長野市立西部中学校でのあゆみ(その5) 「心に残ったこと」その2
 









HS君と入学式で初対面したときびっくりしました。背丈が私より大きくてがっちりとした体格でした。しかし、いつもにこにこして人柄のよい生徒でした。Sちゃん、Sちゃんと言われて友達から慕われていました。とにかくまじめで一本気な生徒でした。宿題などは必ずやってきました。また、清掃などもさぼったことがありませんでした。彼は大学時代に父親をなくし悲しい思いをしましたが、その悲しみを乗り越えて一層切磋琢磨し勉学に励みました。どうしてそのことが私の心に残っているかというと、高校から大学まで学期毎に自分の近況とともに成績を知らせてくれていたからです。                                                          

 
皆さんの誰もが黒板に書く私の字が下手だと思っていたことだと思います。しかし数学教えていたので少しは助かりましたが、私自身も下手だと思っていましたので、めて意味が分かるように書く方法を常に念頭に置いて書くようにしていました。   
 さて、悩む時がきました。校長に拝命されたときです。40人近い児童の卒業証書書く のが私の仕事です。間違いなく書いても下手な字は下手です。一生に一度の小学校を終了した証明書です。綺麗な字で書いた証書を渡したいと思いました。そこで一案を思い つきました。習字の上手な人にお願いしよう決めました。誰にお願いするか考えた結果、 習字の大家であるHS君のお母さんにお願いしました。2回お願いしたような気がします。
 3年目の1学期の時に6年生の代表が数名ある日校長室にきました。口を揃えて「校長 先生、卒業証書を自分で書いてください。」と言いました。校長講和のとき、模造紙に書い て話をしたことがあるので私の字を知っている子どもたちです。そこでそのわけを尋ねると 「一生に一度頂く卒業証書だからです。」私はハッとしました字が上手とか下手など関係な いのだ。私が心から卒業を祝福してあげることが大切なのだと子どもに教えられました。そ の年から私は自身を持って心をこめて卒業証書を書き、卒業生に渡しました。子どもたちは きらきら輝く目を私に向け卒業証書を受け取りました。後日親から先生の字は味わいのあ る字ですねと言われ、本当によかったと今でも心に残っています。12年前の出来事です。                                     
次回は女生徒について掲載します。                   
生きがいNO8

平成20年10月24日

 級友が仕事を手伝ってくれと言うと、HM君は自分のことは後回しにして級友の 仕事を手伝ってやるようなやさしい生徒でした。いつもにこにこしていて誰からも 好かれていました。何回か家庭訪問をして勉強に力を入れなさいと言うと、にこ にこして「ハイ」というのでそれ以上は言えませんでした。とにかく3年間叱った記 憶ありません。


 この頃、自分さえよければという気風が強くなってきました。そういう親に育てら れた子どもは同じような気質になります。子どもは親の背中を見て育つと言いま す。親は日々自分の言動に気を配ことが大切です。           

 彼は学校を卒業後、事務用品の会社に就職しました。私は彼から「ある時払い の催促なし」でパソコンを購入し、使い勝手が分からないときに電話をすると、ど んなに忙しくてもすぐ来てくれました。話によると級友たちも彼から購入しているとのこと。誰に対しても心をこめたアフターサービスをする彼です。  6月頃、今まで使っていたパソコンの調子がよくないので(その後NECへ送付したら欠陥があったとのことで無料で修理してくれました。)Vistを購入しようと彼に 相談すると、価格CMから買うと安いよとアドバイスしてくれました。おかげさまで安く手に入れることができました。とにかく相手のことを思って対応してくれます。仕事場でもから社員から信頼されています。毎日夜10時頃まで仕事をしないと 処理できないほど仕事があるそうです。





 彼は男二人と女二人の4人兄弟の末っ子です。数年前に母親を亡くしました。多 忙な毎日の中で、一人で生活したいる父親の家に顔をだし何かと面倒をみていま す。あなた方の親がいるからあなた方がいするのです。兄弟で気持ちよく親の面 倒をみたいものです。このことにはついては模範となる生徒がいましたので後日掲載します。
 

 私がお世話になったころの昭和43年頃は、生徒たちの親は生活と子どもを育てるために、骨身を削ってわき目も振らず働いていました。
こんなことがありました。高校入試の発表の日の朝、残念だが不合格になった 生徒が午前9時にくることになっていました 。  私は、前日HM君のお父さんから夕方お誘いがありました。自分のクラスからは不合格者がでないと確信していましたが、心配で一杯飲みたい気持ちでした ので渡りに船と夕方出かけて行きました。お父さん曰く家の子はもし不合格に なれば自分の努力が足りなかったなのだから、先生心配しないで一杯やりましょうと言われ盃を酌み交わしました。(本当に心の広い方でした。信大教育学 部附属長野中学校から転勤するとき、家を新築しましたが、その時壁のクロス やカーテンなどで何かとお世話なりました。)飲んでいるうちに寝ていまい、こともあろうに目が覚めたら次の朝の8時20分 でした。すぐ学校に電話して学年主任に9時頃出勤しますと言いました。学年 主任はできるだけ早く来なさいと言われただけでした。朝ご飯を頂いて急いで出勤しました。他のクラスの担任の先生方がもうすでに登校しておられ、中には深刻な雰囲気の顔をされていた先生もおられました。幸運にも私のクラスの生徒は全員合格しました。これも生徒たちの努力の成果だと思っていました。
 
 
 



私は勤めたどこの中学校でも、3年生になると進路指導で親との懇談を学期 毎に実施しますが、私は学期ごとの懇談だけではなく、必要に応じて夜生徒の 家に出かけ親や生徒の悩みを聞いたり、受験勉強の方法などを教えました。1 校だけ大規模校に勤務しましたが人数が多くて手がまわりかねました。しかし 可能な限り家庭訪問をしました。


  三四会でゴルフコンペができるのは、HM君とHS君のおかげだと思っています。彼らが高校の時「三四会」(同級会の名称)が上水内郡信濃町の野尻湖でキャンプ を実施したときに参加した記憶があります。楽しい一日でした。このことはHM君とH S君が中心になって同級生の名簿を作成して通知をだしたり準備をしたりしたと聞い ております。もちろん他の生徒も協力したとのことでした。このことを契機に現在まで同級会が続いているとのことです。