2005年 秋季山行 山行記

筆者 S・Y (2年生)

 しかしまあ、山行はかなり久しぶりだ。
 わたしはオーストラリア研修の日程との兼ね合いで夏合宿に行かなかった(注:夏合宿初日他の部員が北沢峠に着いたころ、当のわたしは吉祥寺でカラオケをやっていた)うえに秋1山行はすったもんだの末に中止になってしまったので、山行に参加するのは7月山行以来となる。しかも三年生が引退した後初めての山行で、あろうことかわたしがCLをすることになってしまったのだ。



11月12日 〈1日目〉

 (以下しばらく、遅刻を賭けて住宅地の中をザックを背負い歩く男の物語。荒い文体はご容赦願いたい)
 とりあえずいつもの午後発ちプログラムで登校する。が、途中でバスが立ち往生してしまう。なんでも善福寺近く沿道の家から火が出たらしく、道が消防車にふさがれていたのだ。
 仕方なくバスをあきらめ、ザックに登山靴姿で杉並の街中を学院まで歩くことにした。時計を見る。8時9分。時間がない!
 とにかく死に物狂いで歩く。青梅街道に出る。8時15分。
 今日「遅刻1」がつくと、学院入学から私が2年間築き上げてきた無遅刻無欠席記録が「すべて」「一瞬にして」崩れ去ってしまう。無遅刻無欠席だけは絶対に譲れない。チキン野郎のほぼ唯一のプライドを賭けた、時間とのガチンコ勝負だ。
 歩く。周りには何も見えない。赤信号?知るか。
 すると、私の目に黄色い物体が飛び込む。ヨッパライのゲロと痰を足して2で割ったような黄色は、まさに西武線のそれであった。
 上石神井駅。8時25分。
 なおも歩く。裏通りを美術室へと突き進む。学院生の列?知るか。
 そしてついに、あの猥雑な落書きのあるブロック塀が見えてきた。
 8時35分。ついに美術室に到達した。
 チキン野郎はついに、時間に勝った。プライドも保たれた。
 これで安心して山へ行ける。安心してこれからの学院生活を送れる。
 乾燥する季節です。火の元には気をつけましょう。
 (以上)

 この日4時間目は予告済みの代講で、出席を取るやいなや教室を飛び出る。先ほどの火は収まったらしく、時間通りにやってきたバスで西荻へ出た。
 真っ青に晴れた秋空の下を、鮮やかな紅葉の色にも似たオレンジ色が行く。窓から差し込む日差しが思いのほか心地よく、ついうとうとしてしまいそうになった。
 遠くに見える山々の輪郭が次第にはっきりしてくるのが分かる。小学校の頃の高尾山遠足ではまだ分からなかった「山へ向かっている感覚」を、このとき改めて覚えた。このなんとも言えないワクワクがあるから、山はやめられない。

 高尾に着いた。わたしは何をするわけでもなくホームのベンチに腰掛け、4時間目の授業を受けた他の部員を待つ。やがて入ってきた列車の中で合流、大月へ向かった。

 大月までの道中、特に大した話はしなかった。あえて言えば、Aの元中とおぼしき人物と遭遇したことぐらいか。A曰く鉄道マニアであるとのことであった。それならば彼がここにいるのもおのずと納得がいく。それにしてもわざわざサイタマから、大したご足労である。

 大月に着く。ここで富士急に乗り換え、都留市へ向かう。
 都留市からは、予約していたタクシーで今日の幕営地である道志の森キャンプ場へ向かった。途中いくつか山を越えたようだが、今朝の疲れもあってほとんど記憶はない。

 さて、キャンプ場だ。まず、気温が違う。朝はかなり冷え込みそうだ。
 立ち話もそこそこに幕営の受付をしに受付へ行ってみると、小学生の男の子が店番をやっていた。話し方もしっかりしている。学校でも家でもやりたい放題のいわゆる“ガキ”だった小学生の頃のわたしには、彼はとても立派に見えた。

 設営を終え、さっそく夕食作りにとりかかる。
 Tは腹ペコな小人さんに米を持っていかれてしまったことをひどく悲しんでいるようだった。
 で、夕食が出揃った。今日はマーボーなす。野菜しか見えない。
 そして夕食の核・ライス。これが近年稀に見る大失敗であった。
 もうとにかく、ヤバい。わたしの中では底を焦がしただけでも失敗なのに、香りまで……ああ、思い出したくもない。夏合宿では炊き込みご飯も成功したらしいし、この際炊飯はAに丸投げしてしまおうか。
 結果的には気合で完食に成功。食器を洗ってさっさと寝た。



11月13日 〈2日目〉

 4時起床予定のところ、また15分ほど寝坊。
 アラームは鳴っていたのだろうか?鳴っていればワンゲル史上おそらく初の洋楽アラームだっただけに気になるところである。どうでもいいね。 

 それにしても、Tはいつも作業が速い。シュラフをしまい終えてまったりしているTは、まだシュラフがしまえないわたしに無言のプレッシャーをかけてくる。が、焦るわたしのシュラフはなかなか袋に入ってくれない。朝はいつもバタバタしてしまうが、この状況に置かれるときはじめて、それまでジワジワと高まっていたわたしのバタバタは最高潮に達する。 いい加減、もう少し速く仕事ができるようになりたい。

 朝食はおしるこ。今回の食事は最悪だ。もう詳細は割愛ということで勘弁してもらいたい。

 撤収作業が早く終わったため、予定を繰り上げてキャンプ場を出発する。最初の一本はひたすら林道歩きであった。寝すぎて逆に眠い。目を覚ませ、俺。
 すると突然2匹の犬が物陰から飛び出し、わたしたちに向かってものすごい剣幕で吠え始めた。まだ寝ぼけていたわたしは彼らが鎖につながれているのが見えず、他の部員の倍ビビッてしまった。恥ずかしい限りだ。

 気を取り直して先へ進む。これ以降は何の問題もなく登山口まで行くことができた。さて、ここから本格的な登山道である。涸れ沢を伝って尾根に登るコースなのだが、さっそくルートが分からなくなる。なんとも情けないCLだ。結局Tが赤テープをみつけてくれた。
 浮き石が多く歩きにくい涸れ沢を進む。紅葉はそれなりにあるが、あまり綺麗とはいえない。ここに限ったことではなく、今年の紅葉は全体的に色づき具合が不揃いなように感じる。

 笹の生い茂るジグザグ道に入り、やがて尾根に出た。右へ曲がってしばらく行き、菰釣避難小屋で休憩。菰釣山へのピストンの準備をする。やや陽が出てきた。
 避難小屋を出発し、菰釣山へのピストンに出る。

 ここで初めて会話らしい会話が生まれた。始まりは例によって、お世辞にも上品とは言えない話。しかし、そこから一気に異文化理解の話に飛ぶのが今回の山行のすごいところである。海外の、日本とは違った文化を持つ人達とお互いの文化を理解しあうためには何が必要なのか。A以外の部員は多かれ少なかれ全員海外生活経験があるため、さまざまな意見がそこでは飛び交った。この冬キリマンジャロという“海外の”山へ行くAがあのときの会話から何か感じ取ってくれたらうれしい。
 そうこうしているうちに菰釣山の山頂に着いた。絶景である。

 「A先生+A=山頂で晴れ」のDouble“A”神話は、この瞬間もろくも崩れ去った。そしてさらに、水滴のようなものが落ちてくる。全員雨具をサブザックに入れ忘れて来てしまったため、NとA先生で写真を1枚ずつ撮って避難小屋へさっさと戻ることにした。山頂滞在時間、2分。
 下り始めると、水滴は落ちてこなくなった。どうやら露が風に吹かれて飛んできただけのことだったらしい。かなりのスピードで下り、避難小屋着。パッキングをして先へ進む。

 ここからは地図の上では尾根歩きである。赤いラインの下に隠れた詰まった等高線を、わたしは完全に見逃していた。
 それでも、中の丸付近まではゆるやかな道であった。天気は今日も非常に良く、道志の村々が木々の間からうっすらと見える。
 そして中の丸への登りに到達する。たかだか小ピークと思ってナメてかかっていたため、度肝を抜かれる。クタクタになってなんとか登り切るが、これから先わたしたちは登っては下りの繰り返しに幾度となくもまれることになる。

 中の丸を少し過ぎた地点で一本休憩を入れる。Aの持ってきたサラミの効果は絶大である。いったんは断っても、他のみんなが食べているのを見ると思わずねだってしまう。まるで麻薬のようだ。

 少し元気になったところで出発。相変わらず無駄の多いアップダウンが続く。がんばって稼いだ高度を、まるであざ笑うかのように下り坂が奪っていく。やっと終わったかと思ったらもう次の登りである。うんざりしかけたが、登るほかに術はない。最後は気合いで登っていた。何も考えず、まさに無我の境地であった。結局山で最後に必要なのは体力ではなく精神力である。そのことに気づいた瞬間だ。

 城ヶ尾山、大界木山は通過。道志方面へ下りる道との分岐で休憩を入れた後、畦ヶ丸への最後の一本。パーティーの口数が少ない。それどころでないのは分かっていたが、声を振り絞ってパーティーに、そして自分に喝を入れる。CLがバテてどうする。

 そして、やっと、まさにやっと畦ヶ丸避難小屋に到着した。小休止の後、昼食の準備を始める。ここでお決まりの文系・理系トークが始まった。
 理系コンプレックスの固まりであるわたしは、この手の話になると異常に興奮してしまう習性がある。同じ文系のNにもあきれられる始末。まあしょせんはナンセンスな話なのだが。昼食はホットドッグに紅茶。わたしの場合、朝食べずに残しておいたビスケットもあった。しかし、このビスケットが紅茶と合ってかなりハマる。パンも潰れずに生きていてくれたし、登りで疲れていたこともあってとてもおいしい昼食であった。

 しかし、片付け時のお湯の捨て方はのちに議論を呼んだ。人がいなかったので、つい調子に乗ってお湯の入ったコッヘルを振り回してしまった。CLがあんなことをしてしまって、本当に反省しきりである。

 撤収を完了し、畦ヶ丸山頂へと向かう。避難小屋から5分とかかっただろうか。今度は何枚か写真を撮って出発、下山にかかる。
 これまでの道とは違い、団体が多い。

 余談だが、わたしがこの部に入って以来、このようなシチュエーションでわたしたちが団体を抜くとき、ほぼ必ずと言ってよいほど団体のみなさんは「急行通すぞ〜!」と言って道を空けてくれる。ほぼ毎回、である。しかし、そう言われてもなかなか速さの実感が湧かないわたしは中央線人の成れの果てなのか。

 さて、そんな中“急行”の“2両目”で、車両の異常を示すランプが点灯する。“車両点検”をおこなっているうちに先ほど抜いた“各駅”に抜かれてしまう。が、抜かれた直後に“車両点検”は終了、再び出発するのである。いかんせん非常にタイミングが悪い。“各駅”の“乗務員”及び“乗客”のみなさんには申し訳ないながらもまた道を空けてもらった。こまめな“車両整備”を今後心がけるべきである。

 順調に高度を落としていく。とはいっても、小さなアップダウンは依然あるのだが。やがて、沢に合流した。もうすぐ終わりかと思いきや、ここからがなかなか歩きにくい。また岩が湿っていてとても滑りやすい。八ヶ岳の美濃戸口〜行者小屋とどこか似た雰囲気であった。バスの時間に余裕があったため、西丹沢自然教室まであとわずかの地点にある堰堤で写真休憩をとる。ここでNが撮った写真を後で借りたが、ここまで下りてくると紅葉がちょうどいい頃合いである。それだけに、空が雲に覆われていたのが残念であった。

 そして間もなくゴールの西丹沢自然教室に到着。解散式を済ませ、バスの時間まで各自思い思いに過ごした。

 一応、山行はここまでで終了である。しかし、この山行の最後を締めくくるアクシデントがこの後起こるので、そのことについても記しておこうと思う。
 新松田行きのバスに乗り込み、部員は“あー疲れた”と一斉にくつろぎモードに入る。バスは時間通り出発し、途中のバス停で登山客を拾って満員状態となったものの、途中の谷峨でその客のほとんどが降りてしまった。

 さあガラ空きだぜ!となったところで、しかし、バスが大渋滞にのめり込む。とにかく動かないのである。しばらくは途方に暮れていた部員たちだが、ついにA先生が均衡を破った。「ここで降りて谷峨まで歩いて戻った方が速い!」と。

 部員たちははじめ戸惑いの表情を見せた。特にわたしは前日から続くバスとの相性の悪さを嘆くばかりであった。しかし、バスは依然まともに動く気配がない。覚悟を決め、潔くあきらめることにした。

 バスを降り、渋滞する道をもと来た方向へ逆戻りする。このとき、A先生の奥さんが彼に惚れた理由が分かった気がした。無論それだけではないのだろうが。A先生の背中がこれまでになく頼もしく見える。

 また、歩いている間にAが大学の話を振ってきたので、先生を交えて全員で真剣に語り合った。ちなみにわたしがこのとき決定的な名言を残したらしいのだが、残念なことによく覚えていない。

 こういうのを「青春」と呼ぶのだろうか。これまでその正体も分からず、しかし内心では少なからず意識していたこの抽象的であいまいな言葉の意味を、ごく一瞬ながらこのとき垣間見ていたような気がする。

 さて、谷峨駅に戻ってきた。話をしながら歩いていると案外速く感じるものである。バスが遅すぎただけかも知れないが。
 列車がやってきた。藤沢のTは国府津まで、他の部員は松田までお世話になった。松田で電車を降りた後、先に帰られたはずのA先生に出会う。話を聞くと、満席だったので特急をあきらめたらしい。

 あげく「ここまで遅くなったら手ぶらで帰る訳にはいきませんねぇ、私はお土産に小田原で干物でも買って帰りますよ」と。
 なんと家族想いな方だろうか。わたしが心を動かされたのは言うまでもない。敬礼でもしたいぐらいの気持ちで彼を見送った。

 帰りの電車で、Aの地元のボーイスカウトがキリマンジャロの費用を援助してくれることになった旨のメールがAに届いた。
 ……がんばってこいよ。


《「稜線」第28号(2006年度)所載》

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