1995年 夏合宿 (常念山脈) 山行記

筆者 D・N (1年生)

7月27日(木) <1日目>

 ワンゲル部に入部してから、これまでで一番重いザックを背負い、初めての夏合宿が始まった。登る山の数、宿泊日数、そして荷物と、何もかもがこれまでの山行よりも多い。JR松本駅まで、僕は果たして無事に帰れるかどうか不安で、落ち着かなかった。

 松本駅に着くと、来る所まで来てしまったか、と少し落ち着いた。列車を乗り換え、JR穂高駅からタクシーを利用し、ほぼ予定通りに初日幕営する中房温泉に着いた。

 着いてすぐに場所を確保し、テントを設営した。設営を終え、テントの中に荷物を入れてから、食事まで少し時間があったので、みんなで近くを流れる川に石を投げたりした。なるほど温泉があるとあって、川の水は硫黄の臭いがした。しばらくして食事を作っていたら、雨が降ってきた。雨はしばらくしたら止んだのだが、とても手間取って大変だった。

 食事を済ませ、しばらくOらと温泉見学をした。温泉を前に、入ることができなかったので少し残念だった。それからテントに戻って、シュラフを出して寝ることになった。この日はライトエスパースに先生とKという考え得る最もスペースの取れる組み合わせだったので、比較的よく寝られた。



7月28日(金)
<2日目>

 起床2時30分という普段ではあり得ない時間の1時間前に僕は目が覚めてしまった。外に出て用を足して、もう少し寝ようと思ってテントに戻ってくる途中、僕はいつもと比べて空に星が多いのに気がついた。あんなにきれいな星空を見たのは初めてだったので感動した。

 朝食、パッキングを慌ただしく済ませて、いよいよ歩行が始まった。中房温泉(1450m)から燕山荘(2700m)までのコースで、ひたすら登りっぱなしだった。

 中房温泉を出発してしばらく歩くと第1ベンチに着いた。ここまではあまり疲れはなかった。次に、第2ベンチ、富士見ベンチとポイントを通過するにしたがって、僕はバテを感じ始めた。スローペースだったのでついていくことはできたが、荷物が重くつらかった。また、他にも多数のパーティが同じコースを利用したため、止まったり、ペースが変わったりすることがしばしばあったので、いやだった。2489mの合戦小屋で休みを取った。軽そうな荷物を持っている中学生の団体がとてもうらやましかった。ここから燕山荘(2700m)まで休みなしで行ったので、本当に疲れた。景色は良かったが、その時は本当にそれどころではなかった。

 なんとか燕山荘に着くことができたが、僕は気持ちが悪くなって昼ごはんを食べることができなかった。しばらくしてテントを設営したら多少よくなったが、今度は少し頭痛がして最悪だった。それでも景色だけはよく見ておいた。また、雪が少しだけ残っていたのが感動的だった。


筆者 Y・K (1年生)

7月29日(土) <3日目>

 時計のアラームで目が覚めた。シュラフから出たくないほど寒い。体は、2日目の疲れも残ってなく快調だ。

 朝食を済ませ、テントを大体かたづけて、サブザックで燕岳へ登った。あまりきつい登りではないのに、すぐに息が切れた。頂上に出ると、360度見渡せ、槍ガ岳やこれから向かう大天井岳も見えた。少し休んでから燕山荘のキャンプ場に戻り、常念小屋へ向けて出発。前日の夕食の重さが減り、多少楽に感じた。

 小屋の横を通って稜線に沿って進む。歩き始めは少し寒いくらいだったが、30分程歩くと日が当たる所では暑くなった。1回目の休みは1時間以上歩いてからだった。緩やかな道だったので疲れはなかった。暑くなったので、長袖のシャツを脱いだ。しばらく進むと、切通岩の鎖場が混んでいて止まることになった。鎖場を下りると、急な登りが続いた。かなり歩いたので、途中で休みがあると思ったが、一気に登った。息が切れ、のどが渇いて、何度も止まりそうになった。

 大天荘で昼食を取ったが、なかなかのどを通らなかった。 昼食後、大天井岳に登り、槍ガ岳や切通岩の人の列を見た。これからはほとんど下りだ。しかし、何も考えずに下っていたのか、印象が薄い。ただ、常念小屋が見えてから到り着くまでが長かったのを覚えている。

 常念小屋に着いた時は、疲れて動きたくなかったが、往復30分の所に水場があるというので、テントを張った後、1年生で行った。水は冷たく、美味しかった。水を自由に使える幸せを初めて感じた。顔と頭を洗い、タオルを濡らして体をふいてTシャツに替えるとさっぱりした。

 キャンプ場に戻ってからは、夕食の準備、夕食、ミーティング、次の日の朝食用の飯炊きをし、就寝時間になるとすぐに寝た。

 3日目は、2日目や4日目と違って、長い登りや下りに飽きることもなく、すばらしい景色を眺められることも多く、比較的楽だったと思う。しかし、反省もある。日焼けの対策がなく、腕が痛くなってしまった。来年の夏合宿は、今年の反省を活かし、体力的にも技術的にもより良いものにしたい。


筆者 D・T (1年生)

7月30日(日) <4日目>

 4日目、いよいよ予定歩行時間7時間20分という今回の合宿中最大の山場である。いつも通り起床時刻は早く、暗い中、山の冷気に身を震わせた。朝食も終わり、これから始まるであろう長い長い山行に多少始まる前から気は滅入り、また、メンバーの1人が体調不良により脱落、下山するという不測の事態に言い知れぬ不安感が胸中を支配した。

 予定である4:30は多少オーバーしたものの、常念小屋を出発。約1時間の歩行で無事常念岳頂上に到着した、のはいいのだが、これまでの山行による疲労のためか、私の脚は疲れを訴え始めていた。その上、案の定、この日も一点の曇りもない晴れた空は、一日強い日射しに悩まされるであろうことを如実に表していた。

 常念岳にてしばらくの休憩。この上なくありがたいものである。頂上から見る周囲の景色は美しく雄大で、特徴的な山々がそびえ、自然が造り上げた巨大な芸術は私にとって生涯忘れ得ぬものとなった。はっきり言えば、この巨大な山と対等の立場になど立てる筈がない。征服などとんでもないことだ、と思う。どんなに高くに登ったとしても、山に比べれば比較にならないほど小さな存在であることを、思い知らされたのだ。

 と、語るのはこの程度にしておいて、常念岳からの行程であるが、途中数回の休憩のお陰か、体力的に限界を見ることもなく、蝶ヶ岳まで無事辿り着くことができた。ここまでは、およそ順調であったのだ。しかし、これから、私は7時間20分という(私にとって)長時間の歩行の辛さを身をもって知ることになるのだった。

 とにかく下りなのである。ひたすら下りなのだ。あるいは多少登りもあったのかも知れないが、そんな細かいことを覚えている余裕はなかった。精神的な疲労も、肉体的な疲労も、既に限界を超えていた。私は、ただ歩くだけの肉塊と化していた。思考はほぼ完全に停止しており、足を動かすのみの存在だったのだ。あれだけ登ったのだから、当然同じだけ下らなければいけないわけだが、今考えても納得し難いものがある。

 そうして、どれだけ歩いたのだろうか。目的地である徳沢キャンプ場が見えたときの私の心中での歓喜の様は、文面には表せない。私の思考回路には再びスイッチが入り、喉の渇きももうすぐ手に入るであろう水を思って期待に震えた。

 実際、徳沢のキャンプ場は素晴らしかった。豊富な水も、木陰の涼しさも、これまでと比べると正に別天地である。こうなると、それまでの下りの辛さも、「喉元過ぎれば……」の譬えと同じで、記憶の彼方へと追いやられてしまった。

 そうして、この日、これまでで最も安らいで眠ることができたのだ。



7月31日(月)
<5日目>

 翌日、5日目である。いよいよ合宿も終わりかと思うと、名残惜しくもあるが、しかし圧倒的に帰宅が楽しみである。最早、疲労感も眠気も気になるところではなかった。1時間余りの歩行も全く気にならない。(もっとも、傾斜のない平らな道であったことも大きく関わっているが。)改めて、自分の現金な性格に感心さえしてしまった。

 上高地からのタクシーという素晴らしい文明の利器での行程も終わり、松本駅にて、今回の合宿は終わりを迎えた。

 今回の合宿で色々なことを思い知った。水について、純粋にその美味さと、生命にとってどれだけ重要かということ、そして、文明のお陰で平素我々がどれだけ快適にして楽な生活を送っているかということ。電車の中で色々と考えるところがあったと思っている。

 電車に揺られ、到着した新宿駅に降り立ったとき、都会の文明の風を肌で感じながら、一つ思い切り幻滅させられた。東京の日射しも、やはり強烈だった。日焼けした肌が、赤くなって疼いた。


《「稜線」第17号(1995年度)所載》

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