古 い 山 の 手 帖 か ら  4


T・F (顧問)

雨  後

 小屋の外は梅雨明け間際の土砂降りの雨だ。本州を縦に裁ち割るようにして北上中の低気圧は、そろそろ僕らの真上を駆け抜けているのかもしれない。
 昨日、我が物顔の風と雨に曝された悪沢岳の山頂で、僕らのポンチョは散っていく花々のようにとりどりに舞った。そして、満足に昼食を摂ることもできぬまま、やっと駆け降りてきたこの小屋の前には、天幕で気軽に一夜を過ごすことのできる場所はもうどこにも残っていなかった。どこもかしこも、勢いよく水が流れているか、靴が半分浸かるほどの水溜まりだ。散々天幕を張る場所を捜してまわり、幾度天幕を張ろうとしては畳んだことだろう。とうとうズブ濡れになった僕らは、戦場から逃げ出す敗残兵のように、小屋の中に飛び込んだ……。
 取りとめない話にも飽きた僕らには、もう何もすることがない。退屈に馴染めない友だちは、雨に濡れたページを丁寧に剥がしながら、あるフランス人の詩集を読み始めた。彼が気乗りのしない気分を無理に急き立てて、本の活字を追おうとしていることは僕にもよくわかっていた。彼はよくそういうことをする。山の行き帰りの列車の中でも、列車待ちをしている駅のホームでも。彼は低い声でこんな一節を読んでいる。
 《おお、波よ! その倦怠をこの身に浴びてからは、木綿をはこぶ荷舟の船脚をさまたげることも興がなく、……
〔注〕
 これは僕も知っている詩だ。しかし、すっかり怠惰になってしまった僕は、彼の隣で寝袋にくるまったまま、屋根の上で気ぜわしく踊っている雨音をぼんやり聞いているばかりだ。
 「その倦怠をこの身に浴びてからは」……。ああ、この時、僕は彼の隣でどれほど他愛ない顔つきをしていたことだろう。あるいは、彼もそれを感じ取っていたのではないだろうか。山の中ではどんな怠惰や懈怠(けたい)も許されると一人決めにしてまどろんでいた僕は、そうして、日頃の頼りない自分の姿までそっと弁護していることに気づかなかった。彼はまだ詩集を読んでいる。もうじき彼も読み疲れて眠り込むだろう。薄暗い小屋の中で細かな活字を辿っていくのは決して楽なことではないはずだから。しかし、僕は彼がいつ眠ったのか知らなかった。彼より先に僕が易々と寝入ってしまったからだ。

 夕方になって急に雨音が途絶えた。
 「谷のガスが散り始めたぞ」と、外から戻った友だちの一人が顔を輝かせて言う。僕らは急いで小屋の外に出た。雨後の湿った風は、身震いするほど寒い。だが、確かに、谷間を覆っていた霧はほとんど消えて、薄墨色の雲の片々が目の前の尾根をゆっくりゆっくり這い上がっていた。
 天候は慌ただしく回復に向かっている。――低気圧は北に抜けた。明日になれば、きっと梅雨は明けるだろう。
 梅雨明け! 僕らはこの言葉をこれほど喜びに溢れて言い交わしたことはなかった。
 梅雨が明ける。明日からは本当の夏――

 翌朝、昨日たっぷり眠った僕らが浅い眠りから醒めると、外は降るような星空だった。
 僕らは夜が明けきらぬうちに出発した。東の空はもう赫々
あかあかと燃えていた。北に去った低気圧に吹き込む強い風が、僕らの髪を絶え間なく吹き散らした。
 稜線の一番高い岩が朝の光に照らし出されると、その光が僕らのところに這いおりてくるまで、ほとんど時間はかからなかった。不意に悪沢岳の一角が輝くと、あたり一面、水晶を撒いたような朝が来た。朝露に濡れた這松も、また柔らかく匂いはじめる。
 甦った太陽。
 悦びの夜明け!
(1974年7月 南アルブス・荒川小屋)
  〔注〕アルチュール・ランボー「酔いどれ舟」



断   章

薮 沢 カ ー ル ―― 日 没

 その日は、午前中から雷交じりの雨が降った。
 朝早く下の峠を出発して、森林限界のお花畑までやってきた頃、甲斐駒ヶ岳の上に尖塔のように伸び上がった奇妙な雲を見ていたのだが、どうやらそれもこの雷雨の前兆だったらしい。雨は、まるで幾日も蓄えた夏のエネルギーを一度に吐き出すように、いつまでも降り続いた。小さな天幕の中で、僕らは底ごもりする雷の音を聞きながら、ずっと互いの憂鬱そうな顔を見つめていた。
 夕方、雷雨が低い地鳴りの音に変わって遠のいていくと、執拗な雨もようやく上がり、天気は少しずつ回復した。そして、じきに西の雲が切れて、澄んだ夕陽が小さなカール一杯に射してきた。
 僕らは、柔らかく光る這松の斜面に出て、美しく色づいた日没の空を眺めた。西空は純金を溶かしたように輝き、その中で蜜色の高層雲が幾層の帯となって燃えていた。そして、すでに衰弱した積乱雲の群れは、北東の空に低く並んで見えた。小鳥たちの軽いさえずりと幕営地の人たちの囁きがわずかに耳に入るばかりで、淡く染まったこの山上のカールは、悠かな安息のような静けさだった。
 日暮れの冷たい風に吹かれながら、これほど素晴らしい自然の劇に巡り会えたことを、僕は〈何か〉に感謝せずにはいられなかった。
 (――では、一体〈何〉に感謝すればよかったのだろう?)
 陽が地平線の雲の中にすっかり沈んでしまうまで、僕らはこの美しい日没の光景に見入っていた。
 日が暮れて、西空がかすかに浅葱色を残す頃、僕は水を汲みにカールを下った。雷雲が時々遠い空で不気味に光った。
 薄暮の淡い闇の中で、そのほんの少し前に、あの日没のひと時に立ち会えたことを、僕は、僕に与えられたひとつの貴い〈佑け〉であったと感じていた。けれども、その時、僕には、自分のそんな他愛ない空想を、すぐに嗤うことはできなかった。
 僕は、水筒に水を充たすと、また暗い道を登り返した。伊那谷の町々に灯りがともり、仙丈ヶ岳のピークの上には星が光り始めていた。
(1978年7月)



停  滞  日

小梨平
 小止みなく続く雨音。天幕の中で、時間の軸が停止する。
 強いられた懶惰
(らんだ)。目覚めていながら、眠っている四肢。
 (あの岩峰はまだ厚い霧に隠れたままだ)
 僕の苛立った片眼は、樹蔭で震えている一羽の哀れな鳩を打ち殺す。

 (1978年8月)

北沢峠
 無為。行為の空白を埋めるために駆けまわる想い。だが、まだ来ぬ未来を思ったところで何になろう。
 今、ここでは、どんな無為も、どんな放心も、許される。
 そして、僕は、時間を大小様々な升で量って過ごすのだ。升の方で気ままに大きさを変えてくれるから、僕は殊更何もしない。計量された時間の総量を、時々自分の掌に載せて確かめる、それだけが、僕の仕事だ。
 (1979年2月)

涸 沢
 脚を傷めた僕は一人で天幕に残った。陽盛りで暑い。ふと串田孫一の「風の伯爵夫人
(コンテッサ・デル・ヴェント)」の一節を思い出す。
 《風の伯爵夫人は向うの山のかげへ、だんだんその姿を崩し、幾分か憐れな姿となって流されてしまったが、私はその日の午過ぎに、荷物をまとめ、短い書置を天幕の柱にしばりつけて、出発した。》(『若き日の山』)
 祭りは、終わった。
 僕は、もう、山に費やしたこの夏に区切りをつけて、また新しい仕事を始めよう。流れ去った美しい雲を追って歩き出した人のように、僕は、明日、山を下っていこう。
 陽が傾いた。もうじき、仲間たちが帰るだろう。逆光の中で蔭になった岩山は、妙に鈍重でよそよそしい。
 (1978年8月)



幸 い の 谷

 一日の終わりは、谷に沿って下る道がいい。木の間ごしに射しこむ柔らかな斜光が流れの上に踊り、ぼくらの放心をにぎやかな水音が充たしてくれるだろう。
*          *          *
 歩荷(ぼっか)の重い荷物を投げ出した初夏の山頂には、強い風に乗って絶えず薄いガスが吹き上げ、それは、ぼくらの頭上で行き場を失い、無限の高みへ散っていった。雲は陽に照らされて白金に輝き、雲間には嘗(な)めたような空の青さがあった。
 ――夏の空は、どうしてこれほど深いのだろう?
 ガスの湧き上がる玄倉川の谷には、はるかに、小さく、陽を受けて白く光る川原が見えた。蔭になった暗い山肌に囲まれて、そこだけが、明るかった。
 ――夏の高嶺の匂いは、もうあそこまで来ている。
 そっと手帖を取り出すと、ぼくはそこにこう書きつけた。
 「あの明るい谷間に、ぼくらの幸いがある!」
 (1978年6月 丹沢・塔ノ岳)
*          *          *
 下りついた峠は、一面に枯れた萱と色あせた笹の斜面だった。干からびた枯れ草の間には、初冬の大気の、あの透きとおるような匂いもなく、また、雪の冷ややかな湿りもなかった。草原を黄金(きん)の波に彩る淡い光も射していない。そこは、三年前と同じ、やはり蕭条と枯れた峠だった。
 そのとき、ぼくの中に育っていった埋めきれない憂鬱は何だったろう。その、淋しさとも不安ともつかぬ空虚な気持ちは、ぼくの茫漠とした未来を思うときの気持ちにどこか似ていた……。
 ぼくの中で、しきりに「早く歩け」と促す声がした。この憂鬱を振り払うのなら、また立ち上がって歩き出すことだ、と。
 笹原の中を右に左に折れながら、道はぐんぐん下っていた。絶えず吹き渡る風を受けて、笹原の色あせた波の間を、ぼくは低く低く泳いでいった。不意に風が激しい息をすると、笹は怯えたようにかん高い葉擦れの音を立てた。峠はみるみる背後にせり上がり、周りの山々の容積が徐々にぼくを取り囲んだ。そして、その歩調に合わせて、ぼくの息も、靴音も、また高く弾んだ。
 ――この靴音が、ぼくの未来を支えることはないのだろうか?
 沢音が近くなると、かたわらを流れていくうそ寒い大気も、樹々の匂いを含んで、ずっと柔らかな肌触りに変わっていた。その中に立ち止まり、ぼくは幾日ぶりかで深く深く息づいた。そして、これからつづく長く平坦な谷間の道を、休まずに、思い切り速い歩調で歩こうと思った。
(1977年12月 奥秩父・雁坂峠)
*          *          *
 その日は、西に向かって開いた小さな谷を下った。すでに、午後も遅かった。
 檜の林の間を緩く下る道には、春の斜陽がいっぱいに射した。穏やかに色づき、正午よりいっそう深さを増した明るみが、この谷に広がる。樹々の葉にも、友の肩にも、そしてぼくの上にも、同じ光は分けへだてなく注いだ。やがて山に別れを告げようとするとき、そこには、この日のもっとも美しい光が溢れていた。
 ――別れるときに、もっとも明るむ世界がある。
 《ああこの明るい日は暮れるのを忘れさせる、気づいた時には、見る見るうちに光は温かい翼を伸べ、彼方へ走りながら、天の一方に告別の双手
(もろて)を挙げる、――答えようではないかと早く、早く……〔注〕
 こう書き遺して逝った詩人を知っている。彼を包んだ光も、彼の告別の、自らの生への告別の、明るみだったのかもしれない。
 ――ぼくの告別も、こうした光とともにあるものならば……。
 けれども、ぼくは、これからも、迷いやすい薄暮の道を辿ることだろう。そこで、幾度も迷いながら別れ、別れてなお過去の余映を惜しむことだろう。ちょうど、この日、陽はすでに落ち、日暮れの蒼さがしだいに濃くなっていく路を、あの谷間の残照に思いを残しながら、なお忙しなく歩きつづけていたように。
(1989年5月 奥多摩・川苔谷)
  〔注〕三富朽葉「微笑に就いての反省」1917年8月発表)

《「稜線」第25号(2003年度)所載》

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