2005年 個人山行 キリマンジャロ遠征 山行記

筆者 M・A (1年生)

●アフリカへ●

 12月22日、成田空港を発った。アフリカ大陸最高峰キリマンジャロに登頂するためだ。この日、学校は終業式であったが飛行機に間に合わないので休むことにした。バンコク経由でケニアのナイロビに入り、そこからバスで国境を越え、キリマンジャロの麓のモシという町に行く。行きの飛行機の中、当初は前日もほとんど寝ていないので寝ようと思っていたが、「キリマンジャロに行くんだ」という昂揚感にみまわれて寝ることができなかった。バンコクでは乗り継ぎに結構時間があってロビーの椅子で本を読んだり、音楽を聴いたりして時間をつぶした。今回使用した航空会社は、タイ航空とケニア航空だ。タイ航空は、今回一緒に行ったT先輩が何回か使った事があり、決して悪くはないと聞いていたので気にしなかったが、ケニア航空に関しては未知のものでエンジンが今にも火を噴きそうなものに乗せられるのではないかとヒヤヒヤしたが、それは杞憂でありタイ航空同様悪いものではなかった。

 ナイロビに着くと入国手続をすませ、税関を済ませると5時過ぎになった。ここでバスの迎えがくることになっているので空港にあるカフェテリアで待つ。ここで飲み水が足りないので買う事にした。僕が買いに行ったのだが、なんと苦労した事か。相手はケニア人、英語かスワヒリ語しか通じない。学校での英語の成績が軒並み平均以下の僕のつたない英語ではろくに話す事はできなかった。最初$5出して水をくれと言った。水は、一本$2で2本買うことにしたので$1のお釣りということになる。ただ$のお釣りが無いということだった。そこで、水を買うためにわざわざ両替をするのもめんどくさかったので「釣りはいらない」と言おうとした。ところが、それをなんて言ったらいいかわからない。僕が、口ごもっていると向こうが見かねて$1分の食べ物を持ってきてくれた。それで、その場は収まったのだが自分の英語能力の無さに僕は呆れかえってしまった。普段やっていないツケが回ってきたなと感じた瞬間だった。

 そして、そこで待つこと2時間、7時頃になると迎えがやってきた。バスに乗り込み出発と思いきや他にも乗る人がいるらしく、その人たちが来るまでさらに2時間近く待った。空港を出るとまわりには何もなく乾いた土地が延々と続いている。と、バスに乗っていると途中で僕たちが乗っているバス会社の関係者らしき人から携帯電話を渡された。「誰だろう?」と思い、出ると今回バスやガイドの手配をしてもらったDo Do Worldの佐藤さんという方からの電話であった。高校生だけということもあり心配して、連絡をくれたらしい。ありがたいかぎりである。

 バスは、ただ走り続けてタンザニアとの国境に来た。ここでは、出国手続をし、タンザニアのビザを取り入国手続をする。陸路の国境越えは初めてだ。まわりは、先ほど述べたように英語とスワヒリ語。係官などは英語で話しているが、僕にはほとんど理解できずチンプンカンプンだ。果たして先輩がいなかったら、どうなっていたことか。もしかしたらキリマンジャロ登頂どころかキリマンジャロの麓までたどりつけなったのではないかと思うほどであった。先輩にはお世話になるばかりである。
 ここには、マサイ族とおぼしき人たちがいた。そのマサイ族は押し売りがすごく「これがマサイ族なのか」と幻滅したところがあった。ただ僕が、マサイ族に対して持っていたイメージというのも日本のメディアが作った情報でしかない。日本のメディアによるものが本当の姿か、僕がこの目で見たものが本当の姿か、これはもっとアフリカの地で僕自身がこの目でいろいろ見てみないとわからないであろう。

 そこからまたバスに乗り、アルーシャというところに行き、バスを乗換モシのホテルまで行った。ホテルは街の中心から外れており、周りには何も無いようなところにあった。ホテルは、とても綺麗でプールまでついており、明らかに外国人を客の対象としているようなホテルで、ここだけタンザニアではないような雰囲気だった。夕食はホテルで食べる事ができたが高そうであったので、部屋で持ってきたジフィーズを食べる事にした。



●ゆっくり、ゆっくり、●


 12月24日、ついにキリマンジャロに行く日だ。朝食をすませ、少しぶらぶらして準備をすませるとバスがやってきた。荷物を積み込み、出発。ホテルから登山口であるマラングゲートに行く。マラングゲートでは前日ブリーフィングで話したガイドの指示に従いレセプションで手続をすませガイド達の準備が終わるまで待機した。ここでは、登山用具のレンタルができるらしくそこの人に執拗にストックを借りることを勧められた。結局借りる事はなかったが。さらにここでは、アフリカに来てから初めて日本人に会った。40〜60代の男性グループの方たちであった。

 初日は、ジャングルの中を歩く。地面は赤土で、これは昔キリマンジャロが噴火したことがあるというからその際のものであろう。なだらかな道を非常にゆっくりゆっくり歩く。僕が学校で所属している部では考えられないくらいの速さだ。自分では、もっと早く歩きたいと思うほどだった。ただキリマンジャロは、1日に約1000mずつも高度を上げていくため、高山病にかかりやすい。そうならないためにもゆっくり登る事が大切なのだ。途中、同じくらいに登っていた欧米人を抜いたり、抜かれたりと繰り返していると、会う度に「You again、またお前か」と、笑いながら言っていた。ただそれだけなのだが、僕にとってはそれが何故か楽しくてしょうがなかった。

 さほど疲れることなく、約3時間かけてマンダラハットに着いた。ここでは、4人部屋の山小屋に泊まる。僕たちは2人なのでアメリカ人の夫婦と部屋が一緒になった。夕食まで時間があったので近くにあるというクレーターまで僕たちは行く事にした。あまり天気がいいというわけではなかったが、クレーターからの眺めはとてもよく、少し感慨にふけていた。

 夕食は、スープにパンにパスタに肉に……とにかくかなりの量が出た。食べる方は、2人なのだから量を考えてくれと言いたくなってしまうほどだ。どれもおいしくお腹一杯になるまで食べる事ができた。
 ここで先ほど話にでてきた日本人グループからレトルトのカレーとご飯をいただいた。こんなところでこんなものが食べられるとは想像もしていなかった。
 しかし、このキリマンジャロ遠征はなんとも贅沢なものだろうか。これだけたくさんの食事が出るのに、食料は一切持たず、大きな荷物はポーターが持ってくれて自分たちは軽い必要最低限の荷物を持てばいいだけである。少し手持ち無沙汰な気がしてならなかった。キリマンジャロは、ガイド、ポーターを必ず雇わなくてはいけないので、雇いたくなくても雇うことになってしまうのだ。



●悪天候●


 まだうっすらとも明るくならない明け方、尿意をもよおし目が覚めた。シュラフを出て、靴を履き、寒い外に出るのは億劫だったが、我慢ができず外に出た。すると、なにやら昼間には聞こえなかった怪しい鳴き声がする。猿のような鳴き声だ。大勢いるらしく至る所から聞こえる。日本では、全く聞いた事のない不思議で不気味な声だった。襲われたり、とそういうことはないだろうが、僕はこの鳴き声に少々「ぶるっ」っと、していまい、素早く用をすませ足早にシュラフの中にもぐりこんだ。

 25日、クリスマスだ。朝から日が差して天気のいい日だった。パッキングを済ませ、朝食をとり出発する。最初は前日と同じジャングルの中を進み、途中から植物の背丈が短くなり視界が開けるようになった。約3000m地点であろう。そのくらいを越えると森林限界のようであった。下ってくる人、登っていく人、様々な人にすれ違った。

 前日同様なだらかな道をゆっくりゆっくり歩いていると、上の方からドタドタと何かが下りてくる。それは、担架だった。欧米人と思われる人が6人くらいのポーター達によって走るように下ろされていった。一瞬だが、欧米人の顔はむくみ、顔色が悪かったのが見えた。高山病の症状だ。高山病は時には死にもつながるような恐ろしいものだ。初期症状で寒気、吐き気、頭痛、手足のむくみ、重度になると肺や脳に水が溜まり、死ぬ。低酸素トレーニングは事前にしていっていたが、自分もこんな風にならないかと不安を覚えた。だが、考えていると余計高山病になりそうな気がしてならなかったので、極力考えないようにした。

 時間が経つにつれ、下から雲が上がってきた。今にも雨が降ってきそうな雲だ。昼食を一緒にいた日本人ととっているとぽつぽつ降ってきた。埃っぽく空気が乾燥していたので、最初は恵みの雨だったのだが、次第に気温が下がり、寒くなってきてしまった。
 そんなところに雲の中の状態が不安定らしく雹が降ってきた。手を出していると当たって痛く、袖の中に手を隠して歩いた。

 14時10分、ホロンボハットに着いた。標高約3700mの小屋だ。富士山よりやや低いくらいである。
 ここでエベレストに2回も登った事のある人に出会った。エベレストの話だけでなく、マッキンリー、エルブルース……と色々な話を聞かせてもらった。自分の行きたい山、その山の話を聞いているのは何度聞いても飽きる事はなかった。そして、僕の中に熱いものがこみ上げてくるのを感じていた。

 ぼーっとしていると、あっという間に時間が経ち、日が傾き沈みそうになっていた。雲の中に飲み込まれて沈んでいく太陽を見て、自分があの太陽と同じようにキリマンジャロに来た事によって山という何か大きなものに飲み込まれていっている気がした。



●順応日●


 この日は、高山病対策のためにホロンボハットで1日過ごす事にした。ただぼんやりしていてもつまらないので4000m地点のゼブラロックまで行こうとガイド達と話していたが、天気が怪しいため様子を見ることにした。朝食をとり、先に行く日本人を見送り、シュラフに入ってぼーっとしていた。そうするとまた雨が降ってきて雹に変わった。この日は、降り出すのが早かった。さらに雷まで鳴り出して、「今日登っていった人は災難だな」、と思っていた。シュラフにくるまり、音楽を聴きながら、本を読んでいた。本のタイトルは「エベレストを越えて」、植村直己さんの著書だ。僕は、この本を読むのが3回目になる。矛盾しているが、この本に書かれている植村さんの図々しくも謙虚なところが僕は好きだ。植村さんの冒険の成功の数々は、その謙虚さや植村さんの内面的な部分が非常に多く関係しているのではないかと思う。植村さんの冒険はさることながら、植村さんの人間性に魅せられたのだ。

 午後になり、天気が若干回復したが、この時間からゼブラロックあたりまで行って帰ってくると日が暮れてしまうかもしれないので結局行かない事にした。小屋でじっとしているより体を動かしたかったので周りで写真を撮ったりしてぶらぶらしていた。すると、ガイドが近寄ってきて「どうかしたのか?」と、声をかけてくれた。特に何もないが、ガイドがせっかく来てくれたのだと、タンザニアの事等色々話してみた。話した内容をはっきりとは覚えていないが、僕の訳のわからない英語がなんとなく通じたみたいで嬉しかった。1回では通じないのだが、身振り手振りを駆使してわかる単語を精一杯並べて話すとわかってくれるのだ。僕はもっと英語が話せるようになりたくて、そういう風に言うとガイドは「若いのだから、急がないでゆっくり頑張れ」と、笑顔で応援してくれた。

 ホロンボハットは、登ってくる人と下りてくる人がちょうど一緒になるところで一番人のいるところである。そこで食事時間帯は、食事を取るところが非常に混むので夕食は早く食べる事にした。だが、僕たちにはこの日の夕食は苦痛であった。なぜなら夕食をとるのが5時半、昼食をとったのが1時だったからだ。普段ならまだいいのだが、特に何もせずに過ごして、食事の量が2人に対して3、4人分出るのだからたまったものではない。この時ばかりは、ほとんど食べる事ができず食事を下げてもらった。せっかく出してくれたのにほとんど手をつけることなく下げてもらうのは、非常に失礼だ。この時は申し訳ない気持ちでいっぱいだった。
 食後は、出発前に三浦BCで知り合った人がこの日ホロンボハットに登ってきたので、その人と一緒に来ていた人たちと少し話し寝ることにした。



●陰のゴミ●


 27日、朝食も混むため他の人より早く食べ、出発した。始めは、一昨日と同じようなところを歩いた。高度計を持っているわけではないのではっきりとした標高はわからないが、およそ4000mを越すと植物が全くなくなった。サドルと言われるだだっ広い砂地のようなところをいつ終わるとも無く歩き続けた。段々キボ峰が近づいてくる。この時歩いている所が標高4000mを越えているにもかかわらずなだらかで、キボ峰だけがポコっと出ているので5900m近い高さがあるとはなかなか実感できなかった。この日も雹が降ってきたが、もくもくと歩き続けた。

 約4時間30分で最後の小屋であるキボハットに着いた。標高は、約4700mだ。この標高になればいつ高山病の症状が出てもおかしくない。腹式呼吸を行うように意識していた。頂上に行くためには、ここを夜の0時に出発しなくてはいけない。周りの人は皆シュラフにくるまり、出発まで体力を使わないように寝ていた。しかし、寝ると呼吸が浅くなるため高山病にかかりやすくなる。そのため僕は、小屋の周りをぶらぶらしたり、記録をつけたりして少なくとも寝ないようにしていた。

 小屋の周りをぶらぶらして人が行かないような岩の陰に行った時にショックな物を見てしまった。ゴミが落ちていたのだ。ここまでの登山道はほとんどゴミが無く、管理が良くできているなと感心していたのだが、人が来ないような所はこの有様のようだ。ゴミは、登山者によるものではなくガイドなど現地の人々が持っているようなゴミばかりであった。人が来るような所は綺麗にしてあっても、そもそも現地の人々にゴミ問題だとか環境という意識があまりないのだからしょうがないのかもしれない。と、いうのもケニアからタンザニアに向かう道や普通の道の脇にゴミがかなり落ちているのだ。車からは窓を開け、ゴミを道にポイッと捨てるのである。これを見る限り環境の事を考えているなどとは思えない。しかし、別にこのケニアやタンザニアの人々だけが悪いと言っているのではない。日本も一昔前を見てみれば、環境などと考えている人はほとんどいなかっただろう。ただ今は考えている。それならば、僕達がこういう国の人に対して何らかの形で訴えていけばいいではないか。しかし、現地の人たちにゴミを捨てるなと、ただ叫んでいても効果はないだろう。どう訴えればいいのか、この時僕には思いつかなかった。歯痒い思いをするだけだった。

 暗くなり、外にいても何も見えなくなるので部屋に戻った。ただ部屋は明かりを消し、皆寝入ってしまうので他の部屋にいた日本人の所で話していた。余談であるが、なんとその日本人の中に僕の学校の卒業生がいたのだ。「こんなところで卒業生に会うなんて世界は狭いなぁ」と、思わずにはいられなかった。そこの人たちも寝るというので結局自分たちの部屋に戻り、シュラフに入った。だが、寝ようとはせず、出発まで音楽を聴いて寝ないようにした。



●夢の一歩●


 27日、23時、回りが起きてきた。僕も出発のため準備をする。念願の頂上に行けるという事からか緊張して、飲み物以外は喉を通らなかった。翌28日、0時6分キボハットを出た。ガイドが先を歩き、その後に僕、先輩、アシスタントガイドと続いた。アシスタントガイドがいるのは、仮にどちらかが体調を崩すなどして下りなくてはいけなくなった時にガイドが一緒に下りるため、もう片方が1人になってしまうからだ。なだらかな所を少し歩き、段々傾斜が急になってきた。5000m地点を越えた。そこから先は、更に急な登りになった。

 途中、高山病のためうずくまって吐いている人が何人かいた。そのため諦めて下っていく人もいた。高山病が怖かった。小まめに休みを取るようにして、喉が渇いていなくてもなるべく水分を取るようにした。休むたびに空を眺める、すると一瞬オリオン座がどこにあるかわからないくらいの星があった。今までに見たことのない数だった。水分をまめにとったりしたおかげか調子が良かった。傾斜が急だというのに足を運ぶのがそこまで大変ではなかった。「よし、これなら行ける。登頂する事ができるぞ。」心の中でこう思うようになった。そうすると次第に気持ちが先走りペースが速くなりそうになる。「焦るな。ゆっくり行っても着くのだから、ペースを速めるな。速くすれば、かえって疲れてダメになる。今のいいペースを維持するんだ。」自分を戒めた。

 大体5300m地点くらいからだったと思う。先輩が、段々遅れるようになった。どうやら高山病にかかってしまったらしい。気持ちが悪く、吐き気があり、だるかったそうだ。先輩の足の動きが段々遅くなっていった。僕は、迷っていた。先輩と同じペースで歩くか、先に行くか。このいいペースを崩してしまうと疲れがどっと出て、歩けても歩きたくないという気持ちになりそうな気がしたのだ。幸いガイドとアシスタントガイドがいるため僕が先に行っても先輩は1人にならない。ギルマンズptで待つことにして、先に行く事にした。

 4時55分、ギルマンズptに着いた。まだ夜も明けていないため何も見えなかった。キリマンジャロには、二つのピークがある。
 5685mのギルマンズptと5895mのウフルピークだ。ギルマンズptでも登頂と認められるが、一番高いところはウフルピークなのだ。
 ウフルピークまで行くという人は結構少ない。体調を崩したりしてギルマンズptまで行けなかったり、ギルマンズptで引き返してしまう人が少なくないのだ。

 休んでいると先輩がきた。やはり先輩は体調が悪いため下ることになった。先輩の唇は、血の気がなく真っ白になっていた。僕は先輩に「無理はしないで下さい」と、言っていたが内心はそうではなかった。確かに無理はするなと思っていたところもある。だが、先輩が無理をしてでも行くと言ったら止める気はなかった。僕が、先輩の立場だったら無理をしてでも登っていこうとするはずだったからだ。出発前、僕はいろいろな人から「無理はしないで、高山病にかかったら下りてきなさい」、「気楽に行って登れなかったらそれでいい」と言われていた。「わかった」などと答えていたが、内心はそうでもなかった。「高山病にかかったって下りないぞ。吐いたって、歩くたびに頭に激痛が走ったって登ってやる。何が何でも登ってやる。」そう思っていた。何故そこまで思いつめていたかは、はっきりわからない。とにかく登りたかった。

 ウフルピークまでは、ギルマンズptまでの登りほどきつそうではなかったが、時間が結構長くかかりそうな気がした。自分では疲れていないと感じていたのだが、体では随分疲れていたらしい。「登らなくちゃいけないんだ」という思いで、頭が体の疲れを感じるのを拒絶していたみたいだった。事実、ギルマンズptまでは順調に登ってきていたもののそれ以降は格段にペースが落ちた。
 少し歩いては止まって休み、呼吸を整えてまた歩き出すということを繰り返した。
 ギルマンズptまでは雪がなかったが、ウフルピークまでは若干岩陰などに雪が残っていた。しかし、軽アイゼン(氷雪上を登降する際に靴底につける滑り止めの金具)をつけるほどではなかった。次第に空が明るくなってきた。真っ黒から濃い紺色、透き通った青、鮮やかな黄色、そして真っ赤な空と変わっていく。独立峰で日本の山脈などのように遮るものが何もないため、キリマンジャロから見る景色の中にはアフリカの大地とそこに浮かぶ雲しか見えない。大地を赤く染めながら昇っていく太陽を見て「来てよかった」、ただ単にそう思った。

 頂上、ウフルピークだ。午前6時50分、キボハットを出てからおよそ7時間かかった。7時間かけて頂上に着いたのだ。夢の一歩だ、7大陸最高峰の登頂という夢の。何故登頂に頑なにこだわっていたのか、登頂して気付いた。自分の気持ち次第であるのだが、初めての海外登山であり、7大陸最高峰のうちで初めての山であるキリマンジャロに登頂しなくては夢が夢で終わってしまう気がしたのだ。それが、嫌だった。だからこの最初の山だけはどうしても成功したかったのだ。
 頂上には20分ほどいた。ついた直後、休憩する間もなく僕の手には2,3台のカメラが渡された。少し先に登頂していた外国人に写真を撮ってくれと頼まれたのだ。「おいおい、少し休ませてよ」と思ったが、別に嫌ではなかった。この人たちも一緒に登ってこそいないがウフルピークまで来た仲間なのだと思い快く引き受けた。僕もガイドと一緒に撮ってもらい、その後壮大な景色を堪能した。
 まず1つ目、キリマンジャロに登頂した。「あと6つ、絶対やってやる」そう決心した。

 下山は、体こそへとへとだったが精神的には楽だった。ギルマンズptまで一気に引き返し、少し休んでから更に下ることにした。
 登っている時は真っ暗だったため気付かなかったが、ギルマンズptに銅板のようなものがあった。アルファベットで日本人の名やその他いろいろ書いてあったが、詳しくは覚えていない。
 明るくなってからギルマンズpt直下を見るとかなり傾斜が急だった。疲れているが、ここで気を抜いたら元も子もない。気を引き締めた。と、ここから先はおもしろい下り方をした。ギルマンズptまでの斜面は地面に砂が積み重なったようになっていて足を踏み込むと靴が若干埋まるくらいだった。それをクッションとして利用し、ジグザグ登ってきた急斜面を一直線に一気に下るのだ。
 最初は驚いたが、慣れてみると面白いもので疲れをすっかり忘れてしまうほどだった。

 7時間かけて登ったところを約3時間あまりで下り、キボハットについた。先に下っていた先輩はシュラフの中で眠っていた。僕も少し横になろうかと思い、自分の寝床に行くとなんと知らない外国人が寝ているではないか。起こすのも悪いので椅子に座って休む事にした。
 少し休憩をとった後、昼食をとり、更に下のホロンボハットまで下ることにした。先輩の具合はすっかりいい様で快調に歩いていた。前日と同様にサドルを歩いていると「A君?」と誰かの呼ぶ声が聞こえた。こんなアフリカの地で僕の事を知っている人なんているはずもなく、空耳でも聞いたかと一瞬思ったがそうではなかった。Do Do Worldの佐藤さんだった。佐藤さんも知人とキリマンジャロに来ていたのだ。来るという事は聞いてはいたが、会えるなんて事は思ってもいなかったので驚いた。

 ホロンボハットには、14時頃についた。荷物を小屋の中に入れ、かたづけをするでもなく横になった。
 しばらく横になってから夕食までは、時間があるので外をぶらぶらしに出た。外に日本人が1人いたので話しかけてみると、なんとその人は僕たちが三浦BCでお世話になった方の旦那さんであった。いくらか話して、その後早々と夕食をとりさっさと寝ることにした。



●山を下りる●


 29日、朝から快晴だった。昨日の疲れは多少残っていたものの気持ちのいい朝だった。顔を洗い、朝食をとり、パッキングを済ませた。今日でキリマンジャロも終わりである。山の中で会った日本人に挨拶をして出発をした。登ってきたなだらかな道を下る。もう高山病の心配もない。自然と歩くのが速くなった。登るのに4時間ほどかけたところを2時間あまりで下り、マンダラハットについた。更に2時間ほどかけマラングゲートについた。5日ぶりのマラングゲートである。やっと終わったという気持ちもあり、もう終わったのかという気持ちもあった。乾ききった喉をコーラで潤し、改めて登頂してきたのだと嬉しくなった。そして、これから登りだそうとする人でいっぱいのマラングゲートをあとにした。

 ホテルに着くと、ガイドに部屋に荷物を置いたらすぐ外に来てくれと言われた。登頂証明書をくれるのだと言う。ガイドから証明書を受け取り、山の中でいろいろとお世話になった事のお礼を言い、別れた。部屋に戻ると待っていたのは荷物の整理だ。僕はとにかく休みたくて、とりあえず荷物を出すだけ出してほったらかしにして横になってしまった。部屋には時計がない上に窓もないため暗くなったのかもわからないのでどのくらい時間が経ったかわからない。時計を持ってきてはいるのだが、わざわざ見る気にもならず、ぼーっとしていた時間が過ぎるのは、早いものである。ただぼーっとしていただけなのだが、既に19時頃になっていたのだ。ホテルには14時頃に着いていたので、約5時間あまりぼーっとしていた事になる。疲れているのだからそんなものか、と勝手に納得していたら次に時計を見たら21時になっていた。そして、その日は広げた荷物をかたづけもせず、ベッドから床に落として眠る事にした。



●帰国●


 部屋の外がすぐ調理場になっていて、朝はそこの音で目が覚めた。顔が痛い。どうやら日焼けにやられてしまったようである。
 赤くなった顔を洗い、朝食をとることにした。朝食を済ませ、昨日散々散らかした荷物をまとめ、部屋をでた。チェックアウトをして、ナイロビまでのバスが来るまで待つ。バスは、ほぼ時間通りにきて出発した。バスはモシの中心部を抜け、アルーシャに向かった。来たときと同様にアルーシャで乗り換えるのだ。アルーシャからは、国境まで止まることはなくひたすら走り続けた。

 国境では来た時もそうだが、どうしていいかよくわからなかったので、とりあえず人の波に合わせた。国境を抜けると後は、土産物屋のような所に1回止まっただけでノンストップで走った。日が段々傾いてくる。そこに日本では動物園で見慣れた動物が目に入ってきた。野生のシマウマがいたのだ。サファリでも行かないとそのような動物は見られないのかなと思っていたのだが、突然の出現に僕は嬉しかった。

 帰りの飛行機は21時45分発だ。2時間前には空港に着いていたい。時間通りに着けば問題はないのだが、日はもう沈んで飛行機のチェックインに間にあうだろうかと心配になってきた。しかし、心配は心配に終わり、無事に空港に着く事ができた。本来なら僕たちが乗っていたバスは、先にナイロビ市街に行くはずだったのだが、運転手の人が僕たちのことを心配してくれていたらしく先に空港に行ってくれたのだ。おそらく先にナイロビ市街に行っていれば、飛行機には間に合わなかっただろう。

 今回キリマンジャロに来て、現地の方にはとてもお世話なった。彼らがいなかったら僕はキリマンジャロ登頂をできなかっただろう。親切な現地の方に感謝をし、僕たちは帰国の途についた。 


《「稜線」第28号(2006年度)所載》

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