秘 湯 三 話 |
K・K (顧問) |
1 霧積温泉金湯館 「日本の秘湯を守る会」というのがあることに気づいたのは、霧積温泉の金湯館に寄ったときである。玄関先にこの看板がでていた。ぼくは軽井沢の鼻曲山(1654m)をこえて金湯館にたどりついたところであった。玄関のまえに水車があって、上のほうの沢から水をひいているのだろうか、長い樋のようなものが水車をまわしている。まわりは樹林の密生した山のなかである。まさしく山奥の秘湯というべき絵になるような風情をたたえていた。 霧積温泉という温泉があることは森村誠一の『人間の証明』のなかに西条八十の詩がでていたのでおぼえていた。『人間の証明』を読んだことのあるひとは記憶に残っているにちがいない。 母さん 僕のあの帽子 どうしたでせうね ええ、夏碓井から霧積へ行く道で 渓谷へ落としたあの麦藁帽子ですよ 東京からの日帰り登山のガイドブックをめくると、軽井沢に鼻曲山という山があり、横川のほうにおりていくと霧積温泉があると書いてある。さらにここには金湯館と霧積館の二軒の宿があるが、登山客はだいたい金湯館に立ち寄るようであると、よけいなことまで書いてある。『人間の証明』の思い出もあり、これは何としても行かずばなるまいと思った。 だから鼻曲山そのものは最初からどうでもよかったのである。真夏に行ったからかもしれないが、風とおしの悪い樹林帯がうっそうとしていて、標高のわりには深い感じのする山だった。大宮から長野新幹線で軽井沢にゆき、駅前からバスに乗って長日向という停留所でおりる。登山口の標識は粗末な木造りであったが、きちんとたっていた。別荘地のからまつ林をぬけて2時間ほどもあるくと山頂にむかう尾根みちにでる。途中だれにも会わなかったが、山頂には明らかに別荘から散歩がてらきたと思われる若夫婦と、もう一人中年の男がいた。天気の良い日で浅間山がきれいに見えた。 山頂には30分もいたろうか、登ってきたのとは反対がわのみちを横川にむけておりていった。下りも展望のわるい樹林帯で山は深いというよりもどこか不気味であった。だから金湯館にたどりついたときは、ほっとした。 さすが秘湯というだけあって、金湯館は本当に山のなかにあった。もっともこれはぼくが山をおりてきたからそう思うのかもしれない、金湯館から横川までは車道なのだ。ぼくも若い女将さんにたのんで横川からタクシーをよんでもらったぐらいである。記憶がはっきりしないのだが、おそらくぼくは入浴料と休憩料とべつにはらったのだと思う。どちらも安いもので500円ぐらいだった。庭をたどって離れの一室に案内されたが、風呂に入るのが目的だからすぐに浴室にむかった。あるくとミシミシするようないいかげん朽ち果てそうな板張りの廊下のおくに浴室はあった。客はあきらかにぼく一人である。ぬるい風呂にゆっくりつかった。 風呂をでて、入り口のロビーのような場所のテーブルにつき、ビールを飲みながらまわりを見ると、ここは暖簾といい額縁の書といい、どこもかしこも『人間の証明』のあの詩でうまっていた。西条八十だけではない、ここはどうやら明治の昔から文人のおとずれる温泉であったらしく、与謝野晶子の書もあった。当時かれらがここまで車でくるわけがない、いったい何を考えてかれらはこの山奥の湯まできたのだろうか。 タクシーがきたようなので、ぼくは宿の奥に一声かけて、車道のたまり場まできた。するとあの若い女将さんが後ろからぼくを追いかけてくるのだ。何事かとふりかえると、「お客さんは部屋をぜんぜん使わなかったので休憩料をお返しします」といって、500円玉をぼくの手におしつける。これには参った。女将さんといっても、その辺をあるけばどこにでもいる若い女性なのだ。ぼくは当然ことわった。すると「いいえ、義母におこられますので」といって、受け取ろうとしない。これまた現代的な容姿に似合わない時代がかった言葉である。おこられては困るから、ていねいに謝辞をのべ、ぼくは500円を受けとった。たしかに離れの部屋はまったく使わなかったのだ。 案外このようなことで山行の印象はがらりとかわる。鼻曲山までが立派な山にみえてきた。 2 赤湯 苗場山(2145m)には深田久弥の百名山の本を読んだときから登ってみたいとおもっていた。今はもう百名山をぜんぶ登ってみようなどという気持ちはないが、それでもぼくのような山の素人にとって深田久弥の本は、とにかくガイドブックとしてだけでも、ありがたいものだった。いろいろ調べてみると苗場山は実に変わった山であることがわかってきた。だいたい山頂の標識がたいらな地面のうえに立っている山がどこにあるだろうか。 山は台形状で、山頂部は広大かつ平坦な湿原である。苗場山に関心のある人は一度空中から撮影したこの山の全容をみるといい。その異様におどろくにちがいない。昔から山頂部には遊仙閣という有名な小屋があった。今もある。しかし山好きの皇太子が苗場山に登ったとき、いくら何でもこの小屋ではと宮内庁が首をひねったのかどうか、すぐそばにもう一軒大きくて立派な小屋を新築した。ぼくは皇太子の威光にあやかって、この新築の小屋に泊まったのだが、遊仙閣にも未練があったので見に行ったところ、その裏庭にひっそりと申し訳なさそうに山頂の標識がたっていたのだ。これはまた何というところに立っているのだと思ったが、考えてみればこの山頂の標識をめざして苗場山にのぼる人は誰もいない。どこに立てても同じだし、必要もないかもしれないが、ないのもおかしいだろう、そんな感じで標識は立っていた。 山頂の湿原は、しかし、時期が8月であったので、たいした花も咲いてなく、どこかうらぶれた様子であった。湿原はやはり春か秋がよいのだろうか。天気はよく日没、ご来光、すべて見ることができたが、ふかい印象は残っていない。正面遠くに三角形の鋭鋒が見えていた。そばにいた人が「あれが鳥甲山だ」とつれの女性に説明していたが、そのときのぼくは鳥甲山の何たるかもしらなかった。時間と体力がゆるすならば、もう一度苗場山にのぼり、今度は秋山郷におり、和山の温泉にでもとまって鳥甲山に登ってこようとおもう。今回のぼくは苗場山もさることながら、先ずは赤湯であった。 苗場山の魅力にもうひとつ磨きをかけているのが赤湯である。赤湯というのは元橋へおりる下山路の途中にある山間の河原の露天風呂である。近くに山口館という山小屋があり、そこに入浴料をはらってはいる。山口館には「日本の秘湯を守る会」の看板はなかったが、赤湯はここにとりあげた三つの山間の温泉のなかではもっとも秘湯らしい秘湯であった。もちろんただの河原の露天風呂ならば、それなりに設えた山麓の温泉ならばどこにでもあるかもしれない。しかし赤湯に車でくることはできない。赤湯にはとにかく汗水ながして歩いてくるしかない。これは大きな違いである。 客はここでもぼく一人であった。あらかじめ山口館で缶ビールを買い、湯にはいりながらチビリチビリと飲んだ。実にいい気分であった。ぜんぜん飲んだ気がしなかったので、湯をでてからもう一缶買い、ちょうど時間でもあり山口館のまえのベンチに腰をおろし、昼食をとった。このビールはきいた。その後元橋までの下山路がかなりハードであることは、ガイドブックをよんで知っていたが、ぼくは完全にバテてしまった。どこがどうこの下山路がハードであるかというと、林道をあるき、元橋バス停にむかう山道にはいり、もう周辺の学校のグラウンドなどが見えるあたりから信じられないほどの登りになることだ。最後の最後が登りになる下山路なのだ。 そして登りおわって目の前に忽然と国道17号線、通称三国街道が見えたときは本当に信じられない思いがした。ぼくは谷間からはいあがって人界に出た亡者さながらに大型トラックや乗用車が行き交う三国街道を見ていた。 3 駒ノ湯 越後駒ケ岳(2003m)はぼくにとって久恋の山であった。実際この山に登ったあとは、もう本当に登りたい山がなくなったことにぼくは気づいた。 越後駒ケ岳のそばには百名山だけをとっても平ガ岳もあれば巻機山もある。しかし何かの機会があれば話は別であるが、自分からすすんで登ってみたいとは思わない。この辺のさっぱりしたところが還暦をむかえたとしのせいかどうか、よく分からない。 だが実際に登ってみてどうだったろうか。天気のいい日で中ノ岳も八海山も、奥只見の秘峰荒沢岳もよく見えた。駒ノ小屋の若い管理人が実に親切な男であれが燧ケ岳、あれが平ガ岳、遠くに見えるのが飯豊ですとおしえてくれた。しかし駒ノ小屋は写真でおぼえていた昔の小屋ではなかった。 昔風につくってあるが木の香もにおうような新築である。山麓の駒ノ湯も新装改築したのではないか。泊まったわけではないので、今でも「ランプの宿」なのかどうかわからないが、少なくとも昔は日帰り客用の休憩室と風呂をととのえた別棟はなかったに違いない。その別棟の風呂にはいらせてもらって文句をつけているのだから勝手なものだが、近隣から車できた地元の方といっしょに風呂につかり、なにか寂しい気持ちになってしまった。一時の百名山ブームでここも有名になり、昔からの山奥の宿では客を収容しきれなくなったのだろうか。駒ノ湯にも「日本の秘湯を守る会」の看板がかかっていた。しかし一体車でこられて何の秘湯だろうか。受付のやたら都会風な若い女性をみていると、憎まれ口のひとつもたたきたくなった。 駒ノ湯によるかどうかは、しかし、最後の最後まで迷っていた。本当は中ノ岳をこえて十字峡におりたかったのだ。中ノ岳はすぐ目の前に見える。 あれをこえて行けないわけはないと思った。ただ天気がいいだけではなくものすごく暑い日であった。枝折峠から小倉山をこえ、駒ノ小屋に着いたときには、ぼくは完全にバテていた。水はといえば、来るときに浦佐の駅で買ったペットボトルのお茶しかない。あまく見ていた自分に不安がよぎる。この水筒がわりのペットボトルで水場のない中ノ岳をこえられるだろうか。例の親切な若い管理人はヤブこぎが大変です、やめたほうがいいと言う。この人は駒ノ小屋にほうほうのていでたどりついたぼくをずっと双眼鏡で見ていたのだ。「何時ごろに枝折峠を発ちましたか」ときくので「そうだな、10時ごろだったかな」と応えると、「それではあまり強くない」と事もなげにいう。ただ悄然としているぼくを見てかわいそうだと思ったのか「暑さにやられたんですね」と付け加えてくれた。実に優しい男だった。翌朝中ノ岳にはむかわず、下山するときもじっとぼくの行くてをみまもっていた。このじいさんやっと諦めてくれたかと思ったに違いない。 しかしぼくとしては中ノ岳を諦めたぶんだけ駒ノ湯には期待をいだいていた。そしてその期待もそれほど裏切られたわけでもない。駒ノ湯のまえでザックをおろしていると、散歩をしていた宿泊客の中年の奥さんが近づいてきて「ここはいいですよ、たいていの温泉は循環してますけど、ここは流しっぱなしですからね」と言っていた。しかし驚いたのは湯が冷たいことだった。ぬるいのはとおりこして冷たいのだ。一緒にはいっていた人のなかに物知りがいて、あたためると効能がなくなるのだとのたまっていた。なるほどそうなのかと納得しなくもなかったが、しかしぼくとしては、多少効能がなくなっても、あたたかい湯にゆっくりつかりたかった。 |
《「稜線」第25号(2003年度)所載》 |