7月27日〈1日目〉
松本駅で私たちを待っていたのは、私の予約した21人乗りバスであった。ロケバスのようなものを想像していたのだが、実際は観光バスが小さくなったという趣。今までこんなものを使った山行があったのだろうか。たぶんワンゲル初であろう。テレビもついている。誰かが見ようと言い出し、山の中でも見ることのできる、ビデオを見ることとなった。Tがビデオを物色する。水戸黄門などのなみいる強豪を押さえて選ばれたのが高田純二の無責任社員物語3。これがいけなかった。セクハラ・下ネタの横行するパブリーな1980年代後半を映し出すこのビデオは、あらすじはもちろん、すべてがくだらない代物であった。なぜパート3まで……。そんなに制作費に余裕があったのか……。そんなことを考えているうちに、私は三半規管をやられ、上高地までビニール袋と格闘する羽目となった。
上高地は去年と同じように存在していたが、今年は比較的すいていた。私は高田純二と谷啓から受けたダメージから立ち直れずにいたが、そんなことはお構いなく、パーティーは横尾へ出発した。本日の行程は去年とまったく一緒なので、Kは去年50分かかったところを40分で行くペースで進み(ちなみにコースタイムは1時間)、明日への不安を残しながらも無事横尾にたどり着くこととなった。
横尾も去年と同じようにそこにあったが、沢がなくなっていた。橋が落ちていた。ショベルカーがあった。どうも大雨か何かの影響で橋は壊れ、沢の流れる位置が変わり、それを復旧しようとしているようである。沢で水に入るのを楽しみにサンダルを持ってきた私は落胆したが、よく見ると橋より上流は去年のままである。テントを張り、サンダルに履き替え喜び勇んで沢へ行くと、そこには幻想的な光景が広がっていた。濁流の中に浮かぶ岩の上で体育座りをして遠くを見つめている少年が一人。私が東山魁夷であったらきっと絵筆を取っていたことであろう。こう書くとやりすぎのような気もするが、この少年はY君で、私は彼を尻目に行水を楽しんだ。しかし私がこの風景に一瞬心を打たれたのは、まぎれもない事実である。
筆者 M・F (3年生)
7月28日〈2日目〉
朝起きると、雲が空一面を覆いどんよりとしていた。僕は気象係で、前日に晴れを断言しているだけにこのような天気はいたたまれない。今までの山行では「晴れが予想されますが、雨も否めないので雨具の準備をしといてください」という具合にどっちに転んでも文句を言えない曖昧な予想を立て続けてきた。そこで最後の山行くらいかっこよく言い切ってしまおう、と思ったらこの天気だ。そして追い討ちをかけるように雨まで降ってきた。歩きはじめてしばらくすると雨こそ止んだものの晴れ間が見えてくる気配はない。さらに今日の行程はかなりきついという前評判が僕をいっそうネガティブにした。
しばらく歩くと、なだらかだった道もババ平を通り過ぎた辺りからいよいよその容貌を表した。長く険しい。そのうんざりする登りを3時間くらい行くと、殺生ヒュッテにたどり着いた。大変な道のりであったが、誰一人として音をあげるものはいなかった。これは太陽を遮断していた厚い雲と、何よりKの理想的なペースのおかげだ。彼は、重いザックがブレーキになっただけ、と謙遜していたがそんな簡単なことでは無いと思った。とにかく先頭を歩くのがKということで、明日からの歩行は安泰であろうと、行程についての心配はなくなった。が、天候はますます深刻になってきた。辺りを見渡すと濃い霧に包まれ強い雨が降ったり止んだりしている。被害妄想かもしれないがこのように天気が悪い時、皆の天気に対する不平や不満の矛先が僕に向いているように思えてならない。ゆえに天気が回復することを切に願ったが、山小屋の天気予報によると、曇り又は霧、時々雷雨になるとのことだった。僕の天気予報より悪どい。今日はまったく景色を味わえなかったから明日の槍ヶ岳にはかなりの期待を馳せていたが、景色どうのという問題ではないらしい。
筆者 T・S (3年生)
7月29日〈3日目〉
今日はいよいよ槍ヶ岳に登る日だ。雨がひどい。出発前からやる気がなくなってきている。今日はこの合宿の一番メインの日だというのに。
殺生ヒュッテから槍ヶ岳山荘までは1時間足らずで着いた。そこでメインザックをおろし、サブザックで登る。ここから先は道が険しく、崖のようである。しかも雨で道はすべり、飛ばされそうなほど風が強い。梯子や鎖があるが、それらは濡れていてとてもこわい。みんなは身をかがめて風に耐えている。途中で登るのを断念したお年寄りがいたが、賢明な判断である。
この登りが40分程続き頂上に着いた。頂上はせまく、ほかのパーティーが入ってくるとぎゅうぎゅうづめである。しかも、雲のせいで視界はゼロである。記念写真をとったらすぐに降りることにした。
槍ヶ岳山荘で荷物を背負い出発。後は双六小屋をめざすだけだ。相変わらず雨と風が激しかったが、みんな黙々と歩いた。途中、風のないところで昼食を食べた。今日のメニューはホットドッグパン、魚肉ソーセージ、ケチャップ、ミカン缶である。これは僕がやけくそで考えたものだったので、先生が「これは豪華なメニューだ」と言ったのには驚いた。まあ普段のメシよりもましではあるか……。
槍ヶ岳山荘から5時間程で双六小屋に着いた。その頃には雨が止んでいて風だけが残っていた。この小屋はとてもきれいでよかった。
夕食は牛丼とみそ汁である。これは僕が必死になって考えたメニューのひとつであり、「3日日なのに肉が食べられる」という点を売り物にしていた。しかしみんなそのことの重要性に気がつかなかったようだ。夕食を食べたあとすぐ就寝になった。まだまだこの先長いのだ。
筆者 S・N (3年生)
7月30日〈4日目〉
夏合宿もようやく後半4日目の朝がやってきた。昨日までの天気の悪さにはさすがにうんざりしてきて、今日こそは晴れて欲しいというのは部員の共通の望みだろう。
3時起床すると、眩しいほどの月明かりが見えた。満月であった。「今日こそは期待できるかもしれない」そんな予感は日が昇って、日の出が見られるにつれて一層高まっていった。朝食のインスタントラーメンを食べ、撤収、パッキングの一連のプロセスが終了するといよいよ出発だが、今日はいささかのんびりしている。というのも朝のトイレに行っておこうという者が多いのだ。ここの双六小屋はかつて無いほどにトイレがきれいに整備されていたので「できるだけここで」という考えなのだろう。さぁ出発である。この頃はるか笠ヶ岳付近から小さな黒い雲が急激に発達してきていたのを見て幾分は不安となったが、まだ見ぬ槍ヶ岳の展望を期待して双六岳経由の稜線上のコースを行くことになった。
しかし、登っていくに従って背後に白いガスが立ちこめ始めてきた。さっきの雲が迫ってきたのである。遠くの山々は次第に雲に飲まれていった。高度を上げるにつれてガスは濃くなり、山頂に着いたときには辺り一面のガスと強風で、とても展望どころではなかった。また昨日の状況が再来である。展望のない稜線を強風の中、双六岳・三保蓮華岳とただひたすら進んでゆき、三俣山荘に至った。
到着した頃にはガスもすっかり引いて、青空となった。当初は中止も考えた鷲羽岳のピストンも予定通り行うことにした。目の前の鷲羽の頂は威風堂々と聳え立ち、我々に登りがいを与えてくれそうであった。ガレ場を1時間登り、鷲羽山頂に到着した。そこからは今回の夏合宿初の展望が広がっていた。今朝の双六小屋は遥か彼方に見え、この先の野口五郎・烏帽子もまた遥か彼方にあり、夏合宿の長い行程を思い知らされた。残念ながら槍ヶ岳の山頂には雲がかかっていて、その先を見ることは出来なかった。記念写真を撮って下山することになった。
下山するともう12時近い。早速昼食とするが、予想以上にここまでの時間がかかってしまった。ここで雲ノ平行きは断念しようという案が浮上してきた。部員の中でも賛否両論あったが、時間的余裕と体力的問題から結局雲ノ平行きは断念し、ここ三俣山荘に幕営することとなった。
余った時間を川で遊ぶ者あり、雪渓で遊ぶ者あり、槍の雲が晴れるのを待つ者あり、寝る者ありと楽しく過ごしていたようだ。14時頃、突然の夕立も襲ってきたため、先程の決断は正しかったと再確認した。
夕食の炊き込みご飯は「船頭多くして船山に登る」で失敗してしまった。周囲には大学生も多く来ていて、夜は結構騒いでいたようだ。こうして4日目の夜も暮れていった。
筆者 Y・I (3年生)
7月31日〈5日目〉
昨日は双六岳と三俣蓮華を巻かず、鷲羽岳のピストンも行ったため、我々は三俣山荘で疲弊し、やる気もなくなって、雲ノ平をカットし、ここに泊ることとなった。私的には雲ノ平に行きたかったが、ここでは水路掘りも雪渓滑りもでき、遊びまくったので、ここでやめておいて良かったと思う。
昨日は結局その勇姿の拝めなかった槍であるが、今日は雲もなく、朝焼けの映える荘厳な槍を、今山行初めて見ることができた。体操もそこそこに出発する。一本目は沢伝いの下りである。下りきったところには黒部川の源流の碑などがあったりする。ここからなのかとも思うのだが、日本海を見たことのない私にとって、黒部川はなじみの薄い川なので、ふーんと思っていると、前のN・N君が、頭から横の沢沿いの叢の中に突っ込んでもがいている。彼は必死に脱出を試みているのだが、もがけばもがくはど深く沈んでゆく。私はなぜか傍観していたが、誰かザック引っ張ってやれと声がかかるとはっとして彼を引き上げた。後でFがN・N君の姿が面白かったと言っていたが、私もぼうっとそう感じていたのかもしれない。
岩苔乗越がもうすぐというところに赤いペンキで黒部川ここから初まると岩に書いてある。S・Nは間違いを笑っていたが、私はここが本当の最初だという意味をこめたかったんじゃないのかな――、山の人は、と思った。
乗越へ登りきるとそこには360度の大パノラマが私達を待っていた。遠く望む日本海、薬師、黒部五郎、雲ノ平、水晶。私が初めて出会った北陸の姿である。今まで悪天候に泣かされてきた今山行で初めて景色から得た感動であった。
休憩を終え、水晶小屋を目指す。途中では槍も富士山も見える。稜線上の強風に煽られ、結構水晶小屋までも大変であったが、なんとかたどり着く。驚くほど小さくみすばらしい小屋にザックを置いて、手ぶらで水晶へ。途中岩場があったり、水晶も行くのに大変な山であったが、そこで待つ景観は今山行最高の眺めといっても過言ではなかろう。富士山、槍から表銀座、奥穂、白馬、妙高・火打、剱、裏銀座、北岳、白山、立山、薬師、黒部五郎、日本海、能登半島、砺波平野。今まで自分たちが登ってきた山はもちろん、日本の著名な山のほとんどが見渡せるというめったにない山頂だったのである。本当に最高の景色であったが、今までのワンゲルとしての3年間の山の総復習にもなり、最後にすばらしい経験ができたと思った。
しかし楽しいことの後にはイヤなことが来るものである。水晶小屋から烏帽子小屋までの行程は今山行において最もきつい地獄の行程であった。ザレた滑る足元、行く手を阻む大岩、炎天下の稜線上の直射日光、なかなか着かない真砂岳。野口五郎に着く前に私達は疲れきっていた。野口五郎の頂上へ続く登りは、ただきついだけで、頂上でも何の感動もない。しかも烏帽子への道は地震のため巻き通が危険で通れず、いくつものピークを越えていかなければならない。極めつけは烏帽子がどこにも見えないこと。私はもう限界に達していた。これほどまでにきつい山行が今まであっただろうか。ついにやってきた魔の行程といったところだ。やっと烏帽子小屋の見えた最後の一本では、意識がもうろうとする中、前へ足を一歩踏み出すことしかできない有様であった。やっとのことで着いた烏帽子小屋は、テント場まで登りがあり、水もない。トイレは入ることもためらう上に木箱。私達の想像していた、最後を飾るパラダイス銀座とは程遠いものであった。今日は皆疲れ気味のせいか、皆キレ気味である。一触即発といった状況。
就寝前に3年生全員で小屋の前で夕日を見る。人事を決めたり、山行記の執筆者を決めたり。今日がワンゲル最後の夜と思うと、複雑な心境になる。明日で下界に戻れるうれしさと、言い様のない寂しさがこみ上げてくる。そんな気持ちで、最後に夕日をバックに写真を撮る。こいつらと山に登ってきて、本当に良かったと思う。この写真が卒業アルバムに載るのだろう。
明日が最後だ、がんばろう。
筆者 D・K (3年生)
8月1日〈6日目〉
朝4時起床。しかし最終日のこの日、烏帽子岳のピストンもカットされ、後4時間で下界に降りられると思ったせいか、3時には目が覚めてしまった。シュラフの中で今回の合宿を振り返ってみると、いやなんとしんどい合宿であったかと思う。1年、2年の時のものと比べて、よく最後まで耐えられたなあ。
4時、誰かの時計のアラームでみんなが起きる。今日の朝食はカップメンだ。烏帽子小屋でさえ水にお金を取るので、なるべく水を必要としないものに予定を変更したのである。お湯を沸かすだけでいいのですぐに調理が終わった。早く下山して温泉に入りたいし、みんなもそうだろうと思ったので、準備ができたらすぐに撤収を始めることにした。
5時半、はやる気持ちを抑えつつ出発。小屋の前に、下山道に番号表示があって、12番目が高瀬ダムであるという看板を発見した。なんて親切なんだろう。朝日を前方に、今日まで歩いてきた稜線を右に見つつ下っていく。今日まで引率してくださって、だいぶお疲れの先生方を走らせるわけにいかんと思いつつ、ペースを落とす。
そろそろ休憩を入れるかなと思っていたとき「ちょっと待ってー」という声がかかった。何事かと思って振り返ると、Fが落ちたらしい。見に行ってみるとかなり下まで落ちていた。幸い低い木や草が生えているところで、けがもなく助かったようだ。でもびっくりした。最後で死んでしまったらしゃれにならん、気を引き締めなければ。
だんだん上へ登る人が増え始めてきた。細い道ですれ違うのに一苦労だ。もうわずかでダムというところで、30人の団体に出会った。そんな大人数を一列で歩かせるなとイライラしつつ道を開けた。
8時すぎにダムに着く。ほっと一安心。またそれからしばらく歩くと、タクシーが入ってこられるところに着く。都合よくタクシーが待っていたので、Iはとっとと帰りたいらしく、さっそく一人走っていき運ちゃんに交渉している。解散式をてっとりばやく済ませて、温泉組と直帰組に分かれる。走り去るタクシーを見送り、おまえ等よく温泉に入らないで帰れるなと思いつつ、温泉に向かって歩き出す。
|