古 い 山 の 手 帖 か ら  3


T・F (顧問)

雲 取 山 に て

 小雲取谷を遡行して、雲取山に登った。

 雲取山――この山に、ぼくはずいぶん久しぶりでやってきた。
 小雲取山から山頂につづく広やかな尾根には、やはり乾いた高層の風が通い、空が展
け、世界が展く。かつて、奥多摩で最も愛したこの緩やかな尾根で、ぼくの中でも何かが展いた。胸の中で次第に昂まるものを覚えて、ぼくは少し息苦しかった。
ここでは、時間はゆっくり進む。
友よ、君たちもここではゆっくり歩け。
 人の多い山頂に長居はせず、山頂から石尾根をひと下りした、お花畑の中の小さな露岩の上に憩う。雲間から陽が射して、明るい。
明るいガスが流れていく。オレンジ色の名も知らぬ花々が散らばり咲き、ガスの湧く青岩谷の上には夏雲が輝く。
ここには、夏の山の匂いがした。透明だが生き物の息吹を含んだ、あの夏の高嶺の匂いが。そして、遠く、夏の高嶺へ、その這松に縁取られた稜線の高みへ、ぼくの想いは及んだ。
 ふたたび下り始めた道を、他の二人より遅れてゆっくり歩いた。そうせずにはいられなかった。
そういうときがあった。
火打山からの下り。天狗ノ庭のささやかな湿原には夕暮れの風が流れ、紅紫の花々が小さな光の結晶を散らしていた。風の音と小鳥のさえずりだけに充たされて、世界は水底の深みに沈んだように静かだった。
眼路のかなたには妙高山のピークと雄大積雲の峰が夕照に映え、そうして、ぼくはそれ以上歩けなかった。木道に膝をつき、夕陽を背に受けながら祈った。何かに耐えるように。何かが限りなく溢れる、その苦痛に耐える幸福を感じながら。
それほど、世界は静かだった。
 ぼくは、ゆっくり歩いた。
 このとき、ぼくには、すべてのものが美しく、そして静かだった。この高みの、夏雲の光も、針葉樹の林も、よく踏まれた明るい道も。ゆっくり歩かなければ、とてもその胸苦しさに耐えられなかったほどに。
(1991年8月)



弔   鐘

 山で亡くなった人を3人知っている。

 ひとりは、ぼくが大学生のとき、尖鋭的な登攀を行っていた山岳サークルのリーダーだったさん。サークルは違ったが、部室が同じフロアにあったので、彼のことは見知っていた。そのころから優れたクライマーとして認められていた人だった。彼は、その後、カラコルム山脈のチョゴリ(K2ともいう・標高8611m)の登山隊に参加して、下降途中に転落して亡くなった。ちょうど固定ロープと固定ロープの間のわずかな間隙で起きたアクシデントだったという。

 もうひとりは、ぼくが大学1年生のとき、正月の聖岳南面で滑落して亡くなったさん。彼女は、今は廃部になってしまったが、女子だけの山岳サークル・青稲会の会員だった。彼女はやはり部室が同じフロアにあったので、我々のサークルの女子会員を訪ねてよく部室に遊びに来ていた。目鼻立ちの整った聡明そうな人で、理工学部の4年生だった。
 さんは、聖平から聖岳登頂後、往路を戻る途中でスリップした。聖岳に登ったことのある人なら分かるだろうが、その南面は積雪期には急な雪の大斜面となる。当然、スリップした場合は、瞬時にピッケル・ストップの体勢に入らなければならない。これは、雪山では基本中の基本だ。しかし、これは伝聞なのだが、同行していたメンバーの話では、スリップしたとき、彼女はメンバーたちの方を見てバツが悪そうに「笑った」のだという。その気持ちはぼくにも分かるような気がする。つまらないミスをしてしまったとき、思わずメンバーたちにしてしまう照れ笑い。自分が置かれた危機よりも、メンバーたちに対する体面(?)の方を優先してしまう心理。だが、おそらく、そうして「笑った」ことが、さんの生死を分けたのだろう。スリップして斜面を滑り出せば、急速に加速度がつく。加速度がつけばつくほど、ピッケル・ストップを成功させるのは困難になる。男性よりも筋力が弱い女性の場合は尚更だ。だから、彼女は何より先にピッケル・ストップをかけるべきだったのだ。しかし、彼女は「笑った」ためにそのタイミングを逸した。――ぼくたちは、さんの死を聞いた後で、彼女を襲った不幸の原因をこのように話し合ったものだ。

 そして、最後のひとりは、大学生のとき、同じ山岳サークルで同期だった。彼は、我々の学年で最も信望の篤かった男で、大学時代にぼくが最も多く山行をともにしたパートナーでもあった。彼は、大学3年生のころから社会人山岳会にも入り、本格的なアルピニストの道を目指した。そして、1985年、カラコルム山脈のナンガパルバット(標高8125m)に南壁(ルパール壁)から挑んだ登山隊に加わり、亡くなった。パーティの全員が行方不明となったため、遭難の原因は分からない。雪崩に遭ったのだろうとも、烈風に飛ばされて転落したのだろうとも言われた。
 彼の家で、遺族とともに彼の遺品を整理したり、サークルの仲間たちに呼びかけて彼の追悼会を行ったりした後で、同期の仲間たちの間から彼の追悼文集をしっかりした造本の形で作ろうという話が出た。誰も異議を挟まなかった。
 数多く寄せられた追悼文に、の遺稿、日本ヒマラヤ協会が出した遭難報告書などを加えて出来上がった追悼文集――『遙かなるナンガの山に』(この表題は、彼のご尊父が詠まれた短歌から採らせていただいた。その短歌は「遙かなるナンガの山に消えし子に帰れとさけぶもとどかぬ悲しさ」だった)、その巻頭には、彼がナンガパルバットに向けて発った当日、ご尊父に手渡した手紙の一節が掲げられている。
 「山は僕にとって修業の場であり、偉大な先生です。本当の勇気、本当のやさしさ、本当の自由、全部山からのみ得ました。死ぬまで山とのかかわりを続けます。」
 この言葉をぼくは幾度心に刻んできたことかと思う。そのたびに、ぼくが抱く気持ちはやはり〈悲しみ〉というほかないものなのだが、ただ、その〈悲しみ〉は、何か途轍もなく純粋なものに触れたときに時として我々をとらえる清冽な〈悲しみ〉、そういうものなのではないかと思う。例えば……、そう、例えば、バッハの平均律クラヴィーア曲集(第1巻のあの最後のフーガ……)に、あるいはベートーヴェンの晩年のピアノ・ソナタに心を澄ませて聴き入ったときのような。
 その追悼文集に、ぼくは次のような文章を寄せた。少し長いが、書き写してみる。
*            *            *
 「(おまえは)「書斎の岳人」になるのを心配してるけれど、山の本を読むだけだとそのうち「かつての岳人」になってしまうぞ」
 大学を出てしばらく経った頃、彼から手紙でこんなふうに言われたことがある。(彼はそのとき就職して富山県にいた。)実際、ぼくは彼の言ったとおりになったし、またそうなることに敢えて抗おうという気持ちも持たぬまま日を送ってきたように思う。ただ、そんな「かつての岳人」も去年はいくらかまとめて山を歩いた。谷川岳マチガ沢、笛吹川東沢釜ノ沢から甲武信ヶ岳、後立山の縦走。そして、この山々にはそれぞれ彼に繋がる記憶が刻まれていた。
 例えば、甲武信ヶ岳。去年、甲武信ヶ岳に登ったのは透き通るような初夏の早朝。山頂では、小鳥たちがせわしない朝の挨拶で迎えてくれた。それは何という違いだったろう。その8年前、大学に入った年の12月だったが、彼と二人、金峰山から長い稜線を辿ってそこに立ったときには、冬山の日暮れの寒さに震えながら、南アルプスの方角にみるみる落ちていく夕陽を眺めたのだった。その夜を過ごした甲武信小屋も情けないほど寒かった。誰もいない真っ暗な小屋の中で、身体を小さく丸めながらしばらく取り留めない話をしていたが、そのとき彼がこう言っていたのを覚えている。
 「俺はね、相手が「いい奴」か、それとも「信用できる奴」かまず見て、そのどちらかだったらそいつと本気で付き合っていいと思っている」云々。
 これは妙にくっきりとぼくの胸に残った。人と狎れることのみ多かったぼくらの中に、こんなことを言う者がいたということ、それが軽い驚きだったからだろうか。今思えば、彼という男の明確な輪郭にはじめて触れたのは、このときだったかもしれない。そして、また思うのだが、ぼくは、彼にとって最後まで「いい奴」ではなかったかもしれないが、ともかく「信用できる奴」ではありつづけようと、その一線だけは守りつづけようとはしてきたらしい。
 なぜだったろう。確かに、そうさせずにはおかないほどの律義さ、苦労性とでも言えば言えるような義理堅さが彼にはあった。だが、それ以上に、信頼し信頼されることで成り立つ他人との関係を、彼がその言葉どおり十分尊重してくれたからだろうと思う。そう言えば、いつだったか、行為ではっきり示されない気持ちなど信じないよ、そんなことを彼は言っていた。気質や好み、あるいは価値観などがいくら違っていたとしても、その行為の結果を通して信頼し合うことで、人は他者と結びつくことができる、少なくともその可能性は開かれているのだということ、それをぼくは彼を通して知ったのだと思う。――ただし、ぼくが本当に「信用できる奴」であり得ていたかどうか、それはぼくには分からない。ここでぼくが何と言ったところでもう仕方のないことだ。それは、彼が言うべきことだったから。
 また、ある晩。
 「そういう考え方は不幸せだと思うな」
 彼の口からこの言葉を聞いたとき、彼との間にやはり埋めることのできない隔たりがあることをはっきり感じ取ったのを覚えている。ぼくがどんな「考え」を喋ったのか、もう思い出せない。小さな巣に籠もって皆で傷を舐め合うような「幸せ」に何の意味があるのかと、そんなことでも強弁したのだろうか。だが、とにかくこのとき彼がぼくに向かって「不幸せ」という言い方をしたのは、自分の求めるもののために身近なささやかな恩愛や愛憐を一擲してしまうことのできないような一面が、彼の中に確かにあったからだろう。彼は、平凡だが血の通い合った「幸せ」を愛し、それを大切にしたいという心情にどこかで強く繋がれていたように思う。そして、その心情は彼の頭の中にあったというより、その血肉の中を流れていたものだという気がする。だから、その後、彼が選んだ烈しい生き方を思うと、そこに全く矛盾や葛藤がなかったとは考えにくいのだ。ぼくの僻目でなければ、それはあるいは彼の「不幸せ」だったかもしれない。
 彼が言ったようにぼくにはぼくの「不幸せ」があったのかもしれないが、彼にはまた彼の「不幸せ」があったということなのだろうか。しかし、そうだったとしても、この二つの「不幸せ」はぼくらがその痛みを共有できるものではなかったのだ。
 そのように、彼とぼくはいつもある距離を隔てて立っていた。本当にそのとおりだった。けれども、それでよかったのだとしか、もうぼくには言いようがない。
 最後に会った晩。それは彼が日本を発つ数日前だったが、渋谷駅で何気なく握手を交わして別れたとき、かれの掌にはぼくよりはるかに強い力が籠もっていた。ぼくは、自分の気のない不実さを不意に鋭く思い知らされたように思ったものだ。硬いその掌の感触は、帰りの夜道を歩く間も疼くように右掌に残っていた。彼はそういう男だった。彼の真情はいつでもぼくより豊かで真率だった。ぼくは確かにそれを知っていたし、時にはそっと自分を恥じながら、何より得難いものと思ってきた。――それでもう十分だったではないか。
 ――だが、
 進まぬペンを励ましてここまで書いてきたが、君についてまだ何も語っていないような気がする。このまま書きつづけたところで、掬った手から水が漏れるように、肝心なことはみなこぼれ落ちてしまうように思える。いっそ、ぼくはこれまで書いたことをすべて棄てて、ただ一言、ぼくは君という男が好きだったと、そして、君の存在はしばしばぼくの心強い支えでもあったと書けばよかったのかもしれない。君は、こんな言い方に苦笑するだろうか。それとも、仕方ないなという顔をしながら、肯うでもなく否むでもなく、ただ微風のように受けてくれるだろうか。いつも君がそうしたように。
 最後の葉書。
 「出発までには、本当に世話になってしまった。ウルドゥー語で、ありがとうをシュクリアという。5月23日奥地に向かう。心をこめてシュクリア!」
 だが、礼を言わなければならなかったのは、君だったか、それともぼくだったか。改めて不思議な気持ちがするのだが、君の憶い出には思い出すことがためらわれるものなど、何ひとつないように思える。それでも、ぼくには君の憶い出が少なすぎると思えてならないのだ。ぼくにとって、君はやはり二人といない人だった。。――シュクリア。
(1986年3月)
*            *            *
 最後に、これは山で亡くなった人ではないのだが、高校生のとき山岳部で同期だったについて書き加えることを許してもらいたい。
 は、1999年に亡くなった。
 大学に進んでから、彼は医学生となり、また山の代わりにボートを始めたので、いきおい互いの関係は疎遠になって、いつしか年賀状のやり取りをするだけの間柄になったのだが、高校生のとき、いくつも山行で眼にとめた彼の映像は、その一つ一つがスナップ・ショットのように今でも鮮やかに記憶の中に残っている。
 例えば、1年生の夏合宿。北アルプスの間山の幕営地(今は幕営禁止になっている)から北薬師岳へ続く稜線を、力強いステップを踏んで躍り上がるように登っていった後ろ姿。2年生のやはり夏合宿では、悪沢岳の山頂で風雨に打たれながら、黄色いポンチョ(当時は現在のようなツーピース型の雨具はまだ十分普及していなかった)を着て涼しい顔をしていたその様子。
 また、2年生の夏合宿の後に、彼は、ツェルトひとつ持って、単独で、北アルプスの針ノ木雪渓から針ノ木峠に登り、そこから白馬岳まで後立山連峰を縦走した。これは、当時の我々の山岳部ではちょっとした壮挙と言っていいものだった。(そのとき、ぼくはぼくで、北アルプスの大天井岳から東鎌尾根を往復、常念山脈を歩いた後、横尾から槍沢をつめてもう一度槍ヶ岳に登り、それから前穂高岳まで縦走するという変な(?)山行をしていた。)
 3年生の夏には、二人で槍ヶ岳の北鎌尾根を登る計画を立てた。しかし、これは山岳部の顧問の先生(北大で山歩きをしていた方だった)からストップがかかり、断念した。北鎌尾根はヴァリエーション・ルートだから、先生のこの判断は妥当で当然のものだったと思う。ただ、もしこのときこの山行を実行していたならば……、と思うことがあった。当時は二人とも体力には自信があったし、沢登りなどのトレーニングを受けて岩場にも決して弱くはなかったから、天候さえ大崩れしなければ、おそらく北鎌尾根を完登できていたのではないか、と。
 彼の訃報に接したとき、彼が亡くなったということが、どうしても実感を伴って受け容れられなかった。前にも書いたように、高校卒業後、特に親しい付き合いをしていたわけではないのだが、若い一時期を共有した人の死というもの、なかでも山という場で濃密な時間を共有した人の死というものは、どうやら、何か特別な感慨をもたらすらしい。そして、ぼくは、大岡昇平が書いた次のような一節を思い合わせたりもした。
 「別に深い交際でもないのに、あの故郷を何千里も離れた異郷の町で、野で、林の中で、同僚が或る瞬間とった姿勢とか表情が、まるで私の一部となってしまったかのように、思い出されて来る。(……)死者がいつまでも生きているように感じられる時、生きている者は、涙を流すほかはないらしいのである。」(『ミンドロ島ふたたび』中公文庫版 17〜18頁)
 かつて兵士としてフィリピンに送られた大岡昇平が、戦死した僚友たちを思って綴ったこの文章は、全く立場も状況も違うのだが、なにほどかぼくの内部も共振させた。そうして、ぼくは、ぼくなりに、死んだを弔ってやらなければならないと思った。だが、どうやって弔ってやればいいのか、それが分からなかった。
 翌2000年2月、ワンゲルの冬季日帰り山行で、奥武蔵の武川岳に登った。そのとき膝を故障していたぼくは、二子山まで縦走するパーティと別れて、一人で山伏峠に下った。そこから、車道を歩いて名郷のバス停まで下りるつもりだったが、峠まで下ってみると、膝の状態は心配していたほど悪くなかった。そこで、帰りの足の便を考えて、伊豆ヶ岳を越え、西武秩父線の正丸駅まで歩くことにした。
 伊豆ヶ岳の山頂には誰もいなかった。午前中には晴れていた空はすでに重い鈍色の雲に覆われ、眼に映るものは満目蕭条と枯れ果てた冬の低山の眺めばかりだった。その、すべての光が失われたような世界の中にいて、自然にのことが思い出された。
 そのとき、不意に、里の方から夕方の梵鐘が聞こえた。梵鐘は二度、三度と続けて鳴った。それはまるでへの弔鐘のように思われた。
 ぼくは、しばらく凝然としてその梵鐘を聞いていた。そうするうちに、ぼくの中でひとつの思いが形を成してきたのだった。
 ――ぼくは、瞑目して、のために祈った。いや、正確に言い直せば、高校生の3年間に彼と共有した山の記憶のために祈った。その記憶が永くぼくの中で色褪せることのないように、と。そうするほかに、ぼくには彼を弔うどんな術もないのだ、と。






 と仙丈ヶ岳
 白峰三山の中白根で 
 (1975年8月)


《「稜線」第24号(2002年度)所載》

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