昔  の  ワ  ン  ゲ  ル


K・K (顧問)


 昔のワンゲルといっても、そう遠い過去の話ではない。いまから10年以上は前になるか、わたしが主としてH先生とワンゲルの顧問をしていた頃の話である。正確な年代は忘れた。しかしそう遠い過去ではないにもかかわらず、今ふりかえるといかにも昔日の感がある。それぐらいF先生のおこなったワンゲル改革は根本的であった。改革以前のワンゲルがいかにいいかげんであったか、今ここで反省の弁をのべるつもりはない。顧問の退任にあたって昔のワンゲルをエピソード風につづってみたいと思うだけである。「日本の秘湯を守る会」というのがあることに気づいたのは、霧積温泉の金湯館に寄ったときである。玄関先にこの看板がでていた。ぼくは軽井沢の鼻曲山(1654m)をこえて金湯館にたどりついたところであった。玄関のまえに水車があって、上のほうの沢から水をひいているのだろうか、長い樋のようなものが水車をまわしている。まわりは樹林の密生した山のなかである。まさしく山奥の秘湯というべき絵になるような風情をたたえていた。



1 甲斐駒の頂上で食べた鯛みそ

 夏合宿で南アルプスへいった。北沢峠にはいり、仙丈、甲斐駒をピストン、その後早川尾根をこえ、鳳凰三山をこえて夜叉神峠におりるというもりだくさんの行程であった。天気もよく、南御室小屋で番人のじいさんに説教されながら飲んだビールはことのほかうまく、とにかく無事に終わったのであるから、何もいうことはない。が、甲斐駒の頂上で食べた鯛みそだけは何とかならなかったものであろうか。鯛みそというのは要するに味噌の缶詰である。部員はたぶん鯛めしと勘違いして買ってきたのだろう。たいらな岩のうえにガラガラと缶詰をあけて、「おい、好きのものをもっていけ」と主将の3年生がさけぶ。顧問は遠慮して最後に手をだす。すると残っていたのは鯛みそであったという訳である。もちろん苦情もいわず、ぜんぶ食べたことはいうまでもない。



2 雪の尾瀬燧ケ岳

 大体、11月の初旬に尾瀬に行くというのが間違えていたのだ。東京は秋でも、尾瀬は初冬である。紅葉などはとっくのとうに終わっていたのだ。早慶戦利用の土曜の朝、10時頃学院を発った時は、しかし、のんきなもので何の心配もしていなかった。これが予定どおりにいっていればまだしも、沼田でおりると、部員がひとりいない。寝ていて気がつかず、おりるのを忘れてしまったわけだ。これは待つしかないということで1時間以上のロスになってしまった。鳩待峠についたときはまだ明るかったが、山の鼻はもう夕闇がおおっていた。山小屋は扉や窓を板でうちつけてあり、シーズンは終わっていることをつげていた。もちろんあたりに人影はない。

 わたしは呆然として一面のすすきの原とかした尾瀬ヶ原をみていた。それまで尾瀬には友人と二度きていたが、いずれも春であった。あの湿原がすすきの原になるとは思っていなかった。暗闇の中、ヘッドランプをつけてトボトボと歩いていると、追い討ちをかけるように雨がふってきた。つめたい雨だ。竜宮 小屋にたどりつくと、「あんたがた、どこまで行くんだね」と小屋の番人が心配して声をかけてくれたぐらい、みな沈んだ暗い顔をしていたのだ。しかしそのときもまだこの雨が燧ケ岳の頂上では雪になっているなどということを考えもしなかった。翌日、足を痛めているHさんはわれわれと別れて山麓をまわり沼尻へむかった。いま思うとHさんはつらかったに違いない。われわれはとにかく山頂へむかい歩き、また下った、つまり動いていた。かれはしかし、誰もいない寒い沼尻で長時間こごえてわれわれの下りてくるのを待っていたのだ。

 燧の頂上は雪でうまっていた。どういうわけか若い女性がひとりポツンとたっていた。積雪は10センチぐらいはあったろうか。あれで天気が悪かったならば苦労するところだったが、幸いぬけるような青空がひろがっていた。風もなくあたたかで申し分なかった。ただ道が雪にうまっているので、下りのルートを探すのに手間取ったくらいだ。ぶじ沼尻にくだり、寒くてふるえていたHさんと合流し、大清水におりた。しかし最終のバスはとっくのとうに出て行った後。近くの公衆電話から沼田のタクシーをよぶ。昔のワンゲルは帰りのバスの時間などしらべてはいないのだ。真っ暗闇のなかタクシーのヘッドライトが近づいてきたときはうれしかった。やっと終わったと思った。

 だがまだ終わっていなかった。沼田の駅でひとりの部員がキセルをしようとして見つかったのだ。だいたいみな同じ山のかっこうで首都圏までの乗車券をかっているのだ、そこに一人だけ近くの駅の乗車券をだして、不思議に思わないほうがどうかしている。弁護の余地なし。駅員に油をしぼられているところを横目でにらんで電車にのりました。



3 蔦(つた)温泉での豪遊

 部員が八甲田へいきたいと言い出した。よくぞ言ってくれた、かねがね八甲田へ行ってみたいと思っていたぼくはふたつ返事で承諾した。しかしこの合宿はプランニングに苦労した。

 八甲田には北八甲田と南八甲田がある。ふつうは酸ヶ湯温泉から八甲田大岳にのぼり、下りてくる、これは北八甲田であり、いわば表玄関の八甲田である。しかし酸ヶ湯温泉からさらに十和田湖のほうへのぼると南八甲田がひろがってくる。あまり人の来ない秘境めいた山域である。せっかくだからここにも行ってみたい。この両者をつなぐ山道はない。結局われわれはバスを多用し、北と南を切り離してまわって歩くことにした。夜行の寝台車で青森に向かった。寝台車とはいえ大きいザックが一緒だからあまり居心地がいいとはいえない。翌朝青森駅について、三々五々朝食をとることにした。Hさんが魚市場のなかにうまい朝飯を食わせるところがあるという。そこで改札の駅員に市場はどこにあるかを尋ねたのだが、返ってきた東北弁の返事がぼくには分らなかった。ところがHさんは分るのだ。かれは浦和の生まれである。ぼくは北海道の生まれである。北海道生まれのぼくがどうしてあの東北弁が分らなかったのか、ぼくはものすごく恥ずかしかった。もっともHさんは最初から駅前に市場があることを知っていたのかもしれない。しかしそれにしてもあの時食べた焼いたツボダイに熱い味噌汁の朝飯はうまかった。いまだに忘れられないのだから、よほどうまかったのだ。

 バスにのってまず猿倉温泉にむかった。廃屋のような湯治場があったが、人影はまったくない。曇天のなか深くえぐれた溝状の道をあるき、野営場の跡地に行き、何とかテントを張った。荒涼としたこのあたりが南八甲田である。曇り空のなか櫛ケ峰にのぼったが、なにも見えなかった。何というところに来たのだという思いが去来する。部員もおなじ気持ちだったにちがいない。みな黙り込んでいた。ここには確か一泊しかしなかったはずだ。翌日山をおり、またバス道路へむかい、さらに奥の蔦(つた)温泉に行った。旅館は一軒しかない。一軒しかない旅館の名前が蔦温泉というのだ。どうしてここに泊まることにしたのか、よく記憶していない。適当な野営場がなかったのだろう。だがこの蔦温泉は正解だった、少なくとも教員にとっては。いまでもHさんは、蔦温泉はよかった、忘れられないと言っている。ぼくも同じ気持ちだ。風呂は昔ながらのヒノキ造り、窓がなく薄暗い。湯はボコボコ湯船の下からわいてくる。トイレも、あれはヒノキでできているのだろうか、甘い香りに充ちている。番頭さんは好意的、若女将はグラマーな美人であった。ついでに言うとこの蔦温泉は明治の歌人大町桂月終焉の地である。そして顧問の二人は、OBを接待するのだとか適当なことを言って、宿からつまみをとりよせ、あびるほどビールを飲んだ。こんなことがあっていいのだろうか、という感じの一夜であった。

 しかしまあ、さしたる罰があたることもなく、翌日は快晴の中をバスで酸ヶ湯温泉にむかった。ここからは北八甲田である。八甲田大岳をめざしてのぼり、りっぱな避難小屋にとまった。客はわれわれだけでこれまた快適な一夜であった。そして翌日大岳と高田大岳にのぼり、美しい湿原の木道をおりて、酸ヶ湯温泉で解散をした。もちろん混浴で有名な酸ヶ湯温泉にはいって帰ったことは言うまでもない。



4 赤岳頂上小屋で食べたお汁粉とラーメン

 夏合宿をすべてつぶして八ヶ岳を歩いたことがある。これはのんびりした合宿であった。茅野から観音平に入り1泊、編笠をこえて青年小屋で1泊、権現をこえてキレット小屋で1泊、赤岳をこえて鉱泉小屋で1泊、翌日サブザックでもう一度横岳から赤岳をまわり又鉱泉小屋で1泊、翌日帰京という行程であった。山をひとつこえればつぎの幕場という感じの、こののんびりしたプランは当然生徒がつくったものである。教員は退屈きわまりなかった。しかし好天つづきで八ヶ岳を堪能することができた。その赤岳の頂上の昼食のおり、レトルトの赤飯がひとつ足りないことが判明した。教員は、だめだなあ、ちゃんと調べてもってくるんだよ、などと言いながら、腹のなかでニンマリ笑いましたね。頂上には頂上小屋がある。ひさしぶりにうまい飯を食うことができるのだ。しょうがない、先生方は小屋の食堂で食べるよと言い残して、食べましたね。いま覚えているのはお汁粉とラーメンをいっぺんにたいらげたことであるが、まだ食べたかもしれない。幸せなひと時であった。


《「稜線」第26号(2004年度)所載》

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