私は始め,この段落については,仏教の特徴である,仏の話,つまり幽体離脱
について述べているものだ,と思っていた。
というのも仏教を日本に進めてきた有名人のひとりに,聖徳太子がおり,
この聖徳太子がまた,「幽体離脱ができた」という話が残っているからだ。
「西丸震哉」氏の幽体離脱,「ライヤル・ワトソン」のスーパーネーチーヤー話
と合わせて能力の高い者にとって,幽体離脱と言う技術は避けがたいと感じた。
しかし,今では舎利子の修行の程度を表したもののように考えている。
もちろん,サンスクリットなんか私は読めないし,漢字の字面を読んでかってに
考えたことにすぎないので,普通の人には「ええっ?」とまゆにつばするような
はなしでしかない。
この段落は結局,「舎利子という人の修行の様子」を書いたもの,に思える。
色,すなわち「肉体は空に異ならない」という。
その空とはなにか。単純に考えれば,空とは空洞であり,洞窟のことだろう。
肉体に空洞が開けば虚しい。ここから仏教の空の思想が出て来て,次に,
世のありさまは無常という無常観が出てくるのだと思う。
だが,般若心経のこの段落を読んでいると,違う感想を持つ。
同じ無常観でも見捨てられたものではなく,切磋琢磨,新陳代謝のことを言っている
ように思える。
「舎利子は心にぽっかりと空洞があいたような気がした。自分の存在の危うさを悟った。
それで我を忘れて修行に励んだのだ。少しでも自分という存在を意識すれば,舎利子の
修行は傾いた。平常心が必要であった。同時に自分という存在を捨てなければ
ならなかった。修行を進めているものは自分ではなく,高いレベルのなにかだった。
また,それは,同時に自分自身でもあった。
浮かんでくる思いを分別し,整理し,追いやり,何度も何度も平常心,無の境地,
トランス状態に自分をもっていった。それが舎利子という人間なのだった」
新たに仏教に帰依した者が修行に励んだ様子が,そこにはあるように思える。