なのだが、私はこう呼ぶ。普通の山だと、里の家や道路を「幻覚」といい、一番初めに現れた家を「山姥の家だ」など言うのだが、あいにくこの山を下ったところに里は存在しないので、頂上付近ですら聞こえていた騒音を「幻聴」としたのである。この傾向は、山を下りきった喜びと、山から離れる悲しみの両方を表現する、私のウィットに富んだ悪あがきといえよう。

 やはり、私の下りは応えたらしく、先生を車道で25分待つこととなった。

 解散した峰谷橋のバス停で、先生は私にこう仰った。「おまえがリーダーの山はもういやだ」と……。


《「稜線」第21号(1999年度)所載》

槇寄山から三頭山 ムラサキヤシオツツジ

奥多摩湖側への下山路 ――新緑 奥多摩湖側への下山路



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