ひ と り だ け の 頂 上

Y・F (3年生)

 あとちょっとだ。もう頂上はすぐ近くに見える。

 5月のある週末に、ぼくは八ヶ岳の権現岳に登っていた。初めて独りでテントを持っていく山登りだ。最初は不安があったけれども行って見ればなんてこともない。背中の南アルプスがぼくを押し上げてくれる。富士山も霞んでいるけれどもちゃんと見える。
 6時間歩いて、キャンプ場に着く。天気はいい。明日登る権現岳もよく見ることができる。テントを張って、しばらく休む。隣ではどこかの大学のサークルが賑やかだ。
 一休みしてから、水を汲みに行った。5分ほど歩いたところに水場がある。ここの水は延命水と言って、寿命を伸ばしてくれるそうだ。凍るように冷たい水だ。丁寧に手を洗ってから、その水を手に受けて飲んでみる。美味しい。今日の疲れが一気に飛んでいってしまうくらいだ。山に行って嬉しいことと言えば、水が美味しいことと、普段とは違った時間の流れを感じることができることだ。当然の事ながら、水を飲んだ後、蛇口を締めたりする必要もない。そして、自分の出すごみの量の多さに気付いたりする。いつも気にしなかったようなことでも、山に来ると気付いたりする。
 早めに夕食を作って食べた。西の地平線にだんだんと大陽が引き込まれていく。北アルプスの山々がくっきりとシルエットになって浮かび上がっている。これはいい、最高の景色だ、そう思ってカメラのファインダーを覗き、ピントを合わせる。シャッターを切ってカメラを顔から離すと、どこか違うような景色が見える。ファインダーを通してでは見ることの出来ない、肉眼でしか見られない景色を、ぼくは見た。
 次の日、5月の下界では信じられないような寒さに僕は目を覚ました。さあ、今日こそぼくの登頂を山が待っている、そんな気持ちになり、ぼくは荷造りを始めた。
 キャンプ場を出て、稜線に出る。下は見事な雲海だ。360度見渡すことの出来る眺望は、日本の主な山々をほとんど揃えてくれている。北、南、中央アルプスはもちろん、奥秩父、富士山と申し分ない。そして目指す権現岳は目の前だ。
 少しずつ高度を稼いでいく。左には八ヶ岳の主峰、赤岳も見え始めた。朝日を浴びて本当に赤くなっている。しかしぼくには山の陰になって太陽は見えない。フラストレーションが溜まってくる頃、もう頂上は手が届きそうな距離にある。
 あと200メートルぐらい。あと50メートル。もう少し! 心臓の音が高まってくる。立ち止まりそうな自分に鞭を振るう。よし、あとちょっとだ、頑張れ!
 着いた!
 ぼくはとうとうこの頂の上に立った。食料も、テントも、全部自分で持って登った初めての山だ! 家を出るとき25kgあった荷物も今はないに等しい。飛び跳ねながら、岩の上に攀じ登り、世界を見てみる。全ての山が、ぼくを見ていた。
 ぼくは満足して、山を下りた。

 そして6月、ぼくの所属する早稲田大学高等学院ワンダーフォーゲル部は、都の登山大会で優勝し、インターハイの出場を決めた。
 立山で行われた8月のインターハイは、ぼくの高校生活の想い出として、ずっと心に残るだろう。そして初めて独力で登った権現岳でのぼくの写真も、アルバムの中にしまわれて、ずっと、ずっとぼくの心に焼き付くことだろう。

 

《早稲田大学高等学院「作文集」第19集(1995年6月発行)所載》

▲ESSAY目次に戻る▲
■ワンゲル・トップページに戻る■