縦 走 記 |
K・K (顧問) |
夏山の醍醐味は縦走につきるようである。これまで何度かいろいろな山を縦走したが、思い出に残っているのを、記憶をたよりに書いてみよう。 最初に縦走らしい縦走をしたのは、大学1年生の秋だから、もうかれこれ40年前になる。 穂高から燕まであるいた。夜行で新宿を発ち翌朝上高地につき、まず焼岳にのぽった。荷物はかるい。サブザックの小屋泊である。焼岳にのぽり、中尾峠からかるく西穂の小屋にいけるとふんでいた。ところが下のほうはきちんと道らしい道がついているのだが、2時間ほどのぼると道は灰色にかわった。火山灰が道を覆っているのである。ふと気が付くと、まわりの木も灰をかぶっている。小雨がふっていてあたりは灰色一色の異様な雰囲気である。そのうちに足が膝ぐらいまで灰にうもれるようになった。道ももうわからない。その時はじめてこれは火山灰であることにぼくは気が付いた。もう頂上にいくどころではない、ほうほうのていで上高地にひきかえした。 あとで西穂の稜線で会った人にこの話をしたら、焼岳はいま登山禁止ですと、こわい顔で注意された。西穂の小屋はすいていた。ぼくの他に同宿のものは地元の教師をしていると言っていた三十代の男が一人きりであった。 その後何度か秋山に登るようになったのは、秋はとにかく人がいないからである。翌日は快晴であった。予定では西穂から奥穂をこえ、北穂の小屋まで行くことになっていた。ぽくが西穂から奥穂の稜線をあるいたのは後にも先にもこの時しかない。若かったから間ノ岳の逆層もジャンダルムもスリルを楽しんでのぼった。穂高はこの時が初めてではなかった。その年の春に早稲田大学の山岳部の新人合宿できていた。この合宿がつらくて山岳部をやめたのだから自慢できる話ではないが、とにかく北海道からでてきて知っている山といえば穂高しかなかったのだから、ぼくの最初の個人山行が穂高からはじまったのも当然である。だが北穂の小屋で西穂からきたと言うと、皆それはたいしたものだと尊敬のまなざしでほくを見たのは実に気分がよかった。 翌日も晴れ、予定では北穂から大天井までいくことになっていた。この日あたりから疲れがでてきて、槍ヶ岳までは実に長かった。槍の登りはぜんぜん覚えていない。穂高にくらべれば大したことはないとたかをくくっていたのだろう。つらかったのは大天井の登りである。ここは小屋が頂上にある。とにかく登らなければ晩飯にありつけないのだ。歯をくいしばって登った。小屋は空いていてお客は5人か6人であったが、こう少ないと小屋番はこの客を一室にとじこめてしまう。だからぎゅうぎゅうづめであることに変わりはなかった。ここでも西穂からきたぼくは大きい顔ができた。翌日も晴、燕をこえて中房温泉におりたが、首と腕が日にやけてヒリヒリ痛かったのにはまいった。 つぎに思い出に残っているのは後立山の縦走である。大学卒業後大学院にはいり、学院の教師になったのが29歳のときであった。クラブの顧問は最初グラウンドホッケー部を何年かやり、その後スキー部の顧問をこれはつい最近までやっていた。 スキー部では夏に高体連の検定会が立山の雷鳥沢である。その引率で雷鳥沢には何度かいった。せっかくここ迄いって立山に登らない手はない。予備日を利用して立山、剣にはよく登った。その後同僚で友人のY君(現日本女子大学)がワンゲルの顧問をしていた折、合宿で後立山にいくのだが一緒にこないかと話をもちかけてきた。それでは行くかと、部員に迷惑をかけないようにツェルトをひとつ用意してついていった。 新宿を夜行で発ち翌朝信濃大町でおり、扇沢から登りはじめた。この縦走はぼくの記憶に残るかぎり、もっともつらい縦走であった。扇沢から3時間ほどで種池山荘に着く。いい天気で、テント場では雪渓の上にテントシートをひろげて昼寝をした。実に気持ちがよかった。この縦走がどうしてつらかったかというと、ひとつには食事のまずさがある。昔のワンゲルの食事はまずかった。初日なにを食べたか覚えていないが、ぼくはぜんぶ吐いてしまった。喰えたものではないのだ。それにいまは食器は個人持ちであるが、昔は共同のボウルを使用していた。これが汚いのだ。慣れるには時間がかかった。 翌日は低い山をひとつ越えるだけで冷池山荘に幕をはった。距離は短い、着いたのは午前中である。カンカン照りのなかテントの中は蒸し風呂のようでとても昼寝どころではなく、外にでて傘をさしてじっとしていた。ぼくは今でも夏は防寒より防暑を心がけたほうがいいと思っているが、それはこの時の経験による。 翌日は2時に起こされた。り−ダーの3年生はいい体格のKくんという人だが、厳しい表情で今日はもっとも長くもっとも危険な場所をとおると、訓示をたれる。まあ大したことはないだろうと思っていた。しかし長いことは事実であった。鹿島槍から五竜まで10時間ほどかかった。名立たる八峰キレットは結構な難所である。しかし冷池のテント場を早朝4時頃にでて1時間もあるくと左にまだ明けてない北アルプスの山々が荘重な姿で見えてくる。大体朝の山はしずかであるが、あの静けさは格別であった。どこの山がどうというのではなく、全体が暗く静まりかえっている。あの印象は忘れられない。 鹿島槍の頂上で夜があけただろうか。ぼくは茫然としていた。遠くにこれはぼくにしか分からない八方尾根スキー場のリフト塔が見えた。いつもスキー部の合宿で八方尾根のリフトの上から見ていたあの双耳峰のかたわれに今自分はいる、その思いがぼくを熱くした。 ついでに言っておくと、ぽくも色々な所から鹿島槍を見たが、八方尾根から見る鹿島槍が最高である。最悪は薬師から見た鹿島槍である。大体薬師から見ると双耳峰に見えない。八峰キレットは注意してあるけば別にどうということはないが、どこまで行っても五竜がそそりたっていて、あれを越えなければ五竜山荘はないという心理的疲労がきつい。クタクタにつかれてテント場についた。 翌日は五竜から唐松をこえ、不帰の険をこえ、天狗の大下りをのぼり、天狗の小屋まで行った。天狗の大下りをのぽったところでぼくは完全にバテた。Yくんに、おれはもう駄目だ、遅れていくから先に行ってくれと、弱音をはき、ひとりでとぼとぼと歩いて行った。 しかし小屋について、部員にかくれてラーメンをたべるとまた元気がでてきたのだから、いいかげんなものである。 翌日はこの縦走中もっとも快適であった白馬三山越えであった。天気もよく、人気のある山であるから若い女性のハイカーもふえ、中には三脚をたててフルートを吹いているものもいたりして、雰囲気はガラリと変わった。大きな白馬山荘のテント場に幕をはり、白馬を往復し、部員とYくんはここでもう一泊し糸魚川へおりるところ、ぼくはそれを遠慮させていただき、ひとりで八方尾根へおりた。どこまでも見送るYくんに頭をさげ、雪渓をくだっていった。 八方尾根にはスキーの合宿で何年も懇意にさせてもらっているG山荘がある。G山荘についたら風呂にとびこんで風呂のなかでビールをのむ、そればかりを考え、猿倉におりた。実際に風呂のなかでビールをのみ、嬉しくて嬉しくてゲラゲラ笑いだしたのはいい思い出である。 最後にとりあげるのは咋年の夏やったばかりの縦走である。もっともこれは計画の段階ですでに縦走ではなく、いわば回遊であったのだが、忘れることのできない山行であった点ではピカイチのものである。 日本百名山にかんする本を読んでいるうちに、ぼくは黒部五郎という山にのぼりたくなった。カールが大変魅力的な山であるようなのだ。ただこの山は北アルプスの中央部にあるのでどこからはいるにしろ、行ってすぐ帰るというわけにはいかない。うまく計画をたてねばならない。そこでぼくは富山の折立からはいり、帰りも折立へかえるコースを考えた。折立から太郎兵衛平、薬師をピストンし、黒部五郎、雲ノ平とまわり、また太郎兵衛平にかえり、折立におりるコースである。あわよくば水晶も登ってこようという意欲的なプランであった。 結果的には悪天のために、このコースを完走することはできなかった。停滞前線がずっと日本海にいすわり、記録的な豪雨であったのだ。富山には1日前につき、駅前のホテルに投宿、翌朝5時駅前出発のバスに乗ったときに、もう雨はふっていた。折立に着いたときはどしゃぶりであった。しかしまあそこは何とかなるだろうと、楽天的に考え、テントと4日分の食料のはいった重いザックをかついでのぼっていった。同行者も沢山いた。3時間ほども登ると稜線にでる。ここで雷がなりだした。まわりは低い這松があるだけである。ゴロゴロ実に長い間落ちるでもなく移動するでもなく鳴っていて、あまり好い感じはしなかった。 太郎兵衛の小屋に着いた時はものすごい豪雨になった。受け付けでテント場の場所をきくと、雨でテントを流されそうになって小屋にひきあげてきた人が何人かいるという。心細いかぎりでテント場にむかった。たしかにテント場は水浸しであったが、張れないことはなかった。予定ではそれから薬師のピストンであったが、暗澹たる思いであきらめ、滴れた服を乾かした。 翌日になっても雨はやまず、視界もわるい。それでとりあえず黒部五郎へむかうことにした。太郎兵衛から黒部五郎はサブザックでピストンできないことはない。だがぼくは何としてもカールをおりて、一泊したかった。そこで雨のなか撤収をしてトボトボあるきだした。 晴れていれば太郎兵衛から黒部五郎は雲ノ平、水晶を左にながめ稜線を漫歩する最高のコースである。しかし何も見えない。やっとたどりついた黒部五郎の頂上は豪雨の中であった。カールは何箇所か川になっていて、もうジャブジャブとわたるしかなかった。しかしここのカールはたしかに見事である。穂高の涸沢のように整然とした幾何学的図形ではなく、岩と緑地が突出しデコボコした感じが不思議な魅力となっている。 テント場は狭くほとんどが水浸しであったが、何とか場所をみつけた。今日もふてくされて寝るしかない。しかし翌日は晴れた。予定では雲ノ平であったが、昨日稜線で同行した男が、雲ノ平へ行くのは止めたほうがいいと言っていたので、また太郎兵衛に帰ることにした。雲ノ平は何箇所か沢をわたるところがあるが、それがこの雨では水があふれて渉れないだろうというのだ。元気もなかった。だが天気はよく、今度こそはカールを下から飽くことなくながめた。世にも稀なるカールである。頂上から槍のほうはあまり見えなかったが、稜線は最高であった。雲ノ平は高原であるから、どこがどうなのか見当がつかないが、その奥に水晶がどっしりと根をはってたっている。前方には薬師が見えた。太郎兵衛の小屋は何日ぶりかの晴天なのだろう、屋根のうえに布団をほして、従業員が日向ぼっこをしていた。ぼくもテントをほし、シュラーフを乾かした。しかし天気は不安定でおそらく明日にはまた雨がふる予感がした。 翌日の朝は晴れていた。予定は大幅な変更を余儀なくされていたが、ここまで来て薬師に登らぬ手はない。ぼくは空身でピストンし、その後折立におりることにした。太郎兵衛からのぼる薬師は簡単である。ただ1時間ものぼると何の目印もない、どこへでも行けそうな広々とした稜線にでる。霧がでていると、ここは迷うだろう。幸い天気はよく、北アルプスの山はよく見えた。しかし頂上に着いたときまず穂高から雲がかかってきて、見る見るうちに曇ってきた。これはまずい。すぐ太郎兵衛にとってかえし、テントを撤収して帰路についた。この雨は大降りにはならなかった。しかし愕然としたのは折立についてからだった。 バスの停留所にはり紙がしてある。某日以来宮山行きのバスは川の水が溢れて不通である、というのだ。一片の紙の通告はぼくを打ちのめした。もしもその時身内のものを高岡から車で迎えにきていた人が、親切にもぼくを神岡まで乗せていってくれなかったならば、ぼくはまったく途方にくれたにちがいない。これは教訓であった。小屋にとまれば、まだ情報ははいってくるだろう。幕営山行にはトランジスターラジオを絶対に携帯すべきである。富山のホテルで横になってつくづくそう思ったことだ。 |
《「稜線」第21号(1999年度)所載》 |