2007年 個人山行 エルブルース遠征 山行記

筆者 M・A (3年生)

●久々の……●

 僕は荷物をひっくり返し、詰めなおした。ここは成田空港第二ターミナル。荷物の重量調整のため整理しなおしていたら、係員の人が超過分をサービスしてくれて無事に預けられた。

 8月1日朝、僕は世界七大陸最高峰登頂(セブンサミッツ)達成のため、その2つ目となるロシアにあるヨーロッパ最高峰エルブルース(5642m)に向けて旅立とうとしていた。電光掲示板には僕の乗る中国国際航空の欄に搭乗中とあった、急がなくては。用意の悪さから徹夜で準備することになり気分的にバタバタしたまま僕は母と姉に見送られ出発した。出国審査で待っていると係員の人が「中国国際航空CA422便で北京行きのお客様はいらっしゃいますか?」と大きな声で言っているのが聞こえた。あぁ、僕のことか、どうやら急がなくてはいけないらしい。事情を話し、列の前に入れてもらい、僕は足早に飛行機へと乗り込んだ。飛行機ではほとんどの席が埋まっていた。

 予定より10分ほど後に飛行機は飛び立つことになった。僕は飛行機に乗り、独りになってから改めて言い知れぬ不安に駆られていた。キリマンジャロから1年半、一人では始めての海外で正直ビビッていた。さらにガイドブックやらも持ってくるのをすっかり忘れ、「ええい、もうどうにでもなってしまえ! 何が何でもエルブルースやってやるぞ!」と思わずにはいられなかった。飛行機は北京へと向かい、そこで乗り継ぎ、一路モスクワへと向かった。

 モスクワに着いたのは午後7時頃。徹夜で出てきたのに飛行機では思うように寝られず、何だか身体がだるくて仕方がなかった。飛行機を降り、入国審査の所へ行くとそこは長蛇の列になっていた。僕が中国国際航空で来たせいか中国人が多くいる。なんでかなと思いつつ列に並んでいた。しかし、なかなか進まないなと思いよく見てみると、なんと中国人は列に並ばないではないか! 少しでも隙間が空いていれば容赦なく割り込んでくる。何故こんなにも中国人はモラルがないのだろう……、あきれてものも言えなかった。

 やっとのことで空港を出ると時間は飛行機が入国審査に行ってから2時間近くがたっていた。空港には既に迎えがきていてホテルに向かった。モスクワに着いて驚いた事がある。それは日が夜の10時頃にならないと沈まないのである。話には聞いていたのだが、やはり実際に見てみると変な感じがした。時間はもう夜の9時だというのに気分は5時くらいに感じられてしまうのだ。時差ボケやらなんやらよくわからなくなっていた。

 ホテルではチェックインを済ませるとすぐにベッドに倒れこみ、あっという間に眠りについていた。



●コーカサスへ●

 フロントにモーニングコールを6:30に頼んでおいたのにかかってきたのは6:50だった。熟睡したベッドから抜け出してシャワーを浴びた。水はなかなか温かくならなかった。その後、朝食をとり、フロントに下りると既に迎えがきていて早速空港へと向かうことになった。エルブルースに登るにはモスクワからまた飛行機に乗りミネラリヌイエボディというところまで行かなくてはならないのだ。

 空港に向かう途中、車を運転してくれていたおじさんは僕がロシア語はわからないというのにずっとロシア語で通り過ぎる市内の案内をしてくれていた。シートの前にはこんな張り紙があった、「a few chips are better than big thanks」。これは少しでも払わねばならないのだろうか……、学生には少しでも厳しいのだが……。しかし、それも杞憂に終わり、空港に着くとそのおじさんは車の中同様自分のペースでくっちゃべり、あっという間にいなくなってしまった。

 空港の中に入るともう英語の表記もあまり見なくなってしまった。ここは国際線ではなく、もう国内線のターミナルである。東洋系の顔も全く見えず、欧米人しかいなくなってしまった。ここで東洋人だからってなめられちゃあならないと思い、イスにドスンと座り随分大きい態度で搭乗まで待っていた。今になってみれば何と無駄なことをしていたのだろうか、おバカな話である。いざ飛行機に乗るとシートのリクライニングは調子が悪いし、曇り空の窓際に追いやられ踏んだりけったりだったが、この時はすぐに寝入ってしまった。

 目が覚める頃にはまさに着陸をしようという時であった。まだしっかり開かない目で飛行機を降りて歩いていると、突然向こうの警察らしき人に呼び止められた。何だ? と思いついていくと、「パスポート!」と言われた。よくわからずに差し出すとロシア語で何だか色々言ってくる。次第に仲間も集まってきた。「なんだ、なんだ?」と不安になってきたが、一緒に飛行機に乗っていた人がやってきて警察に話をし始めた。どうやらその人は僕のことを説明しているらしかった。出発前に友人が作ってくれた胸にエルブルースと書いてあるTシャツと僕のバックパックを指差して「こいつはエルブルース登山にきたんだよ!」といっているようであった。当の僕はなすすべもなく、ポカンとしているとパスポートを返されてあっちに行けと手であしらわれてしまった。そうするとさっき警察と話していた人は警察を指差して「クレイジー」と言っていた。この時僕は何が何だかよくわからなかったのだが、後でガイドに聞いたらそれは警察が腐敗していて賄賂のようなものをとろうとしていたらしかった。コーカサスは民族間の問題があったりと緊張状態にある場所であるため国境警備が厳しいのである。特にエルブルース付近はグルジアとの国境も近く、警察や軍隊がうるさい。それを警察は逆手にとっていたのである。このような事に実際に遭遇すると、やはり日本は安全な国なのだなと実感した。

 そして、空港を出るとガイドのアナトリーが待っていて、早速エルブルースの麓のアザウ村付近に向かった。延々と車に揺られ、谷間をずっと詰めて6時間、やっと到着した。ホテルがあったのはアザウ村近くのチェゲトというところ。森の間にある小ぢんまりとしたところだった。ホテルではエルブルースにツアーできていた日本人と出会い、部屋が一緒だったので色々と話をさせてもらい、ベッドに横になった。



●高所順化●

 この日は高所順化のため3400mの山に登ることになった。ホテルのあるところは2000mなので1400m登る事になる。最初は森の中を進み、生っているブルーベリーをつまみながら登った。途中大きさが10cmほどもあろうかというキノコがあり、「これは何?」と聞くとアナトリーはマッシュルームだよといっていた。後で色々話していたらエルブルース周辺はこの3400mの山も含め国立公園なのだそうだ。それなのにマッシュルームとってよかったのだろうか?

 しばらく急登を歩くと樹林帯を抜け、草原のような斜面になった。行ったことはないのだが、まるでヨーロッパアルプスに来たような気持ちだった。そして登山道のようなものはあるのに斜面をまっすぐ登り続けてリフトの終点を越したところで草木は見えなくなった。ガレ場を登りしばらく経つと曇ってきた。右手にはエルブルースが見えるはずだが雲のため見ることができなかった。途中水を飲んでいるとゴロゴロゴロと音がした。雷かなと思っていたら、アナトリーが指さしてアイスフォールといった。ふとなんだか気付かなかったが、アナトリーの指がさした方向を見ると雪崩が起きていた。結構遠い斜面なのだが、はっきりと音は聞こえる。生まれて初めてこの目で雪崩を見て、雪崩の威力をひしひしと感じていた。

 そうしてしばらく登ると頂上についた。尾根続きで先まで行けそうだったが、この先はずっと行くとグルジアになるとのことだった。気温が下がり、雨が降りそうだったので足早に下山に移ることにした。下山は登ってきたルートとは違い、随分と快適だった。

 午後1時過ぎにはホテルまで一気に降りてきた。この高所順化では1400mの往復をしたが、休憩は1回しかとらなかった。欧米人はほとんど休憩をとらず、ペースも日本人とは違い速かった。自分のペースで歩けばよかったのだが、何故か負けじと対抗しようとしたためそのペースで行き、ホテルに戻ったときにはいつも以上に疲れていた。

 その後、ホテルやその付近でみやげ物を見たり、のんびりしていると昨日出会った日本人と一緒に来ていた方たちがエルブルースから降りてきていて、この時もいろいろと話をさせてもらった。

 いよいよ明日はエルブルースに行く日である。そう思うと気持ちが高ぶりなかなか寝付くことができなかった。



●体調崩し●

 明け方目が覚めた。腹が痛い、酷く痛かった。トイレに行くと腹を下していることがわかった。さらに鼻血が出ている。山に入るというのに大事なところで体調を崩してしまった。しょうがなしにベッドに戻るが、腹は痛いままだった。

 部屋にも光がさし大分明るくなった。しかし、先ほどよりはましなものの体調は優れなかった。昨日までアナトリーがついていてくれたのだが、この日からはアンドレイというガイドに代わることになった。朝食をとり日本人とも別れを告げ、エルブルースに入るロープウェイの駅に向かう。エルブルースはロープウェイとリフトを乗り継いで3800mの小屋があるところまで行くことができる。アプローチは非常に楽なのだが、エルブルースではその楽さが裏目に出てしまうことがあるのだ。こう一気に標高をあげてしまうと身体が高所に順化できず、高山病にかかってしまうのである。事実僕も体調を崩しているのもあってか高山病にかかってしまった。

 テントを張り、準備がすむと、この日のうちにパスツーコフ岩(4690m)まで高所順化のため行くことになっていたのだが、結局体調を優先して取りやめることにした。一緒にロープウェイであがってきた時に知り合ったスペイン人はパスツーコフ岩まで向かっていた。僕は内心多少無理をしてでも高所順化に行った方がいいのではないかと考えたが、「いや時間はあるのだから自分のペースでやる。周りにまどわされるな。体調をしっかり管理して自分のペースでやるんだ」と心に言い聞かせていた。その後休んでいたのだが、腹痛は治まらず胃も痛かった。夜になるにつれては頭も痛くなってきて明らかに高山病だった。明日には治っているだろうか? このまま更に悪くはならないだろうか? と気が気でならなかった。

 水分を十分にとり、シュラフにもぐりこんだ。だが、なかなか寝付けない。寝てもしばらく経つと起きてしまうといった状況だった。



●パスツーコフ岩へ●

 何度か目が覚めたが、朝に近づくにつれ頭痛が消えていっているのがわかった。どうやら体調は回復に向かっているらしい。だが、浮かれることはできない。呼吸を整え、朝を待った。

 午前7時、シュラフから出た。体調はすこぶるというわけではなかったが、よくなっていた。この調子ならなんとかなりそうである。朝食をとり、準備をすませ、パスツーコフ岩まで高所順化に行くことになった。パスツーコフ岩はキャンプからは見える位置にあり、あんまり遠くにあるようには思えなかった。

 朝、まだしまっている雪の上を進んだ。標高は富士山よりも高いのだが、直射日光とその雪の照り返しで寒さを感じず、上はアンダーウェア1枚という格好であった。淡々と進み、1時間程歩いたところで休憩をとった。しかし、上を見てみるとパスツーコフ岩までは先ほどとあまり変わらないように感じられた。エルブルースという山は見た目以上に大きく感じられ、僕は時間感覚を失ってしまった。日本の山ではあまりない単調な大きさ、それが初めてで戸惑ってしまった。以前行ったキリマンジャロも広大な山であったが、エルブルースはそれと違いテントから既に頂上が見えている。あそこまでは30分くらいかなと思うと、実際は1時間かかったりといった感じであった。

 その後も同様に進み、左手には11番小屋の残骸が見えた。11番小屋は以前に火事になってしまい、今は使われてないそうだ。焼けた壁だけ残っており、その中にはテントを張っている人もいた。

 そしてパスツーコフ岩の下まで来た。ここからは斜面が打って変わり、段々と急になってきた。一歩一歩しっかりと進み、パスツーコフ岩の上に出たときにはテントを出て4時間も経っていた。空気は非常に乾燥していて、口の中がすぐに乾いてしまった。酸素もやはり高度をあげることによって薄くなっているようで、テントでは高山病は平気になっていたが、4600mまでくると頭痛もあり、体調が悪くなっていた。

 パスツーコフ岩からはすぐに下りだした。その直後に気が緩んでいたせいか高山病のせいか、「あっ!」と思った瞬間僕は転んでしまい、斜面が急だったので滑り出してしまった。咄嗟に持っていたストックで雪面を指し、何とか停止。その斜面の下は岩があるわけでもなく、そのまま落ちていっても問題はなかったが、突然の出来事に驚いてしまった。油断大敵である、気を引き締めなくては。午後になり次第に雲がわいてきたルートをたどり、テントまで戻った。

 その後は写真を撮ったりしてのんびりし、そうしてゆっくりしていると、登った時のような頭痛は消えていった。そして夕食をとり、まだ日も沈まぬ頃にシュラフにもぐりこんだ。



●体調管理●

 今日は休養日である。続けて高所順化を行うよりもしっかり休憩を取ったほうがよい。一緒に上がってきたスペイン人は深夜に頂上へ向かっていっていた。

 7時過ぎに目を覚まして、コーンスープを飲んでトイレに行った。やはりまだお腹は下っている。腹痛こそほとんどなくなったが、出てくるものの調子はよくなかった。持ってきた水がなくなってしまったので雪解け水を汲みにいき、ボーっとしていたら10時すぎにはあのスペイン人がもう頂上に行って降りてきた。夜に何時に出て行ったのかは知らないが、かなり早いペースであった。

 一番の気がかりであった高山病もこの日になると順化ができているのか大した症状もなく、安心であった。しかし、激しく動いたりするとやはり息切れは早く、油断はできなかった。

 軽く身体を動かしたり、写真を撮ったりしたが、この日は一番本を読んでいた。持ってきていた本は植村直己さんの『青春を山に賭けて』と野口健さんの『落ちこぼれてエベレスト』である。共にもう何回も読んでいる本で僕が山を始めるきっかけになった本でもある。今回初めて一人で行くということで成田では緊張のあまり戻しそうになったこともあったが、2人のやった事を思えばなんら大したことではなく、これしきの事ができないでどうする! と心に喝を入れてくれるのであった。またエルブルースに登頂した際の話も本には載っており、野口健さんの場合この山では大変な目にあっているようであった。僕も体調を崩し、万全ではない。しかし、それは登頂のできなかった理由にはならない。万全でなかったから登れませんでしたなど言語道断である。高所に行けば程度の差もあるが体調が悪くなる方が当たり前である。その中でいかに自分をコントロールしてベストコンディションに持っていけるか。そこにかかっている。

 この調子でいけばいよいよ明日には頂上に向かってやれそうである。不安も残る中、「万全ではないが、やらねばなるまい。この程度できずにどうする、この先はもっと大きいんだ。やってやるさ、俺だってやってみせる」と自分自身に言い聞かせていた。



●2つ目のサミット●

 8月7日午前2時30分、シュラフから出ると紅茶とクッキーという簡単な食事をとり、準備をしてテントから出た。いよいよ頂上を目指すのである。だが、僕は激しい感情の昂りをあまり感じず、静かなそして確固たる決心のもと出発した。この日は高所順化で行ったパスツーコフ岩の下まで雪上車で行くことになっている。当初はお金のかかるため雪上車を使わないで行こうと思っていたのだが、体調の事もあり欧米人が使っていた雪上車の中にアンドレイと共にもぐりこませてもらった。

 三日月が煌々と輝く中、ディーゼルエンジンが激しい音をたて雪上車は動き出した。空には月以外にも数多くの星が散らばっている。雪上車は11番小屋も過ぎ、いつの間にかパスツーコフ岩の下まで来ていた。アイゼンを装着し、歩き出した。時間は午前4時。上を見ると先に登っている人たちのヘッドランプが無数にあった。アンドレイは、この日はこのシーズンで一番頂上を目指す人が多いのではないだろうかと言っていた。

 パスツーコフ岩の上へは高所順化できた時より格段に早く上がった。その後も東峰(5621m)を目指す形で直上を続け、途中で東峰と西峰(5642m)のコルへ向かってトラバースのような感じになった。決して早くはないものの順調に進む。次第に空にあった星が見えなくなり、東の空が段々と明るくなってきた。日の出である。しかし、僕には日の出をみる余裕もなく黙々と登るだけであった。

 そして出発から5時間ほどたった9時過ぎにコルへとたどり着いた。標高はおよそ5300m。この標高までくると高所順化もできていない僕は再び頭痛にさいなまれ、登り出した時の威勢はなくなっていた。しかし、あと標高にして340mほどである。セブンサミッツ2つ目の頂上、それに到達できずして次のステップへ行くことはできない。

 出発の一ヶ月半ほど前の6月に僕にとってはある重大な出来事が起こっていた。それはアメリカ人女性が18歳にして僕が以前からの目標としていたセブンサミッツ最年少記録を達成してしまったのである。この事実は7月に18歳を迎える僕に最年少記録は不可能であると示したのである。その事で僕は出発前に今行く必要があるのだろうかと考えもした。しかし、色々な人からの助言もあり、何もせずに考えているだけでは何も始まらず、まずは行動してみようと考え直しこのエルブルースに来たのであった。

 コルでの休憩中、そんなことを思い出していた。そして、再び頂上を目指して登り出した。コルからはまた急な斜面に入り、北側に向かって巻くように頂上へ向かった。普段のトレーニングが足りないせいもあり、一歩一歩ゆっくりと登る感じになっていた。急な斜面が終わるともうそこからは頂上が見えていて、人が立っているのがわかった。頂上だ、頂上がもう手の届くところまで来ている。

 午前10時45分、エルブルース西峰(5642m)、ヨーロッパでここより高いところはもうない。セブンサミッツ2つ目、僕は遂にその頂に立った。風も強く雲も多少あるものの気持ちのよい晴れである。グルジアとは反対の方向を見れば、今までは見ることのできなかったロシアの山々を見渡すことができる。だが、僕にはその景色を楽しむほどの余裕はなかった。早く酸素がほしいという感じで、早く下ろうということしか頭にはなかったのだ。狭い頂上にあふれている人の合間を見つけ、手早く写真をとり、頂上からも数枚の写真を撮るだけで下山に移った。下からは雲がわいてきている。アンドレイは天気が悪くなりそうだから早く下りようと言ってきた。頂上付近では高山病のせいかうずくまっている人もいた。僕もこうなるわけにはいかない、早く下りなければ。

 頂上からは登りと同じルートで下る。コルまで下りてそこでアイゼンを外した。雪も朝とは違い腐り始めていた。コルを抜けるとトラバースに入った。そこでパスツーコフ岩の上まで出て一気に下る。そこからは雪がぐちゃぐちゃになっていたが、シリセードでパスツーコフ岩の下まであっという間だった。パスツーコフ岩まで来ると頂上にいた時と違い、呼吸も楽になっていた。そのままパスツーコフ岩からはすぐに立ち去り、テントに向かった。

 テントへ戻る途中はひどいものだった。僕が山に入った時は真っ白な山だったのにその時とは違い雪がかなりとけていて、ある一定より下に来ると雪上車も通ったせいもあるのかかなりぐちゃぐちゃになっており、所々では地面も出ていて歩くとどんどん汚れていってしまった。

 そんなこんなで無事にテントに戻ってきた。時刻は午後1時すぎ。行動中に少しチョコを食べた程度で、起きた時からはほとんど食べていなかったのでお腹がペコペコ。だが、準備をするのも面倒で煎餅やチーズなど何もしなくても食べられるものをあさっていた。テントから見返すと下のほうは茶色になっていたりして、なんだか僕は山に「もうお前は登ったんだから早く帰りな」と言われている気分だった。

 それにしても僕は今までにないくらい日焼けをしてしまった。高所順化をした日は日焼け止めを塗るのを忘れてしまい、顔はサングラスをしていたラインできっぱりわかれていた。しかも、その頬からは焼きすぎたせいで膿まで出てきてそこに更に日焼け止めを塗ったので、僕の顔はバリバリで酷いものだった。やはり日本の雪山とは違い、標高が高い分紫外線も強いようである。しかし、僕はそんな顔を気にもせず、寝入ってしまった。



●お祝い●

 翌8日、本来予備日にと取ってあった日だが、無事に登頂したので一足早く山を去ることにした。のんびりと8時頃に起きて山を見る。頂上は雲に包まれていた。昨日、僕らがテントに戻ってきてからだが、3800mでは雹に降られ雷もなり天気があまり安定していないようだった。どうやら今日はその天気を引きずっているらしい。昨日のうちにアタックができてよかったと改めて実感した。

 10時頃になるとリフトも動き出したのでテントを撤収してパッキングをすませた。山にいる間はずっとお腹を壊していたり、高山病やらとなかなか試練を与えてくれたエルブルースであるが、もうお別れである。出発前には思い悩んだエルブルース、だが来てみてよかった。一人だったということもあり、色々と考える時間があって得るものがあった。やはり行動してみない事には始まらない。そう思った。

 そして麓へ下りてきてアンドレイと仲良くなったあのスペイン人と共に乾杯をして帰途についたのであった。


《「稜線」第29号(2007年度)所載》

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